感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

文芸批評の文体

1、Twitterを眺めていたら、どういうわけか蓮實重彦の文体に関するツイートが2、3散見されたので、文芸批評の文体について感想を書きとめておきたい。

2、文芸批評は、小林秀雄以来、文体問題とは切っても切れない関係にある。小林は、そのデビュー作において、「詩人にとっては詩を創る事が希いであり、小説家にとっては小説を創る事が希いである。では、文芸批評家にとって文芸批評を書く事が希いであるか? 恐らくこの事実は多くの逆説を孕んでいる」と、文芸批評固有の反省的な判断力を問題にした。

3、文学研究が、対象を問う自己を問題にする必要がなかったのだとすれば、文芸批評はその必要があった。言い換えれば、小林がこの問いにおいて文芸批評を開始して以来、文芸批評はこの問いに呪縛され続けてきたわけである。そして小林が問うた自己に対する反省的な判断力は文体に強い影響を与えずにいない。吉本隆明柄谷行人を読めば明らかだろう。

4、蓮實重彦の文体は、1970年代という文脈に置いてみると、それほど特異な存在とは言えない。宮川淳豊崎光一など仏文周辺では、美的な文体による批評が試みられ、一定の存在感を示していた。
蓮實文体が重要なのは、宮川らが詩や箴言など既成のジャンル文体を批評に導入するといった折衷的なレベルの文体改変だったとすれば、対象と自己との距離の取り方、つまりレトリック(アイロニー)として文体を活用した点にあるだろう。これは、小林の問いを蓮實なりに受け止めた結果にほかなるまい。

5、文体問題がいささか厄介なのは、ある程度流通すると、人格なりキャラを持ってしまうことである。言い換えれば政治化するということでもある。
そしてその文体のもとに、良くも悪くも、共同体が形成される。蓮實文体に蓮實サークルというわけだ。共同体の外にいる者にとってみればそれは嫌悪の対象でしかない。接続詞の多用、長いセンテンスを駆使すると、ただちに蓮實的とレッテルを貼られる。あるいは最近だと、蓮實に限らず、批評家の文体は論理性がないと一蹴されがちだ。
仕方ない面もあるだろうが、ただし前記した通り、蓮實文体は、破格でもなんでもなく、一つのレトリックとして機能的なものであり、白黒はっきり評価できない文学作品を記述するさいには非常に使い勝手がよい面がある。

6、柄谷の切断の文体と蓮實の迂回の文体は2000年前後まで大きな影響を与えてきたが、そこに1つの文体革命をもたらしたのが東浩紀だった。一言でいえば、彼はレトリックへの依存を排し、論理性(情報の提示)に局限したわけだ。言い換えれば、対象を問う自己を問題にはしないということであり、小林の問いを切断したということでもある。

7、東のフォーマルな文体は、批評家の駄弁よりも情報をいち早く消費することが求められる時代にマッチしたとはいえる。じっさい東以降の批評はクリアで雑音のない文体が多い。批評の文体は、(注釈を律儀に付け、論理的に記述するなどにより)学術的な研究文体に近付いていると指摘されて久しい。

8、ただし、東は、それまで文体が負ってきた多くの要素(反省的判断力やキャラ化など)を別の次元(彼のいう「営業活動」)に移行させたわけで、文体だけを見ていると見落とすものが多くある。東が最近、研究文体化する批評を批判し、紀行文を取り入れた批評を発表したのも彼なりの移動だろう。

9、文体を考えるときには、文芸批評というコンテンツと営為がどのような状況に置かれているのかを考慮する必要がある。文体は論理的でなければいけないとか、蓮實的な余裕のある文体があった時代を懐かしむとかだけでは、現状の追認でしかない。

10、個人的には、文芸批評の文体は様々なる意匠としてあってよいと考えている。批評は結局のところ小林秀雄の問いから逃れられないと思っているから。評価する以上、対象とする文学作品との距離の取り方は文体に反映させてしかるべきである。論理性のみで十分、文体は不要という日は文芸批評の終わりを意味するだろう。

11、『すばる』新人賞の最近2作は文体を意識したもので、いずれも好感を持って読んだ。ただ、賞賛が多かった赤井浩太に比して近本文体は批判も多かった。文体だけの問題ではないかもしれないが、アイロニーはやはり昨今流行らないのかなとも思う。

批評は基本アイロニーを孕むものだが、本来多義性のあるアイロニーが悪口にしか聞こえないところが昨今の問題でもある。そこでどのようにアイロニーをねじ込むのかを最近考えている。

主題の積極性

1、先般の芥川賞は古川真人の「背高泡立草」に決まった。
SNSでの予想合戦は、おおかた、千葉雅也「デッドライン」や木村友祐「幼な子の聖戦」、乗代雄介「最高の任務」に集中しており、結果はそれを裏切るものだったと言える。

2、芥川賞決定後もSNS(ほぼTwitterだが)のタイムラインには、千葉や木村の作品へのコメントが多数を占めた。むろんこれは二人がTwitterの発信者だというのも大きいだろうが、最近の純文学に対する関心が「主題の積極性」(矢野利裕)に置かれているということの証左でもあるだろう。

3、木村の作品は「日本的な保守政治VS左派ポピュリズム」「ノンポリテロリズム」といった主題を明確に置いていた。また、千葉の作品は形式的には私小説だが、「LGBT」という主題から積極的に読まれている。

4、このような文学読者層のクラウドから、現行の芥川賞の選考委員はやや乖離しているように思われる。それは、島田雅彦の講評からも見て取れる。
https://www.sankei.com/life/news/200115/lif2001150046-n1.html

5、木村のややもすればエンターテイメントに流れかねない「主題の積極性」に対する強い警戒感がある。千葉の「LGBT」を「カミングアウト小説」として既成の私小説文脈に囲い込む評価にもその警戒感(主題から評価する慎重さ)が読み取れるだろう。

その煮え切らなさ(?)の結果、候補作中最も主題らしきものが見えにくい―ただし過去との歴史的な連繋という主題らしきものを導入したことが今回評価された―作品が受賞したのだった。

6、乗代の講評のさいに「テーマと手法の一致」という純文学的なマジックワードが登場するが、主題(テーマ)に対してはテクニカルな形式面を出してそのバランスを模索することが絶えず試みられているのが、最近の芥川賞の傾向である。現行の選考委員は、手法や叙述といった形式面に対する目配せがあり、全体的にバランスをとった評価をくだしがちだ。ただし古市が投入されるとバグが発生するのだが。

7、それにしても、「テーマと手法の一致」ってマジでなんなのか? 手法にこだわれば、当然、主題(テーマ)は後景に退く。その中途半端さを批判し、「主題の積極性」を打ち出したのが矢野利裕(「新感覚系とプロレタリア文学の現代―平成文学史序説」、『すばる』2017・2)であった。前記したSNSのトレンドを見ると、矢野の発言はリアリティーを増しているように感じる。(*矢野は手法を批判してはいない。手法組は「テーマと手法の一致」を狙いに行くなと警告している。)

8、芥川賞も時代に応じて評価を変えている。1994年上半期の大江健三郎は、受賞作(「おどるでく」「タイムスリップ・コンビナート」)を「批評的な性格」「既成文壇への批評」という言葉で評価したが、2006年下半期の村上龍は、受賞作を「直観的」と評価し、「意識的・批評家的な部分」が目立つ候補作(星野智幸)を批判した。

9、現行の選考委員の多くは1980年代以降に作家活動を開始した世代である。80年代といえば、教養的な文学の地盤が崩落した後で、そういった地盤を頼りにしない作家が登場し、芥川賞は彼らをのきなみ評価し損ね続けた時代である。

主題(テーマ)と手法の関係でいえば、前者(政治と文学など)の影響が弱まり、後者へのこだわりを強める時代が80年代であったことも思い出したい。

乗代雄介「最高の任務」

1、私は「最高の任務」1オシ。
最近こんなに描写で引かれた作品はない。要所に和歌があったり、過去の日記や著書からそのつど情や景を立ち上げていく。それは歌物語を思い起こさせるが、電車に乗りながらの道行・紀行文でもある。
そこに書かれるのは、一見よくある風景描写のようでいて、写実的な風景ではなく、もちろん認識を混濁させる解釈でもない、リズミカルかつリリカルに描出される情景。
私が何かを見る(見て写しとる)のではない。かつて見られた事物に私の言葉を合わせることの快楽。近代文学のリアリズム以前の描写ってこんな感じだったんじゃないかと思わせる。
聖地巡礼」といった切り口から説明する人もいるだろう。いずれにせよ、さっこん機能失調したと言われて久しい「描写」を積極的な主題にした意欲作といってよいと思う。

ただ、一方で、精緻で端整な叙述に反して(比例して)ナイーブと受け取られかねない物語がどう評価されるか。これは「美しい顔」にも通じるポイント。とはいえいまの私はこのナイーブさを安易に批判したくない。

2、次点は「デッドライン」。私小説。技術は高く運筆は達者だが、断片的な挿話、移人称風の視点移動など、形式面でやや食傷気味の部分(悪く言えば保坂的なものの反復)があり退屈に感じたところがあった。
女性の友子への視点移動は、主客混合などの主題に通じるものだというのは分かるが、手垢にまみれた手法なので、ない方がよかったのでは。

3、期待していた「幼な子の聖戦」は、主題の図式性が目立ち、勧懲が過ぎてリベラルの悪い部分が凝縮されているように感じた(例えば保守を土建屋政治みたいなものに集約させてよいのか)。
ノンポリ的なテロリストという主人公の設定は、これまで大江健三郎三島由紀夫阿部和重文学史を刻んできた系譜があり、そこに今回は(若者ではなく)40代の男という新規なフェーズを導入したものの、これでよいのかという読後感があった。

純文学展望2020

 

 

1、昨年は『文藝』の韓国文学特集(「韓国・フェミニズム・日本」)を中心に、文芸誌が何かと話題になったが、今月発売予定の『文藝』SF特集も予約など堅調らしい。

ただし、円堂都司昭が分析している通り、文芸誌が新しい市場を開拓したとかいう話ではないだろう。純文学がサブカルチャーなど周辺領域を取り入れて活性化をはかるのは、これまでも周期的に試みられてきた。

2、文学の世界は確実に高齢化していて、それに歯止めがかかるわけではない。最近は、文芸誌をある程度気軽に購入できる40代以上が純文学的なものの消費者の中心となり、同じく高齢化しつつあるシニア御用達SNSTwitterで話題を共有・拡散したことの結果で、いくつかの偶然が重なった事象だと思う。

Twitter界隈では、ニューアカを想起させる「加速主義」も流行ったが、思想や教養をカッコよく消費することに憧れのある世代がSNSで発信者にもなりながらなんとなくムーブメントを作れている文脈にバチっとはまったのではないか。

3、文芸誌の中でも特に『文藝』が成功を見せている理由は、分かりやすいテーマを掲げ、書評誌に徹した点だろう。20年前の「J文学」のサブカル導入をはじめ、2000年代の『すばる』が試みたカルスタ的な海外文学・マイナー文学の紹介などは、それが機能し得たのかは問わずにおくとして、批評的なエッジをきかせたものだったが、リニューアル『文藝』にはそれ(現状への批判や危機意識)がない。

円堂は『文藝』の「フェミニズム」特集に批評性を読み取っているが、当時セクハラ問題で揺れた『早稲田文学』に対する批判意識などがあったかどうかは極めて怪しい。むしろそういった状況介入的な要素は意図的にキャンセルされている。誤解を恐れずにいえば、「フェミニズム」関連の話題(MeTooなど)がトレンドの上位にあり、『文藝』は文学側からその紹介に徹したのだろう(日本というより韓国の事情であることもポイント)。

4、むろんこう言うことで、文芸誌や文壇の努力や営為を軽んじたいのではない。彼らはやるべきことをやっている。むしろ、周知の通り、メジャー文芸誌は商業的にはまともに成立している媒体ではないので、そんな文芸誌を権威として立てて批判するほどばかげたこともないだろう。

5、いま40代以上の文学に関ってきた世代なら、2000年代といえば、文芸誌が、批評家たちからお手軽に批判されるサンドバッグ的な対象だったことを知っているはずだ。そこに純文学論争が起こり、文学フリマなどが誕生するなど良い面もあったが、文芸誌にとっては暗黒の時代だったように思う。作家も、高橋源一郎保坂和志などが、批評家不要論(小説のことは小説家にしかわからない)をぶちあげた。

次第に面倒くさい批評家枠がなくなり、その枠に書評家(もしくは書評家的な批評家)が収まることになるわけだが、そのおかげで、2010年代は文芸誌に対する批判が消え、芥川賞を中心とするメジャー文芸誌体制が純粋培養されることになり、現在に至るわけである。

昨年話題になった韓国文学特集も、批評家というより書評家寄りの翻訳家がコーディネートしたもので、おそらく20年前なら批評家連中が色々と難癖付けていたと思う笑。

6、若い作家たちは、現状の文学をけっこうイケてるんじゃないかと思っているかもしれないが、批評家などの外部を排除した文芸誌体制ではそう見えるだけで、実際は状況は20年前より深刻なはずである。最近は賞レースとしてすっかり定着した感のある芥川賞だって、20年前はめちゃくちゃ批判されていたことを知らない世代もいるのではないか。

7、個人的な考えだけど、変わってほしいなあ、というか変わった方がいいのにと思うのは、文芸誌ではなく、作家の方である。前世紀の文学史を見てみると、作家が文芸誌体制にいまほど依存していない事例をいくつも見ることができる。

文芸誌で書きながら地方の同人誌の同人も兼ねた作家もいたが、『文學界』の同人誌評が終了するのが2008年で、この頃から文芸誌の純粋培養化が突き進むことになる。その一方で、切り離された同人誌と批評家は文学フリマやネットを拠点とすることになる*1

8、いちおうの結論は、2010年代は文芸誌が純粋培養を推し進めてその完成形に至った10年ということでよいと思う。2020年代は、作家たちが、文芸誌とともに心中をはかるか、何かをたくらむかの二択ではないか。何かしらたくらんだところで、自爆同然だとはいえ。

9、批評に関していえば、批評集団「大失敗」の動きは色んな意味でずっと見逃せないでいる。今年あたりで空中分解するのではあるまいかと気になって仕方ないのだが笑、他にも『クライテリア』や『エクリヲ』『G-W-G』、それに東京学芸大の千田洋幸ゼミがOBの矢野利裕とともに継続刊行する『F』など、注目すべき動きが無数にあり、凡庸の会『文学+』もそんな動きのお力を借りつつオリンピックイヤーも何とかやっていきたい。

*1:実は作家も、純文学という垣根を外せば、同人誌や読者投稿サイト・SNSなどを活用して営業活動をしている創作家が無数にいるが、文芸誌体制の中ではその動きが見えにくい。

大杉氏への応答

大杉氏への応答です。
すいません。私ごときのツイートで無駄な時間を費やさせてしまい、大変恐縮いたします。
論点3つ、簡潔に回答いたします。


1、石原千秋氏=「テクスト分析」と大杉重男氏=「カルスタ」について。
 前者の「テクスト分析」は、テクストだけで評価しようとする立場くらいの意味で、作品論でも換言可です。後者は、作品評価のために歴史や政治などテクスト(作品)の外を取り入れる、くらいの意味です。
 「テクスト分析」と「カルスタ」に学術的な意味をこめておらず、非常にいい加減な発言です。レッテル貼りの意図はありませんが、気にさわられたなら申し訳ありません。無学をさらす私のツイートはスルーしていただければと思います。


2、「非当事者性ゆえに評価」について。
 これは石原氏評だけを持ち出されても、というのが正直なところです。
 「美しい顔」については、当初からフィクションの可能性を高く称揚されたのは事実です(そもそも小説がフィクションとして評価されるのは当然なのですけれども)。ただ、ノンフィクションとの比較から、非当事者性とフィクションを強く結び付けて「美しい顔」の議論がなされるようになったのは、参考文献問題発覚後だと考えていますし、そのような発想に基づいたフィクションとノンフィクションの対立からなされる議論はとてももったいないと思っています。
 たとえば「美しい顔」は、震災なり震災報道に対するメタ視点を持ちあわせており、その作品自体に当事者性批判が含まれています。他方、震災間近(現在でも)の日本は、当事者性についても、東北・福島・関東・以西とグラデーション化されており、「報道や参考文献を媒介する」ことが即非当事者というわけではなかった(いまでも、ない)。こういう錯綜したレベルは、フィクションとノンフィクションの対立(結局ちゃんと来なかったからダメなんだ!⇒想像だけで書いちゃってごめんなさい)で見えなくなってしまわないでしょうか。
 「パラフィクション」を持ち出す石原氏の評価も、恐らく、「美しい顔」が持っているフィクションの複雑な性格に基づいているのでしょうし、単純に「非当事者性ゆえに評価」したと言えるかは疑問ですね。
 むろん、こうした複雑な(といって言い過ぎなら少なくとも双方に刺激を与えうる)議論を、フィクションとノンフィクション交えて議論をできなくした原因は当該作にあるので、まあ後は、当事者性か非当事者性か、フィクションかノンフィクションかの祭りで盛り上がることも、それはそれで悪いとは思っていません。


3、「震災文学」と「慰安婦」について。
 「震災」にも「慰安婦」にも大した見識を持っていませんが、私の意図は、「慰安婦」を評価するために「震災(文学)」を持ち出す(逆に言えば「震災(文学)」を批判するために「慰安婦」を持ち出す)必要はないのでは? ということに尽きます。そこまで律儀に語らなくてもと。
 大杉氏は、自由に自分のこととして語って「関係のないものに接ぎ木して行けばいい」ただし「責任を取ってるかのように格好つけないでほしい」とおっしゃっていて、それにはいたく賛成ですが、むしろ氏の震災と慰安婦を接ぎ木する語り口に、失礼ながら、何ものか(文壇内政治?)への責任を感じてなりませんでした。

以上になります。

「3・11東日本大震災と文学」

1、『神様2011』
東日本大震災は文学の世界にも大きな影響を与えた。この出来事に影響を受けて書かれた小説はいくつかあるが、数のレベルで多いと考えるか少ないと考えるかは見方によって異なる*1
日本はかつて1995年に阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件という大きな出来事に遭遇したことがあるが、その際には多くの作家が沈黙を守ったことを考えると(当時の日本文学は現実の出来事を表現することに消極的であった)*2、今回の震災はより多く作家に表現を選ばせたのだということができるだろう。
むしろ、これまで社会的・政治的な話題に触れる機会を逸してきた文学が、この出来事をきっかけに語る一歩を踏み出すことができたという側面があると考えれば、震災は文学が現実の社会と接点を持つ踏み台なり免罪符として受け入れられたともいえるだろう。

そのなかでもより早く発表され注目を受けた作品が、川上弘美の『神様2011』(講談社、2011年9月)である*3
川上弘美は1993年に作家デビューを果たしているが、その時のデビュー作が短編「神様」であった。本作は「神様」の2011年版ということになる。作品の構成は、まず1993年の「神様」が掲載され、その後に「神様2011」、そして最後に本作発表の趣旨を書いた「あとがき」が付されている*4

2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。(『神様2011』「あとがき」)

東北大震災の被害は、地震による津波の側面と原発事故の側面をあわせもっており複雑である。それぞれの作品もどちらに焦点を当てるかで大きく内容が変わってくるが、「神様2011」は原発事故に焦点を当てたものだ。
もともと「神様」の設定は、女性である一人称「わたし」と動物の「くま」が会話しながら森を散歩するという幻想的なファンタジーであるが、「神様2011」は原発事故後(作中では原発事故は「あのこと」と呼称されている)という設定が加えられ、それに対応して部分的に書き換えられたり書き足されたりして作られたものである。したがって、幻想的な設定に現実の生々しさが侵食された形になっている。「神様」と「神様2011」の同じシーンを抜き出してみよう。
  

遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。たくさんの人が泳いだり釣りをしたりしている。(「神様」)

遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。誰もいないかと思っていたが、二人の男が水辺にたたずんでいる。「あのこと」の前は、川辺ではいつもたくさんの人が泳いだり釣りをしたりしていたし、家族づれも多かった。今は、この地域には、子供は一人もいない。(「神様2011)
 
「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋から鍵を取り出しながら言った。
「またこのような機会を持ちたいものですな」(「神様」)

「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。
「またこのような機会を持ちたいものですな」(「神様2011」)

津波による被害は圧倒的な自然に向き合う無力な人間の悲劇になるが、原発事故は放射性物質という圧倒的な自然にくわえ、人間の犯した罪として自分と向き合わなければならない性質のものだ。「神様」と「神様2011」の関係はまさにそのような自己言及として、作家の「静かな怒り」から生み出されたものだということができる。
古川日出男もそんな作家の一人である。福島県出身の彼は、東北を舞台とした『聖家族』(集英社、2008年)という長編作品を書いていたが、震災を受けてその補遺となる『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社、2011年7月)をいち早く発表した。「書け。私はこれを書け」。このときの彼を突き動かしていたのも同種の「怒り」だったろう。


2、「原発」と「原爆」*5
とくに日本は、広島と長崎の原爆被害、第五福竜丸などの放射能被害を受けてきた歴史があり、それらを教訓として歩んできた。原爆関連の小説は戦後以来継続的に発表され続けている*6。それにもかかわらず、私たちは、原発の功利性をとり、その恐ろしいリスクには沈黙したまま生きてきた、その代償が福島であるという思いが多くの作家にはある。
広島長崎の原爆被害に古くからコミットし関連する著書もあるノーベル賞作家・大江健三郎は、2011年の3月28日の『ニューヨーカー』に「History Repeats(歴史は繰り返す)」というタイトルのエッセイを寄稿した。また、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に積極的な関与をし、小説作品やルポルタージュを発表した村上春樹は、6月10日にスペインのカタルーニャ国際賞を受賞した際に「非現実的な夢想家として」というタイトルのスピーチを行った。
日本を代表する二人の作家が、原発事故という世界的に注目される出来事に対して自分の思いを語ったのだが、いずれにも共通しているのは、原発の功利性・効率性に敗北して歴史から学ばなかった忸怩たる思いである*7村上春樹は、諦観しやすい日本人はもっと怒ってもよいという趣旨の発言をしている。
川上弘美もまた、「震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」ということでした」(「あとがき」)というコメントをしている。
ドイツに拠点を置いて文学活動を行っている多和田葉子は短編「不死の島」*8で、東北大震災後の日本を描いている。日本は3・11後も、けっきょく「怒り」を封じ込んで原発の稼動を黙認してしまった。その結果再び巨大な原発事故に見舞われ、世界から差別的に締め出された挙げ句日本は瀕死の状態にあるというSF的な設定だ。
3・11から3年以上が経過した最近の日本は、多和田の予想を裏付けるように再び歴史の教訓を忘れようとしているように見える。


3、『詩の礫』
震災から3年以上が経過した。
振り返れば、被災後まもない時期は、震災からの距離のとり方に試行錯誤しながら、様々な活動を行っていた作家たちの姿がうかがえる。
日本を代表する作家、大江健三郎村上春樹が震災に関連したメッセージを世界に向けて発信した。また島田雅彦が呼びかけ人となって被災地を支援する「復興書店」*9を立ち上げ、多くの作家が賛同した。そこで各作家は思い思いのメッセージをウェブ上にアップし、無償で提供した自著の売り上げを、被災地への寄付金として当てた。
また文芸誌『早稲田文学』は、作家に作品を募ってウェブサイトにアップし(英語版をはじめ部分的に韓国語版・中国語版もある)、それを読んだ読者に寄付金の提供を呼びかける等の活動を行った*10
英米向けの英語版と同時に発表された『それでも三月は、また』は、震災をテーマにした企画本だが、これも著者印税と売り上げの一部が震災復興の寄付とされた。こういった瞬発力を必要とする試みは他にも無数になされている。
「がんばろう、東北」「つながろう、日本」といったスローガンがマスメディアやネットを通じて連呼され、日本全体の連帯が求められていた時期である。

なかでも特筆すべき活動を行ったのは、福島で被災した詩人、和合亮一だろう。彼は、被災してまもない六日後にtwitterから言葉を発信し、それ以後ツイートし続けた。被災する詩人として。Twitterの字数制限は詩というジャンルが本来的かつ伝統的にもつ定型性という特質とマッチし、彼のツイートする言葉は詩として自然に受け入れられた。また和合自身、一連のツイートを詩の新たな発信形態として位置付けていたように思われる*11
   

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。(2011年3月16日4:30)
放射能が降っています。静かな静かな夜です。(2011年3月16日4:35)
あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。(2011年3月16日4:44)
私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。(2011年3月16日5:34)
私は震災の福島を、言葉で埋め尽くしてやる。コンドハ負ケネエゾ。(2011年3月18日1:06)
街を返せ、村を返せ、海を返せ、風を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。波を返せ、魚を返せ、恋を返せ、陽射しを返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。乾杯を返せ、祖母を帰せ、誇りを返せ、福島を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。(2011年4月9日23:19)

また、日本の詩は俳句や連歌のようにコミュニケーションの一部として受容されてきたという特質があるが、twitterの対話性はその点においても詩との親和性が高く、フォロワーやリツイートが増えるたびに勇気付けられる和合の姿を読むことができるだろう。
他に詩のジャンルで注目すべきなのは、ni_kaのAR詩である。3・11以前からデジタル技術――スマートフォンデコメール機能や、複数の情報(画像・イラスト・文字・絵文字等)をレイヤー化するAR技術など――を駆使した詩をウェブ上で発信し*12、詩のジャンルに新しい可能性を開いてきた詩人だが、3・11における近親者の死を受けて、バラバラに離散する記号が、離散したまま同期している様を、3・11を鎮魂するAR詩として発表した*13
そもそも繋がれないものたちがいかに繋がることができるのかという問いがそこにはある。この問いは、メディアが安易に垂れ流す「つながろう、日本」という偽善的なメッセージへの批判でもあったろう。
被災地にいたからこそできた、修羅(死者)のごとく繋がりを求める言葉の強さ(和合)と、被災を共有しきれないからこそ模索するほかなかった、子供のように儚く繋がりを求める言葉の強さ(ni_ka)が、3・11をきっかけに詩の多様性として私たちの前に表現されたのである*14


4、未来と過去
震災から時間が経過するうちに、次第に、腰をすえて書かれた作品が発表されはじめる。被災から物語の構想を得て架空の物語が作られるようになったのである。一見、被害を物語の手段におとしめているように見られかねないこういった試みは、被害の影響がまだ生々しい時期であれば「不謹慎」「自己中心的」ととらえられたかもしれないし、実際にそのような評価を受けた作品もある*15
ただし、震災および震災後をテーマにした文学作品はおおむね高度な抽象化が施された作品ばかりなので、被害者感情に直接訴えるような傾向は少なかったといってよい。
作品の傾向として注目すべき点は二点ある。「未来への想像力」と「過去への回想」である(以下、「未来系」と「過去系」と呼ぶ)。
「未来系」に関しては、被災地支援のためにチャリティAVを制作するという物語を作品にした高橋源一郎の『恋する原発』(講談社、2011年11月)をはじめ、原発事故後の日本の再生の道を家族の物語とともに語った福井晴敏の『震災後』(小学館、2011年11月)など多数あるが、とくに目立つ傾向は、3・11よりも未来に舞台を設定したSF的な作品である。
例えば3・11以後もくり返される震災等の被害をこうむった、日本の世紀末的な惨状を物語の設定とするいくつかの作品、辺見庸の『青い花』(角川書店、2013年5月)や綿谷りさの『大地のゲーム』(新潮社、2013年7月)、佐藤友哉の『ベッドサイド・マーダーケース』(新潮社、2013年12月)などだ。
とくに日本は、1945年の終戦以来、放射能汚染後の世紀末を舞台にした作品が、サブカルチャーを中心に多く発表されているが(『ゴジラ』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』『北斗の拳』など)、震災後の作品も戦後以来のかかる想像力につらなるものといえよう。ただしやや変化もある。
これまでのこういった想像力に支えられた作品が世紀末の否定性を単に抽象的な背景として活用する傾向があったとすると、震災後の作品に見られる傾向は、世紀末に辛うじて見出される「希望」(絶望の中に見出すほかない希望)が見られるところである。この変化の原因は、世紀末は遠い未来ではなく、いまや震災後の現実だという認識が前提にあるからだと思われる。
『震災後』『大地のゲーム』『ベッドサイド・マーダーケース』は「子供」の存在が重要な役割を果たしている。絶望の中の希望はこの存在の影響が大きい。3・11以後最も精力的に東北大震災にコミットしている作家の一人、高橋源一郎は、以前から『「悪」と戦う』(河出書房新社、2010年5月)で子供を主人公にした作品を発表しているが、震災関連の短編「お伽草子」(「新潮」2011年6月)と「アトム」(「新潮」2011年7月)も子供が視点であった。
その高橋は、川上弘美の『神様2011』の改変についてこんなことを言っている。「ここでの、いちばん大きな違いは、「川原」に、人影がほとんどないことである。なにより、「子供」がひとりもいなくなってしまったことだ。わたしたちは、二つの作品、『神様』と『神様2011』を読み比べながら、「あの日」の後、いつの間にか子供たちが姿を消したことを知るのである。/幽霊のような子供たちが、わたしたちに話しかけようとしている、とわたしは感じる」*16と。この「幽霊のような子供たち」の存在とそれを感知することが、廃墟の中の希望として辛うじて指し示されているといえよう。

次は「過去系」の作品である。柴崎友香の『わたしがいなかった街で』(新潮社、2012年6月)や古井由吉の『蜩の声』所収の「子供の行方」(講談社、2011年10月)などがそれだ。これらの作品は、関東大震災や太平洋戦争など、かつての戦災や震災の記録・記憶にまでさかのぼる。
戦後の米軍占領下に混血児として出生したGIベイビーたちを主人公にした津島祐子の『ヤマネコ・ドーム』(講談社、2013年5月)もその一つである。1947生まれの著者は、戦後の日本を背景に、GIベイビーとして翻弄される彼らの人生を描いたが、この物語に深く影を落とす3・11以後の原発事故は、偶発的な事故ではなく、戦後日本が必然的にもたらした答えの一つであることが導き出される。

歴史と対話すること。日本の文学史はこれまで様々な戦争文学や被災文学、被爆文学を生み出してきた。記録として残されたこれらの作品と対話をすることで被災の今を生き延びることができる。高橋源一郎佐藤友哉も同じ時期にくり返し戦時下や戦後まもない文学作品(太宰治や戦後派など)に言及していた。
ただし、対話には、答えのない問いを続ける覚悟がいる。長嶋有の『問いのない答え』(文藝春秋、2013年12月)はそんな格言を私たちに教えてくれる。本作は、twitterでフォロワー同士が他愛のないテーマのもとに対話し続ける様が描かれている。そうして3・11以後の被災を各々生き延びているのである。
例えば最初に誰かが「なにをしたい?」という抽象的な問いを投げ、それに対してフォロワーが各自思い思いに回答を出す。「女教師を口説く」とか「今度こそ徹底的に殺るつもりです」とか。それらが出た後に出題者があらためて「三メートルの棒を譲り受けましたが、あなたはこれを使って『なにをしたい?』」と具体的な文脈を差し込んだ問いを提出すると、当初の回答の意図がずらされ、様々な再解釈がなされることになる。このように最終的な答えが回避される問答ゲーム(答えは対話=回答の文脈しだいでいくらでも変わる)が延々とやり取りされるのである。
お互いすれ違うばかりで、一見他愛のない趣味をめぐる彼らの対話。そこにはしかし、倫理的な覚悟が貫かれていることに気付かされることになるだろう。答えのない問いを続けることの覚悟を、である。


5、『想像ラジオ』
いとうせいこうの『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年3月)も対話によって構成されている作品だ。広島・長崎の被爆阪神淡路大震災の記憶が想起される本作のメインプロットは、ラジオのDJがリスナーと対話することによって展開する。このDJは津波によってすでに命を落としているという設定になっている。いわば死者の声、当事者の声を聞き、対話することができるかという問いがこの作品において賭けられているテーマである。
東日本大震災は、日本にいくつかの深刻な断層を作った。被害の当事者である東北(関東の一部や長野県の栄村等)と、それ以外の地域の傍観者との間にできた断層。それにくわえ、原発事故がもたらした放射性物質の見えない恐怖は、関東を越えてそれこそ東日本一帯を包囲した。甚大な被害を受けた福島を基点に被害者・当事者性の濃淡が放射状に階層化されたのである。さらに複雑な点は、原発の利便性を享受してきたこと(とくに東京電力福島原発の電力供給先の東京)が加害者意識をも重ね書きしたことである。
『想像ラジオ』は、このように複雑な断層を負わされた関係性に何らかの接点を見出す試みであった。本作の構成は、メインプロットのDJとリスナーの対話パートと、サブプロットの1人称視点パートが交互に置かれた形になっている。1人称は著者本人がモデルになっており、「Sさん」と呼ばれる1人称「私」は震災後ボランティアとして東京から被災地に赴くという設定になっている。
1人称視点による描写の場合、読者は1人称を自分の視点として物語にかかわるので(発話者との一体化)、共感しやすい。
それに対して、DJとリスナーの対話パートは、DJが「リスナー諸君」に呼びかける2人称視点である。発話者から「あなた」と呼びかけられる2人称視点は、読者を当事者として巻き込む性質を持っている。
しかし、東京にいる「私」(Sさん=読者)は、被災地の死者の呼びかけに当事者としてかかわれる自信がない。実際、Sさんと呼ばれる「私」は、周りの知人がラジオのような音声が聞こえるような気がするとおりにふれ言うのだが、自分は全く聞こえないことに戸惑い続けるのである。ただし「私」は死者との対話をあきらめてはいない。4章では「私」は身近な死者と対話することになる。そして最後の5章でついに「私」の言葉はDJに届くだろう。

頼もしいリスナー諸君。ここで皆さんに贈る最後の一曲です。
想像ネーム・Sさんからのリクエストでボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』。救いの歌。胸にしみる名曲。1980年。ボブ・マーリーが脳腫瘍で亡くなる前年に出たラストアルバムの、まさにラストソング。
今まで聴いてくれてどうもありがとう。
本当にさようなら、みんな。
もちろん最後の曲紹介は、僕の番組らしくエコーたっぷりで。
では『リデンプション・ソング』、どうぞ想像して下さい。
あ、その前にジングルを今までにない大音量で一発。あはは。
想ー像ーラジオー。 (『想像ラジオ』)

ついに死者は「私」の言葉(「Sさんからのリクエスト」)を受け取った。しかしこれはあくまでも死者の側から見た想像上の希望として示されているにすぎない。孤立し続ける1人称と繋がりを求める2人称。現実は誰もが孤独だが、死者を想像し続けることが自分の中に死者と分有できる「痛み」を見出すことではないか。しかしそれは死者に応え/答えを見出すことではない。そんな覚悟がここにはある。

古川日出男の『馬たちよ、それでも光は無垢で』は、震災一ヶ月後に原発がある福島の浜通りに向かった著者本人の実話を、自作のキャラクターを交えながら小説として作品化したものである。ここでは、震災を表現するにあたって、あくまでも現実世界としてとどめたいノンフィクションの欲望と、それを物語の時間に流し込みたいフィクションの欲望との間で葛藤している様が描かれている。古川本人は「嘘を一個も書かないフィクション」という一見矛盾した言い方をしている*17

書け。私はこれを書け。そこに狗塚牛一郎がいたのだと書け。五人めが。私たちの五人めが。イヌにしてウシである『聖家族』の長男が同乗していたのだと書け。しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。この文章が小説になってしまう。私には矜持がある、私はここまで一切嘘を交えなかった。私には逡巡はあっても嘘はなかった。この文章を決定的な″本物″にすることで私は何かの、やはり決定的な救済を望んだのだ。いまも望んでいる。それを鎮魂とパラフレーズする覚悟もある。これらは極限である。これら、原稿用紙にして九十枚余に達した″ある集積″は私の極限である。それでも。それでも? 書け。*18(『馬たちよ、それでも光は無垢で』)

古川の作品の特徴を一言で述べるなら、物語と現実世界(史実・土地)の相乗効果である。彼は作品を作るさい、現実世界(史実・土地)を導入して物語を活性化し、逆にその物語によって現実世界(史実・土地)に新たな視点・見方を導入し賦活することを目指す。現実も物語も救済するという方法。古川の故郷でもある東北を舞台にした長編『聖家族』はその方法の集大成でもあった。
その補遺となる『馬たちよ、それでも光は無垢で』が感動的なのは、現実世界の古川日出男を物語に初めて登場させた作品だからである。すなわち救済と再生の対象は東北の物語とともに小説家の彼でもある。
このとき古川に「それでも? 書け」と命じるフィクションの欲望は現実から逃避させる声ではない。逆である。物語の時間に流し込んでこそ古川は被災した東北を彼なりに嘘を一個も交えずに見つめなおすことができたのである。いとうせいこうが架空の死者の声を設定することでこそ被災地に向き合えたことと同じように。

*初出『世界文学比較研究』第48集(世界文学比較学会、2014年9月)

*1:木村朗子の『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』(青土社、2013年)は、震災とくに原発事故に関して言及する作家・作品が少ないと指摘している。その原因を無意識的な言論統制としている。「あれほどの多くの死者を出し、そして間近に死をみつめた生存者があって、まだ避難を余儀なくされていたり、仕事や家を失ったままでいる人たちが大勢いるなかで、震災はそれ自体重い主題ではある。しかし作家が直面した書くことの困難というのは、そういうところにあるのではなかった。それはどうやら戦後に長い時間をかけて築かれた言論の壁のせいであった。震災後、その壁がむき出しに露わになって目の前に立ちはだかったのである。語るべきではないとされるタブーの筆頭に原発事故はあった。だから東日本大震災の災禍のうち、福島第一発電所メルトダウンと爆発については、速やかに自由な言論の場から排除され、人々の口からも消されていった。なんという理由があるわけではなく、ただなんとなく言いにくいこととなった。いかにも日本流の言論弾圧のあり方ではないか。こんなにも根深く、語ることの不自由が膠着していたとは驚くばかりである。」(236ページ)他方で「3・11以後、あらゆるジャンルで、震災あるいは福島の問題に関して、さまざまな発現や言説が非常にたくさん見られる」(高橋源一郎佐々木敦「『恋する原発』―処女作への回帰と小説家の本能」『群像』2012年1月号)という見方もある。

*2:当時の作家たちが阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に対して比較的沈黙を守ったことに対して、より積極的に自分の著述活動に還元したのが村上春樹である。彼は地下鉄サリン事件の被害者の声をまとめて『アンダーグラウンド』(講談社、1997年)を、さらに加害者側の声を集めて『約束された場所で―underground2』(文藝春秋、1998年)を発表している。また震災をバックモチーフにした短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社、2000年)も発表している。

*3:初出は『群像』2011年6月号。

*4:初出は「神様2011」の後に「神様」「あとがき」の順。

*5:川村湊の『原発と原爆―「核」の戦後精神史』(河出書房新社、2011年)は、映画やマンガ作品を参照しながら、核・原子力に影響を受けてきた戦後日本の文化を論じている。

*6:原爆小説として戦後まもない頃に発表されたのが1948年の『夏の花』(原民喜)、『屍の街』(大田洋子)である。これらは直接の被爆体験者によって書かれた象徴的な作品である。ここでは原爆の凄惨な被害が小説的な加工を施されず直裁に描かれている。原爆投下後の被害を描いた1965年の『黒い雨』(井伏鱒二)以来、加害者の視点も導入した1981年の『HIROSHIMA』(小田実)、原爆をSFの背景として利用した1990年の『治療島』1991年の『治療島惑星』(大江健三郎)、そして原爆被害を抽象化した2005年の『六〇〇〇度の愛』(鹿島田真希)に行き着く原爆関連小説の系譜は、原爆に関する認識が高度に複雑化すると同時に、抽象的な歴史に還元される様が確認される。

*7:原発」の位置付けは歴史的に複雑である。大江健三郎は、『ヒロシマ・ノート』(岩波書店、1965年)をはじめ「原爆」に関する多くの著述を発表しているが、「原発」に関しては当初から否定的だったわけではない。1968年の「核時代への想像力」(『各時代の想像力』新潮社、1970年)という講演では、核エネルギーを戦争のためではなく、平和利用することに関しては肯定している。こういった考えは当時の日本でマイノリティーだったわけではない。その後、「原発」を最初に大きく再考するようになったのは1986年のチェルノブイリ原発事故がきっかけだろう。

*8:『それでも三月は、また』(講談社、2012年2月)に所収。

*9:http://fukkoshoten.com/

*10:http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/wasebunEQ.html

*11:一連のツイートは『詩の礫』(徳間書店、2011年6月)として刊行された。

*12:http://yaplog.ni-ka.net/

*13:「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京」http://yaplog.jp/tipotipo/archive/255

*14:他にも、平田俊子(「ゆれるな」)や柴田トヨ(「被災者の皆様に」)らが「震災詩」を発表したし、評論も小説も詩もこなす松浦寿輝は3・11に言及するさい何より詩を選んだ(「afterward」)。また、関東大震災のさいに詩を書いた金子みすずの「こだまでせうか」が3・11以後頻繁に流れたテレビCMで一躍注目を集めたり、岩手の詩人・宮沢賢治の再評価があったり、詩の朗読会やパフォーマンスが盛んに行われたりするなど、詩の世界でも震災に対するリアクションが多数あった。

*15:例えば、発表以来高い評価を得たいとうせいこうの『想像ラジオ』は、震災による死者がラジオのDJとなってリスナーに繋がりを求めるという設定の作品だが、そのいくぶん叙情的でもある物語に対して一部批判があった。

*16:『恋する原発』。

*17:『波』2011年8月号。https://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/306073.html

*18:「狗塚牛一郎」とは小説『聖家族』のキャラクターである。

ファミリーリセンブランスとしての私 柴崎友香論

 1970年代は日本文学の転換期に当たっている。それ以前は、「政治と文学」という戦後に打ち立てられた主題が、疑われつつも機能していた。作家たるもの政治的問題に積極的にアプローチしなければならないという強力な圧力があり、その一方で、政治にからめとられない個人の自由を肯定する立場があった。
 具体的にいえば、「政治と文学」という大きな主題が文学に打ち立てられ、しばしば議論されたのは戦後まもない1950年前後である。政治を前景化させ、その前衛(啓蒙的なツール)として文学を利用しようとした共産党系の立場があり、それに対して個人の自由と文学の自立を謳歌する(平野謙ら)「近代文学」系の立場があった。芸術のジャンルでも同時期に「リアリズム論争」があったが、これは文学における「政治と文学論争」と論点が重なっている。
 これ以降、直接議論されることはなかったとはいえ、1960年代までこの「政治と文学」という枠組みは各作家たちに共有されていたといっていい。戦後民主主義を愚直に肯定した大江健三郎にせよ、戦後民主主義をアイロニカルに批判した三島由紀夫にせよ、「政治と文学」という枠組みに依存していたのである。
 しかし、1970年前後にこの枠組みは組み換えられはじめる。「政治と文学」は機能不全を起こし、共有されるべき主題ではなくなる。その間隙に、内向の世代という新たな文学グループが登場することになる。古井由吉後藤明生といった内向の世代に括られる作家は、文学の主題を個人の経験にまで切り縮め、ごく日常的な個人の主観を通して世界と関わるといういわば現象学的な方法をとったのである。
 内向の世代的な「私」とは、世界(政治)に組み込まれた(奉仕する)個人でも、世界に苛立つ個人でもない。彼らの描く「私」は、世界と直接交渉できるという発想を断念し、個人の主観を通してしか世界とは関われないという理解の上に立っている。たとえば古井の『杳子』(1970年)が問題にした世界とのコミュニケーション不全や、後藤の『挟み撃ち』(1973年)が問題にした出口のない自己言及性は、こういった新しい理解のもとに明確に方法化されたものである。村上春樹の初期作品が取り上げた、世界から解離した主体(「僕」)の有様も、内向の世代が切り開いた「私」の枠組みの延長にあるといえるだろう。
 いずれにせよ、内向の世代によって小説の中の「私」の有様は変わった。その一方で、この時期に「私」を取り囲む世界のとらえ方も変わったのである。それまでの世界は具体的な政治的問題や歴史的背景に紐付けされていた。しかし、1970年代に入ると、当時流行しはじめた構造主義の知見をもとに、世界を抽象化し、関係性(規則)の体系としてとらえるような作品が現れる。
 たとえば、1955年のデビュー以来、広島原爆や天皇制など戦後日本の固有の問題を積極的に扱ってきた大江健三郎は、1970年代に構造主義の理論を自作に導入した。大江は、作品のモチーフとなる歴史から固有性・一回性を剥奪し、規則的に反復する物語として作品に還元したのである。さらに1980年代になるとその状況はより徹底されることになる。たとえば『小説から遠く離れて』(1989年)の蓮實重彦は、1980年代に活躍する主要な作家の作品はどれもが「説話論的な構造」(関係性=規則の体系)によって物語の世界を作り込んでいるということを明らかにしたのだった*1
 以上の通り、1970年代の小説は、現象学的に還元された「私」と構造主義的に抽象化された世界とのカップリングで成り立っていたということができる。1970年代以降の文芸批評をリードした柄谷行人が、構造主義的世界(物語)に私小説を方法論的に導入したとして中上健次の小説を評価したのも、以上のような文脈があったからである。
 この時期中上は、物語の世界を関係の束として描写しながら、そこには還元できない「私」の問題をも扱ったのだった。構造主義を自作に積極的に導入した大江健三郎は、中上とは逆に、「私」の問題を関係の束へと回収しようとした。さらに村上春樹もまた、物語を語る上で構造主義的な世界と「私」の問題の関係を考えていた。村上は物語世界に対する視点の問題として「私」の問題を扱ったのである*2。彼らは、1970年代以降の文学の問題をそれぞれの仕方で引き受けたのだった。「私」の問題と世界の問題、ひいては「私」と世界の関係が、文学表現において注目を集め、従来のものから新たなフェーズへと移行したのが1970年代なのである。
   ***
 そこで本稿は、文学表現における「私」の問題を考えたい。そのためにはまず内向の世代が更新した「私」の表現を見る必要があるだろう。内向の世代は、1970年前後に登場したが、後藤明生古井由吉など主要な作家のアーカイヴ(全集を含む)がいまだに整備されていないところからも分かる通り、それほど大きな注目を集めてきたわけではない。その理由の一端を挙げるなら、1970年代は、その前半こそ「私」の問題が盛んに取り上げられたとはいえ、後半から1980年代にかけては「私」個人よりももっぱら構造主義的な世界の方に話題が集まったからであろう。
 「私」をめぐる日常の瑣末な話題よりも、大きな世界を物語としていかに語るかが文学の問題だというわけだ。柄谷行人が、構造主義的(民俗学的)な物語に私小説を接続したとして中上健次を評価したのも、当時は構造主義的世界観が全盛の時代だからだということを述べている*3。そのような文脈においては、「私」の問題は構造主義的な世界の一項として組み込まれる程度のものにすぎなくなりつつあった。
 しかし、くり返せば、1970年代の前半は「私」の問題(自己表現)が再検討された時代であった。柄谷行人が近代日本人の「内面」の問題に新たな焦点を当てたり*4内向の世代の古井を高く評価し*5私小説作家の志賀直哉を新たな切り口から論じたりした*6のもこの時期である。平岡篤頼もまたフランス現代思想を援用しながら志賀直哉の「私」の表現を分析したし*7、この時期に批評家デビューを果たした中島梓の論点も当時の「私」の変容に影響を受けたものだった*8
 そもそも1970年代――とくに前半――の文芸誌に掲載された座談会や特集記事は「私」の変容に戸惑いながらも言及したものが多い。そしてこの時期の「私」の変容を顕著に結晶化したのが内向の世代なのであり、他にも「薫君」シリーズの庄司薫や「桃尻娘」シリーズの橋本治も重要な役割を果たした*9。もちろん三田誠広の『僕って何』(1977年)もある。しかしそれらの中でも、やはり内向の世代の「私」に対するアプローチが最も注目すべき文学表現だったといえよう。
 そしてそれから三〇年後、2000年に入ってからのゼロ年代もまた「私」の問題が更新された時代であった*10。たとえば、とりわけサブカルチャーのジャンルでにぎわいを見せた「セカイ系」――世界と「私」を無媒介に直結させる自己表現のモード――がそうだし、ミステリ界でも佐藤友哉舞城王太郎といったいわゆる脱格系の作家が、自意識過剰な自己表現で注目を集めた。村上春樹太宰治のアイロニカルな自己表現があらためて見直され、ライトノベルを中心に多くのフォロワーを生んだ。このような文脈にあって、「私」の問題と自己表現を最も注目すべき形で演出した純文学の作家が、柴崎友香長嶋有である。彼らはその意味で内向の世代の再来だといえよう。
 ところで、日本の近代以降の文学において「私」の問題と自己表現が大きく問われたのは四度ある。一度目は最初に近代的な「私」と自己表現が確立した1910年代(明治40年頃)だろう。その成果を踏まえて私小説が確立したわけだ。次に二度目は、1920から30年代のモダニズムの時代である。この時代に、小林秀雄らによって、日本における近代的な「私」の脆弱性が、西洋由来の近代文学(の正統性)に比して問われることになったのだった。そして三度目が内向の世代である。彼らは、近代的な「私」の制度性を根本から疑い、いかなるものにも支えられていない「私」から表現を立ち上げようとしたのだった。
 たとえば、内向の世代の自己表現でしばしば指摘されるのは、自己の不全性と関係性の失調である。古井由吉は、自己が分裂・解離し、周囲の環境に滲み出してしまう作中人物をおりにふれ登場させる。後藤明生は、自問自答をくり返す語り口で自己分裂の有様を如実にさらけ出してみせる。古井の自己解離と後藤の自問自答は、世界(他者)との関係を欲望しながらたえず逸脱することを余儀なくされた自己の有様を端的に表現しているといえよう。古井の「私」が求めてやまない人間本質の獣性や女性性は最終的に出会い損ねることになるし、後藤の「私」はそもそも空虚であるという前提を堂々巡りするばかりなのである*11
 世界との関わりに違和を感じ、そこから立ち上げていく自己もまた次第にかつ微妙な形で異常さをさらけ出していくこと。これが内向の世代の「私」をめぐる表現だった。では、ゼロ年代に登場した内向の世代ジュニア――これが四度目の「私」の変容となるわけだが――はどうだろうか。それは、端的に言えば、自己の複数性と関係性志向とまとめることができる。
   ***
 これから柴崎友香を中心に論じるが、私(中沢)は以前柴崎を詳細に論じたことがある*12。そのときの議論の対象は『主題歌』(2008年)までだったので、今回はそれ以降の作品――『星のしるし』『ドリーマーズ』『寝ても覚めても』『ビリジアン』――を主に論じることにしたい。前回の議論とは異なった観点から論じるが、基本的に、前回の論点は今回論じる作品にも当てはまるし、今回の論点は前回論じた作品にも当てはまると考えていい。ただし、今回論じた作品にのみ妥当することもある。その場合はおりにふれその旨言及しておいた。それでは、以下あらためて柴崎友香を論じることにする。
 周知の通り、デビュー以来柴崎友香はその描写に定評があり、写真や映像など視覚表現との親和性がしばしば語られてきた。前回の議論もそこに注目したものだったが、ここで指摘したいのは、柴崎の描写は対象を客観的に描写することを使命とする説明(〜である)ではなく、例示(だいたい〜のように見える)としてとらえた方がよい、ということだ。しかしそれは単なる主観描写ではない。
 内向の世代は、世界との直接的な繋がり(客観描写)を断念し、「私」の視点から描写をすることを文学表現の使命とした。そのような主観描写を徹底すれば、誰にも理解・共感できないような独語的な描写に陥る危険性にさらされるほかない。
 しかし柴崎が描写に用いる例示は、理解・共感される最適解を目指すものである。それは主観でも客観でもなく、言葉の運用に関わっているといっていい。つまり主観や客観にとっての正確さではなく、適切に伝わるかどうかが問題なのだ。柴崎の描写が、純粋に言葉を操作しているというよりも、世界を切り取った写真や映像表現から言葉を立ち上げている――もっといえば一次素材としての写真や映像表現の相補的なナレーションなりキャプションとして機能している――ように見えるのは、正確さではなく最適解を目指す例示だからである。

 この場所の全体が雲の影に入っていた。
 厚い雲の下に、街があった。海との境目は埋め立て地に工場が並び、そこから広がる街には建物がびっしりと建っていた。建物の隙間に延びる道路には車が走っていて、あまりにもなめらかに動いているからスローモーションのようだった。その全体が、巨大な雲の影に入っていた。
 だけど、街を歩いている人たちにとっては、ただの曇りの日だった。
 今は、雲と地面の中間にいる。
 四月だった。
 二十七階だった。壁一面のガラスの向こうに、街の全体があった。(『寝ても覚めても』、2010年、河出書房新社、3ページ)

寝ても覚めても

寝ても覚めても

 二十七階の「雲と地面の中間」にいると、たとえば「雲の影」に見えるものが、「街を歩いている人たち」にとっては「ただの曇りの日」に見えるということ。対象にも主観にも過度に依存せず、状況や文脈に応じて適切な運用を目指すことが、柴崎の例示的描写であるということをひとまず確認しておこう。
    ***
 柴崎友香はデビュー以来、夢(虚構)と現実の往復や重ね合わせといったモチーフを物語に取り入れてきた。それは最近の作品になるほど、より積極的な形で現れてきている。『星のしるし』(2008年、文藝春秋)は、夢はもちろんのことUFOや占い、身近な人の死など非日常的なもののエピソードによって構成されている。短篇集『ドリーマーズ』(2009年、講談社)はタイトル通り夢の世界や超自然現象(霊視など)を体験した人たちのエピソードを寄せ集めた作品である。
ドリーマーズ

ドリーマーズ

 他方、『寝ても覚めても』はそういった非日常的なシチュエーションはほとんどない。ところが、柴崎の読者なら周知の通り、非日常を強く押し出した『星のしるし』や『ドリーマーズ』の方が柴崎作品の中ではむしろ異色作なのであり、日常の恋愛や職場・交友関係を淡々と描いた『寝ても覚めても』の方が柴崎的だとはいえる。
 しかしそうはいうものの、『寝ても覚めても』もまたタイトル通り、現実と夢の――あるいは複数の世界の――往復・重ね合わせを読み取ることができるのである。それはもちろん、大阪と東京を行き来したり(柴崎の文章はそもそも会話が大阪弁で地の文が共通語だが)、二人の男の間を行き来し重ね合わせる女性が主人公だったりするところからくる印象なのだが、それだけではない。
 最も重要なのは、カメラや携帯電話、テレビなどのメディア――とくにコミュニケーションや視聴覚の拡張として利用される――が多用されているという点である。これこそが柴崎作品にしばしば非日常性を導入し、複数の世界が重ね合わせられているような仕組みを演出している要因なのである。そしてこれはデビュー以来一貫したものである。
 逆に『星のしるし』と『ドリーマーズ』にはこういったメディアの利用が欠落しており、その欠落部分をUFOや幽霊といった非日常的なプロットや設定が代補するという形になっているのである。いずれにせよ、目指しているところは同じだといっていい*13
 ただし、非日常や複数の世界といっても、柴崎の場合、認識上の異化効果をねらったものではないし、主観の数に応じて世界の見方は多様にあるといった認識論的な多元世界をねらったものでもない。柴崎の「私」が経験する世界は、いわば運用上・慣用上の多元世界・可能世界なのである。そこでは、夢やUFO(宇宙人)や占いや幽霊や死は「私」の存在や認識を動揺させるものではなく、カメラや携帯電話やテレビやフライヤーと同じように、世界(との関わり)をより適切なものにするために存在しているのである。『星のしるし』からいくつか例を挙げておこう。

 「わたし、高校までO型と思ってた」
 「皆子、高校二年の生物の時間に、血の抗体を調べる実験のときに真実を知ってんで」
 わたしが説明すると、皆子は芝居がかった動作で大きく頷いた。
 「あのときはアイデンティティが揺らいだなー。あんたはほんとはよそのうちの子どもやの、とか言われたみたいな気分やった」[中略]
 「……ええかもな。それ。違う人生を体験できるかもわからんのや。どうやって調べるん、それ」
 「さあ、忘れた」
 「A型がええな、おれ。賢そうやん」(『星のしるし』111ページ)


 八歳のときに皆子は、サンタクロースがいる世界からサンタクロースがいない世界に移り住んだ。わたしはずっとサンタクロースがいない世界にいる。(『星のしるし』115ページ)

星のしるし

星のしるし

 血液型の違いやサンタクロースを信じる信じないによって世界を切り換え、「私」の、世界との関わりをより適切なものにすること。柴崎の盟友、長嶋有の場合だと、同世代ネタやあるあるネタによってこれを可能にしている。
 1972年生まれの長嶋は、ちょうど彼と同世代の読者が共感するようなネタを作中に散りばめることを得意とする作家である。しかしそれは無自覚に読者を制限しているわけではなく、意図的になされていると考えていい。たとえば『ジャージの二人』(2003年)では父と息子の世代間ギャップが、また『エロマンガ島の三人』(2007年)では、真性オタクと仮性オタクとの価値観のギャップ、男性オタクとノーマルな女性との価値観のギャップが、それぞれそれなりに調和しながら浮き彫りになる有様を、描出していた。長嶋の物語世界は、複数の趣味(価値観)の重なり合いによって成立しているのである。
 柴崎の『星のしるし』に戻ろう。この物語の主人公「わたし」は、祖父の死を経験したり、友人知人を通じて占いやカウンセリングを勧められたり、UFOの存在を唆されたりする。いずれにせよ、こうして新しい「わたし」の世界を一つ一つ切り開いていくのである。
 身元不明のカツオという青年が「わたし」の恋人の家に居着いたあげく、周りの人々に借金をして逃走するというエピソードも、他者が自分の世界に侵入してきたという話ではなく、自分の世界を拡張しに来た話として語られるだろう。カツオとの共生を「おもしろがって」いたのは誰よりも自分たちなのであり、UFOの存在を唆し、「わたし」に宇宙人の夢を体験させたきっかけを作ったのもカツオだったのだ。UFOの存在を信じなかった「わたし」は、宇宙人の夢を見て以降、UFOがいない世界からUFOがいる世界に移り住むことになったのである。「カツオに、言いたい。宇宙人がいるかもしれないっていう気持ちが、わたしにもわかったって。でも、とにかく今のところは、いないと思うけど」(『星のしるし』157ページ)。
 「わたし」にとってそれはいるかいないかが問題なのではない。かといって、いるべきだというような理念や信仰の問題ほど強くもなく、要は、(世界と関わる上で)いる方が気持ち的により適切だ(「わたし」の世界にとって都合がいい)ということなのである。
 とにもかくにも、このように思いもよらぬ形で宇宙人がいるかもしれないと思い、なんとなく世界がこれまでとは変わってしまったという不安を感じて家を出たあと、「わたし」は周りの世界を眺め回してこのように語る。

 がちゃっと音がして見上げると、三階の廊下に出勤するらしいスーツ姿が見えた。鍵を掛け、こちらを見ることもなくエレベーターのほうへ歩いていった。しばらく待つと、前の道路をその人が、やっぱりこちらを見ないまま駅のほうへ真っ直ぐに進んでいった。そのあとから、ラグビー部の名前の入ったスポーツバッグを肩に掛けた高校生が自転車で通った。それから、作業服のおじさんが通り、わたしと同じくらいの年の女の人が通った。誰も、わたしを見なかった。
 電車に乗って会社に行けば、柿原さんやきりちゃんや白井さんや、大勢の人に会える。実家に帰っても今は誰もいないけれど、父は蘇州に、母は徳島にいる。寺田町へ行ったら、朝陽に会えるし、玉造には皆子と岡ちゃんがいる。カツオは、どこかわからないけれど、どこかにはいる。もう会わないけれど、いる。祖父は、いない。でも、ここは祖父がいた世界で、祖父が見ていたのと同じ世界には違いない。そして、今はいなくなった。両方の下瞼に溜まっていた涙が、頬に落ち、膝にも落ちた。微かな重さと温度があった。
 もしかして、神さまに祈ったり願ったりするのは、こういう感じかもしれない、と思った。どこかで、自分を見ていてくれたらいいのにって思うような、そういうの。(『星のしるし』157‐158ページ)

 柴崎はこのそれほど多くはない文章の集合において、「わたし」の世界を見事に例示しきっている。要するに「わたし」にとっては、この世にあるものであれ関わりがなければ存在しないが、この世にないものでも関わりがあれば存在するのであり、かくしてこの関わりの濃度(のグラデーション)によって「わたし」の世界は構成されているということなのである。
 以上の分析から、柴崎の「私」は、日常の中のちょっとした非日常的なものを通して複数の世界に開かれている、ということが確認できたはずだ。ちなみに、内向の世代後藤明生も、日常の中のちょっとした非日常にこだわる表現が多い。たとえば『挟み撃ち』は、失われた外套をめぐって様々な記憶が掘り起こされたし、「誰」(1970年)や「書かれない報告」(1970年)などの初期短篇には、団地生活の瑣末な日常の、見過ごしても害はないような細部にこだわる表現がしばしば見られた。しかし後藤の場合は、その徹底した非日常的な細部へのこだわりが「私」を世界から隔絶させ、内閉していく様が描かれたのである。そういう意味では柴崎の関係性志向とは逆であるということができよう。
 柴崎においては、「私」を起点にして、あくまでも世界の複数化が目指されていた。ということは、逆にいえば、複数の世界を通して「私」もまた複数化しているのだということができるはずだ。とりわけ柴崎が「私」の複数性を精力的に問題にしはじめたのは『主題歌』のあたりからである*14
 そこで柴崎は、「私」の複数性を問題にするに当たって、一人称「私」のナレーションを積極的に利用している。その方法が最も先鋭的な形で結実したのが『ビリジアン』(2011年、毎日新聞社)だ。二〇のフラグメンタルなエピソード(短篇)によって構成された本書は、主人公「わたし」の、小学生の頃から予備校生の頃までの過去回想という形をとっている。ただし回想は、年代順に秩序だって並べられているのではなく、およそ十年の時間の幅を行きつ戻りつ無作為に並べられている。興味深いのはこの時間の幅を編集するナレーションの性質である。これは『主題歌』で最初に採用されたナレーションであるが、より深化した形を本書で見ることができるだろう。

 朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビもなにも言っていなかった。[中略]
 「楽しそうやな」
 すぐうしろで愛子が言った。愛子がいたということは、朝七時に待ち合わせして商店街でスケートボードの練習をしていたときのことだったんだろうか。三日か、四日しか続かなかったし、結局わたしも愛子もスケートボードに乗れるようにはならなかった。
 「楽しそうやな、あれ」
 愛子は、わたしの肩越しにビールの人を見ていた。
 「うん、めっちゃ楽しそう」
 わたしも言った。酔っぱらいは街中にいたけれど、こんなに楽しそうな人は初めて見た。
 愛子はわたしの鞄に手を突っ込んで水筒をとり出し、勝手に飲んだ。
 「気が合うな」
 愛子は言って、水筒を戻した。あの赤いTシャツ、わたしは好きだった。でも、スケートボードの練習をしたのは中学一年のときだったから、やっぱりそのときに愛子はいなかったかもしれない。だって、あれは黄色の日だったし、黄色の日は小学校にいたのは間違いないのだから。(『ビリジアン』10‐12ページ)


 重いドアを開けると、湿気がわたしを取り囲んだ。梅雨だから曇っていた。夏至のすぐあとだからまだ明るかった。屋上には人はまばらだった。何曜日だったかわからないけど、学校に行ったあとだった。ベンチの間を行ったり来たりしていた鳩が飛び立ったので見上げると、頭上の広い空間はどこまでも空だけだった。白い雲の厚さにはばらつきがあって、斑になった隙間から夕方の色をした日差しが透けているところがあった。そのときはまだ屋上の端に小さい観覧車があった。その向こうに架かる虹の写真を撮ったのは、その八年後だった。
(『ビリジアン』58ページ)


 「何分?」
 犬を見つめたまま、愛子が言った。
 「八時五分」
 わたしは答えた。公園の横にはアパートがあって、その一階の部屋の窓越しに壁に付いている時計がよく見えた。十八歳までは目がよかったから、十三歳だったらなんにも不自由はなかった。(『ビリジアン』82ページ)


 わたしはひたすら掃き掃除をしていた。掃くのが好きだからで、箒が作る砂の模様が好きだからだった。窓側にはようやく日が差さなくなって、カーテンは全部開けられた。窓も全開になった。見えるのはブロック塀だけだった。そこから、ぬるい空気が塊みたいに教室の中に押し寄せてきた。これからまた暑くなる、みたいなことは、そのころはまだ思わなかった。十一歳だった。今日が寒いか暑いか、それだけだった。その日は暑くも寒くもなかった。晴れと曇りの中間だった。(『ビリジアン』151‐152ページ)


 「おれ、All I Really Want To Doがめっちゃ好きなんです」
 と言って、諸星はボブさんが歌うのと同じように、タイトルと同じその部分を「どぅうぅうぅー」と声をひっくり返して歌っていた。
 諸星に教えてもらって、わたしもその歌が好きだった。あんまりにもいい詩だったからワープロで清書して、それから十五年の間に十人に配った。(『ビリジアン』254ページ)

ビリジアン

ビリジアン

 このようにナレーションの「わたし」は、およそ十年間の時間の幅を行ったり来たりしながら、そこここに拡散している「わたし」の輪郭を繋ぎとめていく。このナレーションの作業が、「わたし」を二〇のフラグメンタルなエピソードに分離しながら緩やかに重なりあった自画像を構成するのに一役買っているのだといっていい。
 ここで重要なのは、この「わたし」のナレーションは、回想(記憶)の不確かさを通して「わたし」の自己同一性を疑ったり、無理に確保しようとしたりしてはいないということである。ここでの「わたし」は、ナレーション(メタレベル)の「わたし」が作中(オブジェクトレベル)の「わたし」の経験を回想しながら解釈するという垂直的な関係にはないということだ。ナレーションの「わたし」は「わたし」の根拠にはなりえず、複数の「わたし」を、そこに部分的な類似点なり接点を見出しつつ繋ぎとめるのみである。以下、角度を変えて、このナレーションが演出する「わたし」の性質について考えてみたい。
 哲学者のウィトゲンシュタインは、いかなるカテゴリーも、そのカテゴリーを構成する複数の要素に共通する性質があるという観念的な考え方を批判し、実際は、部分的に共通する要素の集合によってカテゴリーは構成されているという考え方を打ち出した*15。いわゆる「家族的類似性(ファミリーリセンブランス)」という考え方である。たとえば、家族というカテゴリーにおいては、家族全員に共通する要素があるわけではない。父と子供はおよそ鼻が似ており、母と子供は口のあたりが似ており、目元は両親とも似ているが子供は似ていない、等々というように部分的な類似(のグラデーション)によってしかカテゴリーとしてのまとまりは見出せないというわけだ*16
 それと同じように、『ビリジアン』の「わたし」も、ファミリーリセンブランスとしてのゆるやかな自己同一性(自己類似性?)が保たれているのであり、それを保つために、ナレーションの(回想する)「わたし」は、部分的に「わたし」を繋ぎとめる作業に従事しているのである*17。だから、ここでナレーションの「わたし」が試みているのは、単なる回想ではなく、与えられた(手元にある)「わたし」のアルバムをパラパラめくりながらそのつどキャプションを埋めていく作業――たとえば「黄色の日」だからこれは小学校にいた時だし、「曇って」いるからこの日は梅雨時だったし、この歌はいい詩だったからこの時から「十五年の間に十人に配った」のだ…――に近い。そこでは、中学生の「わたし」と予備校時代の「わたし」が同じ風景の中で重なり合わさっても、なんら不都合なことはないだろう。

 「よく活きる、って…」
 ジャニスは遮って言った。
 「自分で考えろ」
 ジャニスは右手で髪をぐしゃぐしゃ掻きながら大きな欠伸をした。茶色い髪の先に鳥の羽根がついていた。
 「自分で、死にそうになるまで考え続けろ」
 白い羽根は電車の床に落ちた。
 「そうか」
 わたしは言って、駅に着いたのでドアのところへ行った。電車が止まると、ホームには中学の制服を来たわたしが立っていた。荷物はなにも持っていなくて、ドアが開くと真っ先に電車に乗り込んだ。
 電車を降りたわたしが振り返ると、中学の制服を着たわたしがジャニスの横でドアの前に立っているのが見えた。中学の制服を着たわたしは、ジャニスのほうをちらっと見たけれど、ジャニスはまた目を閉じて今度はほんとうに眠ってしまったみたいだった。
 わたしは長い階段を降りて改札を抜け、青信号が点滅している横断歩道を走った。(『ビリジアン』231‐232ページ)

 「わたし」の一枚の写真を手掛かりに様々な解釈をめぐらし掘り下げる(それはいずれ自己言及的な無限ループに陥るだろう)のではなく、日時や輪郭のはっきりしないスナップショットを寄せ集めて「わたし」を例示すること。ウィトゲンシュタインも、ファミリーリセンブランスとは輪郭の不鮮明な肖像画のようなものだという喩えをしていた。そういえば、『ビリジアン』はそのタイトルからもうかがい知れるように、どのエピソードも世界の事象を輪郭線としてとらえず、色の印象から立ち上げていくという描写の方法をとっていた。「わたし」の世界は輪郭線のはっきりしない色調のグラデーション――「晴れと曇りの中間ぐらい」――で成り立っているのである。
 物語の最後、「わたし」は、自分が写ったフィルムを、編集機を使って断続的に動かしては、「わたし」のぎこちない連続性を眺めている。しかしそれだけでは満足できなくなったのだろう、ついには編集機からフィルムを取り出し、光射す窓辺の風景に重ね合わせながらフィルムの一コマ一コマを、自分が編集機になったかのように繋ぎとめていくのである。「もう一本のフィルムを緑色の箱から取り出して、窓のほうへ行った。フィルムを引っぱって曇り空の光にかざすと、ずらっと並んだ小さな四角の中に公園があった。ずっと下へ向かって見ていくと、右端からわたしが現れた。一つコマが進むたびに、わたしはほんの少しずつ、右から左へ動いていた。ほとんど同じで、少しずつ違う場所にいた」(『ビリジアン』257ページ)。このシーンは『ビリジアン』が試みた、「わたし」のファミリーリセンブランスとしての有様を端的に例示したエピソードとして見ることができるだろう。
   ***
 そもそも一人称視点とは、ナレーションの「私」(メタレベル)と作中の「私」(オブジェクトレベル)に「私」を分裂し、自己言及的な内省・回想構造を持ち込みやすい表現方法である。「私」はつねに分裂の危機にさらされるが、けっきょくは自己言及的なループ(私は私について思う…)の中にとり込まれ、「私」の輪郭をより浮き立たせることになるのである。しかし柴崎の一人称視点小説は、ナレーションの「私」の役割を、オブジェクトレベルの複数の「私」を繋ぎとめ、「私」の(解釈ではなく)例示をするだけの機能に縮減することで、一人称視点(もしくは私小説)特有の構造をキャンセルしているということができるだろう。
 このように、単一の視点の「私」に依存することなく「私」を表現する作家として、ここでもやはり挙げておきたいのは、長嶋有である。本稿では柴崎の二番煎じのような扱いになってしまっているが、むろんそんなことはない。彼はまた別途論じなければいけない重要な作家の一人である。
 ここでとりあえず言及しておきたいことは、彼の一人称視点小説は、作中に一人称(「僕」)がめったに呼称されないという点に特徴を持っている、ということだ(『パラレル』『ジャージの二人』『夕子ちゃんの近道』『ねたあとに』など)。数ページにわたって呼称されないこともままある。たとえ呼称されたとしても、たいてい客体(「僕は」ではなく「僕を」や「僕に」や「僕の」)として現れることが多いだろう。
 ひっきょう長嶋の一人称「僕」は、自分に向けて内省するということをほとんどしないのだ。その代わりに、ひとりでひたすら趣味判断に明け暮れたり、誰かと趣味趣向のやり取りをしたりしているその模様が描出されていくだけなのである。その内容の軽さは、一人称主体の重さとは不釣合いだということなのだろう。柄谷行人がかつて志賀直哉私小説の特異な「私」について「気分が主人公だ」という名言を述べたことがあるが、それに倣って言えば、長嶋有は「趣味が主人公だ」と言い換えてもいい。いずれにせよ、長嶋の作品は、柴崎と同じように、「私」の複数性を容認するゆるさを特徴としているのだということができるはずである。
 さて本稿をまとめるにあたって、もう一度柴崎に戻ろう。ここで柴崎のナレーションについてより具体的に説明しておきたい。『ビリジアン』のナレーションは抽象度が強いのでわかりにくいのだが、それはつまりメディアなのである。柴崎がこよなく愛するカメラであり、テレビであり、携帯電話であり、フライヤーである。これら視聴覚メディアのように『ビリジアン』のナレーションは機能しているのだ。そのことは『寝ても覚めても』を読めばすぐに理解できるだろう。『寝ても覚めても』においては、これら視聴覚メディアが『ビリジアン』のナレーションのように機能させられているからである。

 別のチャンネルにしてみた。同じ夜の空の下で、淀川にかかる橋と川沿いのマンションの白い明かりが、点々と夜の闇に瞬いていた。光が瞬いているのは空気が揺れているからだということを思い出した。薄いロールスクリーンが下ろしてある窓を、目だけ動かして見た。外の暗闇とすぐ近くにある街灯の光とが透けて見えた。この外の黒さと、テレビの中の黒い空はつながっている。テレビの画面の中に入っていって、あの橋から南へ向かってずっと歩いていけば、この部屋にも辿り着くし麦の部屋にも行ける。ようやく満ちてきた眠気を感じながら、画面の中の夜景を見た。あの一つ一つの白い光の下、それからもう既に光の消えてしまった無数の建物の下に、それぞれの眠っている人たちがいる。自分のいる場所がテレビに映り続けていることを知らない人たちが、あの中で夢を見ている。そこには、眠ってはいないけれど眠っているのと同じ姿勢のわたしもいた。わたしは、自分の家の中で自分がいる街を見下ろしているのと同時に、天井の上の暗い空から自分によって見下ろされてもいた。その感じに包まれているうちに、安心と似た気持ちがしてきて、目を閉じた。(『寝ても覚めても』83‐84ページ)


 エスカレーター脇の通路の両側には、ビデオカメラが並んでいた。年齢がわかりにくい男の人や若い夫婦たちが、液晶画面を自分に向けたりファインダーを覗いたり移り気に試していた。台の上のほうのモニター画面に、わたしの後ろ姿が映っているのを見つけた。いくつも並んでいるうちのどのカメラに撮られているのか、わからなかった。たくさんの人の頭の隙間で振り返っているわたしは、斜め上から映されていて、自分では見えない頭の天辺が見えた。背の高い麦からは、いつもわたしの頭の天辺が見えているんだと思った。映像の中にあるはずの麦の姿を探した。画面の左奥に、少し茶色い髪が見えた。次の瞬間、その頭が振り返ってこっちを見た。でもそれは、カメラのレンズのほうを見ただけで、わたしを見たのではなかった。[中略]麦が振り返った。ほっとした。画面の中の麦が消えたのと同時に麦を見失ったかと思った。(『寝ても覚めても』88‐89ページ)

 時空間の通常の秩序(にしたがった「わたし」の自己同一性)とは無関係に、「わたし」がより適切に――この適切さ・快適さのためになら時空間の秩序は損なわれてもよい――世界と関われるように「わたし」を繋ぎとめること。このようなメディアの効果は「わたし」自身にも内面化されている。メディアの効果を内面化した「わたし」は、まさしく『ビリジアン』のナレーションのようである。

 「瞬間移動する公演が終わったら、年明けに、ウチから三人ぐらい東京の劇団にゲスト出演するねんけど、手伝ってもらえるかなあ? 受付とか人数いるみたいで。観光がてら、どう?」
 「東京かー」
 何キロも離れた場所とのやりとりに没頭して聞いていなさそうだった春代が、携帯を握ったままぼんやりした感じで言った。
 「東京ねー」
 わたしも、中身のない単語をなぞるように言った。自分の声が耳に聞こえたとき、東京のどこかにいる自分が今日のこの瞬間を思い出しているみたいな、気がした。来年か、それよりももっと先の自分が思い出す一場面のような、そういう感じがした。(『寝ても覚めても』101‐102ページ)


 道路の狭い上り坂から見上げた二階のわたしの部屋には明かりは点いていなかった。わたしが見るこの部屋はいつも真っ暗で、明るいこの部屋を見るのはわたし以外の人だった。(『寝ても覚めても』108ページ)


 背の高いマヤちゃんと小柄なはっしーを同じフレームに入れるために少しひいた。十センチ以上ある二人の身長差を見ていると、はっしーと同じくらいの身長のわたしも、マヤちゃんとはあれぐらいの差があるんだなと思う。(『寝ても覚めても』126ページ)

 このように見ていると、柴崎友香の「わたし」はまさしくメディアである、ということが明らかであろう。
 しかし、『寝ても覚めても』は、柴崎作品の中でやや異質な点がある。それは、これまで見てきた通り「わたし」が世界の中で快適にすごすために用いられてきたメディアの効果が、最後の最後で「わたし」に倫理的な決断を迫るように配されているからである。それを検証するために、簡単に要約しておきたい。
 本書は、十年間にわたる「わたし」の恋愛物語である。物語の冒頭、二十二歳のわたしは大阪で麦という男性に恋をする。しかし数年で麦はわたしの元から黙って立ち去ってしまい、わたしは東京で新しい男性、亮平と恋愛関係に入る。亮平を好きになった動機は何より麦に似ているからだった。やがて亮平と大阪で生活しようとわたしは決めるが、そんな時わたしの前に麦が現れるのである。麦はわたしと逃げることを提案し、わたしもそれに乗る。この時わたしは三十一歳になっていた。麦と一緒に乗り込んだ新幹線の中でわたしは、麦のことも亮平のこともよく知っている友人・春代に、亮平を裏切ったことを「最低」と告げられ、彼女からわたしの携帯に十年前の写真が送られてくることになる。これが物語の最後だ。

 車体が風を切って進む音が、静かな車内にずっと聞こえていた。携帯電話が振動した。開いた。春代からメールが来ていた。タイトルも本文もなく、画像が二枚添付されていた。プリントした写真を携帯電話のカメラで撮影したもののようで、端のほうは光が反射して白く飛んでいた。横向きの写真だったので、携帯電話を横に向けた。一枚目は、春代とわたしがピンクのふさふさした物体を持ってポーズをとっている写真だった。うしろには、鉄骨を組んだステージと真っ黄色の銀杏と校舎が写っていた。もう一枚を、見た。右半分は岡崎の顔が占めていた。目も口も大きく開けておどけているがカメラに近寄りすぎてぼけていた。その左側で、わたしと麦がステージの端にもたれていた。麦、と思った。十年前の麦は、こっちを見ていた。中途半端な長さの髪。その先の跳ねた感じ。画像を拡大した。よく着ていた緑色のパーカ。見覚えのあるTシャツ。うっすらと微笑んでいるみたいな、麦の顔。薄い唇、一重が途中から二重になる目。まっすぐな眉。何度も思い返したはずのその形が、全部そこにあった。ひたすらその顔を見つめた。ゆっくりと、十年ぶりに見た麦の顔がわたしの中に入り込んできた。
 わたしは、見た。懐かしい麦の顔と、それを隣でじっと見つめている自分の顔と。十年前のわたしと今のわたしが、同時に麦を見ていた。うしろの黄色い銀杏は、葉を散らせている途中だった。黄色い葉が、空中で静止していた。
 新幹線の中じゃなくて、他に誰もいなければ、わたしは声を上げていたと思う。
 違う。似ていない。この人、亮平じゃない。
 隣の座席で眠っている麦を見た。
 亮平じゃないやん! この人。
 その瞬間、のぞみはトンネルに突入した。暗闇を背景に鏡となった窓ガラスに映ったわたしを、わたしは見た。そのわたしも、写真のわたしとは、違う顔だった。頬や顎の下にできた影は、トンネルの暗い壁と混ざり合っていた。自分がこんな顔をしていたなんて、知らなかった。
 空気銃のように空気の塊を押し出して、のぞみはトンネルの外へ出た。まばらな家と道路の光が、ガラスに映ったわたしと麦に重なった。
 「ごめんね。麦」(『寝ても覚めても』257‐258ページ)

 ここで友人の春代が携帯を通して「わたし」に例示した写真画像は、「わたし」に倫理と美学(欲望や趣味の運用)の問題を同時に示している。捨てたはずなのに捨てきれていなかった、麦が主である世界に齟齬を感じさせ、それと同時に、「わたし」にとってより適切な世界(亮平が主である世界)を指し示しているのである。
 とはいえ、この後ただちに麦を捨てて、亮平に寝返らんとする「わたし」の振る舞いを見れば、それが倫理という表現にふさわしいものなのかはきわめて疑わしい。むしろこの「わたし」は自分の欲望にひたすら忠実なだけではないのか。
 それはそうだろう。しかし世界との関わりから「わたし」の世界を変えていく柴崎の「わたし」は、そもそも自分の趣味趣向に固執していたとはいえない。柴崎の「わたし」の趣味判断の一つ一つには、自分の輪郭線に閉じこもらないという倫理的な態度が貫かれているのである。これは『寝ても覚めても』に限らない。
 たとえば『ビリジアン』の「わたし」は、ささやかな日常を生きながら、たびたび自由を謳歌することがある。もちろんこの自由とは、世界(他者)に邪魔されないことの自由ではない。世界との部分的な接点を見出しては、自己を変容させていく、いわば即興的な自由である。

 ボブさんは、諸星が歌うのを黙って聞いていた。わたしたちが離れたあとで、一人でなにかの歌を歌っているのが聞こえてきた。全然聴いたことのない歌だったので、新曲かな、と諸星に言ったら、違う違う、と言って正解を教えてくれた。ボブさんは常に自分の歌を新しくして歌う。だんだん自由になっていく。
何度か振り返って、タキちゃんが聞いた。
 「あの人って、神さまみたいな感じ?」
 「違う。歌を歌う人」
 諸星は言った。雲の薄くなったところに、白く光る太陽が透けて見えた。鹿島はさっきの曲をもう覚えて、口笛で吹いていた。(『ビリジアン』255ページ)

 2011年3月30日、東京にて脱稿。この年の3月11日を私の一部に繋ぎとめておくために。


(*初出『S.I.』、左隣のラスプーチン、2011年6月12日)

*1:また柄谷行人によれば、村上春樹の作品は、ピンボールのように構造のみによって成立していると指摘された(『終焉をめぐって』1990年)。

*2:詳しくは、中沢忠之「資料・ゼロ年代村上春樹作品ガイド」、『ユリイカ 総特集 村上春樹 2011年1月臨時増刊号』を参照。

*3:中上健次のテクストを読むときに警戒すべきことは、それをこの両極[物語と私小説――引用者注]のどちらかに還元してしまうことである。現在、どちらかといえば、その危険は、それを自然主義的ではなく、民俗学的な方向において読む傾斜にある。それは、たえず歴史的な状況にいた中上を、超歴史的な構造論に回収する、凡庸きわまる批評を意味する。そうであれば、さしあたって、私はむしろ中上を自然主義私小説といった軸の側に引き戻してみる必要を感じる。ある意味で、中上健次は根っからの私小説作家であった。それは「私」にこだわること、一切を「私」の経験において見るということである。[中略]中上がこれらの作品[『枯木灘』以前の短篇を集めた『化粧』――引用者注]でやろうとしたのは、現実的な歴史的な空間を象徴的な空間たらしめることである。後者において、特定の新宮や熊野の空間は、ある一般的で非歴史的な構造に転化する。けれども、むしろ重要なのは彼が安易にそうしなかったことである。いいかえれば、彼は「私小説」的な側面を捨てなかった。彼がそうした二系列をともにふくみながら、なおそれらのいずれでもない「小説」を書いたのは、『枯木灘』においてである。」(「差異の産物」1993年、『坂口安吾中上健次』1996年)

*4:「内面の発見」1978年、『日本近代文学の起源』1980年。

*5:「閉ざされた熱狂――古井由吉論」1971年、『畏怖する人間』1972年。

*6:私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多」1972年、『意味という病』1975年。ここで柄谷は、志賀が描く「私」にとって重要なのは、内省する「内面」ではなく、「気分」であると述べた。

*7:「《私》の中の《自分》」、『文藝』1977年8月号。

*8:中島は「文学の輪郭」で『群像』の「新人文学賞」に当選した(『群像』1977年6月号)。受賞第一作が「表現の変容」(『群像』1977年9月号)である。

*9:「薫君」シリーズの一作目は1968年の『赤頭巾ちゃん気をつけて』。「桃尻娘」シリーズの一作目は1977年の『桃尻娘』。これらの作品の自己表現の、文学史における位置付けについては、中沢忠之「小説のプログラム 内言篇」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081123

*10:それと同時に物語も復活したことは注意していい。柄谷行人が指摘した通り(『日本近代文学の起源』)、日本の近代以降の文学史私小説と物語という、西洋由来の近代文学にとっては傍流の二傾向が両輪になって育まれてきたのである。文学のモードが転換する時期にこの二傾向が必ず注目を集めるということは、日本の文学史の特異性を例証していると言えよう。ちなみにゼロ年代も、1970年代と同様に、「私」の自己表現から世界=物語の叙述へと相対的に重点を移す過程が見られた。

*11:後藤の自己表現の特異性については、中沢忠之「仮装する人、後藤明生を仮葬する(ケイタイ的)」、『早稲田文学』2000年9月号を参照。

*12:中沢忠之「良質なリアリズム――柴崎友香私小説http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081012

*13:『ビリジアン』は折衷型であろう。本書は、日常を舞台にして様々な視聴覚メディアが導入されるが、その一方で、ボブ・マーリージャニス・ジョプリンといった往年のスターたちと「わたし」が共演するという夢のような非日常的プロットが配されている。

*14:詳しくは、中沢忠之「良質なリアリズム――柴崎友香私小説」を参照。ここで私(中沢)は『主題歌』までの柴崎作品を論じている。『主題歌』までが柴崎の第一ステージとするなら、拙稿はその第一ステージを中心に分析し、『主題歌』での変容にも少し言及するという体裁をとっている。

*15:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』1953年。本稿は黒崎宏による邦訳『哲学的探究 第1部・読解』(1994年、産業図書)を参考にした。

*16:だからあるカテゴリーを定義するには、包括的な説明は不可能だから、「だいたいこんな感じ」と例示をせざるをえないのである。

*17:星野智幸の『俺俺』(2010年)は、ファミリーリセンブランスとしての自己同一性をモチーフにして、「私」のドタバタ悲喜劇を小説にした傑作である。