感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

主題の積極性

1、先般の芥川賞は古川真人の「背高泡立草」に決まった。
SNSでの予想合戦は、おおかた、千葉雅也「デッドライン」や木村友祐「幼な子の聖戦」、乗代雄介「最高の任務」に集中しており、結果はそれを裏切るものだったと言える。

2、芥川賞決定後もSNS(ほぼTwitterだが)のタイムラインには、千葉や木村の作品へのコメントが多数を占めた。むろんこれは二人がTwitterの発信者だというのも大きいだろうが、最近の純文学に対する関心が「主題の積極性」(矢野利裕)に置かれているということの証左でもあるだろう。

3、木村の作品は「日本的な保守政治VS左派ポピュリズム」「ノンポリテロリズム」といった主題を明確に置いていた。また、千葉の作品は形式的には私小説だが、「LGBT」という主題から積極的に読まれている。

4、このような文学読者層のクラウドから、現行の芥川賞の選考委員はやや乖離しているように思われる。それは、島田雅彦の講評からも見て取れる。
https://www.sankei.com/life/news/200115/lif2001150046-n1.html

5、木村のややもすればエンターテイメントに流れかねない「主題の積極性」に対する強い警戒感がある。千葉の「LGBT」を「カミングアウト小説」として既成の私小説文脈に囲い込む評価にもその警戒感(主題から評価する慎重さ)が読み取れるだろう。

その煮え切らなさ(?)の結果、候補作中最も主題らしきものが見えにくい―ただし過去との歴史的な連繋という主題らしきものを導入したことが今回評価された―作品が受賞したのだった。

6、乗代の講評のさいに「テーマと手法の一致」という純文学的なマジックワードが登場するが、主題(テーマ)に対してはテクニカルな形式面を出してそのバランスを模索することが絶えず試みられているのが、最近の芥川賞の傾向である。現行の選考委員は、手法や叙述といった形式面に対する目配せがあり、全体的にバランスをとった評価をくだしがちだ。ただし古市が投入されるとバグが発生するのだが。

7、それにしても、「テーマと手法の一致」ってマジでなんなのか? 手法にこだわれば、当然、主題(テーマ)は後景に退く。その中途半端さを批判し、「主題の積極性」を打ち出したのが矢野利裕(「新感覚系とプロレタリア文学の現代―平成文学史序説」、『すばる』2017・2)であった。前記したSNSのトレンドを見ると、矢野の発言はリアリティーを増しているように感じる。(*矢野は手法を批判してはいない。手法組は「テーマと手法の一致」を狙いに行くなと警告している。)

8、芥川賞も時代に応じて評価を変えている。1994年上半期の大江健三郎は、受賞作(「おどるでく」「タイムスリップ・コンビナート」)を「批評的な性格」「既成文壇への批評」という言葉で評価したが、2006年下半期の村上龍は、受賞作を「直観的」と評価し、「意識的・批評家的な部分」が目立つ候補作(星野智幸)を批判した。

9、現行の選考委員の多くは1980年代以降に作家活動を開始した世代である。80年代といえば、教養的な文学の地盤が崩落した後で、そういった地盤を頼りにしない作家が登場し、芥川賞は彼らをのきなみ評価し損ね続けた時代である。

主題(テーマ)と手法の関係でいえば、前者(政治と文学など)の影響が弱まり、後者へのこだわりを強める時代が80年代であったことも思い出したい。