感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

大杉氏への応答

大杉氏への応答です。
すいません。私ごときのツイートで無駄な時間を費やさせてしまい、大変恐縮いたします。
論点3つ、簡潔に回答いたします。


1、石原千秋氏=「テクスト分析」と大杉重男氏=「カルスタ」について。
 前者の「テクスト分析」は、テクストだけで評価しようとする立場くらいの意味で、作品論でも換言可です。後者は、作品評価のために歴史や政治などテクスト(作品)の外を取り入れる、くらいの意味です。
 「テクスト分析」と「カルスタ」に学術的な意味をこめておらず、非常にいい加減な発言です。レッテル貼りの意図はありませんが、気にさわられたなら申し訳ありません。無学をさらす私のツイートはスルーしていただければと思います。


2、「非当事者性ゆえに評価」について。
 これは石原氏評だけを持ち出されても、というのが正直なところです。
 「美しい顔」については、当初からフィクションの可能性を高く称揚されたのは事実です(そもそも小説がフィクションとして評価されるのは当然なのですけれども)。ただ、ノンフィクションとの比較から、非当事者性とフィクションを強く結び付けて「美しい顔」の議論がなされるようになったのは、参考文献問題発覚後だと考えていますし、そのような発想に基づいたフィクションとノンフィクションの対立からなされる議論はとてももったいないと思っています。
 たとえば「美しい顔」は、震災なり震災報道に対するメタ視点を持ちあわせており、その作品自体に当事者性批判が含まれています。他方、震災間近(現在でも)の日本は、当事者性についても、東北・福島・関東・以西とグラデーション化されており、「報道や参考文献を媒介する」ことが即非当事者というわけではなかった(いまでも、ない)。こういう錯綜したレベルは、フィクションとノンフィクションの対立(結局ちゃんと来なかったからダメなんだ!⇒想像だけで書いちゃってごめんなさい)で見えなくなってしまわないでしょうか。
 「パラフィクション」を持ち出す石原氏の評価も、恐らく、「美しい顔」が持っているフィクションの複雑な性格に基づいているのでしょうし、単純に「非当事者性ゆえに評価」したと言えるかは疑問ですね。
 むろん、こうした複雑な(といって言い過ぎなら少なくとも双方に刺激を与えうる)議論を、フィクションとノンフィクション交えて議論をできなくした原因は当該作にあるので、まあ後は、当事者性か非当事者性か、フィクションかノンフィクションかの祭りで盛り上がることも、それはそれで悪いとは思っていません。


3、「震災文学」と「慰安婦」について。
 「震災」にも「慰安婦」にも大した見識を持っていませんが、私の意図は、「慰安婦」を評価するために「震災(文学)」を持ち出す(逆に言えば「震災(文学)」を批判するために「慰安婦」を持ち出す)必要はないのでは? ということに尽きます。そこまで律儀に語らなくてもと。
 大杉氏は、自由に自分のこととして語って「関係のないものに接ぎ木して行けばいい」ただし「責任を取ってるかのように格好つけないでほしい」とおっしゃっていて、それにはいたく賛成ですが、むしろ氏の震災と慰安婦を接ぎ木する語り口に、失礼ながら、何ものか(文壇内政治?)への責任を感じてなりませんでした。

以上になります。