感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「3・11東日本大震災と文学」

1、『神様2011』
東日本大震災は文学の世界にも大きな影響を与えた。この出来事に影響を受けて書かれた小説はいくつかあるが、数のレベルで多いと考えるか少ないと考えるかは見方によって異なる*1
日本はかつて1995年に阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件という大きな出来事に遭遇したことがあるが、その際には多くの作家が沈黙を守ったことを考えると(当時の日本文学は現実の出来事を表現することに消極的であった)*2、今回の震災はより多く作家に表現を選ばせたのだということができるだろう。
むしろ、これまで社会的・政治的な話題に触れる機会を逸してきた文学が、この出来事をきっかけに語る一歩を踏み出すことができたという側面があると考えれば、震災は文学が現実の社会と接点を持つ踏み台なり免罪符として受け入れられたともいえるだろう。

そのなかでもより早く発表され注目を受けた作品が、川上弘美の『神様2011』(講談社、2011年9月)である*3
川上弘美は1993年に作家デビューを果たしているが、その時のデビュー作が短編「神様」であった。本作は「神様」の2011年版ということになる。作品の構成は、まず1993年の「神様」が掲載され、その後に「神様2011」、そして最後に本作発表の趣旨を書いた「あとがき」が付されている*4

2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。(『神様2011』「あとがき」)

東北大震災の被害は、地震による津波の側面と原発事故の側面をあわせもっており複雑である。それぞれの作品もどちらに焦点を当てるかで大きく内容が変わってくるが、「神様2011」は原発事故に焦点を当てたものだ。
もともと「神様」の設定は、女性である一人称「わたし」と動物の「くま」が会話しながら森を散歩するという幻想的なファンタジーであるが、「神様2011」は原発事故後(作中では原発事故は「あのこと」と呼称されている)という設定が加えられ、それに対応して部分的に書き換えられたり書き足されたりして作られたものである。したがって、幻想的な設定に現実の生々しさが侵食された形になっている。「神様」と「神様2011」の同じシーンを抜き出してみよう。
  

遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。たくさんの人が泳いだり釣りをしたりしている。(「神様」)

遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。誰もいないかと思っていたが、二人の男が水辺にたたずんでいる。「あのこと」の前は、川辺ではいつもたくさんの人が泳いだり釣りをしたりしていたし、家族づれも多かった。今は、この地域には、子供は一人もいない。(「神様2011)
 
「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋から鍵を取り出しながら言った。
「またこのような機会を持ちたいものですな」(「神様」)

「いい散歩でした」
くまは305号室の前で、袋からガイガーカウンターを取り出しながら言った。まずわたしの全身を、次に自分の全身を、計測する。ジ、ジ、という聞き慣れた音がする。
「またこのような機会を持ちたいものですな」(「神様2011」)

津波による被害は圧倒的な自然に向き合う無力な人間の悲劇になるが、原発事故は放射性物質という圧倒的な自然にくわえ、人間の犯した罪として自分と向き合わなければならない性質のものだ。「神様」と「神様2011」の関係はまさにそのような自己言及として、作家の「静かな怒り」から生み出されたものだということができる。
古川日出男もそんな作家の一人である。福島県出身の彼は、東北を舞台とした『聖家族』(集英社、2008年)という長編作品を書いていたが、震災を受けてその補遺となる『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社、2011年7月)をいち早く発表した。「書け。私はこれを書け」。このときの彼を突き動かしていたのも同種の「怒り」だったろう。


2、「原発」と「原爆」*5
とくに日本は、広島と長崎の原爆被害、第五福竜丸などの放射能被害を受けてきた歴史があり、それらを教訓として歩んできた。原爆関連の小説は戦後以来継続的に発表され続けている*6。それにもかかわらず、私たちは、原発の功利性をとり、その恐ろしいリスクには沈黙したまま生きてきた、その代償が福島であるという思いが多くの作家にはある。
広島長崎の原爆被害に古くからコミットし関連する著書もあるノーベル賞作家・大江健三郎は、2011年の3月28日の『ニューヨーカー』に「History Repeats(歴史は繰り返す)」というタイトルのエッセイを寄稿した。また、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に積極的な関与をし、小説作品やルポルタージュを発表した村上春樹は、6月10日にスペインのカタルーニャ国際賞を受賞した際に「非現実的な夢想家として」というタイトルのスピーチを行った。
日本を代表する二人の作家が、原発事故という世界的に注目される出来事に対して自分の思いを語ったのだが、いずれにも共通しているのは、原発の功利性・効率性に敗北して歴史から学ばなかった忸怩たる思いである*7村上春樹は、諦観しやすい日本人はもっと怒ってもよいという趣旨の発言をしている。
川上弘美もまた、「震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」ということでした」(「あとがき」)というコメントをしている。
ドイツに拠点を置いて文学活動を行っている多和田葉子は短編「不死の島」*8で、東北大震災後の日本を描いている。日本は3・11後も、けっきょく「怒り」を封じ込んで原発の稼動を黙認してしまった。その結果再び巨大な原発事故に見舞われ、世界から差別的に締め出された挙げ句日本は瀕死の状態にあるというSF的な設定だ。
3・11から3年以上が経過した最近の日本は、多和田の予想を裏付けるように再び歴史の教訓を忘れようとしているように見える。


3、『詩の礫』
震災から3年以上が経過した。
振り返れば、被災後まもない時期は、震災からの距離のとり方に試行錯誤しながら、様々な活動を行っていた作家たちの姿がうかがえる。
日本を代表する作家、大江健三郎村上春樹が震災に関連したメッセージを世界に向けて発信した。また島田雅彦が呼びかけ人となって被災地を支援する「復興書店」*9を立ち上げ、多くの作家が賛同した。そこで各作家は思い思いのメッセージをウェブ上にアップし、無償で提供した自著の売り上げを、被災地への寄付金として当てた。
また文芸誌『早稲田文学』は、作家に作品を募ってウェブサイトにアップし(英語版をはじめ部分的に韓国語版・中国語版もある)、それを読んだ読者に寄付金の提供を呼びかける等の活動を行った*10
英米向けの英語版と同時に発表された『それでも三月は、また』は、震災をテーマにした企画本だが、これも著者印税と売り上げの一部が震災復興の寄付とされた。こういった瞬発力を必要とする試みは他にも無数になされている。
「がんばろう、東北」「つながろう、日本」といったスローガンがマスメディアやネットを通じて連呼され、日本全体の連帯が求められていた時期である。

なかでも特筆すべき活動を行ったのは、福島で被災した詩人、和合亮一だろう。彼は、被災してまもない六日後にtwitterから言葉を発信し、それ以後ツイートし続けた。被災する詩人として。Twitterの字数制限は詩というジャンルが本来的かつ伝統的にもつ定型性という特質とマッチし、彼のツイートする言葉は詩として自然に受け入れられた。また和合自身、一連のツイートを詩の新たな発信形態として位置付けていたように思われる*11
   

行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。(2011年3月16日4:30)
放射能が降っています。静かな静かな夜です。(2011年3月16日4:35)
あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。(2011年3月16日4:44)
私が避暑地として気に入って、時折過ごしていた南三陸海岸に、一昨日、1000人の遺体が流れ着きました。(2011年3月16日5:34)
私は震災の福島を、言葉で埋め尽くしてやる。コンドハ負ケネエゾ。(2011年3月18日1:06)
街を返せ、村を返せ、海を返せ、風を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。波を返せ、魚を返せ、恋を返せ、陽射しを返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。乾杯を返せ、祖母を帰せ、誇りを返せ、福島を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。(2011年4月9日23:19)

また、日本の詩は俳句や連歌のようにコミュニケーションの一部として受容されてきたという特質があるが、twitterの対話性はその点においても詩との親和性が高く、フォロワーやリツイートが増えるたびに勇気付けられる和合の姿を読むことができるだろう。
他に詩のジャンルで注目すべきなのは、ni_kaのAR詩である。3・11以前からデジタル技術――スマートフォンデコメール機能や、複数の情報(画像・イラスト・文字・絵文字等)をレイヤー化するAR技術など――を駆使した詩をウェブ上で発信し*12、詩のジャンルに新しい可能性を開いてきた詩人だが、3・11における近親者の死を受けて、バラバラに離散する記号が、離散したまま同期している様を、3・11を鎮魂するAR詩として発表した*13
そもそも繋がれないものたちがいかに繋がることができるのかという問いがそこにはある。この問いは、メディアが安易に垂れ流す「つながろう、日本」という偽善的なメッセージへの批判でもあったろう。
被災地にいたからこそできた、修羅(死者)のごとく繋がりを求める言葉の強さ(和合)と、被災を共有しきれないからこそ模索するほかなかった、子供のように儚く繋がりを求める言葉の強さ(ni_ka)が、3・11をきっかけに詩の多様性として私たちの前に表現されたのである*14


4、未来と過去
震災から時間が経過するうちに、次第に、腰をすえて書かれた作品が発表されはじめる。被災から物語の構想を得て架空の物語が作られるようになったのである。一見、被害を物語の手段におとしめているように見られかねないこういった試みは、被害の影響がまだ生々しい時期であれば「不謹慎」「自己中心的」ととらえられたかもしれないし、実際にそのような評価を受けた作品もある*15
ただし、震災および震災後をテーマにした文学作品はおおむね高度な抽象化が施された作品ばかりなので、被害者感情に直接訴えるような傾向は少なかったといってよい。
作品の傾向として注目すべき点は二点ある。「未来への想像力」と「過去への回想」である(以下、「未来系」と「過去系」と呼ぶ)。
「未来系」に関しては、被災地支援のためにチャリティAVを制作するという物語を作品にした高橋源一郎の『恋する原発』(講談社、2011年11月)をはじめ、原発事故後の日本の再生の道を家族の物語とともに語った福井晴敏の『震災後』(小学館、2011年11月)など多数あるが、とくに目立つ傾向は、3・11よりも未来に舞台を設定したSF的な作品である。
例えば3・11以後もくり返される震災等の被害をこうむった、日本の世紀末的な惨状を物語の設定とするいくつかの作品、辺見庸の『青い花』(角川書店、2013年5月)や綿谷りさの『大地のゲーム』(新潮社、2013年7月)、佐藤友哉の『ベッドサイド・マーダーケース』(新潮社、2013年12月)などだ。
とくに日本は、1945年の終戦以来、放射能汚染後の世紀末を舞台にした作品が、サブカルチャーを中心に多く発表されているが(『ゴジラ』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』『北斗の拳』など)、震災後の作品も戦後以来のかかる想像力につらなるものといえよう。ただしやや変化もある。
これまでのこういった想像力に支えられた作品が世紀末の否定性を単に抽象的な背景として活用する傾向があったとすると、震災後の作品に見られる傾向は、世紀末に辛うじて見出される「希望」(絶望の中に見出すほかない希望)が見られるところである。この変化の原因は、世紀末は遠い未来ではなく、いまや震災後の現実だという認識が前提にあるからだと思われる。
『震災後』『大地のゲーム』『ベッドサイド・マーダーケース』は「子供」の存在が重要な役割を果たしている。絶望の中の希望はこの存在の影響が大きい。3・11以後最も精力的に東北大震災にコミットしている作家の一人、高橋源一郎は、以前から『「悪」と戦う』(河出書房新社、2010年5月)で子供を主人公にした作品を発表しているが、震災関連の短編「お伽草子」(「新潮」2011年6月)と「アトム」(「新潮」2011年7月)も子供が視点であった。
その高橋は、川上弘美の『神様2011』の改変についてこんなことを言っている。「ここでの、いちばん大きな違いは、「川原」に、人影がほとんどないことである。なにより、「子供」がひとりもいなくなってしまったことだ。わたしたちは、二つの作品、『神様』と『神様2011』を読み比べながら、「あの日」の後、いつの間にか子供たちが姿を消したことを知るのである。/幽霊のような子供たちが、わたしたちに話しかけようとしている、とわたしは感じる」*16と。この「幽霊のような子供たち」の存在とそれを感知することが、廃墟の中の希望として辛うじて指し示されているといえよう。

次は「過去系」の作品である。柴崎友香の『わたしがいなかった街で』(新潮社、2012年6月)や古井由吉の『蜩の声』所収の「子供の行方」(講談社、2011年10月)などがそれだ。これらの作品は、関東大震災や太平洋戦争など、かつての戦災や震災の記録・記憶にまでさかのぼる。
戦後の米軍占領下に混血児として出生したGIベイビーたちを主人公にした津島祐子の『ヤマネコ・ドーム』(講談社、2013年5月)もその一つである。1947生まれの著者は、戦後の日本を背景に、GIベイビーとして翻弄される彼らの人生を描いたが、この物語に深く影を落とす3・11以後の原発事故は、偶発的な事故ではなく、戦後日本が必然的にもたらした答えの一つであることが導き出される。

歴史と対話すること。日本の文学史はこれまで様々な戦争文学や被災文学、被爆文学を生み出してきた。記録として残されたこれらの作品と対話をすることで被災の今を生き延びることができる。高橋源一郎佐藤友哉も同じ時期にくり返し戦時下や戦後まもない文学作品(太宰治や戦後派など)に言及していた。
ただし、対話には、答えのない問いを続ける覚悟がいる。長嶋有の『問いのない答え』(文藝春秋、2013年12月)はそんな格言を私たちに教えてくれる。本作は、twitterでフォロワー同士が他愛のないテーマのもとに対話し続ける様が描かれている。そうして3・11以後の被災を各々生き延びているのである。
例えば最初に誰かが「なにをしたい?」という抽象的な問いを投げ、それに対してフォロワーが各自思い思いに回答を出す。「女教師を口説く」とか「今度こそ徹底的に殺るつもりです」とか。それらが出た後に出題者があらためて「三メートルの棒を譲り受けましたが、あなたはこれを使って『なにをしたい?』」と具体的な文脈を差し込んだ問いを提出すると、当初の回答の意図がずらされ、様々な再解釈がなされることになる。このように最終的な答えが回避される問答ゲーム(答えは対話=回答の文脈しだいでいくらでも変わる)が延々とやり取りされるのである。
お互いすれ違うばかりで、一見他愛のない趣味をめぐる彼らの対話。そこにはしかし、倫理的な覚悟が貫かれていることに気付かされることになるだろう。答えのない問いを続けることの覚悟を、である。


5、『想像ラジオ』
いとうせいこうの『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年3月)も対話によって構成されている作品だ。広島・長崎の被爆阪神淡路大震災の記憶が想起される本作のメインプロットは、ラジオのDJがリスナーと対話することによって展開する。このDJは津波によってすでに命を落としているという設定になっている。いわば死者の声、当事者の声を聞き、対話することができるかという問いがこの作品において賭けられているテーマである。
東日本大震災は、日本にいくつかの深刻な断層を作った。被害の当事者である東北(関東の一部や長野県の栄村等)と、それ以外の地域の傍観者との間にできた断層。それにくわえ、原発事故がもたらした放射性物質の見えない恐怖は、関東を越えてそれこそ東日本一帯を包囲した。甚大な被害を受けた福島を基点に被害者・当事者性の濃淡が放射状に階層化されたのである。さらに複雑な点は、原発の利便性を享受してきたこと(とくに東京電力福島原発の電力供給先の東京)が加害者意識をも重ね書きしたことである。
『想像ラジオ』は、このように複雑な断層を負わされた関係性に何らかの接点を見出す試みであった。本作の構成は、メインプロットのDJとリスナーの対話パートと、サブプロットの1人称視点パートが交互に置かれた形になっている。1人称は著者本人がモデルになっており、「Sさん」と呼ばれる1人称「私」は震災後ボランティアとして東京から被災地に赴くという設定になっている。
1人称視点による描写の場合、読者は1人称を自分の視点として物語にかかわるので(発話者との一体化)、共感しやすい。
それに対して、DJとリスナーの対話パートは、DJが「リスナー諸君」に呼びかける2人称視点である。発話者から「あなた」と呼びかけられる2人称視点は、読者を当事者として巻き込む性質を持っている。
しかし、東京にいる「私」(Sさん=読者)は、被災地の死者の呼びかけに当事者としてかかわれる自信がない。実際、Sさんと呼ばれる「私」は、周りの知人がラジオのような音声が聞こえるような気がするとおりにふれ言うのだが、自分は全く聞こえないことに戸惑い続けるのである。ただし「私」は死者との対話をあきらめてはいない。4章では「私」は身近な死者と対話することになる。そして最後の5章でついに「私」の言葉はDJに届くだろう。

頼もしいリスナー諸君。ここで皆さんに贈る最後の一曲です。
想像ネーム・Sさんからのリクエストでボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』。救いの歌。胸にしみる名曲。1980年。ボブ・マーリーが脳腫瘍で亡くなる前年に出たラストアルバムの、まさにラストソング。
今まで聴いてくれてどうもありがとう。
本当にさようなら、みんな。
もちろん最後の曲紹介は、僕の番組らしくエコーたっぷりで。
では『リデンプション・ソング』、どうぞ想像して下さい。
あ、その前にジングルを今までにない大音量で一発。あはは。
想ー像ーラジオー。 (『想像ラジオ』)

ついに死者は「私」の言葉(「Sさんからのリクエスト」)を受け取った。しかしこれはあくまでも死者の側から見た想像上の希望として示されているにすぎない。孤立し続ける1人称と繋がりを求める2人称。現実は誰もが孤独だが、死者を想像し続けることが自分の中に死者と分有できる「痛み」を見出すことではないか。しかしそれは死者に応え/答えを見出すことではない。そんな覚悟がここにはある。

古川日出男の『馬たちよ、それでも光は無垢で』は、震災一ヶ月後に原発がある福島の浜通りに向かった著者本人の実話を、自作のキャラクターを交えながら小説として作品化したものである。ここでは、震災を表現するにあたって、あくまでも現実世界としてとどめたいノンフィクションの欲望と、それを物語の時間に流し込みたいフィクションの欲望との間で葛藤している様が描かれている。古川本人は「嘘を一個も書かないフィクション」という一見矛盾した言い方をしている*17

書け。私はこれを書け。そこに狗塚牛一郎がいたのだと書け。五人めが。私たちの五人めが。イヌにしてウシである『聖家族』の長男が同乗していたのだと書け。しかしそんなことを書いてしまったら小説だ。この文章が小説になってしまう。私には矜持がある、私はここまで一切嘘を交えなかった。私には逡巡はあっても嘘はなかった。この文章を決定的な″本物″にすることで私は何かの、やはり決定的な救済を望んだのだ。いまも望んでいる。それを鎮魂とパラフレーズする覚悟もある。これらは極限である。これら、原稿用紙にして九十枚余に達した″ある集積″は私の極限である。それでも。それでも? 書け。*18(『馬たちよ、それでも光は無垢で』)

古川の作品の特徴を一言で述べるなら、物語と現実世界(史実・土地)の相乗効果である。彼は作品を作るさい、現実世界(史実・土地)を導入して物語を活性化し、逆にその物語によって現実世界(史実・土地)に新たな視点・見方を導入し賦活することを目指す。現実も物語も救済するという方法。古川の故郷でもある東北を舞台にした長編『聖家族』はその方法の集大成でもあった。
その補遺となる『馬たちよ、それでも光は無垢で』が感動的なのは、現実世界の古川日出男を物語に初めて登場させた作品だからである。すなわち救済と再生の対象は東北の物語とともに小説家の彼でもある。
このとき古川に「それでも? 書け」と命じるフィクションの欲望は現実から逃避させる声ではない。逆である。物語の時間に流し込んでこそ古川は被災した東北を彼なりに嘘を一個も交えずに見つめなおすことができたのである。いとうせいこうが架空の死者の声を設定することでこそ被災地に向き合えたことと同じように。

*初出『世界文学比較研究』第48集(世界文学比較学会、2014年9月)

*1:木村朗子の『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』(青土社、2013年)は、震災とくに原発事故に関して言及する作家・作品が少ないと指摘している。その原因を無意識的な言論統制としている。「あれほどの多くの死者を出し、そして間近に死をみつめた生存者があって、まだ避難を余儀なくされていたり、仕事や家を失ったままでいる人たちが大勢いるなかで、震災はそれ自体重い主題ではある。しかし作家が直面した書くことの困難というのは、そういうところにあるのではなかった。それはどうやら戦後に長い時間をかけて築かれた言論の壁のせいであった。震災後、その壁がむき出しに露わになって目の前に立ちはだかったのである。語るべきではないとされるタブーの筆頭に原発事故はあった。だから東日本大震災の災禍のうち、福島第一発電所メルトダウンと爆発については、速やかに自由な言論の場から排除され、人々の口からも消されていった。なんという理由があるわけではなく、ただなんとなく言いにくいこととなった。いかにも日本流の言論弾圧のあり方ではないか。こんなにも根深く、語ることの不自由が膠着していたとは驚くばかりである。」(236ページ)他方で「3・11以後、あらゆるジャンルで、震災あるいは福島の問題に関して、さまざまな発現や言説が非常にたくさん見られる」(高橋源一郎佐々木敦「『恋する原発』―処女作への回帰と小説家の本能」『群像』2012年1月号)という見方もある。

*2:当時の作家たちが阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に対して比較的沈黙を守ったことに対して、より積極的に自分の著述活動に還元したのが村上春樹である。彼は地下鉄サリン事件の被害者の声をまとめて『アンダーグラウンド』(講談社、1997年)を、さらに加害者側の声を集めて『約束された場所で―underground2』(文藝春秋、1998年)を発表している。また震災をバックモチーフにした短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社、2000年)も発表している。

*3:初出は『群像』2011年6月号。

*4:初出は「神様2011」の後に「神様」「あとがき」の順。

*5:川村湊の『原発と原爆―「核」の戦後精神史』(河出書房新社、2011年)は、映画やマンガ作品を参照しながら、核・原子力に影響を受けてきた戦後日本の文化を論じている。

*6:原爆小説として戦後まもない頃に発表されたのが1948年の『夏の花』(原民喜)、『屍の街』(大田洋子)である。これらは直接の被爆体験者によって書かれた象徴的な作品である。ここでは原爆の凄惨な被害が小説的な加工を施されず直裁に描かれている。原爆投下後の被害を描いた1965年の『黒い雨』(井伏鱒二)以来、加害者の視点も導入した1981年の『HIROSHIMA』(小田実)、原爆をSFの背景として利用した1990年の『治療島』1991年の『治療島惑星』(大江健三郎)、そして原爆被害を抽象化した2005年の『六〇〇〇度の愛』(鹿島田真希)に行き着く原爆関連小説の系譜は、原爆に関する認識が高度に複雑化すると同時に、抽象的な歴史に還元される様が確認される。

*7:原発」の位置付けは歴史的に複雑である。大江健三郎は、『ヒロシマ・ノート』(岩波書店、1965年)をはじめ「原爆」に関する多くの著述を発表しているが、「原発」に関しては当初から否定的だったわけではない。1968年の「核時代への想像力」(『各時代の想像力』新潮社、1970年)という講演では、核エネルギーを戦争のためではなく、平和利用することに関しては肯定している。こういった考えは当時の日本でマイノリティーだったわけではない。その後、「原発」を最初に大きく再考するようになったのは1986年のチェルノブイリ原発事故がきっかけだろう。

*8:『それでも三月は、また』(講談社、2012年2月)に所収。

*9:http://fukkoshoten.com/

*10:http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/wasebunEQ.html

*11:一連のツイートは『詩の礫』(徳間書店、2011年6月)として刊行された。

*12:http://yaplog.ni-ka.net/

*13:「2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京」http://yaplog.jp/tipotipo/archive/255

*14:他にも、平田俊子(「ゆれるな」)や柴田トヨ(「被災者の皆様に」)らが「震災詩」を発表したし、評論も小説も詩もこなす松浦寿輝は3・11に言及するさい何より詩を選んだ(「afterward」)。また、関東大震災のさいに詩を書いた金子みすずの「こだまでせうか」が3・11以後頻繁に流れたテレビCMで一躍注目を集めたり、岩手の詩人・宮沢賢治の再評価があったり、詩の朗読会やパフォーマンスが盛んに行われたりするなど、詩の世界でも震災に対するリアクションが多数あった。

*15:例えば、発表以来高い評価を得たいとうせいこうの『想像ラジオ』は、震災による死者がラジオのDJとなってリスナーに繋がりを求めるという設定の作品だが、そのいくぶん叙情的でもある物語に対して一部批判があった。

*16:『恋する原発』。

*17:『波』2011年8月号。https://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/306073.html

*18:「狗塚牛一郎」とは小説『聖家族』のキャラクターである。