感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

第2回ブンゲイファイトクラブ雑感

まずはTwitterから。『有島武郎―地人論の最果てへ』が絶賛発売中の荒木優太が「物語の社会反映論の流行」として最近の文学の傾向―社会の役に立とうとする文学―に警鐘を鳴らしている。荒木は『週刊読書人』で書評を担当しており、この1年間は文芸誌を最も読んでいる1人のはずなので、実際に嘆かずにはいられないそういう傾向があるのだろう。

このブログでも、政治的社会的な「主題の積極性」(矢野利裕)の流行について何度か話題にしている。だから荒木の発言には共感するところもある。

他方、私は、「主題の積極性」について少し違った見方をしている。言い換えれば、「主題の積極性」を「物語の社会反映論」や「社会的有用性」とは違った側面から検証したい。言葉の効用という側面である。最近このブログで話題にしている呼びかけ問題・2人称問題・パラ(メタ)テクスト問題はこの言葉の効用問題に収斂するといってよい。

文学では、言葉の追及と言葉の効用の2面が対象になることが多い。言葉の追及とは、世界をいかに認識(構成)するかが問題になるが、言葉の効用は、世界にいかに伝えるか・世界といかに関わるかが問われる。

文学史的にみると、この言葉の追及と言葉の効用の相補関係は、モダニズム以降(1920-30年代)の問題といえるだろう。ざっくりといえば、形式主義論争があったモダニズムは言葉の形式的な追及が行われ、その後の「文芸復興」の時代では言葉の効用の方にシフトした。「純粋小説論」(1935)の横光利一が「純文学にして通俗小説」を提唱した背景には、形式追求型の純文学に、エンターテインメントにおける言葉の効用を接続するという発想があったはずである。

実は私は文学クレーマーになる前から文学研究者でもあるのだが、専門領域はモダニズムとそれ以降の表現についてである。「文芸復興」時代の言葉の効用問題を、横光=ベタなリアリズム(説教型)、川端康成=イロニーの戦略、谷崎潤一郎=ユーモアの戦略の3パターンに分けて論じた記事を紹介したい。
https://sz9.hatenadiary.org/entry/20070803/1186152771

もちろん、言葉の形式的追及と言葉の効用が問われる時代を明確に二分できるわけではない。そもそもモダニズムも、読者の質の変化に対応する運動だった。大衆化・匿名化した読者にいかに伝えるかが問題になり、そこで内容よりも形式が重要だと提唱したのが横光である。「同一物体である形式から発する内容と云うものは、その同一物体を見る読者の数に従って、変化している」(「文字について―形式とメカニズムについて」1929年)。

言葉の追及と効用の関係は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と『哲学探究』、柄谷行人の形式の諸問題と『探求』との関係にパラフレーズしてもよい。物語論もまた、構造主義から認知物語論への展開がある。いずれにせよ、「主題の積極性」には「物語の社会反映論」や「社会的有用性」には還元できない原理的な問題が内在している。

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第2回ブンゲイファイトクラブが開催中である。40人―発表者はファイターと呼ばれる―の作品がトーナメント方式で勝ち上がっていく方式だが、ジャッジする側もファイターによってジャッジされる。作品は原稿用紙6枚程度、活字であればジャンルは問わない。

note.com

この文学賞のキモはジャッジもジャッジされるというところだが、ジャッジ問題はなかなか悩ましい側面がある。ジャッジも評価にさらされるべきだという発想で選考過程をオープンにした事例は『早稲田文学』の新人賞(2001年)があり、最近だと『すばる』のすばるクリティーク賞(2018~)がある。

ブンゲイファイトクラブの方式はこの民主的な発想の徹底形態といえる。ただ、ファイターは必ずしもジャッジする経験値があるわけではないので、そこの非対称性が際立つことになる。つまりファイターによるジャッジの恣意性であるが、まあそこも含めて楽しめばよいのだろう。

ジャッジとファイター、評者と創作家を関連させる試みは他にもある。『群像』が2003年に「現代小説・演習」という企画を行ったことがある。批評家と小説家のコラボ企画で、批評家がお題を出し、そのお題を受けて小説家が創作をするというものだ。仲俣暁生舞城王太郎の回は単行本にもなった。最近の文壇は主題の積極性が求められているので、書評家と小説家で同じような企画をしてもよいのではないか。

ブンゲイファイトクラブの作品はどれも楽しめるが、私の推しは、如実の「メイク・ビリーヴ」(Gグループ)と由々平秕の「馬に似た愛」(Fグループ)。「馬に似た愛」は、樋口恭介「字虫」(Dグループ)と迷った。両方とも可能世界的なフィクションなのだが、「字虫」がそのボケを押し通すのに対して、「馬に似た愛」は最後に話者がツッコミを入れる。私はSFよりも純文学読みだから、どうしてもそういう自意識的な手付きに甘くなる気がする。「字虫」のリアリズムと比べると、「馬に似た愛」のオチを付けようとする仕草はロマン主義的なわけで、そこは弱さとジャッジされる部分でもある。

「メイク・ビリーヴ」は、話型としてはナンセンスだが、テプラというモノボケで、小説とも短詩(ポエムならぬテプラ詩?)とも見えるクロスオーバーなジャンル形式に踏み込んでいる。異種格闘技をよしとするブンゲイファイトクラブに相応しい作品でもあろう。最も推したい作品である。

他にも、死のグループであるCグループの和泉眞弓「おつきみ」、倉数茂「叫び声」、Dグループの蜂本みさ「タイピング、タイピング」、Eグループの東風「地球最後の日にだって僕らは謎を解いている」など好きな作品が複数あった。「叫び声」についてはFACEBOOK青木純一と激論(?)を交わした。第3回は私も参戦してみようかな。もちろん評論で!