感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

文芸批評の文体

1、Twitterを眺めていたら、どういうわけか蓮實重彦の文体に関するツイートが2、3散見されたので、文芸批評の文体について感想を書きとめておきたい。

2、文芸批評は、小林秀雄以来、文体問題とは切っても切れない関係にある。小林は、そのデビュー作において、「詩人にとっては詩を創る事が希いであり、小説家にとっては小説を創る事が希いである。では、文芸批評家にとって文芸批評を書く事が希いであるか? 恐らくこの事実は多くの逆説を孕んでいる」と、文芸批評固有の反省的な判断力を問題にした。

3、文学研究が、対象を問う自己を問題にする必要がなかったのだとすれば、文芸批評はその必要があった。言い換えれば、小林がこの問いにおいて文芸批評を開始して以来、文芸批評はこの問いに呪縛され続けてきたわけである。そして小林が問うた自己に対する反省的な判断力は文体に強い影響を与えずにいない。吉本隆明柄谷行人を読めば明らかだろう。

4、蓮實重彦の文体は、1970年代という文脈に置いてみると、それほど特異な存在とは言えない。宮川淳豊崎光一など仏文周辺では、美的な文体による批評が試みられ、一定の存在感を示していた。
蓮實文体が重要なのは、宮川らが詩や箴言など既成のジャンル文体を批評に導入するといった折衷的なレベルの文体改変だったとすれば、対象と自己との距離の取り方、つまりレトリック(アイロニー)として文体を活用した点にあるだろう。これは、小林の問いを蓮實なりに受け止めた結果にほかなるまい。

5、文体問題がいささか厄介なのは、ある程度流通すると、人格なりキャラを持ってしまうことである。言い換えれば政治化するということでもある。
そしてその文体のもとに、良くも悪くも、共同体が形成される。蓮實文体に蓮實サークルというわけだ。共同体の外にいる者にとってみればそれは嫌悪の対象でしかない。接続詞の多用、長いセンテンスを駆使すると、ただちに蓮實的とレッテルを貼られる。あるいは最近だと、蓮實に限らず、批評家の文体は論理性がないと一蹴されがちだ。
仕方ない面もあるだろうが、ただし前記した通り、蓮實文体は、破格でもなんでもなく、一つのレトリックとして機能的なものであり、白黒はっきり評価できない文学作品を記述するさいには非常に使い勝手がよい面がある。

6、柄谷の切断の文体と蓮實の迂回の文体は2000年前後まで大きな影響を与えてきたが、そこに1つの文体革命をもたらしたのが東浩紀だった。一言でいえば、彼はレトリックへの依存を排し、論理性(情報の提示)に局限したわけだ。言い換えれば、対象を問う自己を問題にはしないということであり、小林の問いを切断したということでもある。

7、東のフォーマルな文体は、批評家の駄弁よりも情報をいち早く消費することが求められる時代にマッチしたとはいえる。じっさい東以降の批評はクリアで雑音のない文体が多い。批評の文体は、(注釈を律儀に付け、論理的に記述するなどにより)学術的な研究文体に近付いていると指摘されて久しい。

8、ただし、東は、それまで文体が負ってきた多くの要素(反省的判断力やキャラ化など)を別の次元(彼のいう「営業活動」)に移行させたわけで、文体だけを見ていると見落とすものが多くある。東が最近、研究文体化する批評を批判し、紀行文を取り入れた批評を発表したのも彼なりの移動だろう。

9、文体を考えるときには、文芸批評というコンテンツと営為がどのような状況に置かれているのかを考慮する必要がある。文体は論理的でなければいけないとか、蓮實的な余裕のある文体があった時代を懐かしむとかだけでは、現状の追認でしかない。

10、個人的には、文芸批評の文体は様々なる意匠としてあってよいと考えている。批評は結局のところ小林秀雄の問いから逃れられないと思っているから。評価する以上、対象とする文学作品との距離の取り方は文体に反映させてしかるべきである。論理性のみで十分、文体は不要という日は文芸批評の終わりを意味するだろう。

11、『すばる』新人賞の最近2作は文体を意識したもので、いずれも好感を持って読んだ。ただ、賞賛が多かった赤井浩太に比して近本文体は批判も多かった。文体だけの問題ではないかもしれないが、アイロニーはやはり昨今流行らないのかなとも思う。

批評は基本アイロニーを孕むものだが、本来多義性のあるアイロニーが悪口にしか聞こえないところが昨今の問題でもある。そこでどのようにアイロニーをねじ込むのかを最近考えている。