感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

第164回芥川賞雑感-連帯と超越性

最近の文学シーンは、シスターフッドや男子バディものが流行っているのだという(鴻巣友季子シスターフッド、男子バディ…文学ではせめて連帯を!」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78793)。「シスターフッド」はフェミニズムの観点から『文藝』2020年秋号が特集を組んで話題になったが、男子バディなるものもあるとは知らなかった。この流行には、性別にかかわらず連帯モードを読みたいという欲望があるのだろう。

カルチュラル・スタディーズが明らかにしたように、そもそも近代文学とは、国民という連帯-「想像の共同体」-を想像的に作り出すメディアとして機能してきた。そしてそれは文学の負の遺産として批判されてきた。前回の話を繋げるなら、文学史の記述もまた、国民相互を結び付け、国家の権威化に奉仕してきたわけだ。

最近流行っている連帯モードは、少なくとも目指されるところはそれとは違い、むしろ国家-もしくは資本制経済-を相対化する中間共同体的なものへの想像力と親和性が高いだろう。それは「シスターフッド」がフェミニズムによって取り上げられていることからも明らかである。

今月は、柄谷行人がNAMを想起させる『ニュー・アソシエーショニスト宣言』を、吉永剛志が『NAM総括-運動の未来のために』を刊行する。山田広昭が『可能なるアナキズム―マルセル・モースと贈与のモラル』を昨年9月に先陣を切るように刊行し、独自の連帯の可能性を模索していることも付記しておきたい。ちなみに昨年、労働者が出資と運営に携わることを保証した労働者協同組合法が成立している。

NAMは、柄谷の発案のもと、国家と資本に対抗する中間共同体として2000年に設立されたが、03年に解散した。文学でもゼロ年代の前半はアナキズムや中間共同体的なものに対する可能性にスポットが当たった時期である。文芸誌が批判されたり、そのオルタナティブが模索されたりした。この動向は、ウェブのブログ・カルチャーと文学フリマなど同人誌カルチャーが背景にあった。しかしこれもゼロ年代後半にかけて拡張するトレンドとはならず、むしろ文芸誌の一局集中体制が強化したと言える。

柄谷は「政治か文学か」という2分法の問いを立て、終焉した文学を切断して政治運動を開始したのだが、文学が政治と離縁し文芸誌体制に純化したように見えたのは、1980年代以降のたかだか2・30年間くらいの現象でしかない。文芸誌界隈だけを見ていれば―商業誌の性格をより強める最近の文芸誌はなおのこと―、「政治と文学」という問題が現われてこようはずもないだろう。参考文献問題とセクハラ問題はあったが。文芸誌は重要なピースだが、それにとらわれすぎない方がよい。

ゼロ年代の前半はと言えば、王殺し・父殺しが盛大に行われた時代でもある。詳細は「純文学再設定+」(『文学+』02号)に書いたが、村上春樹海辺のカフカ』、島田雅彦の『彗星の住人』から始まる無限カノン3部作、阿部和重シンセミア』はその代表的な作品である。

いうまでもなく、王殺し・父殺しにはその禁忌を実行した兄弟姉妹たちがいる。村上『騎士団長殺し』(17)が私と免色渉のシニアなバディを組織し、島田『スノードロップ』(20)が皇后とジャスミンシスターフッド、阿部もまたシスターフッドの『ピストルズ』(10)を経由しつつ、『オーガ(ニ)ズム』(19)では作中人物・阿部和重とラリー・タイテルバウムとの凸凹バディ―阿部の息子をくわえると家族―が組まれた。ゼロ年代前半に王殺し・父殺しを決行した村上・島田・阿部の10年代は、より分かりにくくなったターゲットよりも連帯にスポットを当てていたと言えば牽強付会だろうか。

近々、第164回芥川賞の選考がある。福嶋亮大は「今の文芸誌の中心は50代、下手すると還暦以上」(「「炎症する私」の文学空間」『新潮』20・1)と文学の高齢化をややシニカルに指摘しているが(『らせん状想像力』にも同様の問題提起がある)、今回の候補者の平均年齢は30ジャストで、皆20から30代、宇佐見りんに限っては21である。昨年の芥川賞受賞者・遠野遥をふくめ若い世代が出てきており、代謝はそれほど悪くない。世代の問題を出すなら、深刻なのは文芸批評なのだが。

文学で共同体を扱うとすれば、何より家族が定番であろう。家族は、文学作品ではレンタル家族的な形態など様々な家族が模索されてきたが、基本的には、互酬性―贈与と返礼―に基づいた連帯である。父殺しも家族を舞台にして行われてきた。今回のノミネート作も、砂川文次「小隊」以外は家族の物語だ。

「小隊」は、北海道に攻めてきたロシア軍と自衛隊が交戦するという仮想現実的な物語だが、フォーカスが当たる小隊はまさに連帯の関係にある。ただしその相互の結び付きは、自衛隊として雇われている(雇用の契約関係にある)期間限定なのだから、資本制の交換経済に基づいた関係(要は労働力商品)でしかなく、軍隊式のブラザーフッド的な熱い友情が語られるわけではない。

とはいえ、「小隊」は連帯モードに魅力があるわけではない。ロシア軍が理由もなく攻めてきた理不尽な状況に翻弄される隊員の組織的な戦闘シーンをリアルに描写するところ―作家は元自衛官だそうだ―にこの作品は注力しており、いわばワンアイデアで勝負する作品である。俯瞰的解説を抑制した描写の技巧性が卓越しており、文学の多様性を存分に確認できた。

木崎みつ子「コンジュジ」と尾崎世界観「母影(おもかげ)」は、互酬的家族の閉鎖性に傷付く子供たち―「コンジュジ」は性虐待、「母影」は私小説的貧困―にフォーカスが当てられる。文学では馴染みのある設定だが、「コンジュジ」は、架空のミュージシャンを登場させ、その男性ミュージシャンとの親密な関係を妄想上に育んで自己を守るという転生的プロットがユニークだった。行文がやや単調に感じたが。

「コンジュジ」は推しの話とも言えるが―家族関係の傷を推しとの関係が補填する―、宇佐見りん『推し、燃ゆ』はアイドルに対する推しを主題にしている。

アイドルの文学的利用については、内藤千珠子が「被傷性」の観点からアプローチしているが(「予定された損傷を疑う-『奴隷小説』『路上のX』と現代日本の帝国的暴力」『思想』20・11)、超越性という観点もある。物語がアイドル視点だと、被傷性にフォーカスが当たり(綿矢りさ『夢を与える』07、桐野夏生『奴隷小説』15、朝井リョウ『武道館』15)、ファン視点になると超越性にフォーカスが当たる(松田青子『持続可能な魂の利用』20、『推し、燃ゆ』20)。ちなみに、島田雅彦の「天皇萌え」(斎藤環)によって書かれた『スノードロップ』は、皇后をめぐる被傷性と超越性の両方に支えられている。

もちろん、超越性という言葉は誤解を招きかねない。ここでは超越性という言葉を用いたが、王殺し・父殺しを成し遂げた後は、超越性なき時代の超越性と言った方が適切だろう。

超越性なき時代の超越性―平成文学的な主題―としてのアイドルの文学的利用を考察する上で無視できないのは、『前田敦子はキリストを超えた』ではなく、阿部和重の『グランド・フィナーレ』(05)にほかならない。『グランド・フィナーレ』では、亜美と麻弥という二人の女児とロリコン男の、小児性愛をイメージさせる関係が後半の主要プロットを構成する。この女児については、辻希美加護亜依のアイドルユニット・W(ダブルユー)との近接性が、作家本人と佐々木敦との対談で言及される(『阿部和重対談集』)。また、中島一夫は、少女を天皇に見立て、PC批判的な文脈から読み解いた(『収容所文学論』)。以上により、この作品もまた被傷性と超越性の両面を抱えていると言える。

大江健三郎以後だと思うが―ただし谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫の系譜も無視できないが―、日本の近代文学での超越性に対するスタンスは、対幻想的な性的関係が混在しがちである。大江の『セヴンティーン』(61)が天皇をめぐって表現した、政治と性の交雑体―エロ神々しい―としての超越的なものだが、このように超越性が対幻想的な連帯でつねに相対化される事態は、日本的とも戦後民主主義的とも平成的とも言えるだろう。

阿部に戻ると、被傷性と超越性を抱えたアイドルの問題―『グランド・フィナーレ』を頂点とする『シンセミア』『ニッポニア・ニッポン』『ピストルズ』―を切り落とし、最新作『オーガ(ニ)ズム』では、前述した通り男子バディと家族に向かった。

神町3部作の最後を飾る『オーガ(ニ)ズム』の可能性は複数ありうるだろうが、気になるのは、阿部が継続的に考察していた政治と性の交雑体―エロ神々しい―としての超越的なものが、『オーガ(ニ)ズム』では希薄化したという1点である。このことは、阿部和重のなりすましとして登場する金森年生の小児性愛がアヤメメソッドによって禁止されていることからも分かる。

神町3部作の超越的審級にある―それが明らかになるのは2作目『ピストルズ』だが―異能集団のシスターフッド菖蒲家は、『オーガ(ニ)ズム』では、物語の黒幕として後景化する。菖蒲家は圧倒的な資本と超能力を用いて物語の作中人物―日本政府のみならずバラク・オバマすら―をコントロール下に置き、作中人物もそれに抵抗しようとするのだが、ほぼ無力だ。そもそも菖蒲家の資本と超能力がどう世界に介入しているのかその実態が曖昧なのである。それは、神町3部作に陰に陽に影響を与えてきた、磁気嵐が異常気象をもたらすような気候変動の問題とほぼ変わらない。「オーロラっつうことはこりゃあれか、ベテルギウスが爆発して磁気嵐になったのか―」(761ページ)。

『オーガ(ニ)ズム』の超越的なものは、『ニッポニア・ニッポン』の鴇=天皇や、『グランド・フィナーレ』の少女=アイドル、『シンセミア』のアメリカ=田宮家のような、性と政治、禁忌と欲望が交雑する対象ではない。菖蒲家は環境化し―小児性愛の禁止とともに―、その結果、実にPC的とも言える日米男子バディ―日本の属国性は『シンセミア』から変わらないが―を軸にしたアットホーム(互酬的)な関係が際立つことになる。

王殺し・父殺しがバラク・オバマとによってここでも再演されるが、『シンセミア』での田宮家の放逐と比べると儀式化しているように見える。これは『海辺のカフカ』の神話を背景にした父殺しを反復しているとも言える。

通俗文学史的に見るなら、大江における息子の誕生は超越性探求への志向を強めこそすれ、とどめることはなかったが、阿部の息子誕生は、超越性への欲望の禁止を促し、ホモソーシャルな連帯に対する志向を強めたという見方もできるだろう。

いずれにせよ、王殺し・父殺しの儀式的反復に見られる閉塞感は、村上春樹『1人称単数』(20)と村上龍『MISSING-失われているもの』(20)の、過去や不在をめぐる、複雑化と洗練を極めはする回想の形式に感じたものと似ている。

宇佐見の『推し、燃ゆ』に戻ると、この作品における、推しとの関係のプロットは、互酬的で閉塞的な家族のプロットを相対化するという意味を持つ。彼女のデビュー作『かか』も、家族を相対化するために熊野詣と称した家出のプロットが配されていた。

『推し、燃ゆ』に描かれるのは、推しには見返りを求めない贈与をする閉鎖的な関係だが(「見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする」)、その関係には「一定のへだたり」(『文藝』20・秋、30-31ページ)が確保されている。デビュー作の『かか』では弟「みっくん」に呼びかけるというスタイルを採用したが、その理由を作家は「家族だけど他者」「共通の感覚がありながら、一方で、冷静な視点を持った他者」(「未熟でねちっこい「私」と共に」『新潮』20・1)というアイデアから説明している。宇佐見はまだ2作だが、彼女の作品の魅力は、「私」を立ち上げるときのこのような関係性への配慮にあるのではないか。

乗代雄介「旅する練習」は、彼のスタイルが完成しきったことを示すような作品で、これはもう乗代節とでも言うほかない。この作品の人間関係も互酬的な家族関係に基づいたものだが、厳密に言えば、サッカー好きの姪と小説家の叔父とのロード・ノベルである。姪はサッカーの練習を、叔父は風景のスケッチを練習しながら鹿島まで旅をする。現代版「奥の細道」。

乗代の作中人物は家族関係を採用することが多いが、核家族的な強い結び付きではない、言い換えればゆるい結び付きの親族の連帯を描く。その地縁血縁的関係はいっけん反動的・閉鎖的に見えるが、ゆるやかに開放的だ。親密にして客観的、閉鎖的にして開放的。だから、鹿島アントラーズを介して第3者(みどりさん)を受け入れもする。そもそもこの作品が、姪との関係を、未来の誰かに向けてささやかにスケッチされたものなのだ。

 しかし、これら記憶がいくつかの場所に、文がこびりつくようにしばらく残留するのであれば、ちっぽけながらもこうして紙碑を建てている私だけの幸福ではあるまい。何の拍子かこの灰色文献が、ここを歩き慣れる誰かの思い出を先々で呼び起こし、もっと単純にかつてあった植生や鳥の生態の参考になるかも知れない。その時、ほんのついでにカワウを慮って土手を下った少女の影が形を取るなら、私はどんなに嬉しいかわからない。(『群像』20・12、69ページ)

乗代的連帯。あえて交換様式の言葉を用いるなら、商品交換的な関係ほど自由度が高くはなく、互酬的な関係ほど閉鎖的ではない中間共同体の1つの形がここにはある。

今回の芥川賞の一推しである。ただし、「旅する練習」の最後は、多くの読者に感動を呼んだそうだが、唯一興ざめをしてしまった。不在なり犠牲者を立てた服喪のプロットは乗代的連帯から最も遠いものではなかったか。

第1回荒木優太賞受賞作「いい子のあくび」(高瀬隼子)が◎とすると*1、「小隊」△+ 「コンジュジ」△+ 「母影」△ 「推し、燃ゆ」〇 「旅する練習」〇+ としました。どれも大変面白かったです。

*1:連帯糞くらえ的な高瀬作品は、客観的な視点(監視カメラ)からも回収されない、関係の割り切れなさ-「これは、割に合っているんだろうか。ちょうどいいことだろうか。」-を、全方位配慮しなければいけないケア労働者的な観点から描いた力作である。