感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

運動としての文学史

文学史がなんとなく注目されている。『週刊読書人』では、2週にわたって「文学史」の話題が記事に取り上げられた。12月4日号は、『〈戦後文学〉の現在形』(平凡社)の編著者(紅野謙介内藤千珠子成田龍一)の鼎談が1面を飾り、戦後文学史について議論があった。12月11日号では、荒木優太が、平成文学史の記述を試みた『らせん状想像力ー平成デモクラシー文学論』(福嶋亮大)を書評している。

文学史の記述はこれまで批判にさらされてきた。その批判は、一言でいえば、大文字の作家と作品を大文字の歴史的出来事にしたがって配分する記述の権威性に向けられた。上記鼎談にもその権威性に対する強い警戒が見られる。

そういった批判の文脈からだろう、1950から60年代には、これまでの歴史記述から漏れていた大衆文学史が積極的に記述されはじめた(鶴見俊輔尾崎秀樹)。また70年代には、作家でも作品でもない「読者」の視点から文学史の記述が試みられた(H.R.ヤウス『挑発としての文学史』1970、前田愛『近代読者の成立』1973)。

文学史とはジャンルのメタ言説の1つである。文学ジャンルのメタ言説には、他にも書評・時評・文学賞など多様にあるが、いずれもその権威性が批判されてきた。メタ言説には、内側には教育的機能があるが、外側にはガイドとして機能する。またマルクス主義に顕著に見られるように、運動として機能してきた側面もある。いずれにせよそれは権威化し、批判の標的にされたわけだ。

私の学生時代は90年代(平成最初の10年)だが、テクスト論が従来の作家論・作品論・文学史を方法論的にしりぞけ、カルスタこと文化研究が文学全般の制度の権威性にダメ押し的な批判をくわえた時代である。文学史に対しては誰もがアレルギー反応を示したものである。

2000年代に入ると、文学の研究や批評は、作家論と主題論に分化する。ここでいう主題論とは、ワン・テーマをめぐる系譜学的な記述であり、たとえば『〈盗作〉の文学史』や『〈獄中〉の文学史』などをイメージしてくれればよい。その先駆は『戦後史の空間』(磯田光一、1985)だろう。歴史は主題に分解され、各主題が系譜学的に記述される。実は作家論も編年体が多い。何をいいたいかといえば、文学史記述の欲望は作家論や主題論の形で延命しているのではないか。これを大文字の歴史から小文字の歴史へということも可能ではある。

他方、平成文学史は意外にもけっこうな数が刊行されている。上記した『らせん状想像力』をはじめ、『平成の文学とはなんだったのかー激流と無情を越えて』(重里徹也・助川幸逸郎、2019)、『未完の平成文学史ー文芸記者が見た文壇30年』(浦田憲治、2015)がある。それに『日本の同時代小説』(斎藤美奈子、2018)『ニッポンの文学』(佐々木敦、2016)もくわえてよいだろう。文学史に対するアレルギーは実は密かに解錠されているのだ。

とはいえ、これらもまた『戦後史の空間』と同様、各主題ごとに―女性作家やディストピアなど―記述された形式が多い。『らせん状想像力』は、「文学の中心的機能を「問題群」の提示」と見なすとし、「多くの問いかけを含んだ作家こそが重点的に論じられるべき」とする。この発言は、やはり平成文学史の記述を試みた矢野利裕の「主題の積極性」―手法よりも主題重視の作品が胎動していることに注目する―とも共鳴するだろう(「新感覚系とプロレタリア文学の現代ー平成文学史序説」2017)。

主題はメッセージ性を強く持つ。文学史の記述にあたってひとまず主題に着目すること。この動きは、メタ言説としての文学史を、再び教育的・ガイド的・運動的に機能させはじめた徴候ではないか。

先週、『文学+』3号に掲載する予定の「シリーズ・近代現代文学研究座談会 大正篇」の座談会をオンラインで開催した*1。楽しくまた勉強になった。同人の大石將朝が企画したこの座談会はまさに文学史の再考を期するものである。3号は他に、梶尾文武が主催する座談会、私が企画した座談会と、3本立ての予定。また書評も増やしたい。

私の座談会は「政治と文学」など文学史的な主題を検討する。文学史を現在進行形で記述するなら、文芸誌体制や同人誌文化をはじめとする「下部構造」が問われるべきであろう。ヤウス=前田愛の受容史は、マルクス主義文学とフォルマリズムを相対化する意図があったが、「下部構造」に対する視線はマルクス主義文学から継承しているといえ、それが前田の「音読から黙読へ」というクリティカルな文学史記述を可能にした。

文学の「下部構造」に対する視線は文化研究に継承されているはずだが、これは明治や大正に向かうばかりで、「ライトノベル研究会」の貴重な成果を除き、現代文学に適用された試しがほとんどない。というのも文芸批評がその役割を担っていたからだが、この伝統もゼロ年代前半の大塚英志あたりで潰えてしまった。このとき大塚と笙野頼子の間で起こった論争が不運だったのは、大塚には文学の立て直し―教育的・ガイド的・運動的―の意図があったにせよ、批判を受けている側にとっては、存在しないにも等しい権威として批判されていると実感されたことである。大塚は、当時過激に「文学批判」「文学終焉論」を打ち上げる批評家たちとはやや違った立ち位置にいたのだが。

ここでは「下部構造」を比喩的な意味で使っている。要は作品なりテクストの外部という意味である。たとえば大正期には、自分の表現(理想)と社会的ポジション(階級)―言ってることとやってること―のギャップに苦しむ作家がいる。純文学と大衆文学を右往左往する作家がいる。新聞などマスメディアに関わりながら、自分の表現を実現するために同人誌でチームを編成したり、個人誌を作る作家もいる。これらの軌跡を一言で運動といってよいなら、平成文学史から奪われたものはこの雑多な運動にほかならない。試しに筑摩書房刊『明治文学史』(中村光夫)『大正文学史』(臼井吉見)『昭和文学史』(平野謙)を開き、主題でしか語れなくなった平成文学史たちと読み比べてみればよいだろう。

主題は運動をともなっていた方がよい。はたしてこれはノスタルジーだろうか? マーク・フィッシャーは、資本主義リアリズム下の文化史・音楽史を記述するさいにこの問いを憑かれたように繰り返したのだった。

*1:そこで「なぜ文学史なのか?」という問いを頂戴した。実は批評・研究のテーマを文学史にしてから「なぜ文学史なのか?」という問いを頂くことが増えた。そこではだいたいこんな回答をすることにしている。特定の主題の枠組みを設けー今回なら「大正文学研究」ー、見えにくい問題系を可視化したいとかなんとか。要は教育・ガイド・運動的な側面にフォーカスした回答に落ち着くわけだが、そんな話を長々している最中に、いや待て、文学なんてどうでもよかったのではないか、自分はこんな善人ではないはずだという思いがよぎり、すこぶる恥ずかしくなる。けっきょく私の半面は、文学史を権威として批判するアイロニーが占めており、これはたぶんどうすることもできない。しかし雑誌作りを始め、寄稿依頼や座談会などで文学の話をしているうちにこのアイロニーが相対化されたことも実感としてあるのだが。