感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ファミリーリセンブランスとしての私 柴崎友香論

 1970年代は日本文学の転換期に当たっている。それ以前は、「政治と文学」という戦後に打ち立てられた主題が、疑われつつも機能していた。作家たるもの政治的問題に積極的にアプローチしなければならないという強力な圧力があり、その一方で、政治にからめとられない個人の自由を肯定する立場があった。
 具体的にいえば、「政治と文学」という大きな主題が文学に打ち立てられ、しばしば議論されたのは戦後まもない1950年前後である。政治を前景化させ、その前衛(啓蒙的なツール)として文学を利用しようとした共産党系の立場があり、それに対して個人の自由と文学の自立を謳歌する(平野謙ら)「近代文学」系の立場があった。芸術のジャンルでも同時期に「リアリズム論争」があったが、これは文学における「政治と文学論争」と論点が重なっている。
 これ以降、直接議論されることはなかったとはいえ、1960年代までこの「政治と文学」という枠組みは各作家たちに共有されていたといっていい。戦後民主主義を愚直に肯定した大江健三郎にせよ、戦後民主主義をアイロニカルに批判した三島由紀夫にせよ、「政治と文学」という枠組みに依存していたのである。
 しかし、1970年前後にこの枠組みは組み換えられはじめる。「政治と文学」は機能不全を起こし、共有されるべき主題ではなくなる。その間隙に、内向の世代という新たな文学グループが登場することになる。古井由吉後藤明生といった内向の世代に括られる作家は、文学の主題を個人の経験にまで切り縮め、ごく日常的な個人の主観を通して世界と関わるといういわば現象学的な方法をとったのである。
 内向の世代的な「私」とは、世界(政治)に組み込まれた(奉仕する)個人でも、世界に苛立つ個人でもない。彼らの描く「私」は、世界と直接交渉できるという発想を断念し、個人の主観を通してしか世界とは関われないという理解の上に立っている。たとえば古井の『杳子』(1970年)が問題にした世界とのコミュニケーション不全や、後藤の『挟み撃ち』(1973年)が問題にした出口のない自己言及性は、こういった新しい理解のもとに明確に方法化されたものである。村上春樹の初期作品が取り上げた、世界から解離した主体(「僕」)の有様も、内向の世代が切り開いた「私」の枠組みの延長にあるといえるだろう。
 いずれにせよ、内向の世代によって小説の中の「私」の有様は変わった。その一方で、この時期に「私」を取り囲む世界のとらえ方も変わったのである。それまでの世界は具体的な政治的問題や歴史的背景に紐付けされていた。しかし、1970年代に入ると、当時流行しはじめた構造主義の知見をもとに、世界を抽象化し、関係性(規則)の体系としてとらえるような作品が現れる。
 たとえば、1955年のデビュー以来、広島原爆や天皇制など戦後日本の固有の問題を積極的に扱ってきた大江健三郎は、1970年代に構造主義の理論を自作に導入した。大江は、作品のモチーフとなる歴史から固有性・一回性を剥奪し、規則的に反復する物語として作品に還元したのである。さらに1980年代になるとその状況はより徹底されることになる。たとえば『小説から遠く離れて』(1989年)の蓮實重彦は、1980年代に活躍する主要な作家の作品はどれもが「説話論的な構造」(関係性=規則の体系)によって物語の世界を作り込んでいるということを明らかにしたのだった*1
 以上の通り、1970年代の小説は、現象学的に還元された「私」と構造主義的に抽象化された世界とのカップリングで成り立っていたということができる。1970年代以降の文芸批評をリードした柄谷行人が、構造主義的世界(物語)に私小説を方法論的に導入したとして中上健次の小説を評価したのも、以上のような文脈があったからである。
 この時期中上は、物語の世界を関係の束として描写しながら、そこには還元できない「私」の問題をも扱ったのだった。構造主義を自作に積極的に導入した大江健三郎は、中上とは逆に、「私」の問題を関係の束へと回収しようとした。さらに村上春樹もまた、物語を語る上で構造主義的な世界と「私」の問題の関係を考えていた。村上は物語世界に対する視点の問題として「私」の問題を扱ったのである*2。彼らは、1970年代以降の文学の問題をそれぞれの仕方で引き受けたのだった。「私」の問題と世界の問題、ひいては「私」と世界の関係が、文学表現において注目を集め、従来のものから新たなフェーズへと移行したのが1970年代なのである。
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 そこで本稿は、文学表現における「私」の問題を考えたい。そのためにはまず内向の世代が更新した「私」の表現を見る必要があるだろう。内向の世代は、1970年前後に登場したが、後藤明生古井由吉など主要な作家のアーカイヴ(全集を含む)がいまだに整備されていないところからも分かる通り、それほど大きな注目を集めてきたわけではない。その理由の一端を挙げるなら、1970年代は、その前半こそ「私」の問題が盛んに取り上げられたとはいえ、後半から1980年代にかけては「私」個人よりももっぱら構造主義的な世界の方に話題が集まったからであろう。
 「私」をめぐる日常の瑣末な話題よりも、大きな世界を物語としていかに語るかが文学の問題だというわけだ。柄谷行人が、構造主義的(民俗学的)な物語に私小説を接続したとして中上健次を評価したのも、当時は構造主義的世界観が全盛の時代だからだということを述べている*3。そのような文脈においては、「私」の問題は構造主義的な世界の一項として組み込まれる程度のものにすぎなくなりつつあった。
 しかし、くり返せば、1970年代の前半は「私」の問題(自己表現)が再検討された時代であった。柄谷行人が近代日本人の「内面」の問題に新たな焦点を当てたり*4内向の世代の古井を高く評価し*5私小説作家の志賀直哉を新たな切り口から論じたりした*6のもこの時期である。平岡篤頼もまたフランス現代思想を援用しながら志賀直哉の「私」の表現を分析したし*7、この時期に批評家デビューを果たした中島梓の論点も当時の「私」の変容に影響を受けたものだった*8
 そもそも1970年代――とくに前半――の文芸誌に掲載された座談会や特集記事は「私」の変容に戸惑いながらも言及したものが多い。そしてこの時期の「私」の変容を顕著に結晶化したのが内向の世代なのであり、他にも「薫君」シリーズの庄司薫や「桃尻娘」シリーズの橋本治も重要な役割を果たした*9。もちろん三田誠広の『僕って何』(1977年)もある。しかしそれらの中でも、やはり内向の世代の「私」に対するアプローチが最も注目すべき文学表現だったといえよう。
 そしてそれから三〇年後、2000年に入ってからのゼロ年代もまた「私」の問題が更新された時代であった*10。たとえば、とりわけサブカルチャーのジャンルでにぎわいを見せた「セカイ系」――世界と「私」を無媒介に直結させる自己表現のモード――がそうだし、ミステリ界でも佐藤友哉舞城王太郎といったいわゆる脱格系の作家が、自意識過剰な自己表現で注目を集めた。村上春樹太宰治のアイロニカルな自己表現があらためて見直され、ライトノベルを中心に多くのフォロワーを生んだ。このような文脈にあって、「私」の問題と自己表現を最も注目すべき形で演出した純文学の作家が、柴崎友香長嶋有である。彼らはその意味で内向の世代の再来だといえよう。
 ところで、日本の近代以降の文学において「私」の問題と自己表現が大きく問われたのは四度ある。一度目は最初に近代的な「私」と自己表現が確立した1910年代(明治40年頃)だろう。その成果を踏まえて私小説が確立したわけだ。次に二度目は、1920から30年代のモダニズムの時代である。この時代に、小林秀雄らによって、日本における近代的な「私」の脆弱性が、西洋由来の近代文学(の正統性)に比して問われることになったのだった。そして三度目が内向の世代である。彼らは、近代的な「私」の制度性を根本から疑い、いかなるものにも支えられていない「私」から表現を立ち上げようとしたのだった。
 たとえば、内向の世代の自己表現でしばしば指摘されるのは、自己の不全性と関係性の失調である。古井由吉は、自己が分裂・解離し、周囲の環境に滲み出してしまう作中人物をおりにふれ登場させる。後藤明生は、自問自答をくり返す語り口で自己分裂の有様を如実にさらけ出してみせる。古井の自己解離と後藤の自問自答は、世界(他者)との関係を欲望しながらたえず逸脱することを余儀なくされた自己の有様を端的に表現しているといえよう。古井の「私」が求めてやまない人間本質の獣性や女性性は最終的に出会い損ねることになるし、後藤の「私」はそもそも空虚であるという前提を堂々巡りするばかりなのである*11
 世界との関わりに違和を感じ、そこから立ち上げていく自己もまた次第にかつ微妙な形で異常さをさらけ出していくこと。これが内向の世代の「私」をめぐる表現だった。では、ゼロ年代に登場した内向の世代ジュニア――これが四度目の「私」の変容となるわけだが――はどうだろうか。それは、端的に言えば、自己の複数性と関係性志向とまとめることができる。
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 これから柴崎友香を中心に論じるが、私(中沢)は以前柴崎を詳細に論じたことがある*12。そのときの議論の対象は『主題歌』(2008年)までだったので、今回はそれ以降の作品――『星のしるし』『ドリーマーズ』『寝ても覚めても』『ビリジアン』――を主に論じることにしたい。前回の議論とは異なった観点から論じるが、基本的に、前回の論点は今回論じる作品にも当てはまるし、今回の論点は前回論じた作品にも当てはまると考えていい。ただし、今回論じた作品にのみ妥当することもある。その場合はおりにふれその旨言及しておいた。それでは、以下あらためて柴崎友香を論じることにする。
 周知の通り、デビュー以来柴崎友香はその描写に定評があり、写真や映像など視覚表現との親和性がしばしば語られてきた。前回の議論もそこに注目したものだったが、ここで指摘したいのは、柴崎の描写は対象を客観的に描写することを使命とする説明(〜である)ではなく、例示(だいたい〜のように見える)としてとらえた方がよい、ということだ。しかしそれは単なる主観描写ではない。
 内向の世代は、世界との直接的な繋がり(客観描写)を断念し、「私」の視点から描写をすることを文学表現の使命とした。そのような主観描写を徹底すれば、誰にも理解・共感できないような独語的な描写に陥る危険性にさらされるほかない。
 しかし柴崎が描写に用いる例示は、理解・共感される最適解を目指すものである。それは主観でも客観でもなく、言葉の運用に関わっているといっていい。つまり主観や客観にとっての正確さではなく、適切に伝わるかどうかが問題なのだ。柴崎の描写が、純粋に言葉を操作しているというよりも、世界を切り取った写真や映像表現から言葉を立ち上げている――もっといえば一次素材としての写真や映像表現の相補的なナレーションなりキャプションとして機能している――ように見えるのは、正確さではなく最適解を目指す例示だからである。

 この場所の全体が雲の影に入っていた。
 厚い雲の下に、街があった。海との境目は埋め立て地に工場が並び、そこから広がる街には建物がびっしりと建っていた。建物の隙間に延びる道路には車が走っていて、あまりにもなめらかに動いているからスローモーションのようだった。その全体が、巨大な雲の影に入っていた。
 だけど、街を歩いている人たちにとっては、ただの曇りの日だった。
 今は、雲と地面の中間にいる。
 四月だった。
 二十七階だった。壁一面のガラスの向こうに、街の全体があった。(『寝ても覚めても』、2010年、河出書房新社、3ページ)

寝ても覚めても

寝ても覚めても

 二十七階の「雲と地面の中間」にいると、たとえば「雲の影」に見えるものが、「街を歩いている人たち」にとっては「ただの曇りの日」に見えるということ。対象にも主観にも過度に依存せず、状況や文脈に応じて適切な運用を目指すことが、柴崎の例示的描写であるということをひとまず確認しておこう。
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 柴崎友香はデビュー以来、夢(虚構)と現実の往復や重ね合わせといったモチーフを物語に取り入れてきた。それは最近の作品になるほど、より積極的な形で現れてきている。『星のしるし』(2008年、文藝春秋)は、夢はもちろんのことUFOや占い、身近な人の死など非日常的なもののエピソードによって構成されている。短篇集『ドリーマーズ』(2009年、講談社)はタイトル通り夢の世界や超自然現象(霊視など)を体験した人たちのエピソードを寄せ集めた作品である。
ドリーマーズ

ドリーマーズ

 他方、『寝ても覚めても』はそういった非日常的なシチュエーションはほとんどない。ところが、柴崎の読者なら周知の通り、非日常を強く押し出した『星のしるし』や『ドリーマーズ』の方が柴崎作品の中ではむしろ異色作なのであり、日常の恋愛や職場・交友関係を淡々と描いた『寝ても覚めても』の方が柴崎的だとはいえる。
 しかしそうはいうものの、『寝ても覚めても』もまたタイトル通り、現実と夢の――あるいは複数の世界の――往復・重ね合わせを読み取ることができるのである。それはもちろん、大阪と東京を行き来したり(柴崎の文章はそもそも会話が大阪弁で地の文が共通語だが)、二人の男の間を行き来し重ね合わせる女性が主人公だったりするところからくる印象なのだが、それだけではない。
 最も重要なのは、カメラや携帯電話、テレビなどのメディア――とくにコミュニケーションや視聴覚の拡張として利用される――が多用されているという点である。これこそが柴崎作品にしばしば非日常性を導入し、複数の世界が重ね合わせられているような仕組みを演出している要因なのである。そしてこれはデビュー以来一貫したものである。
 逆に『星のしるし』と『ドリーマーズ』にはこういったメディアの利用が欠落しており、その欠落部分をUFOや幽霊といった非日常的なプロットや設定が代補するという形になっているのである。いずれにせよ、目指しているところは同じだといっていい*13
 ただし、非日常や複数の世界といっても、柴崎の場合、認識上の異化効果をねらったものではないし、主観の数に応じて世界の見方は多様にあるといった認識論的な多元世界をねらったものでもない。柴崎の「私」が経験する世界は、いわば運用上・慣用上の多元世界・可能世界なのである。そこでは、夢やUFO(宇宙人)や占いや幽霊や死は「私」の存在や認識を動揺させるものではなく、カメラや携帯電話やテレビやフライヤーと同じように、世界(との関わり)をより適切なものにするために存在しているのである。『星のしるし』からいくつか例を挙げておこう。

 「わたし、高校までO型と思ってた」
 「皆子、高校二年の生物の時間に、血の抗体を調べる実験のときに真実を知ってんで」
 わたしが説明すると、皆子は芝居がかった動作で大きく頷いた。
 「あのときはアイデンティティが揺らいだなー。あんたはほんとはよそのうちの子どもやの、とか言われたみたいな気分やった」[中略]
 「……ええかもな。それ。違う人生を体験できるかもわからんのや。どうやって調べるん、それ」
 「さあ、忘れた」
 「A型がええな、おれ。賢そうやん」(『星のしるし』111ページ)


 八歳のときに皆子は、サンタクロースがいる世界からサンタクロースがいない世界に移り住んだ。わたしはずっとサンタクロースがいない世界にいる。(『星のしるし』115ページ)

星のしるし

星のしるし

 血液型の違いやサンタクロースを信じる信じないによって世界を切り換え、「私」の、世界との関わりをより適切なものにすること。柴崎の盟友、長嶋有の場合だと、同世代ネタやあるあるネタによってこれを可能にしている。
 1972年生まれの長嶋は、ちょうど彼と同世代の読者が共感するようなネタを作中に散りばめることを得意とする作家である。しかしそれは無自覚に読者を制限しているわけではなく、意図的になされていると考えていい。たとえば『ジャージの二人』(2003年)では父と息子の世代間ギャップが、また『エロマンガ島の三人』(2007年)では、真性オタクと仮性オタクとの価値観のギャップ、男性オタクとノーマルな女性との価値観のギャップが、それぞれそれなりに調和しながら浮き彫りになる有様を、描出していた。長嶋の物語世界は、複数の趣味(価値観)の重なり合いによって成立しているのである。
 柴崎の『星のしるし』に戻ろう。この物語の主人公「わたし」は、祖父の死を経験したり、友人知人を通じて占いやカウンセリングを勧められたり、UFOの存在を唆されたりする。いずれにせよ、こうして新しい「わたし」の世界を一つ一つ切り開いていくのである。
 身元不明のカツオという青年が「わたし」の恋人の家に居着いたあげく、周りの人々に借金をして逃走するというエピソードも、他者が自分の世界に侵入してきたという話ではなく、自分の世界を拡張しに来た話として語られるだろう。カツオとの共生を「おもしろがって」いたのは誰よりも自分たちなのであり、UFOの存在を唆し、「わたし」に宇宙人の夢を体験させたきっかけを作ったのもカツオだったのだ。UFOの存在を信じなかった「わたし」は、宇宙人の夢を見て以降、UFOがいない世界からUFOがいる世界に移り住むことになったのである。「カツオに、言いたい。宇宙人がいるかもしれないっていう気持ちが、わたしにもわかったって。でも、とにかく今のところは、いないと思うけど」(『星のしるし』157ページ)。
 「わたし」にとってそれはいるかいないかが問題なのではない。かといって、いるべきだというような理念や信仰の問題ほど強くもなく、要は、(世界と関わる上で)いる方が気持ち的により適切だ(「わたし」の世界にとって都合がいい)ということなのである。
 とにもかくにも、このように思いもよらぬ形で宇宙人がいるかもしれないと思い、なんとなく世界がこれまでとは変わってしまったという不安を感じて家を出たあと、「わたし」は周りの世界を眺め回してこのように語る。

 がちゃっと音がして見上げると、三階の廊下に出勤するらしいスーツ姿が見えた。鍵を掛け、こちらを見ることもなくエレベーターのほうへ歩いていった。しばらく待つと、前の道路をその人が、やっぱりこちらを見ないまま駅のほうへ真っ直ぐに進んでいった。そのあとから、ラグビー部の名前の入ったスポーツバッグを肩に掛けた高校生が自転車で通った。それから、作業服のおじさんが通り、わたしと同じくらいの年の女の人が通った。誰も、わたしを見なかった。
 電車に乗って会社に行けば、柿原さんやきりちゃんや白井さんや、大勢の人に会える。実家に帰っても今は誰もいないけれど、父は蘇州に、母は徳島にいる。寺田町へ行ったら、朝陽に会えるし、玉造には皆子と岡ちゃんがいる。カツオは、どこかわからないけれど、どこかにはいる。もう会わないけれど、いる。祖父は、いない。でも、ここは祖父がいた世界で、祖父が見ていたのと同じ世界には違いない。そして、今はいなくなった。両方の下瞼に溜まっていた涙が、頬に落ち、膝にも落ちた。微かな重さと温度があった。
 もしかして、神さまに祈ったり願ったりするのは、こういう感じかもしれない、と思った。どこかで、自分を見ていてくれたらいいのにって思うような、そういうの。(『星のしるし』157‐158ページ)

 柴崎はこのそれほど多くはない文章の集合において、「わたし」の世界を見事に例示しきっている。要するに「わたし」にとっては、この世にあるものであれ関わりがなければ存在しないが、この世にないものでも関わりがあれば存在するのであり、かくしてこの関わりの濃度(のグラデーション)によって「わたし」の世界は構成されているということなのである。
 以上の分析から、柴崎の「私」は、日常の中のちょっとした非日常的なものを通して複数の世界に開かれている、ということが確認できたはずだ。ちなみに、内向の世代後藤明生も、日常の中のちょっとした非日常にこだわる表現が多い。たとえば『挟み撃ち』は、失われた外套をめぐって様々な記憶が掘り起こされたし、「誰」(1970年)や「書かれない報告」(1970年)などの初期短篇には、団地生活の瑣末な日常の、見過ごしても害はないような細部にこだわる表現がしばしば見られた。しかし後藤の場合は、その徹底した非日常的な細部へのこだわりが「私」を世界から隔絶させ、内閉していく様が描かれたのである。そういう意味では柴崎の関係性志向とは逆であるということができよう。
 柴崎においては、「私」を起点にして、あくまでも世界の複数化が目指されていた。ということは、逆にいえば、複数の世界を通して「私」もまた複数化しているのだということができるはずだ。とりわけ柴崎が「私」の複数性を精力的に問題にしはじめたのは『主題歌』のあたりからである*14
 そこで柴崎は、「私」の複数性を問題にするに当たって、一人称「私」のナレーションを積極的に利用している。その方法が最も先鋭的な形で結実したのが『ビリジアン』(2011年、毎日新聞社)だ。二〇のフラグメンタルなエピソード(短篇)によって構成された本書は、主人公「わたし」の、小学生の頃から予備校生の頃までの過去回想という形をとっている。ただし回想は、年代順に秩序だって並べられているのではなく、およそ十年の時間の幅を行きつ戻りつ無作為に並べられている。興味深いのはこの時間の幅を編集するナレーションの性質である。これは『主題歌』で最初に採用されたナレーションであるが、より深化した形を本書で見ることができるだろう。

 朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビもなにも言っていなかった。[中略]
 「楽しそうやな」
 すぐうしろで愛子が言った。愛子がいたということは、朝七時に待ち合わせして商店街でスケートボードの練習をしていたときのことだったんだろうか。三日か、四日しか続かなかったし、結局わたしも愛子もスケートボードに乗れるようにはならなかった。
 「楽しそうやな、あれ」
 愛子は、わたしの肩越しにビールの人を見ていた。
 「うん、めっちゃ楽しそう」
 わたしも言った。酔っぱらいは街中にいたけれど、こんなに楽しそうな人は初めて見た。
 愛子はわたしの鞄に手を突っ込んで水筒をとり出し、勝手に飲んだ。
 「気が合うな」
 愛子は言って、水筒を戻した。あの赤いTシャツ、わたしは好きだった。でも、スケートボードの練習をしたのは中学一年のときだったから、やっぱりそのときに愛子はいなかったかもしれない。だって、あれは黄色の日だったし、黄色の日は小学校にいたのは間違いないのだから。(『ビリジアン』10‐12ページ)


 重いドアを開けると、湿気がわたしを取り囲んだ。梅雨だから曇っていた。夏至のすぐあとだからまだ明るかった。屋上には人はまばらだった。何曜日だったかわからないけど、学校に行ったあとだった。ベンチの間を行ったり来たりしていた鳩が飛び立ったので見上げると、頭上の広い空間はどこまでも空だけだった。白い雲の厚さにはばらつきがあって、斑になった隙間から夕方の色をした日差しが透けているところがあった。そのときはまだ屋上の端に小さい観覧車があった。その向こうに架かる虹の写真を撮ったのは、その八年後だった。
(『ビリジアン』58ページ)


 「何分?」
 犬を見つめたまま、愛子が言った。
 「八時五分」
 わたしは答えた。公園の横にはアパートがあって、その一階の部屋の窓越しに壁に付いている時計がよく見えた。十八歳までは目がよかったから、十三歳だったらなんにも不自由はなかった。(『ビリジアン』82ページ)


 わたしはひたすら掃き掃除をしていた。掃くのが好きだからで、箒が作る砂の模様が好きだからだった。窓側にはようやく日が差さなくなって、カーテンは全部開けられた。窓も全開になった。見えるのはブロック塀だけだった。そこから、ぬるい空気が塊みたいに教室の中に押し寄せてきた。これからまた暑くなる、みたいなことは、そのころはまだ思わなかった。十一歳だった。今日が寒いか暑いか、それだけだった。その日は暑くも寒くもなかった。晴れと曇りの中間だった。(『ビリジアン』151‐152ページ)


 「おれ、All I Really Want To Doがめっちゃ好きなんです」
 と言って、諸星はボブさんが歌うのと同じように、タイトルと同じその部分を「どぅうぅうぅー」と声をひっくり返して歌っていた。
 諸星に教えてもらって、わたしもその歌が好きだった。あんまりにもいい詩だったからワープロで清書して、それから十五年の間に十人に配った。(『ビリジアン』254ページ)

ビリジアン

ビリジアン

 このようにナレーションの「わたし」は、およそ十年間の時間の幅を行ったり来たりしながら、そこここに拡散している「わたし」の輪郭を繋ぎとめていく。このナレーションの作業が、「わたし」を二〇のフラグメンタルなエピソードに分離しながら緩やかに重なりあった自画像を構成するのに一役買っているのだといっていい。
 ここで重要なのは、この「わたし」のナレーションは、回想(記憶)の不確かさを通して「わたし」の自己同一性を疑ったり、無理に確保しようとしたりしてはいないということである。ここでの「わたし」は、ナレーション(メタレベル)の「わたし」が作中(オブジェクトレベル)の「わたし」の経験を回想しながら解釈するという垂直的な関係にはないということだ。ナレーションの「わたし」は「わたし」の根拠にはなりえず、複数の「わたし」を、そこに部分的な類似点なり接点を見出しつつ繋ぎとめるのみである。以下、角度を変えて、このナレーションが演出する「わたし」の性質について考えてみたい。
 哲学者のウィトゲンシュタインは、いかなるカテゴリーも、そのカテゴリーを構成する複数の要素に共通する性質があるという観念的な考え方を批判し、実際は、部分的に共通する要素の集合によってカテゴリーは構成されているという考え方を打ち出した*15。いわゆる「家族的類似性(ファミリーリセンブランス)」という考え方である。たとえば、家族というカテゴリーにおいては、家族全員に共通する要素があるわけではない。父と子供はおよそ鼻が似ており、母と子供は口のあたりが似ており、目元は両親とも似ているが子供は似ていない、等々というように部分的な類似(のグラデーション)によってしかカテゴリーとしてのまとまりは見出せないというわけだ*16
 それと同じように、『ビリジアン』の「わたし」も、ファミリーリセンブランスとしてのゆるやかな自己同一性(自己類似性?)が保たれているのであり、それを保つために、ナレーションの(回想する)「わたし」は、部分的に「わたし」を繋ぎとめる作業に従事しているのである*17。だから、ここでナレーションの「わたし」が試みているのは、単なる回想ではなく、与えられた(手元にある)「わたし」のアルバムをパラパラめくりながらそのつどキャプションを埋めていく作業――たとえば「黄色の日」だからこれは小学校にいた時だし、「曇って」いるからこの日は梅雨時だったし、この歌はいい詩だったからこの時から「十五年の間に十人に配った」のだ…――に近い。そこでは、中学生の「わたし」と予備校時代の「わたし」が同じ風景の中で重なり合わさっても、なんら不都合なことはないだろう。

 「よく活きる、って…」
 ジャニスは遮って言った。
 「自分で考えろ」
 ジャニスは右手で髪をぐしゃぐしゃ掻きながら大きな欠伸をした。茶色い髪の先に鳥の羽根がついていた。
 「自分で、死にそうになるまで考え続けろ」
 白い羽根は電車の床に落ちた。
 「そうか」
 わたしは言って、駅に着いたのでドアのところへ行った。電車が止まると、ホームには中学の制服を来たわたしが立っていた。荷物はなにも持っていなくて、ドアが開くと真っ先に電車に乗り込んだ。
 電車を降りたわたしが振り返ると、中学の制服を着たわたしがジャニスの横でドアの前に立っているのが見えた。中学の制服を着たわたしは、ジャニスのほうをちらっと見たけれど、ジャニスはまた目を閉じて今度はほんとうに眠ってしまったみたいだった。
 わたしは長い階段を降りて改札を抜け、青信号が点滅している横断歩道を走った。(『ビリジアン』231‐232ページ)

 「わたし」の一枚の写真を手掛かりに様々な解釈をめぐらし掘り下げる(それはいずれ自己言及的な無限ループに陥るだろう)のではなく、日時や輪郭のはっきりしないスナップショットを寄せ集めて「わたし」を例示すること。ウィトゲンシュタインも、ファミリーリセンブランスとは輪郭の不鮮明な肖像画のようなものだという喩えをしていた。そういえば、『ビリジアン』はそのタイトルからもうかがい知れるように、どのエピソードも世界の事象を輪郭線としてとらえず、色の印象から立ち上げていくという描写の方法をとっていた。「わたし」の世界は輪郭線のはっきりしない色調のグラデーション――「晴れと曇りの中間ぐらい」――で成り立っているのである。
 物語の最後、「わたし」は、自分が写ったフィルムを、編集機を使って断続的に動かしては、「わたし」のぎこちない連続性を眺めている。しかしそれだけでは満足できなくなったのだろう、ついには編集機からフィルムを取り出し、光射す窓辺の風景に重ね合わせながらフィルムの一コマ一コマを、自分が編集機になったかのように繋ぎとめていくのである。「もう一本のフィルムを緑色の箱から取り出して、窓のほうへ行った。フィルムを引っぱって曇り空の光にかざすと、ずらっと並んだ小さな四角の中に公園があった。ずっと下へ向かって見ていくと、右端からわたしが現れた。一つコマが進むたびに、わたしはほんの少しずつ、右から左へ動いていた。ほとんど同じで、少しずつ違う場所にいた」(『ビリジアン』257ページ)。このシーンは『ビリジアン』が試みた、「わたし」のファミリーリセンブランスとしての有様を端的に例示したエピソードとして見ることができるだろう。
   ***
 そもそも一人称視点とは、ナレーションの「私」(メタレベル)と作中の「私」(オブジェクトレベル)に「私」を分裂し、自己言及的な内省・回想構造を持ち込みやすい表現方法である。「私」はつねに分裂の危機にさらされるが、けっきょくは自己言及的なループ(私は私について思う…)の中にとり込まれ、「私」の輪郭をより浮き立たせることになるのである。しかし柴崎の一人称視点小説は、ナレーションの「私」の役割を、オブジェクトレベルの複数の「私」を繋ぎとめ、「私」の(解釈ではなく)例示をするだけの機能に縮減することで、一人称視点(もしくは私小説)特有の構造をキャンセルしているということができるだろう。
 このように、単一の視点の「私」に依存することなく「私」を表現する作家として、ここでもやはり挙げておきたいのは、長嶋有である。本稿では柴崎の二番煎じのような扱いになってしまっているが、むろんそんなことはない。彼はまた別途論じなければいけない重要な作家の一人である。
 ここでとりあえず言及しておきたいことは、彼の一人称視点小説は、作中に一人称(「僕」)がめったに呼称されないという点に特徴を持っている、ということだ(『パラレル』『ジャージの二人』『夕子ちゃんの近道』『ねたあとに』など)。数ページにわたって呼称されないこともままある。たとえ呼称されたとしても、たいてい客体(「僕は」ではなく「僕を」や「僕に」や「僕の」)として現れることが多いだろう。
 ひっきょう長嶋の一人称「僕」は、自分に向けて内省するということをほとんどしないのだ。その代わりに、ひとりでひたすら趣味判断に明け暮れたり、誰かと趣味趣向のやり取りをしたりしているその模様が描出されていくだけなのである。その内容の軽さは、一人称主体の重さとは不釣合いだということなのだろう。柄谷行人がかつて志賀直哉私小説の特異な「私」について「気分が主人公だ」という名言を述べたことがあるが、それに倣って言えば、長嶋有は「趣味が主人公だ」と言い換えてもいい。いずれにせよ、長嶋の作品は、柴崎と同じように、「私」の複数性を容認するゆるさを特徴としているのだということができるはずである。
 さて本稿をまとめるにあたって、もう一度柴崎に戻ろう。ここで柴崎のナレーションについてより具体的に説明しておきたい。『ビリジアン』のナレーションは抽象度が強いのでわかりにくいのだが、それはつまりメディアなのである。柴崎がこよなく愛するカメラであり、テレビであり、携帯電話であり、フライヤーである。これら視聴覚メディアのように『ビリジアン』のナレーションは機能しているのだ。そのことは『寝ても覚めても』を読めばすぐに理解できるだろう。『寝ても覚めても』においては、これら視聴覚メディアが『ビリジアン』のナレーションのように機能させられているからである。

 別のチャンネルにしてみた。同じ夜の空の下で、淀川にかかる橋と川沿いのマンションの白い明かりが、点々と夜の闇に瞬いていた。光が瞬いているのは空気が揺れているからだということを思い出した。薄いロールスクリーンが下ろしてある窓を、目だけ動かして見た。外の暗闇とすぐ近くにある街灯の光とが透けて見えた。この外の黒さと、テレビの中の黒い空はつながっている。テレビの画面の中に入っていって、あの橋から南へ向かってずっと歩いていけば、この部屋にも辿り着くし麦の部屋にも行ける。ようやく満ちてきた眠気を感じながら、画面の中の夜景を見た。あの一つ一つの白い光の下、それからもう既に光の消えてしまった無数の建物の下に、それぞれの眠っている人たちがいる。自分のいる場所がテレビに映り続けていることを知らない人たちが、あの中で夢を見ている。そこには、眠ってはいないけれど眠っているのと同じ姿勢のわたしもいた。わたしは、自分の家の中で自分がいる街を見下ろしているのと同時に、天井の上の暗い空から自分によって見下ろされてもいた。その感じに包まれているうちに、安心と似た気持ちがしてきて、目を閉じた。(『寝ても覚めても』83‐84ページ)


 エスカレーター脇の通路の両側には、ビデオカメラが並んでいた。年齢がわかりにくい男の人や若い夫婦たちが、液晶画面を自分に向けたりファインダーを覗いたり移り気に試していた。台の上のほうのモニター画面に、わたしの後ろ姿が映っているのを見つけた。いくつも並んでいるうちのどのカメラに撮られているのか、わからなかった。たくさんの人の頭の隙間で振り返っているわたしは、斜め上から映されていて、自分では見えない頭の天辺が見えた。背の高い麦からは、いつもわたしの頭の天辺が見えているんだと思った。映像の中にあるはずの麦の姿を探した。画面の左奥に、少し茶色い髪が見えた。次の瞬間、その頭が振り返ってこっちを見た。でもそれは、カメラのレンズのほうを見ただけで、わたしを見たのではなかった。[中略]麦が振り返った。ほっとした。画面の中の麦が消えたのと同時に麦を見失ったかと思った。(『寝ても覚めても』88‐89ページ)

 時空間の通常の秩序(にしたがった「わたし」の自己同一性)とは無関係に、「わたし」がより適切に――この適切さ・快適さのためになら時空間の秩序は損なわれてもよい――世界と関われるように「わたし」を繋ぎとめること。このようなメディアの効果は「わたし」自身にも内面化されている。メディアの効果を内面化した「わたし」は、まさしく『ビリジアン』のナレーションのようである。

 「瞬間移動する公演が終わったら、年明けに、ウチから三人ぐらい東京の劇団にゲスト出演するねんけど、手伝ってもらえるかなあ? 受付とか人数いるみたいで。観光がてら、どう?」
 「東京かー」
 何キロも離れた場所とのやりとりに没頭して聞いていなさそうだった春代が、携帯を握ったままぼんやりした感じで言った。
 「東京ねー」
 わたしも、中身のない単語をなぞるように言った。自分の声が耳に聞こえたとき、東京のどこかにいる自分が今日のこの瞬間を思い出しているみたいな、気がした。来年か、それよりももっと先の自分が思い出す一場面のような、そういう感じがした。(『寝ても覚めても』101‐102ページ)


 道路の狭い上り坂から見上げた二階のわたしの部屋には明かりは点いていなかった。わたしが見るこの部屋はいつも真っ暗で、明るいこの部屋を見るのはわたし以外の人だった。(『寝ても覚めても』108ページ)


 背の高いマヤちゃんと小柄なはっしーを同じフレームに入れるために少しひいた。十センチ以上ある二人の身長差を見ていると、はっしーと同じくらいの身長のわたしも、マヤちゃんとはあれぐらいの差があるんだなと思う。(『寝ても覚めても』126ページ)

 このように見ていると、柴崎友香の「わたし」はまさしくメディアである、ということが明らかであろう。
 しかし、『寝ても覚めても』は、柴崎作品の中でやや異質な点がある。それは、これまで見てきた通り「わたし」が世界の中で快適にすごすために用いられてきたメディアの効果が、最後の最後で「わたし」に倫理的な決断を迫るように配されているからである。それを検証するために、簡単に要約しておきたい。
 本書は、十年間にわたる「わたし」の恋愛物語である。物語の冒頭、二十二歳のわたしは大阪で麦という男性に恋をする。しかし数年で麦はわたしの元から黙って立ち去ってしまい、わたしは東京で新しい男性、亮平と恋愛関係に入る。亮平を好きになった動機は何より麦に似ているからだった。やがて亮平と大阪で生活しようとわたしは決めるが、そんな時わたしの前に麦が現れるのである。麦はわたしと逃げることを提案し、わたしもそれに乗る。この時わたしは三十一歳になっていた。麦と一緒に乗り込んだ新幹線の中でわたしは、麦のことも亮平のこともよく知っている友人・春代に、亮平を裏切ったことを「最低」と告げられ、彼女からわたしの携帯に十年前の写真が送られてくることになる。これが物語の最後だ。

 車体が風を切って進む音が、静かな車内にずっと聞こえていた。携帯電話が振動した。開いた。春代からメールが来ていた。タイトルも本文もなく、画像が二枚添付されていた。プリントした写真を携帯電話のカメラで撮影したもののようで、端のほうは光が反射して白く飛んでいた。横向きの写真だったので、携帯電話を横に向けた。一枚目は、春代とわたしがピンクのふさふさした物体を持ってポーズをとっている写真だった。うしろには、鉄骨を組んだステージと真っ黄色の銀杏と校舎が写っていた。もう一枚を、見た。右半分は岡崎の顔が占めていた。目も口も大きく開けておどけているがカメラに近寄りすぎてぼけていた。その左側で、わたしと麦がステージの端にもたれていた。麦、と思った。十年前の麦は、こっちを見ていた。中途半端な長さの髪。その先の跳ねた感じ。画像を拡大した。よく着ていた緑色のパーカ。見覚えのあるTシャツ。うっすらと微笑んでいるみたいな、麦の顔。薄い唇、一重が途中から二重になる目。まっすぐな眉。何度も思い返したはずのその形が、全部そこにあった。ひたすらその顔を見つめた。ゆっくりと、十年ぶりに見た麦の顔がわたしの中に入り込んできた。
 わたしは、見た。懐かしい麦の顔と、それを隣でじっと見つめている自分の顔と。十年前のわたしと今のわたしが、同時に麦を見ていた。うしろの黄色い銀杏は、葉を散らせている途中だった。黄色い葉が、空中で静止していた。
 新幹線の中じゃなくて、他に誰もいなければ、わたしは声を上げていたと思う。
 違う。似ていない。この人、亮平じゃない。
 隣の座席で眠っている麦を見た。
 亮平じゃないやん! この人。
 その瞬間、のぞみはトンネルに突入した。暗闇を背景に鏡となった窓ガラスに映ったわたしを、わたしは見た。そのわたしも、写真のわたしとは、違う顔だった。頬や顎の下にできた影は、トンネルの暗い壁と混ざり合っていた。自分がこんな顔をしていたなんて、知らなかった。
 空気銃のように空気の塊を押し出して、のぞみはトンネルの外へ出た。まばらな家と道路の光が、ガラスに映ったわたしと麦に重なった。
 「ごめんね。麦」(『寝ても覚めても』257‐258ページ)

 ここで友人の春代が携帯を通して「わたし」に例示した写真画像は、「わたし」に倫理と美学(欲望や趣味の運用)の問題を同時に示している。捨てたはずなのに捨てきれていなかった、麦が主である世界に齟齬を感じさせ、それと同時に、「わたし」にとってより適切な世界(亮平が主である世界)を指し示しているのである。
 とはいえ、この後ただちに麦を捨てて、亮平に寝返らんとする「わたし」の振る舞いを見れば、それが倫理という表現にふさわしいものなのかはきわめて疑わしい。むしろこの「わたし」は自分の欲望にひたすら忠実なだけではないのか。
 それはそうだろう。しかし世界との関わりから「わたし」の世界を変えていく柴崎の「わたし」は、そもそも自分の趣味趣向に固執していたとはいえない。柴崎の「わたし」の趣味判断の一つ一つには、自分の輪郭線に閉じこもらないという倫理的な態度が貫かれているのである。これは『寝ても覚めても』に限らない。
 たとえば『ビリジアン』の「わたし」は、ささやかな日常を生きながら、たびたび自由を謳歌することがある。もちろんこの自由とは、世界(他者)に邪魔されないことの自由ではない。世界との部分的な接点を見出しては、自己を変容させていく、いわば即興的な自由である。

 ボブさんは、諸星が歌うのを黙って聞いていた。わたしたちが離れたあとで、一人でなにかの歌を歌っているのが聞こえてきた。全然聴いたことのない歌だったので、新曲かな、と諸星に言ったら、違う違う、と言って正解を教えてくれた。ボブさんは常に自分の歌を新しくして歌う。だんだん自由になっていく。
何度か振り返って、タキちゃんが聞いた。
 「あの人って、神さまみたいな感じ?」
 「違う。歌を歌う人」
 諸星は言った。雲の薄くなったところに、白く光る太陽が透けて見えた。鹿島はさっきの曲をもう覚えて、口笛で吹いていた。(『ビリジアン』255ページ)

 2011年3月30日、東京にて脱稿。この年の3月11日を私の一部に繋ぎとめておくために。


(*初出『S.I.』、左隣のラスプーチン、2011年6月12日)

*1:また柄谷行人によれば、村上春樹の作品は、ピンボールのように構造のみによって成立していると指摘された(『終焉をめぐって』1990年)。

*2:詳しくは、中沢忠之「資料・ゼロ年代村上春樹作品ガイド」、『ユリイカ 総特集 村上春樹 2011年1月臨時増刊号』を参照。

*3:中上健次のテクストを読むときに警戒すべきことは、それをこの両極[物語と私小説――引用者注]のどちらかに還元してしまうことである。現在、どちらかといえば、その危険は、それを自然主義的ではなく、民俗学的な方向において読む傾斜にある。それは、たえず歴史的な状況にいた中上を、超歴史的な構造論に回収する、凡庸きわまる批評を意味する。そうであれば、さしあたって、私はむしろ中上を自然主義私小説といった軸の側に引き戻してみる必要を感じる。ある意味で、中上健次は根っからの私小説作家であった。それは「私」にこだわること、一切を「私」の経験において見るということである。[中略]中上がこれらの作品[『枯木灘』以前の短篇を集めた『化粧』――引用者注]でやろうとしたのは、現実的な歴史的な空間を象徴的な空間たらしめることである。後者において、特定の新宮や熊野の空間は、ある一般的で非歴史的な構造に転化する。けれども、むしろ重要なのは彼が安易にそうしなかったことである。いいかえれば、彼は「私小説」的な側面を捨てなかった。彼がそうした二系列をともにふくみながら、なおそれらのいずれでもない「小説」を書いたのは、『枯木灘』においてである。」(「差異の産物」1993年、『坂口安吾中上健次』1996年)

*4:「内面の発見」1978年、『日本近代文学の起源』1980年。

*5:「閉ざされた熱狂――古井由吉論」1971年、『畏怖する人間』1972年。

*6:私小説の両義性――志賀直哉と嘉村磯多」1972年、『意味という病』1975年。ここで柄谷は、志賀が描く「私」にとって重要なのは、内省する「内面」ではなく、「気分」であると述べた。

*7:「《私》の中の《自分》」、『文藝』1977年8月号。

*8:中島は「文学の輪郭」で『群像』の「新人文学賞」に当選した(『群像』1977年6月号)。受賞第一作が「表現の変容」(『群像』1977年9月号)である。

*9:「薫君」シリーズの一作目は1968年の『赤頭巾ちゃん気をつけて』。「桃尻娘」シリーズの一作目は1977年の『桃尻娘』。これらの作品の自己表現の、文学史における位置付けについては、中沢忠之「小説のプログラム 内言篇」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081123

*10:それと同時に物語も復活したことは注意していい。柄谷行人が指摘した通り(『日本近代文学の起源』)、日本の近代以降の文学史私小説と物語という、西洋由来の近代文学にとっては傍流の二傾向が両輪になって育まれてきたのである。文学のモードが転換する時期にこの二傾向が必ず注目を集めるということは、日本の文学史の特異性を例証していると言えよう。ちなみにゼロ年代も、1970年代と同様に、「私」の自己表現から世界=物語の叙述へと相対的に重点を移す過程が見られた。

*11:後藤の自己表現の特異性については、中沢忠之「仮装する人、後藤明生を仮葬する(ケイタイ的)」、『早稲田文学』2000年9月号を参照。

*12:中沢忠之「良質なリアリズム――柴崎友香私小説http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081012

*13:『ビリジアン』は折衷型であろう。本書は、日常を舞台にして様々な視聴覚メディアが導入されるが、その一方で、ボブ・マーリージャニス・ジョプリンといった往年のスターたちと「わたし」が共演するという夢のような非日常的プロットが配されている。

*14:詳しくは、中沢忠之「良質なリアリズム――柴崎友香私小説」を参照。ここで私(中沢)は『主題歌』までの柴崎作品を論じている。『主題歌』までが柴崎の第一ステージとするなら、拙稿はその第一ステージを中心に分析し、『主題歌』での変容にも少し言及するという体裁をとっている。

*15:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』1953年。本稿は黒崎宏による邦訳『哲学的探究 第1部・読解』(1994年、産業図書)を参考にした。

*16:だからあるカテゴリーを定義するには、包括的な説明は不可能だから、「だいたいこんな感じ」と例示をせざるをえないのである。

*17:星野智幸の『俺俺』(2010年)は、ファミリーリセンブランスとしての自己同一性をモチーフにして、「私」のドタバタ悲喜劇を小説にした傑作である。