感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

残暑見舞いと『サマーウォーズ』――細田守論


待ちに待った『サマーウォーズ』(http://www.youtube.com/watch?v=2Wi2lb1sVk8&feature=channel)。今年は再び細田守の青空が見れる。久しぶりの青空だ。細田が背景に置く、奥行きのないフラットな青空は、キャラクターのいかなる心理(の起伏)をも受け入れない道具立てとして機能している。とくに前作の『時をかける少女』(2005、以下『時かけ』)では、その青空を背景にして、影抜きされたキャラクターは、動くたびに重力から逃れるようにひらひらと手足を動かしていた。その動きがめっぽう懐かしかった。
時かけ』の主人公・真琴に関して原作者の筒井康隆が「主人公がドジすぎる」と指摘した通り(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%94%B0%E5%AE%88)、細田作品の主人公はどれも――物語の難局を越えるための――特権的な能力を持っているとはいいがたい。あのルフィさえもが、細田にかかれば、全くといってたいした力を発揮できなかった(『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』2006、以下『ワンピース』)。
それはなぜか。細田にとっては個人よりも関係性(仲間)が重要だからである。今回の作品ももちろんそうだが、彼の出世作である『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』(2000、以下『デジモン』)以来、細田の物語は、主人公が新たな関係性を見出し、仲間とともに難局を切り抜けるという構図を持っている(『時かけ』は比較的実存的濃度が高いが)。
サマーウォーズ』は、仮想世界とリアル世界、ネット上のコミュニティとリアル世界の大家族という二つの相が基軸になって物語世界が組織されている。このような世界設定は、『デジモン』以来細田作品には馴染み深いものである。『サマーウォーズ』とほぼ同じ世界設定上にある『デジモン』しかり、『時かけ』のタイムリープ・ワールドとリアル世界の関係もそうだし、『ワンピース』も、多少見えにくいが、物語の舞台である「秘密の島」が、永遠にイベント/ゲームがくり返される仮想空間とリアル世界の二相に分かれていた*1
サマーウォーズ』は、リアル世界の一事を遠因とし、ネット世界で巻き起こった難局を、ネット上のコミュニティとリアル世界の親族たちが一緒になって切り抜けるという物語である。細田は本作について話す機会にはおりにふれ、リアル世界が大事かネットが大事かというありきたりな二分法に基づく物語にはしたくなかったと述べている(http://www.cyzo.com/2009/07/post_2341.htmlhttp://ascii.jp/elem/000/000/449/449024/)。
このような徹底した関係性志向が、作品を作る上で細田の一貫する倫理と考えてもいいだろう。この倫理はまた、細田特有の「反復」のモチーフと切っても切れない関係にある。たとえば『デジモン』以来、細田の作品には、仮想世界とリアル世界の往復が基調をなし、その過程でゲームがくり返しプレイされるという設定がある(『時かけ』ではタイムリープへのあくなきダイブ)。『サマーウォーズ』ではとくにネット上のゲームとリアル世界での食事シーンが交互に反復されていた。
演出上においては、食事シーンの横スクロール(『時かけ』では河べりのサイクリングシーン)や、細田独特の仮想空間のイメージである「白い球体空間」(細田)のCG効果、それと対をなすような、キャラクターを包摂する青空の背景カット。これらの演出によって反復のエンドレス性がスクリーンにまといつくことになる。
そして極めつけは、細田演出の枢要をになう同ポジや同じカットの兼用(『時かけ』がその代表格)、それにテンドン(同じシチュエーションをベタにくり返す)による笑いの演出(たとえば『デジモン』では電話が効果的に使用されていた)が、細田作品のエンドレスな反復モチーフを支援するだろう。
これはオタク的モチーフの一つである「無限ループ」(終わらない夏休み)と考えられるが、しかし細田の場合はそれとは異なる。細田の反復は、新たな関係性(いままで見えなかったが潜在していた関係性)を提示する契機として機能しているのである。たとえば、『デジモン』は比較的単純な仲間集めに終始したが、『ワンピース』にいたっては、イベント/ゲームの反復において海賊間の関係性を更新しながら複雑に仲間集めが試みられていた。
時かけ』になると、関係性は実存的契機をまじえてより複雑さを増す。主人公の真琴は、タイムリープの能力を得てしまったがために、他者との関係性を支配し、自分でも抱えきれないほどの関係性――可能世界を含む――を可視化してしまった結果、みずから関係性を切り縮めるという決断(実存的契機)を強いられることになった。『時かけ』は、成長の証である実存的契機(自己の万能感を他者のために去勢する決意)に注目が集まったが、細田作品を一貫して支えているモチーフはそっちではなく、むしろ反復とそれによってそのつど切り出される関係性の断面、の方なのである。
だから『サマーウォーズ』では、関係性は実存的な問題ではなく、家族の問題としてとらえられるのだが、それはなんら不思議ではないのである。主人公の男の子・健二は大家族の一員となって戦うことになるが(この家族は戦国時代の豪族の末裔であり、ネット上のバトルは戦国時代から反復された戦の一つである)、そこには個人の悩みや決意といったものはそれほど介在していない。
そこで彼がこなす役割もまた分割された一部でしかない。彼には数学の才能があり、暗号を解く役割が与えられるが、それは他のゲーム/イベントや役割のごく一部でしかないのである。そしてこの暗号を解くという地味な作業がラストのクライマックスを担うことになるのだが、それを劇的なものにしたのも反復の演出――健二がひたすら暗号を解くカットが反復されるというシーン――だった。
ところで、この『サマーウォーズ』は、細田作品のファンなら自明のことだが、『デジモン』とほぼ同一のメインプロットを採用している。まさに作品そのものが反復によって成立しているわけだが、『デジモン』では学校の友だちという並列的な関係性しかなかったのに対して、『サマーウォーズ』はそこに家族という時間軸にのっとった関係性を差し込むことで新たな関係性の断面を提示している。細田の反復はこのようにつねに新たな関係性を提示するという側面を持っているのである。劇中では食事シーンが反復されると先ほど言ったが、反復されるごとに大家族の関係性の新たな(隠れていた)断面が提示されたり、改変されたりするのである。つまり、その反復は、単なる反復ではなく、更新された関係性の提示・確認という重要な機能をになっているわけだ*2
ただし、細田の関係性は、大仰に、脱構築とか認識論的な転倒が目指されるものではない。繋がりとか隣接とか交錯とかいう程度のものである。しかしそれが反復したり束になったりすることで、大きな力を持つこともあることを、細田は時間をかけて丹念に描き出しているのである。仮想空間とリアル世界の境界を越えて皆とともに戦うこと、反復のタイムリープで決断を強いられること。これらはどれも細田の一貫する倫理が描き出した物語の必然的な結末である。
以上。細田の物語は関係性が起点となっているということを証明した。『時かけ』の有名なワン・シーン、千昭を追う真琴の全力疾走を映し出す、過剰な横フォロー。『サマーウォーズ』で三度ほどあった、沈黙を表現する冗長な止め絵。あるいは「白い球体空間」を演出するCGのフル活用(http://www.youtube.com/watch?v=JwqMNjRlqfA)。等々といった要所を飾る演出は、どれも行き過ぎを感じさせる一歩手前で次のカットに切り替えられる(「「過剰」と「省略」の狭間で――細田守試論」山本寛、「キネマ旬報」2009年8月上旬号)。同ポジなど先ほどあげたものも含め、これらの演出は、細田がカットの間を統制する原理ばかりではなく、カットとカットをいかに繋げるか(関係させるか)という問いにしたがって、作品を作りこんでいるからこそ編み出されるものである。そんな彼には、個性的な作家というよりも、たとえば村野藤吾がそうだったような意味での職人という形容がふさわしい。
この関係性を起点とする細田作品と比べると、たとえばエヴァンゲリオンはキャラクターとプロットが起点となっていることがよくわかる。今夏の新劇場版ヱバ:破は、前作のテレビ版をリメイク(反復)するにあたってキャラ(マリの導入)とプロット(内向性から関係性志向へ)の改変が試みられた。作り手のこだわりはそこにあるからである。
他方、細田の『サマーウォーズ』は、『デジモン』のリメイク(反復)だが、それは前述の通り関係性を改変すること(新たな関係性の導入)によって実現したのである。言い換えれば、使徒(とエヴァ)はキャラクターの内面を侵食し、ゼーレのシナリオ(プロット)を改変させるが、細田の敵(バグ)は、関係性の改変を迫るものだということもできるだろう。
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8・15長野の実家にて。帰省途中の新幹線から上田の風景を見ました。『サマーウォーズ』の舞台となった上田の盆地。よく知っている風景だけど、映画を見た後だけにやはり気になる。安曇野に遊びにいったら、帰る途中の木崎湖にて、『おねがい☆ティーチャー』の聖地巡礼をしている人たちがけっこういた。同じ風景でも、人によっては見ている情報が全然違うんだなあとつくづく感心しました。

*1:いくつかのイベントを、ルフィたちがクリアしていくというゲーム的な設定自体は、細田がこの作品に参加する以前から決まっていたものらしいが(http://www.style.fm/as/13_special/mini_050815.shtml)、このゲーム的世界と、そこには回収されないリアル世界とを二分割して相補的な構成にまで仕立て上げたのは、細田の手によるものだろう。

*2:おばあちゃんの陣内栄が家族(人類?)の危機を悟って無際限に電話をかけまくるシーンも、その反復によって大家族の陣内家がどのような関係性を築いてきたかを逐一明らかにする演出だった。鈴木敏夫が指摘する通り(『サマーウォーズ』公式HPのトップページ)、このときの富司純子の声の「芝居」を堪能できるのもこの作品の醍醐味だと思う。[2009・8・17注記]

50年代祭り(1)――橋川・シュミット・ベンヤミン

今回は、橋川文三の日本ロマン派論を軸に、1950年代を素描し、ロマン主義決断主義の関係を論じて、現代の論壇事情についても言及しました。

橋川文三は、1957年に日本ロマン派について考察をはじめ、その成果を雑誌に連載していった。それを60年に単行本としてまとめたのが『日本浪曼派批判序説』(以下『序説』)である。58年にはその中間発表として、雑誌「文学」に「日本ロマン派の諸問題」という論文を発表してもいる。雑誌「文学」はこのとき日本ロマン派の特集を組んでおり、橋川の論文はその一部をになうものだったのである。
国粋イデオローグとして戦争の片棒をかついだとされる日本ロマン派(とくにその首領・保田與重郎)について、戦後十年たったいまもなお、まとまった議論がまともになされていないという思いが当時の橋川にはあった。しかしそれと同時に、その思いを踏みにじるように「もはや戦後ではない」と喧伝されはじめたのもこの頃である。
橋川は『序説』で、戦争体験を起点にした独特な世代論を展開している。1950年代における五十才代(つまり一世紀前のゼロ年代生まれ)を、「共産主義・プロレタリア運動」を体験した世代とし、四十代を「「転向」の体験」の世代とし、三十代を「日本ロマン派体験」が最初の思想体験だった世代とした。そして「戦中派」とも呼ばれる三十代こそ日本ロマン派の本質を掴める世代と見做したのである。1922年生まれの橋川も無論この世代に属する。
政治の文脈で文学が熱く議論される時代が、マルクス主義者の一斉転向によって終止符を打たれた後、文芸復興と日本回帰の文脈の中で日本ロマン派は現われたのである。戦時下にあって、日本ロマン派は国粋イデオローグの筆頭に置かれた。他の選択肢を知ることなく、青年期の最初の思想体験をこの日本ロマン派に費やし、熱狂しもした世代こそが、日本ロマン派をその負の面も含めて清算しなければならないという思いが、橋川にはあったのだろう。
じっさい、「文学」の日本ロマン派特集における寄稿者のうち、ゼロ年代生まれは(「共産主義・プロレタリア運動」の世代)、日本ロマン派を文学史のイレギュラーとしてしかとらえず、他人事でしかない扱いに終始している。それは当事者であった亀井勝一郎も含む。十年代生まれにしても(近代文学グループが主に占める)、日本ロマン派を分析対象としての価値があると見做しながら、しょせん文学史上の一コマとしてしか認めていない。それに対して二十年代生まれの寄稿者、橋川と吉本隆明は、日本ロマン派こそ戦前・戦間期における分析対象として最も重要であるという立場に立っていたのである(吉本は四季派の戦争責任を論じたものだが、三好達治ら四季派は日本ロマン派と縁が深く、保田與重郎主催の「コギト」にしばしば寄稿していた)。*1

橋川は、日本ロマン派を戦後において最初に取り上げた竹内好(および中野重治)の先駆的試みを評価している(以下は『序説』と「日本ロマン派の諸問題」を踏まえた解説)。戦後まもない頃の論壇・文壇は、戦争の反省に基づいて日本の民主化なり近代化が熱く議論されていた。このような状況に対して竹内は、それらの議論はいずれも国民・民族(連帯や共同性)が問われる契機を隠蔽して成り立っていることを指摘し、彼らを「近代主義」として批判したのだった。その上で、戦間期にその契機を問うて近代批判を行った日本ロマン派をイレギュラー(戦争の鬼子)視せず、見直す必要があると発言したのである(「近代主義と民族の問題」)。1951年9月になされたこの挑発的な発言は論争を巻き起こし(国民文学論争)、その過程で中野重治も左翼の側から竹内の声に、部分的ながら呼応したのだった(「第二『文学界』・『日本浪漫派』などについて」52年3月)。これが橋川日本ロマン派論の前史である。
終戦以来、共産党系の作家と近代文学グループを中心に「政治と文学」論争が盛んに行われていた。民主化(社会革命)のためには政治的な目標を優先させ、文学をその手段とするか(社会主義リアリズム)、あるいは作家個人の自由を優先させるか(実存主義)という問いに収斂される当該論争は、そのヴァリエーションとして知識人論争や近代化論争、戦争責任論争など様々なトピックが争われたが、それらの多くは戦前・戦間期プロレタリア文学が中心になって議論されたトピックであった。彼らにとっては、戦時中に中断されたこれらの論争はいまこそ改めて議論されるべき喫緊の話題であったのだ。しかしいずれの議論にしても「近代主義」の罠に陥っていると竹内は感じたのである。
以上のような文脈を意識しながら竹内は持論を優位に立てるべく日本ロマン派を政治的に利用したのだった。それに対して橋川は、日本ロマン派を純粋に思想的な問題として問おうとしたのだと言っていい。それは戦中派だからこそ可能なスタンスだっただろう。上の世代だと、日本ロマン派は文学史の一コマにされて、政治的に裁断されるのがオチだ。逆に下の世代では(石原慎太郎江藤淳)、戦後の微温的な空気こそどうにかしなければならないと考えており、戦中派の戦争体験論は懐古趣味として一蹴されるほかなかった。
橋川はこのように上下の世代に挟撃されつつ、戦中派という世代感覚から日本ロマン派の思想を普遍的に考察しようとしたのである。

橋川の日本ロマン派論は基本的にシンプルな見取図に基づいている。既成の価値観が崩壊し、何をしても無力を痛感させられる世界に現われたのが日本ロマン派である。そしてそのような頽廃した世界に対して、彼らはイロニーの方法において関わりを持ったのである。イロニーとは、橋川によれば、第一に、現実(世界)の嘲弄的否定であり、第二に、心的反省の無限背進(表現上は古典の悪無限的引用という形で現われる)ということになる。それは現実(世界)に対して徹底して受動的であり、無限に自己決定を留保する心的態度である。
日本ロマン派のイロニーは、「政治と文学」論争(「近代主義」)にみられる、弁証法的・分析的な(AかBか、AよりもB)世界との関わりを批判し、複数の要素を混在させ、想像的に総合すること(AでもありBでもありCでもある…、AでもなくBでもなくCでもない…)によって世界との関わりを確保するものだった。要するに、AかBか(プロレタリア革命か現状容認か)で世の中が割り切れなくなった時代にイロニーは要請されたのであり、表面的には復古主義に見えるが、日本ロマン派=橋川にしてみれば、最も時代に適応した表現だったのである。
またイロニーは、個人と世界(帝国拡大)の間の、あらゆる中間的な価値体系を排除する―それによって個人は世界に向けて自己投棄的に同一化する―――という欲望によって駆動されていると橋川は指摘してもいる(むろんこれを私小説セカイ系の表現構造と重ねてみることもできるだろう)。出口のない頽廃した世界を自己もろともリセットする欲望。日本ロマン派は当時の青年の多くが懐胎していたそのような欲望を、たえずイロニーによって現実を否認するという方法で回収したのだった。

橋川は以上の説明を、カール・シュミットロマン主義批判の書『政治的ロマン主義』(1919)によって裏付けをとっている。じっさい橋川は、1951年に本書を師の丸山真男から借り受け、すでに翻訳をしていたようである。
興味深いことに、橋川は「敵対性」や「決断主義」という言葉をたまに使うこともあるが、積極的に議論することを避けている。シュミットはといえば、続く著書において(『独裁』1921、『政治神学』22、『政治的なものの概念』32)、決断主義や敵対性概念(友敵理論)を使ってロマン主義――直接の標的はワイマール体制の議会制民主主義――を乗り超えようとしたことは周知の通りだ。
そこでシュミットは、持論の決断主義を主張する根拠として、ルソーやホッブズなどの社会契約説を持ち出している。とくにホッブズリヴァイアサンは彼のお気に入りで、彼の著作にしばしば登場する。シュミットにとって社会契約説が重要な理由は、民主主義と独裁は一致するという論点を社会契約説が内在させているからである。それによってシュミットは、決断する政治的主権者に根拠を与えるわけだ。
他方、橋川もまたルソーを引いて、一般意思の逆説をしばしば話題にする。一般意思という理念を純粋に徹底させれば、独裁(社会の成員の自己滅却)に帰結するという逆説だ。逆に言えば、暴力革命みたいなものが実は純粋な民主的理念(反封建)に支えられているケースがあり、橋川はその例として、ルソーを読みながら西南戦争に自己投棄した士族などを挙げている(橋川の論考「西郷隆盛」『ナショナリズム』を参照)。そして橋川はこの論点を、決断主義のためではなく、ロマン主義が形成される背景説明として導入したのである。先ほど説明した、あらゆる中間項の排除の欲望が日本ロマン派を駆動しているというのがそれである。

シュミットと橋川、両者の分岐は、認識論(AかBかどちらが真か、AはBの原因か否か)を主軸にしたリアリズム的な世界との関わりが失調したときに現われる二つのパターンである。つまり、シュミットは、何が敵か味方か(善か悪か、AはBの友か)を決定する倫理(政治)にしたがって世界と関わることを宣言した。
他方橋川は、美学にしたがって世界に関わる態度を日本ロマン派に見出したのである。美的判断は、何が意に適うか・何が快であるか(AはBにとって価値があるか)が指針となる。それはカントが指摘した通り、反省的判断力(目的なき合目的性)に基づいている。ロマン主義はこの美的判断にしたがって、主観の反省を媒介にしつつ無際限に自己を拡大するのである。
ロマン主義のこのような美学的性質については、ベンヤミンも『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』において指摘している。この論考はシュミットの『政治的ロマン主義』と同じ1919年に提出された博士論文であり、ベンヤミンはシュミットとの文通の経験もある。
ところでこの時期(初期)のベンヤミンは、客観的な認識レベル(悟性のカテゴリー)と主観的な経験のレベルをカントが分節したことを評価しながら、完全に独立させてしまったことに対して批判している。ロマン主義はこのカントが明示した主客の分離、個人の世界からの解離という事態に対応した一つの対応策であり、具体的には、主観の全能化によってそれを実現したのであった。ベンヤミン自身は、モダニズムの「純粋知覚」の理念と同じく、認識レベルの真実性と審美的価値を同一視させるという見通しがあったようだが、彼は著作ごとにスタンスを移動させるので確定的なことは言えない。いずれにせよ、日本ロマン派もまた主客の分裂を主観によって包摂する運動であったことは、橋川が指摘した通りである。
むろんシュミットの決断主義もまた、世界を主観の恣意性に包摂してフル活動させたものであることは、シュミットを批判したカール・レーヴィット以来明らかである。レーヴィットは、シュミットの決断主義を、シュミットが批判するロマン主義と同じように「機会原因的」(ご都合主義)だとして批判したのだった(「シュミットの機会原因論的決定主義」、シュミット『政治神学』所収)。

けっきょく両者とも根は同じであると言える。ファシズムを政治の美学化と言ったのはベンヤミンだが(「複製技術時代の芸術作品」)、決断主義として規定される政治は美学的である。いまや自明のことだが、敵か友かを決めるのは快不快と切り離せないということだ。
逆にイロニーという美学的スタンスは政治的である。いかなる表現も、真偽によって評価されるのではなく、政治的なネゴシエーションによって評価される状況において、政治力のない者が自閉して想像的に優位に立つこと(あいつらみんなばか)を目論むのが、イロニーの政治的効用にほかならない。
政治的には、議会制民主主義(代表制)を倫理的に批判するとコミュニズム農本主義)になり、美学的に批判するとファシズムアナーキズム)になるのだが、コミュニズム(倫理)もファシズム(美学)も通底しているのであり、それを最も顕著に現す局面が戦争である。橋川のロマン主義論もシュミットの決断主義も、戦争を重要な背景として問われたものであった。

周知の通り「複製技術時代の芸術作品」においてベンヤミンは、主客の解離を促進する要因として複製技術(テクノロジー)を問題にした。テクノロジーは人間主体を世界から遠ざけ(アウラの消失)、主体の手から自律しはじめる。その結果、テクノロジーの暴走はやまず、人間主体にも襲いかかることになる(技術の人間疎外)。ベンヤミンにとってはその徹底形態がファシズムと総力戦であった。
またベンヤミンは晩年に、集団的な幻影のモザイクである都市のパサージュ――商品とイメージが無際限に配列された空間――について厖大な記述を残している(『パサージュ論』)。カントの明示した主客分裂を問題として引き受けたベンヤミンは、ロマン主義のイロニー(『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』)と、決断主義とも対応する神学的な暴力・法の問題(「暴力批判論」)について議論を展開しながら、さらに複製技術とパサージュ、つまりテクノロジーとマーケットにも注目を向けていたのだった。彼はその人間疎外的な側面を牽制しつつその圧倒的な魅力に囚われたのである。

ベンヤミンが先取りしていた通り、いまやテクノロジーとマーケットが世界を覆い尽くし、美学(趣味)と倫理(政治)を、主体に代わって代行しはじめている。たとえばセキュリティー生命倫理の思弁的問題(臓器移植や代替医療)は技術的な解決に委ねられる方向で進んでいるし、政治はメディア上で劇場化される層(シミュラークル)と、弱者に対して共感しない官僚によって問題処理する技術的な層とに二分されつつある。
また、グローバル化したマーケットはロマン主義の夢を物理的に実現してくれたとも言えるだろう。マーケットの推進力は反省的判断力にほかならないのである。ネットで買い物をしていたら、あなたの欲しい物はこれですね(商品Aの購入者には商品Bが見合う)と次から次へとレコメンドしてくれるし、検索をかければ期待を裏切らない情報(ネタ)を仕入れることができる。このような環境において、わざわざイロニーを気取る必要もなくなった。美学的判断は、ついに実存に依存せずに行うことが可能となったのである。たとえばパロディや脱構築、ジャンル間の横断をすることで既成の表現との差異化をはかる実存的契機に対して美的評価をする必要はいまやない。ただし、このことは、イロニーと無関係なのではなく、むしろイロニーの夢が完全な形で実現されたということでもある。ロマン主義のイロニーは、徹底した受動性で主体を消し去ることを理想としていたのだから。
その一方で、逆に政治は、実存的契機の激しい再帰化にさいなまれているのが現状だ。カルスタや社会学の語りも含め(『ゼロ年代の想像力』を嚆矢とする)、それらはたちまちキャラ(ネタ)化して、ポジショントークにならざるをえない過酷な状況をサバイブしている(シミュラークルの層)。
それに抵抗し、まじめに語りたいなら、つまりポジショントークの実存的・決断主義的な政治になるべく巻き込まれたくないなら、専門性が発揮される技術的な知のレベルに議論を絞る必要があるだろう(格差問題や医療・生命倫理から情報通信やアーキテクチャの議論まで)。この知は分析対象の作用機序をできる限り実証的に把握し、正確なデータ収集につとめることが前提だが、その運用も含めれば美学的な想像力や政治的な判断が不可避に関わってくるほかないことはいうまでもない。

おそらくいま、人文系の文化批評・文芸批評に直接間接たずさわる人たちは、この三相――純粋美学、決断主義的政治、専門的・技術的知――を使い分けながら議論を組織しているのではないか(もちろんこのうち一つ二つに特化する批評家もいる)。
東浩紀杉田俊介の世代を上限とし、下は荻上チキらの若い世代の議論の仕方にそれを読み取ることができると思う。ただし、上の世代は、各論・各ジャンルを繋ぐ包括的な視点に対する執着があるためか、その使い分けをやむないものと考え、あわよくば接続しようと試みている傾向がある。しかし、より下の世代は、文脈に合わせ、各論を別々のシステムとして回している印象が強い。むろん議論の性質によっては重なり合い、複雑に絡み合うケースが多々あるのだが。

話が脱線しまくってしまった。ここで再び50年代に話を戻すと、この時期もロマン主義的イロニーと決断主義が社会の空気として蔓延していた時代であった。また、実存に回収されない専門的・技術的な知が積極的に求められはじめる時代でもある。それはまた次回に話すことにしたい。

*1:「文学」1958年4月「昭和の文学その一――日本浪曼派を中心に――」。寄稿者のうち、「共産主義・プロレタリア運動」の世代が、板垣直子(1896、モ・自)、阿部知二(1903、モ・自)、田辺耕一郎(1903、左・転)、中島健蔵(1903、モ・自)、亀井勝一郎(1907、左・転)、高杉一郎(1908、左・転)。「「転向」の体験」世代が、北山茂夫(1909、無記述)、荒正人(1913、学生左翼)、杉浦明平(1913、学生左翼)、丸山静(1914、左・転)、佐々木基一(1914、無記述)、小田切秀雄(1916、無記述)、広末保(1919、無記述)。「日本ロマン派体験」世代が、橋川文三(1922、無記述)、吉本隆明(1924、無記述)。表記中「モ・自」はモダニスト自由主義の立場からの記述であることを示す。「左・転」は左翼と転向体験の立場からの記述。「学生左翼」は学生時代に左翼体験をした立場からの記述。「無記述」は、自分の立場に関する記述がない。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の破れっぷりは見事で、とても楽しく観ることができました。少し感想を書きます。
新劇場版第一弾のヱヴァ:序はテレビ版を極力トレースするウォーミングアップだったと思いますが、今回のヱヴァ:破は、「関わりを持つ」ということがテーマで、それに合わせてテレビ版からの離脱がみられました。印象的なのは、新しいキャラクター・マリの設定ですが、彼女には内面の葛藤がまるでなく、行動あるのみです。
周知の通りテレビ版では、キャラクターは皆、家族に関するなんらかの暗い過去を隠し持っていて、激しく内向しました。とくに主人公・シンジの内向ぶりは、シリーズ後半の枠組みを規定するほど強い影響力を持っていました。そこでは誰もが、人と関わるにしても、それはつねに自分の父や母、亡き人の影をその人に重ね合わせた関わりでしかなかったわけです。
このようにテレビ版では、呟きや内向する声が基調を占めていたわけですが(誰かに向けての会話であっても、シンジの愚痴もレイの呟きもアスカの怒声も脱コミュニケーション型)、今回は誰もが聞く耳と話す意志をもって会話の成立が目指されていた。そうして皆が相互に関わりを持ちはじめる流れがあった。むろんそれはすでに関係が切断されているということが前提の上でのものです。
このような事態の象徴がマリという新キャラの導入だったのでしょう。外交的なキャラの導入、そしてキャラクターのコミュニカティヴな関係によって織り成されたプロット(その象徴がレイとシンジのラブロマンス)。それらからは関係志向がはっきりと見られる。
そしてそれは演出の面でも指摘できます。すでにネット上での指摘がありますが、庵野秀明という作家性に裏付けられた過剰な演出がこの新劇場版ではほぼ切り落とされているということです。たとえば、電車の中のシンジによる内省シーンをはじめ、奇を衒った間取りや挿入カット、「沈黙」の長回し(レイとアスカが同乗するエレベーターのシーンなど)は捨てられるか、通常の演出に差し替えられている。テレビ版では視聴者を圧倒させた、パロディやタイポグラフィーも演出上の効果は期待されていない。視聴者に様々な解釈と詮索を促す過剰な演出は、キャラクターの内省志向と同調するからです。それに代わって前面に出てきたのは、CGをフル活動させた使徒のパフォーマンスとバトルの、スペクタクル溢れる演出でしょう。
nanari氏は、ヱヴァ:破におけるテレビ版からの離脱の有様を、「物語の連辞関係を保ったまま(襲来した使徒エヴァで倒すという骨格は変わらない)、範列関係にある要素を置換することで、物語を横滑りさせていく」というところに見出しています(http://d.hatena.ne.jp/nanari/20090724)。なるほどと思いました。いわばテレビ版と新劇場版の関係は、テレビをオリジナルとする内向的な関係ではなく、隣接的な変換関係にあるということです。テレビ版が――キャラクター設定や複雑な世界観(使徒エヴァの関係)、パロディの手法など隣接関係に基づく物語構造を内在させていたにせよ――最終的には内向的なメタフィクション構造に結果したとすれば、ヱヴァ:破は、その重ねあわせ・せめぎあいから隣接関係に物語を開いていく作品だったと言えるかもしれません。
そうすると、次回作(「ヱヴァ:Q」)はその範列関係の各種組み換えからいっきに物語の連辞関係を侵食し、転換するという事態(すでにそれはエヴァならぬエヴァ)があるのではないかと期待しもしますね。その期待は単なる空想上のものとも言えないでしょう。たとえば、ヱヴァ:破は、キャラクター間に隣接的な関係性(レイとシンジのラブロマンス)を持たせた結果、人類補完計画をめぐる物語の上位層との亀裂が生じました。
エヴァンゲリオンの物語は、下位層にキャラクターの日常的な関係があり、それをセカンドインパクト人類補完計画といった大きな世界観が覆い、その中間項に、エヴァ(NERV)と使徒のバトルを軸にした物語が繰り広げられるという構造を持っています。テレビ版では、シンジが終盤にかけて内向するわけですが(他のキャラクターも各自内向)、それは、それと相即して物語の上位層が露出してくる展開と矛盾するものではありませんでした。キャラクターが内向するのと物語のメタフィクション化(および中間項の排除)は平行しており、それゆえに最終的には行き詰まりをみせたわけです。
しかし、ヱヴァ:破では、キャラクターの層において内向性から逃れる志向性をみせていました。それが今後の展開にどう影響するのかが楽しみです。

『BOSS』VS『MR.BRAIN』

この春は刑事・探偵もののドラマに収穫があったので報告。まずは『MR.BRAIN』(TBS、http://www.tbs.co.jp/mr-brain/)。今週で最終回とは残念すぎる。
最初は、キムタク版「古畑」!?と疑ったり(犯人役が有名人ゆえの倒叙トリックの活用という図式は「古畑」だし木村拓哉自身古畑の物真似をするから)、総花的なキャスティングで散漫な印象を受けそうになったが、ゼロ年代的な刑事・探偵ものとして評価すべき作品であることは間違いない。香川照之水嶋ヒロの刑事コンビも回を重ねるごとにキャラ設定がしっかりしてきて味が出てきたところなのに。
ところでこの作品のポイントは、事件の謎解きと、犯人を自供に追いやる契機に脳科学のフレームを不可欠の要素として導入するところである。脳科学の教養とそれをふまえた発想を、事件の解決にいかにリンクさせるかがこの作品の見せ所というわけだ。それがうまく絡まない回のときもあるが、おおむね成功していたと言っていい。
先に終わったが、『BOSS』(フジテレビ、http://wwwz.fujitv.co.jp/BOSS/index.html)も楽しかった。戸田恵梨香の、『DEATHNOTE』に呪縛されたかのような緊縛プレイシーンとエルキャラは見ものだったが、個性的なキャラを贅沢に登場させながら全体的には関係性が深められないまま終わってしまった感がある。『MR.BRAIN』と同様、キャラクター設定には新味がないと言えるだろう。
肝心の物語だが、この作品は90年代のサスペンス(プロファイリング、陰謀論、猟奇殺人、ネット、多重人格、トラウマ)を手際よく再調理してみせた話が多かった。そもそも主演の天海祐希はプロファイリングと交渉術の名手である。
だからプロットだけを追っていると、『BOSS』より『MR.BRAIN』の方が圧倒的に斬新に見える。プロファイリングと脳科学を比べたらその印象もやむをえないだろう。
両作品の比較検証をすると(以下ネタバレ)、たとえば、両作品とも同じ素材を扱った話がある(『BOSS』は9話、『MR.BRAIN』は5・6話)。前者は、90年代のサスペンス映画をよく観ている人なら途中でこの作品の狙いが分かったはずだ。けっきょく犯人が多重人格だったというオチがこの作品のハイライトで、そこにいたる伏線がところどころ映像効果として叙述トリック的に配されている。謎が解かれる段階でそれを知って視聴者はカタルシスに浸ることができるというわけだ。
これに対して『MR.BRAIN』の多重人格の料理の仕方は異なる。最初から犯人が多重人格であることがキャストにも視聴者にも知らされているのである。その上で脳科学者・木村拓哉が、犯人が本当に多重人格か否かを脳科学的に検証し、脳科学のフレームをリンクさせて謎解きに繋げるという展開をみせるのだ。謎解き・事件解決としてはかなりアクロバティックだが、作り手は現代の刑事・探偵ものの置かれた状況をよく理解した上でこの一手を打ち出しているのだろう。ちなみに、この話では、かつての失敗を引きずったプロファイラーが脳科学者・木村に小ばかにされながら立ち直るきっかけを掴むシーンがあって、これもなかなか憎い演出と言えるだろう。
しかしそれでは『BOSS』が古いのかというとそんなことはない。この作品のポイントはプロットではなく、ナレーション(視点)にあるわけで、そこを評価できないと、単なる90年代的サスペンスの焼き直しにしか見えない*1。では、ナレーション(視点)がポイントとはどういうことか。
その鍵は天海演じる大澤絵里子の(プロファイルをふまえた)交渉術にある。事件の謎解きと、犯人を自白に追いやるために彼女は、交渉術(心理戦的トラップといってもいい)を仕掛ける。この交渉は視聴者には見えない形で進められる。叙述トリックのヴァリエーションといっていいが、とにかくこのプロセスの間は、視聴者も、犯人(あるいは大澤の同僚刑事)と同じ視点しか与えられず、大澤の交渉術にはめられている状態が続く。ここで大澤は、事件解決の展開(視聴者が見える次元)と別の次元を操作しながら行動を起こしているわけである。
だからこの作品は、どこで大澤は犯人が分かったのか(どの時点から交渉術を起こしたのか)が、事件解決以上に重要なポイントになっており、解決後にその時点が必ず振り返られるだろう。
もちろん他の作品でも、犯人に自供させるために刑事が小芝居をうつことはある(たとえば『古畑任三郎』の木村拓哉がゲストの回)。しかしたいていそれは視聴者にも知らされている。それは事件解決のために用いられる他の作業と同等の意義しか与えられていないと言えよう。
『BOSS』の場合は、それが自立するほど主要な要素として位置付けられているのである。だから視聴者が、それまで見せられてきた展開と、大澤が操作する交渉術との調整をうまくこなせないほど解離するケースもある(たとえば3話は、大澤が一人飛躍しすぎて視聴者的には共感のチャンスを失う)。『BOSS』は、このように、視聴者にとって可視的な事件解決の展開のフレームと、大澤が仕掛ける交渉術のフレームとの、二つのフレームを重ね合わせながら作られているのである。
さらに重要なのは、これは、90年代後半にはやった陰謀論的なダブルフレームではないということだ。陰謀論は、事件解決が不可能であることを指し示すメタレベルのフレームを設定する(たとえば『ケイゾク』)。あるいは、『アンフェア』のように、仲間が実は裏切り者だったという設定。これは誰が敵か味方かの解釈ゲーム(誰がメタレベルに立てるかの決断主義的ゲーム)が前提にあり、それは事件解決のフレームとは直接関係がない。単に、犯人が身内にいてびっくり、という話だ。しかし『BOSS』の場合は、交渉する不可視のフレームは、事件の展開と解離しながら不可分に関る関係にあるのである(本作も陰謀論の要素を孕みながら、けっきょく交渉術のフレームに抑えこまれる)*2
まとめると、一見普通のウェルメイドな刑事・探偵ものに見えるが、かなり複雑な操作をして作られた作品だったと言える。『MR.BRAIN』がプロットレベルでダブルフレームを設定した(ミステリと脳科学*3のと同じように、『BOSS』は、ナレーションのレベルでそれを行ったという話。

*1:ただし、『BOSS』の7話と9話は、メインの林宏司の脚本ではなく、『BOSS』の重要なポイントである交渉術・心理戦の要素がほぼ欠落している。したがって単なる90年代的サスペンスの焼き直しの印象を強める。

*2:大澤の交渉術フレームは、事件解決のための単なる一手段(古畑)ではなく、また、事件解決を失調させる要因(『ケイゾク』)でもなく、事件解決を外在的に撹乱する要因(『アンフェア』)でもないということ。それは事件解決のための不可欠な要因でありながら、解離しつつそれ自体で自立したフレームとして機能している。

*3:もちろんこれは『キイナ』と同じ文脈にある。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20090206

様々なる意匠を超えて

(1)『1Q84
村上春樹の『1Q84』読了。感想を一言で言うなら、変わっていないという印象が強い。村上春樹の特徴をここで整理しておくと(前回のエントリー参照)、第一に、ひたすら状況に巻き込まれるキャラクターの相がある。つまりキャラクターの行動は、「起こるべくして起こる」という印象を読者に与えるほど欲望を欠落させ、終始状況にしたがっているように見えるのである。そしてこのキャラクターの相を規定する形でナレーションの相がある。キャラクターの欲望(目標)を決して言い当てずに、翻弄し続ける黙説法的なナレーションの相である。彼の作品はこの二相のカップリングで成り立っていると言っていい。
この見取り図は、かつて蓮實重彦が『羊をめぐる冒険』について指摘していた説話型とも一致する(『小説から遠く離れて』)。つまり、「「黒幕」めいた不可視の権力者」と、その依頼を受けて――「依頼と代行」――「受動性に徹した「宝探し」」をする主人公のカップリングだ。
思えばこれまで村上春樹は、自作について物語批判をしているとおりにふれ語ってきたが(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』、読売新聞インタヴュー「『1Q84』への30年」http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm)、自分の語り口だけは頑なに変えてこなかった。人称・視点を変えるとか(1人称から3人称への転換)、複雑にするとか(『ねじまき鳥クロニクル』)いったレベルのマイナーチェンジをしてきたとはいえ、けっきょく黙説法的なナレーションを温存させたまま、「右翼の大物」(『羊をめぐる冒険』)が今回「カルト教団」に変わっただけとも言える。
村上春樹謎本を誘発するという話があるが、それもけっきょく黙説法的な物語の構造が起因している。つまり、語られない何ものかを軸にして物語が編制されるので、あらゆる物事が過剰に象徴的な価値を帯びてしまうのである。「リトルピープル」と「ビッグブラザー」の関係は何なのか? カルト教団とオウムはどういう関係にあるのか? 「空気さなぎ」とは何なのか? と読者の解釈を誘いながら、物語の細部――青豆が降りた首都高速や天吾が足を運んだ高円寺の「麦頭」や月の見える公園など――までも意味ありげなものに仕立てていく。
ただ今回は、語られない何ものかを明確にし相対化する志向性は見られた。それは物語(を語ること)に、いつになく可能性を見出している点である。
ふり返れば、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(1985)は、現実と虚構の世界をパラレルワールド的に展開し、最終的に虚構の世界を選択するという物語だった。それ以降、村上の物語世界は、語られない何ものかを積極的に摂り込んで、それを軸に物語を吊り支えるという構造に仕込んでいったわけだ。絶対的な悪と称されもするその「何ものか」とは、これまで右翼の大物だったり、歴史の暗部(戦争の記憶)だったり、家族の摂理だったりしたわけだけれど、今回はカルト教団を代入しながら、物語(を語ること)そのものにもその役割を積極的にになわせている。それがふかえりと天吾が語る「空気さなぎ」であり、青豆が取り込まれる「1Q84」の世界ということになる。そしてそれは、原理主義的なカルト教団のような悪との親和性を強めながら、天吾と青豆の固有の愛を育むことにも貢献するのだった。
今回は、作中に、黙説法的なレトリックに対する自己言及が随所にあったことにも注目したい。とくに黙説法に批判的な人たちに対して牽制するシーンがあったが、たとえば、「言葉にしなければ理解できないことは言葉にしても無駄だ」というフレーズは、作中にくり返し出てきている。村上春樹が自己の黙説法的なナレーションに対して非常に批評的なのだということがよくわかる点である。
しかし、彼特有のキャラクター設定は相変わらずだった。さえない男の周りに魅力的な女性が寄ってくるというハーレム方程式である。女性の数には困らないけれど、本当の女性にはまだ出会えていない(すでに失われている)という欲望の不在を前提にしているところも含め、ライトノベル美少女ゲームの一つの源泉と言われる所以である。
こうしてみると、村上春樹は、ナレーション(視点や人称を含む)に対する自己批評はあるのだが、しばしば注目されるキャラクター設定に関しては、実はまったくといっていいほど批評眼を向けていないということがよくわかる。だから今回も相変わらず、さえない男のポルノ小説とか美少女萌え小説と指摘されているが、村上にしてみればそのような批評なり評価――一例をあげると、眼前に起こること・現われることはすべて自分が望んだものではないという「徹した受動性」、いわば望まないレイプをくり返すキャラクターを消費する読者は、罪意識を持たずに性的搾取をしているとか――は重要ではないのだろう。
けっきょく、「起こるべくして起こる」という彼独特のキャラクターの相は、村上春樹の作品をトータルでとらえるには不十分なのだ。それは、くり返せば、欲望の不在をめぐる黙説法的ナレーションとのコンビネーションにおいて成り立っているのである。だからキャラクター(フィクション)の相の検証にあたっては、ナレーションとの関係を無視することはできない。その意味では、今回、語りえない何ものか(とくに『ねじまき鳥クロニクル』以降問題にされる歴史の暗部)の場所に、書き換え可能性という形で物語(を語ること)を置いたことは、彼のキャリアの中で注目すべきことだろう。そこのところは、アンチ村上春樹でも、思わずほろっとしてしまうところなのである。
とはいえ、その試みはナレーションの相全体を揺るがしたとは言えない。けっきょく黙説法的ナレーションの範囲にとどまる、マイナーチェンジだったのではないか。
(2)ナレーション
いずれにせよ、村上春樹には彼独特のナレーションがあり、それなりに批評的だということはわかった。デヴュー当時の「デタッチメント、アフォリズム」の語り口から、『羊をめぐる冒険』(1983)をきっかけに「だんだん「物語」に置き換えていった」(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』文庫本81頁)という彼の変遷も、この批評性に支えられていたと言っていい。
だから逆に、キャラクターに批評的な村上春樹というのはいささかイメージしにくい。ライトノベルの作家にはハルキ・チルドレンが多数いることが知られているが、彼らはキャラ設定に自覚的だし、周知の通り、「涼宮ハルヒ」シリーズのようにキャラに対して自己言及的な作品がいくらでもある。そうしてみると、けっきょく村上春樹は、ナレーションにこだわる点、きわめて純文学の作家なのだと言える。
とはいえ、ナレーションにこだわることが純文学だという意見に対して、純文学の作家でもナレーションにこだわるのは少数派ではないかという反論がありうるだろう。たとえば、劇作家でもある本谷有希子や前田司郎、私小説の語り口をシミュレーションする西村賢太といった最近活躍している作家はどうか、と。なるほど。しかし、彼らの作品を読むときも、彼らの読者はコンテンツよりも語り口に反応しているはずだ。むしろゼロ年代の純文学の(純文学を一つのフィールドとする)作家は、「政治と文学」や「国民文学」といった大きなトピックが失われたいま、よりナレーションに依存し、それぞれ競うように独特の語り口・語り方を編み出している。このような展開は、ナレーションが純文学の主要な要素であることを裏付けるものであろう。
もちろん、ナレーションにこだわるということは、ガチガチのメタフィクションのように物語批判をすることとイコールではない。読者を物語に入りやすいようにするのもナレーションの役割である。また、これまでのナラティヴ分析の成果が確証する通り、ナレーションを通して物語に厚みを持たせたり、解釈を多義的にすることも可能なのだ。村上春樹の黙説法的ナレーションもそのテクニックのうちの一つである。
古川日出男諏訪哲史鹿島田真希をはじめ、ゼロ年代にもメタフィクションを志向する作家がいるが、彼らも単なる物語批判をしているのではなく、物語を語ることを重要視していることは注意していい。ナレーションを際立たせた彼らのメタフィクション志向は、90年代の物語批判的なメタフィクションとは一線を画しているということである。ただし、ナレーションへの過剰なこだわりという点では、継承している側面もある。
いずれにせよ純文学は、コンテンツよりも語り口がジャンルの特性を表現している。それがラノベの場合はコンテンツよりもキャラクターになるし、ジャンル小説(SFやミステリなど)の場合はコンテンツよりもプロット、ということになる。もう少し厳密に言うと、コンテンツ(物語)を生かすも殺すも、純文学はナレーションが鍵を握るということである。場合によっては、ライトノベルのキャラ萌えと同じように、ナレーションの魅力だけで作品が成立する、川上未映子町田康のようなケースも当然あるわけだ。
いずれにせよ、これからますますナレーションが重要視されるだろう。もともとはラノベジャンル小説からスタートした舞城王太郎佐藤友哉がのちに純文学に近付いたのも、彼らが持つナレーションの固有性ゆえだろう。逆に、彼らと似たようなスタート地点(純文学とジャンル小説の境界)にいた西尾維新が、いまでもジャンル小説にとどまっている理由は、彼にとってはキャラクターとプロットの設定こそが基軸フレームだからである。彼には語り口の妙味もあるが、それが基軸フレームを揺るがしたり逸脱することはない。
(3)作家性
純文学がナレーションを不可欠とするジャンルだということは、作家個人に表現・創作の作家性がゆだねられるということである。他方、キャラクターやプロットが重要なジャンルは、それらの要素を共有財とする圧力が強く、二次創作が許容される環境を育むだろう。そこでは新たな素材(ネタ)を提供することが何より求められている。しかし、ナレーションの場合、それは作り手により帰属することになる。だから他の作家のナレーションを利用することは、批評的なスタンスに立っていない限り(パロディやリスペクトなど)、否定的に評価される(パクリや二番煎じなど)のがオチだ。
ジャンルの垣根が取り払われ、文学の概念・制度が流動化している昨今だが、そのような状況において純文学の作家はどのような対応を見せているだろうか。キャラクターやプロットに準拠するジャンルの場合は、それらの素材を要素分解してデータベース化し、共有財として活用できる環境が、ネットを中心に育まれている(ニコニコ動画ケータイ小説)。
注目を集め活況を呈するそれらの動向に対して、純文学は、しばしばすでに終わったジャンルのように遇され、実存信仰や自然主義的リアリズムというレッテルを貼られて、ラノベケータイ小説といった新しいジャンルを評価するための梃子にされてきた。無論そのようなレッテル貼りは、議論の展開に必要なケースもあることは理解するが、しょせん印象論でしかない。
くり返せば、ナレーションに準拠する純文学は、匿名的な集合知の圧力が強いジャンルよりも作家個人に表現・創作の根拠を置くジャンルである。パロディ・引用を徹底したり、覆面作家として振る舞っても(もちろん舞城のケース)、というよりそうすればするほどと言ってもいいが、個人の作家性が際立つ磁場を備えている。そのようなジャンルは、「複製技術の時代」(ベンヤミン)が徹底されて個人の制作よりも集合知に注目が集まる現代にあっては、旧体制に呪縛されたまま形骸化したジャンルと見做されがちだが、本当にそうなのだろうか。
無論そうではない。キャラクターやプロットに準拠するジャンルがそれに合わせて進化するように、純文学はナレーションに準拠する形で独自の進化を遂げている。たとえば、このブログでも何度か紹介してきた通り、ナレーションのメタフィクション批判を行いながら、これまでにない独自のナレーションを、フィクションとの関係で編み出す作家が登場しはじめている。諏訪哲史鹿島田真希が筆頭だが、彼らは作品ごとに語り口・語り方を変えつつ、散文とも詩とも批評的エッセイとも一概に言いがたい、ジャンル横断的な作品を発表している。彼らの仕事をみていると、これまでの文学のカテゴリーを当てにせずに、しばしば過去の作家・作品の語り口をエミュレートしては、そのつど語り口を変えながら作品を展示(インスタレーション)していくアーティストのように見える。何故このような作家が現われているのか。もう少し状況を俯瞰しながら、別の角度から説明してみよう。
(4)インスタレーション
純文学の作家は、文芸誌などの既成の文学システムに依存して活動することを当てにしなくなってきていることを、まずは指摘しておきたい。たとえば、彼らにとって文芸誌は自分の作品を発表する媒体の一つでしかなく、それによって作家(文壇の一員)であることを保証されるなどとは期待していない。彼らは自分たちの活動によって個別に文学を立ち上げているのだ。たとえば、古川日出男は、エンターテインメントから純文学にわたって作品を書き分け、ときに村上春樹のトリビュート作品を発表し、音読イベントなどをこなしている。同人誌や小雑誌の仕事も手広く請け負うので、文芸誌だけを追っていては全体像をまったくとらえられないほどの活動を展開している。この手のことは舞城王太郎佐藤友哉川上未映子らにも自明なことだろう。
逆に、文学の外からみてみると、岡田利規本谷有希子、前田司郎といった劇作家が文学のフィールドに入ってきて注目されているが、それは、彼らにとって文学が特別な何かを蔵しているからではない。ここでは文学に、語りえない何ものかなど存在しない。彼らはそれらを並列的・同時進行的にこなしているにすぎないのだ。古川らも同じである。文学を起点にしてはいるが、他ジャンルを横断するその活動は、文学を最終的な根拠にはしていない。
80−90年代のポストモダンと形容される作家、たとえば高橋源一郎島田雅彦奥泉光らもジャンル横断的な活動をしたが、彼らは最終的に文学を活動の担保にしていた。へえー、文学なのにこういうこと(サブカルなど)もやるんだ、といった感じ。当時は、映画(阿部和重)や音楽(中原昌也)、劇作(柳美里)など他ジャンルを導入して文学を相対化することが盛んだったが、それはけっきょく、文学をアイロニカルに肯定することに貢献するものだった(J文学=ジャンク万歳!)。
ゼロ年代の作家のジャンル横断性は、それとは異なる。彼らはアイロニーの欠片も見せず、一つ一つの芸をそれぞれ真面目にこなしながら、並列的・同時進行的に処理していく。そのような彼らの活動を、一種のインスタレーションと言うこともできるだろう。複数の作品を寄せ集め、従来の価値観(いわゆる文学)とは一線を画した独自の文脈――古川なら古川的というほかない文脈――を形成する試みという意味で。
ここではあくまでも作家個人が起点になる。そして彼らが一つ一つの作品を作る上で重要視するのはもちろんナレーションである。キャラクターやプロットに依拠した場合、個人の作家性を軸にしたナレーション及びインスタレーションを育むことは困難だからだ。キャラクターとプロットは二次加工を前提にした要素であり、匿名的な集団製作との親和性が高い。したがって個人の作家性を前提にした純文学のようなジャンルには不向きである。
たとえば、斉藤環はしばしば阿部和重を褒めるさいに(『文学の徴候』『関係の化学としての文学』)、アニメやマンガのキャラクターを自作に引用していることを例に挙げる。確かに阿部作品は斉藤の指摘する通り、パラノイアックに言い訳するナレーションと、キャラやプロットのパロディ癖のコンビネーションで成り立っている。しかし純文学においてキャラクターを際立たせることは、純文学を仮想敵にしたパロディ以上の意味合いしか持たず、純文学の長いスパンにおいてみると一過性のものにすぎない。
いずれにせよ、これまで個人の作家性やオリジナリティー神話を純文学に投影して批判がなされてきたが、個人の作家性に依拠したジャンル=旧制度、匿名的・集合知的な二次加工に適したジャンル=新制度という図式は、いまや成り立たないだろう。後者の論理で前者を批判なり評価する――ニコ動やウェブの比喩なり設計思想で阿部や古川を解説するとか――ことは、文芸批評としてはジャンルの特性を無視した一面的な評価でしかあるまい。
いま確認してきた通り、純文学の作家たちも(純文学の作家であるという自己認識があるかどうかは問わない)、そのジャンルの特性に合わせた変化を遂げているのである。
(5)三派鼎立ならぬ文学の三要素
自然主義的リアリズムと反自然主義があり、前者を純文学に代表させるという話は早計すぎる。むしろ、文学ジャンルには、描写や会話、内言などの副要素があり、その配分を規定する三つの主要素があると想定してみたい。それはもちろんナレーションとキャラクター、プロットの三要素だ。
主要素は、すでに指摘してきた通り純文学=ナレーションといったようにジャンルに左右されるが、各作品に応じてそれぞれ関与度が異なるという見方もできるだろう(ジャンル小説にもナレーションが無視できない作品もあるとか)。
何故この三つが主要素なのかというと、いずれも多岐にわたる種類を生み出し、蓄積してきた歴史があるということが先ず挙げられる(密室プロットの種類が数知れないようにキャラ属性もナレーションの種類も数知れない)。そしてさらに、いずれも、長い文学史のスパンにおいて再帰的(自己言及的)にくり返し問われた要素だからである。
私たちは知っている。たとえば、キャラ設定に、自己言及的なメタフィクション構造(自分のことを虚構内存在であることを知っているキャラクター)があるように、プロットにもメタフィクション構造(ミステリの叙述トリック、SFのタイムリープ、ホラーのメディア感染ものやバッドエンディング、自己言及的なファンタジーなど)があり、ナレーションにもメタフィクション構造があるのは周知の通りである。
そうだ。キャラクターについてまったく触れないラノベ論を思い浮かべてみればいい。あるいは、密室プロットについてまったく触れない密室もの論を、私たちは思い浮かべることができるだろうか。純文学も同じだ。ナレーションへのアプローチをしない純文学批評を、私は考えることができないのである。

文学におけるナレーションの効用――鹿島田真希と村上春樹

[rakuten:book:13177064:detail]
鹿島田真希論、書き終わりました。どこかの雑誌に載る予定なので、発売が近付いたときに改めて紹介します。
セールスポイントは、前回のエントリにも書いた通り、鹿島田作品をメタフィクション批判の観点から分析しているところです。それからもう一点。読者を物語(フィクション)に繋ぎ留めるためには、キャラクターを触媒にするジャンル(ライトノベル)と、プロットを触媒にするジャンル(SFやミステリなどエンターテインメント系ジャンル小説)がありますが、ナレーションを触媒にするジャンルもあり、それが純文学だということも論じています。
そもそも文学というジャンルは、成立当初からナレーションにこだわってきたジャンルだということを確認しておきたいわけです。構造主義の文脈からナラティヴ論が批評の言葉として立ち上がり、これまで洗練されてきたのも必然的なことだったと言っていいでしょう。福永信青木淳悟のように、フィクションを語ることに無関心なナレーションによって作品を作る作家が認められるジャンルだということは、何度も確認されていい。
ところで、近代文学が成立する以前を振り返っておくと、それは説話物語(昔話や戯作など)の時代です。説話物語は、物語とそこから安定した距離をとるナレーターとの関係で物語の豊富なヴァリエーションを生み出してきました。それに対して、近代文学は、物語(フィクション)との関係でいかにナレーションを組織するか、物語を生み出すためにその物語にいかにナレーションを関らせるかを試行錯誤してきたジャンルです。
近代文学は、それ以前の文学を支配していたナレーションのレベルを消去したという石川忠司氏(『現代小説のレッスン』)のような文学史観がありますが、それはやはり誤っている。むしろ、物語をリアリズムの空間にすべくナレーションを消去=中性化するようにつとめた時代が一時期あったととらえるべきです。つまり、リアリズムのためのナレーションは、近代文学の中で発明された各種ナレーション様式のごく一部にすぎないということですね。
フィクションと不可分の関係にあるナレーションのレベルは、近代という時代と深く関っています。ここで少しおさらいをしておくと、近代人特有の内面を「発見」(柄谷行人)し、育んできたのが近代文学であり、そのような内面を持ったキャラクターに重点を置いて物語を作ることが近代文学の使命でした。それこそ、文学の主脳は人情なりと断言した坪内逍遥以来です。
その内面(人情)とは、再帰的に自己言及する内面のことです。私とは何か、という問いですね。その問いは物語の内容のみならず、小説形式にも及ぶほど強烈なものでした。小説とは何か、どうあるべきかという問いです。その問いが、フィクションにナレーションをいかに関連させるかについて試行錯誤した文学史のエンジンだったといって言いでしょう。その結果、ナレーションが突出したメタフィクションが生み出されもしました。
いま近代文学の遺産が問い直されているのならば、フィクションとナレーションの関係を再考することも間違いではないでしょう。かくして鹿島田真希に、その応答の一つがあるというわけです。
ちなみに、ここで書いたことは、ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』の議論に置き換えることもできるでしょう。たとえば説話物語の時代は、古典主義のカメラ・オブスキュラに置き換えられます。それはイメージ生成のために観察者を必要としない視覚装置です。それに対して近代文学を、19世紀以降考案された様々な視覚装置――観察者をイメージ生成のために必要不可欠のものとする――に結び付けることができるわけです。
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仕事が一段落し、村上春樹の『1Q84』をようやく読みはじめました。読むたびに感じることだけれど、彼の作品は中毒性の麻薬みたいなもので、だからアディクトしながらなんとか対象化しなければならない、と強く思う。この作家に強烈なシンパと批判者が出来るのはやむないかなあとつくづく感じるわけです。僕の中にもこの二人がいるんだから。
村上春樹の物語の魅力は、一言でいうと、キャラクターの一挙手一投足や、キャラクターが巻き込まれる出来事が、起こるべくして起こるという書き方をしている点ですね。物語冒頭、青豆を乗せたタクシードライバーが「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」と予言的に語り、青豆も素直に受け入れてしまうシーンなんかまさにそれ。
ところで斉藤環氏が東浩紀の「ゲーム的リアリズム」を批判的に書き換えているんだけれど(『関係の化学としての文学』)、それが村上春樹を説明するのに都合がいい。つまり「ゲーム的リアリズム」のポイントは、キャラクターの欲望が関係を生み出すという点にあるということ。逆に、純文学(「自然主義的リアリズム」)は、関係が欲望を事後的に生成するというわけです。これは非常にうまい整理ですね。「ゲーム的リアリズム」の場合は、欲望が事前にあるから、それを軸にして物語の進行(キャラクターの動向)が、ゲームの選択肢のように起こるべくして起こるという展開になるほかない。
確かに村上春樹には初期からそういう一面がありますよね。かつて柄谷行人が、村上春樹には、ピンボールのように、説話論的な構造(関係の束)しかないと指摘した通りです(『終焉をめぐって』)。
しかし彼の特異なところは、その(関係を生み出す)欲望が最初から最後まで空虚だという点です。そういえば、どこにもたどり着かないタクシー乗車からはじまるこの小説は、どこにもたどり着かないエレベーターからはじまる『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を想起させますが、それは、書くことが何もないという宣言からはじまったデヴュー作の反復だとも言えるでしょう。
いずれにせよ村上作品では、キャラクターは自分の行動が何に起因し、何に帰結するのかが分かっていないし、明確に問いもしない(近代人特有の内面の不在)。突発的な出来事(依頼や訪問)が挿入されるたびに、とりあえず行動を起こすことをくり返すわけです。
しかし漠然とした不安はあり、何か得体の知れないものに動かされているという感触だけが(とくに読者には)確かにある。それが村上作品の大きな特徴といっていいでしょう。
村上春樹は最近、この得体の知れない何ものかについて「システム」という言葉で明確に自註しましたが、これは注目していい(エルサレム賞授賞式スピーチhttp://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290)。このような村上のスタイルは、これまで「黙説法」として批判を受けてきもしたわけですが(『不敬文学論序説』渡部直己)、もっと踏み込んで考える必要があるでしょう。いずれにせよ、「黙説法」的ナレーション、そして今回も使われているダブルプロット(青豆と天吾)、それからメトニミー的な表現法は、得体の知れない何ものかを物語に刻印する上で、これまでの村上作品で積極的に活用されてきたわけです(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081123)。それだけに批判の的でもあった。
しかし、この「黙説法」的に浮かび上がらせる「システム」というメタレベルは、ゲームのように動かされるキャラクター(および構造が露出しているフィクション)に対する批判でもあり、またその駆動因(欲望の不在という形で)でもあるという点を忘れるべきではないでしょう。
村上春樹の魅力はここにあるのであり、評価を強く二分してきた理由もここにあります。むろんサブカルチャー批評との相性も抜群にいい。たとえば大塚英志氏は、村上春樹のキャラクターの心理や感情は、固有のものとして内在してはおらず、商業的な情報を通して(メトニミー的に)表現されると指摘したことがある(『サブカルチャー文学論』)。
しかし、村上はサブカルチャーだから(ゲームみたいだから)ダメなんだという立場も、だからこそいいんだという立場も、「ゲーム的リアリズム」に支配されたフィクションと、「システム」を形象化する黙説法的なナレーションのいずれか一方にしか注目してこなかった。今後はこの双方の相補的な解離の関係をとらえる必要があるはずです。

メタフィクションを「降りる」方法

文学フリマに行きました。「Children」を売り捌いていた条さん、ジャムさんお疲れ様でした。初対面なので、ドキドキしててうまく喋れなかったよ。ところで、kugyo氏がその文学フリマで手に入れた同人誌55タイトル全レヴューを「24」(ジャック・バウアー)のノリで試みるという、思わずうわって仰け反りたくなる企画を立てていて(http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090510)、これも違う意味でドキドキする。

    1. +

最近は、メタフィクションを「降りる」方法について考えている。言い換えれば、文学におけるシニシズムの克服ということになるが、最近の青木純一氏の取り組みにも啓発を受けている。
これから書くことは恐らく「早稲田文学」に載せる予定のもので(決定ではない)、大まかなアウトラインのみ今回提示しておく。とにかく、問題はシニシズムの克服だ。
たとえば、鹿島田真希という作家がいる。このブログにもその痕跡が刻まれているが、僕にとっての鬼門である。彼女の表現で不可解なことは山ほどあるのだけれど、シニシズム関連で一つあげれば、彼女の描く物語の内容(キャラクターの発言内容)はアイロニーに満ちていてシニシズムの塊りといっていいのに、語り口は全然アイロニーを感じさせないという点がある。そういう体験をさせられるのだが、それは何故だろうか。
ところで、小説というジャンルは、ナレーション(語り方)とフィクション(物語内容)で成り立っているというのが、ナラティヴ論の成立以来自明な分析枠組みだが、さかのぼればこれはギリシア時代の作劇法におけるディエゲーシスとミメーシスの区分にも当てはまるものだろう。
小説のライティングには様々なアプローチがあるけれど、まずいえることは、フィクションの単調さを避けるためにナレーションを介入させて多義的な解釈をもたらすなどフィクションに深みを持たせることが重要とされてきた(その典型例が自由間接話法と間接話法の積極活用)。
このようなフィクションの単調さを避けるためのアプローチを、描写・内言・会話といったフィクションを構成する諸要素から説明してみせたのが、石川忠司氏『現代小説のレッスン』の貴重な試みだったわけだ。ただし、石川氏はナレーションのレベルはとりあえず問わなかった。
とはいえ、とくに描写と内言にいえることだが、近代文学の要とされているこの二大要素は、長い文学史に置いてみると、重要視された時期は実は限定的なものにすぎない(この辺のテーマで面白い最近の論考は「文学界」5・6月号所収「メガ・クリティック」池田雄一)。先ほどの区分で言えば、フィクションに対してナレーションの役割を相対的に低下させることが目指されたときに、フィクションの中のとりわけ描写と内言が注目を集めることになったわけだ。
その意味では、小説にとっての重要な枠組みは何よりナレーションとフィクションの関係なのである。最近しばしば見られる、私語り(内言)の肥大とナレーションの突出ぶりを説明するためにもこの枠組みは有効であろう。
石川氏は、小説のエンターテインメントのためにナレーションのレベルを抑圧したのだろうが、文学史を眺めてみれば、少なくともナレーションがフィクションのエンターテインメント性を阻害するという発想は出てこないはずなのだ。
しかし、フィクションの進行を阻害する目的でナレーションの過剰介入が目論まれるケースも多々あり(物語批判)、それこそ文学的だという評価さえしばしば聞かれることもあったことは事実である。それが文学のシニシズムをもたらしたといえるだろう。文学の「終焉」とか「メルトダウン」とか「不良債権化」とかね。
このような事態に対して、批評家は別のジャンルに鞍替えすれば済むのだけれど、作家は自分の問題として取り組まなければならないし、実際に成果を上げてもきた。注目すべき作家の中で、大きく分けて二方向のアプローチがあると考えられる。
まず一つは、メタフィクションの自己言及的相対化とでもいうべきアプローチだろう。古川日出男諏訪哲史が代表的な作家である。彼らにとっては、フィクションに対してナレーションのレベルがあくまでも主軸である。つまり、ナレーションに複雑な手を加えること(というメタフィクション的な方法)で、フィクションをメタフィクションのアイロニカルな循環から解放しようとしている。このアプローチは両義的ゆえに極めてアクロバチックに見えることだろう。オトコノコの苦肉の策だよね。僕もオトコノコだから彼らのアプローチは比較的理解できるような気がする。気のせいかもしれないけれど。
これに対して、僕にとってとても不可解な鹿島田真希は、意外にも、もっとシンプルだったりする。つまり、二つのレベルを特異な方法で関係させるアプローチである。このとき重要なのは、メタフィクションを避けるために、ナレーションをフィクションに対して劣位に置くか同等のレベルに置くこと。
フィクションとナレーションを同期させない最新作『ゼロの王国』はいわずもがなだが、この作品の詳細に関しては伊藤亜紗氏の素晴らしい分析(「ReviewHouse02」所収「恥じらいと呪い――鹿島田真希「ゼロの王国」の会話術」)がすでにあるので、是非それを読むこと。正教徒・鹿島田真希のキャラクターを、「逆遠近法的」イコンとして読む可能性が広がるだろう(「思想地図vol1」所収「キャラクターが、見ている」黒瀬陽平)。
二つのレベルの関係のさせ方は作品ごとにいくつかあるが、ここで一つあげておくと、キャラクターBに対して視点人物となるキャラクターAが一方的に想像をめぐらせるというものがある。たとえば『ピカルディーの三度』とか『女の庭』。キャラクターAの想像がBをめぐるフィクションのナレーションになるのだが、ここでは、ナレーションはフィクションを統括するポジションには立てず、むしろフィクションから生成していくという関係にあるといっていい。

    1. +

明日は鹿島田真希佐々木敦の対談があるんだそうだ。行きたいなあ。