感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『BOSS』VS『MR.BRAIN』

この春は刑事・探偵もののドラマに収穫があったので報告。まずは『MR.BRAIN』(TBS、http://www.tbs.co.jp/mr-brain/)。今週で最終回とは残念すぎる。
最初は、キムタク版「古畑」!?と疑ったり(犯人役が有名人ゆえの倒叙トリックの活用という図式は「古畑」だし木村拓哉自身古畑の物真似をするから)、総花的なキャスティングで散漫な印象を受けそうになったが、ゼロ年代的な刑事・探偵ものとして評価すべき作品であることは間違いない。香川照之水嶋ヒロの刑事コンビも回を重ねるごとにキャラ設定がしっかりしてきて味が出てきたところなのに。
ところでこの作品のポイントは、事件の謎解きと、犯人を自供に追いやる契機に脳科学のフレームを不可欠の要素として導入するところである。脳科学の教養とそれをふまえた発想を、事件の解決にいかにリンクさせるかがこの作品の見せ所というわけだ。それがうまく絡まない回のときもあるが、おおむね成功していたと言っていい。
先に終わったが、『BOSS』(フジテレビ、http://wwwz.fujitv.co.jp/BOSS/index.html)も楽しかった。戸田恵梨香の、『DEATHNOTE』に呪縛されたかのような緊縛プレイシーンとエルキャラは見ものだったが、個性的なキャラを贅沢に登場させながら全体的には関係性が深められないまま終わってしまった感がある。『MR.BRAIN』と同様、キャラクター設定には新味がないと言えるだろう。
肝心の物語だが、この作品は90年代のサスペンス(プロファイリング、陰謀論、猟奇殺人、ネット、多重人格、トラウマ)を手際よく再調理してみせた話が多かった。そもそも主演の天海祐希はプロファイリングと交渉術の名手である。
だからプロットだけを追っていると、『BOSS』より『MR.BRAIN』の方が圧倒的に斬新に見える。プロファイリングと脳科学を比べたらその印象もやむをえないだろう。
両作品の比較検証をすると(以下ネタバレ)、たとえば、両作品とも同じ素材を扱った話がある(『BOSS』は9話、『MR.BRAIN』は5・6話)。前者は、90年代のサスペンス映画をよく観ている人なら途中でこの作品の狙いが分かったはずだ。けっきょく犯人が多重人格だったというオチがこの作品のハイライトで、そこにいたる伏線がところどころ映像効果として叙述トリック的に配されている。謎が解かれる段階でそれを知って視聴者はカタルシスに浸ることができるというわけだ。
これに対して『MR.BRAIN』の多重人格の料理の仕方は異なる。最初から犯人が多重人格であることがキャストにも視聴者にも知らされているのである。その上で脳科学者・木村拓哉が、犯人が本当に多重人格か否かを脳科学的に検証し、脳科学のフレームをリンクさせて謎解きに繋げるという展開をみせるのだ。謎解き・事件解決としてはかなりアクロバティックだが、作り手は現代の刑事・探偵ものの置かれた状況をよく理解した上でこの一手を打ち出しているのだろう。ちなみに、この話では、かつての失敗を引きずったプロファイラーが脳科学者・木村に小ばかにされながら立ち直るきっかけを掴むシーンがあって、これもなかなか憎い演出と言えるだろう。
しかしそれでは『BOSS』が古いのかというとそんなことはない。この作品のポイントはプロットではなく、ナレーション(視点)にあるわけで、そこを評価できないと、単なる90年代的サスペンスの焼き直しにしか見えない*1。では、ナレーション(視点)がポイントとはどういうことか。
その鍵は天海演じる大澤絵里子の(プロファイルをふまえた)交渉術にある。事件の謎解きと、犯人を自白に追いやるために彼女は、交渉術(心理戦的トラップといってもいい)を仕掛ける。この交渉は視聴者には見えない形で進められる。叙述トリックのヴァリエーションといっていいが、とにかくこのプロセスの間は、視聴者も、犯人(あるいは大澤の同僚刑事)と同じ視点しか与えられず、大澤の交渉術にはめられている状態が続く。ここで大澤は、事件解決の展開(視聴者が見える次元)と別の次元を操作しながら行動を起こしているわけである。
だからこの作品は、どこで大澤は犯人が分かったのか(どの時点から交渉術を起こしたのか)が、事件解決以上に重要なポイントになっており、解決後にその時点が必ず振り返られるだろう。
もちろん他の作品でも、犯人に自供させるために刑事が小芝居をうつことはある(たとえば『古畑任三郎』の木村拓哉がゲストの回)。しかしたいていそれは視聴者にも知らされている。それは事件解決のために用いられる他の作業と同等の意義しか与えられていないと言えよう。
『BOSS』の場合は、それが自立するほど主要な要素として位置付けられているのである。だから視聴者が、それまで見せられてきた展開と、大澤が操作する交渉術との調整をうまくこなせないほど解離するケースもある(たとえば3話は、大澤が一人飛躍しすぎて視聴者的には共感のチャンスを失う)。『BOSS』は、このように、視聴者にとって可視的な事件解決の展開のフレームと、大澤が仕掛ける交渉術のフレームとの、二つのフレームを重ね合わせながら作られているのである。
さらに重要なのは、これは、90年代後半にはやった陰謀論的なダブルフレームではないということだ。陰謀論は、事件解決が不可能であることを指し示すメタレベルのフレームを設定する(たとえば『ケイゾク』)。あるいは、『アンフェア』のように、仲間が実は裏切り者だったという設定。これは誰が敵か味方かの解釈ゲーム(誰がメタレベルに立てるかの決断主義的ゲーム)が前提にあり、それは事件解決のフレームとは直接関係がない。単に、犯人が身内にいてびっくり、という話だ。しかし『BOSS』の場合は、交渉する不可視のフレームは、事件の展開と解離しながら不可分に関る関係にあるのである(本作も陰謀論の要素を孕みながら、けっきょく交渉術のフレームに抑えこまれる)*2
まとめると、一見普通のウェルメイドな刑事・探偵ものに見えるが、かなり複雑な操作をして作られた作品だったと言える。『MR.BRAIN』がプロットレベルでダブルフレームを設定した(ミステリと脳科学*3のと同じように、『BOSS』は、ナレーションのレベルでそれを行ったという話。

*1:ただし、『BOSS』の7話と9話は、メインの林宏司の脚本ではなく、『BOSS』の重要なポイントである交渉術・心理戦の要素がほぼ欠落している。したがって単なる90年代的サスペンスの焼き直しの印象を強める。

*2:大澤の交渉術フレームは、事件解決のための単なる一手段(古畑)ではなく、また、事件解決を失調させる要因(『ケイゾク』)でもなく、事件解決を外在的に撹乱する要因(『アンフェア』)でもないということ。それは事件解決のための不可欠な要因でありながら、解離しつつそれ自体で自立したフレームとして機能している。

*3:もちろんこれは『キイナ』と同じ文脈にある。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20090206