感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

文学におけるナレーションの効用――鹿島田真希と村上春樹

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鹿島田真希論、書き終わりました。どこかの雑誌に載る予定なので、発売が近付いたときに改めて紹介します。
セールスポイントは、前回のエントリにも書いた通り、鹿島田作品をメタフィクション批判の観点から分析しているところです。それからもう一点。読者を物語(フィクション)に繋ぎ留めるためには、キャラクターを触媒にするジャンル(ライトノベル)と、プロットを触媒にするジャンル(SFやミステリなどエンターテインメント系ジャンル小説)がありますが、ナレーションを触媒にするジャンルもあり、それが純文学だということも論じています。
そもそも文学というジャンルは、成立当初からナレーションにこだわってきたジャンルだということを確認しておきたいわけです。構造主義の文脈からナラティヴ論が批評の言葉として立ち上がり、これまで洗練されてきたのも必然的なことだったと言っていいでしょう。福永信青木淳悟のように、フィクションを語ることに無関心なナレーションによって作品を作る作家が認められるジャンルだということは、何度も確認されていい。
ところで、近代文学が成立する以前を振り返っておくと、それは説話物語(昔話や戯作など)の時代です。説話物語は、物語とそこから安定した距離をとるナレーターとの関係で物語の豊富なヴァリエーションを生み出してきました。それに対して、近代文学は、物語(フィクション)との関係でいかにナレーションを組織するか、物語を生み出すためにその物語にいかにナレーションを関らせるかを試行錯誤してきたジャンルです。
近代文学は、それ以前の文学を支配していたナレーションのレベルを消去したという石川忠司氏(『現代小説のレッスン』)のような文学史観がありますが、それはやはり誤っている。むしろ、物語をリアリズムの空間にすべくナレーションを消去=中性化するようにつとめた時代が一時期あったととらえるべきです。つまり、リアリズムのためのナレーションは、近代文学の中で発明された各種ナレーション様式のごく一部にすぎないということですね。
フィクションと不可分の関係にあるナレーションのレベルは、近代という時代と深く関っています。ここで少しおさらいをしておくと、近代人特有の内面を「発見」(柄谷行人)し、育んできたのが近代文学であり、そのような内面を持ったキャラクターに重点を置いて物語を作ることが近代文学の使命でした。それこそ、文学の主脳は人情なりと断言した坪内逍遥以来です。
その内面(人情)とは、再帰的に自己言及する内面のことです。私とは何か、という問いですね。その問いは物語の内容のみならず、小説形式にも及ぶほど強烈なものでした。小説とは何か、どうあるべきかという問いです。その問いが、フィクションにナレーションをいかに関連させるかについて試行錯誤した文学史のエンジンだったといって言いでしょう。その結果、ナレーションが突出したメタフィクションが生み出されもしました。
いま近代文学の遺産が問い直されているのならば、フィクションとナレーションの関係を再考することも間違いではないでしょう。かくして鹿島田真希に、その応答の一つがあるというわけです。
ちなみに、ここで書いたことは、ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』の議論に置き換えることもできるでしょう。たとえば説話物語の時代は、古典主義のカメラ・オブスキュラに置き換えられます。それはイメージ生成のために観察者を必要としない視覚装置です。それに対して近代文学を、19世紀以降考案された様々な視覚装置――観察者をイメージ生成のために必要不可欠のものとする――に結び付けることができるわけです。
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仕事が一段落し、村上春樹の『1Q84』をようやく読みはじめました。読むたびに感じることだけれど、彼の作品は中毒性の麻薬みたいなもので、だからアディクトしながらなんとか対象化しなければならない、と強く思う。この作家に強烈なシンパと批判者が出来るのはやむないかなあとつくづく感じるわけです。僕の中にもこの二人がいるんだから。
村上春樹の物語の魅力は、一言でいうと、キャラクターの一挙手一投足や、キャラクターが巻き込まれる出来事が、起こるべくして起こるという書き方をしている点ですね。物語冒頭、青豆を乗せたタクシードライバーが「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」と予言的に語り、青豆も素直に受け入れてしまうシーンなんかまさにそれ。
ところで斉藤環氏が東浩紀の「ゲーム的リアリズム」を批判的に書き換えているんだけれど(『関係の化学としての文学』)、それが村上春樹を説明するのに都合がいい。つまり「ゲーム的リアリズム」のポイントは、キャラクターの欲望が関係を生み出すという点にあるということ。逆に、純文学(「自然主義的リアリズム」)は、関係が欲望を事後的に生成するというわけです。これは非常にうまい整理ですね。「ゲーム的リアリズム」の場合は、欲望が事前にあるから、それを軸にして物語の進行(キャラクターの動向)が、ゲームの選択肢のように起こるべくして起こるという展開になるほかない。
確かに村上春樹には初期からそういう一面がありますよね。かつて柄谷行人が、村上春樹には、ピンボールのように、説話論的な構造(関係の束)しかないと指摘した通りです(『終焉をめぐって』)。
しかし彼の特異なところは、その(関係を生み出す)欲望が最初から最後まで空虚だという点です。そういえば、どこにもたどり着かないタクシー乗車からはじまるこの小説は、どこにもたどり着かないエレベーターからはじまる『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を想起させますが、それは、書くことが何もないという宣言からはじまったデヴュー作の反復だとも言えるでしょう。
いずれにせよ村上作品では、キャラクターは自分の行動が何に起因し、何に帰結するのかが分かっていないし、明確に問いもしない(近代人特有の内面の不在)。突発的な出来事(依頼や訪問)が挿入されるたびに、とりあえず行動を起こすことをくり返すわけです。
しかし漠然とした不安はあり、何か得体の知れないものに動かされているという感触だけが(とくに読者には)確かにある。それが村上作品の大きな特徴といっていいでしょう。
村上春樹は最近、この得体の知れない何ものかについて「システム」という言葉で明確に自註しましたが、これは注目していい(エルサレム賞授賞式スピーチhttp://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218/1234913290)。このような村上のスタイルは、これまで「黙説法」として批判を受けてきもしたわけですが(『不敬文学論序説』渡部直己)、もっと踏み込んで考える必要があるでしょう。いずれにせよ、「黙説法」的ナレーション、そして今回も使われているダブルプロット(青豆と天吾)、それからメトニミー的な表現法は、得体の知れない何ものかを物語に刻印する上で、これまでの村上作品で積極的に活用されてきたわけです(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081123)。それだけに批判の的でもあった。
しかし、この「黙説法」的に浮かび上がらせる「システム」というメタレベルは、ゲームのように動かされるキャラクター(および構造が露出しているフィクション)に対する批判でもあり、またその駆動因(欲望の不在という形で)でもあるという点を忘れるべきではないでしょう。
村上春樹の魅力はここにあるのであり、評価を強く二分してきた理由もここにあります。むろんサブカルチャー批評との相性も抜群にいい。たとえば大塚英志氏は、村上春樹のキャラクターの心理や感情は、固有のものとして内在してはおらず、商業的な情報を通して(メトニミー的に)表現されると指摘したことがある(『サブカルチャー文学論』)。
しかし、村上はサブカルチャーだから(ゲームみたいだから)ダメなんだという立場も、だからこそいいんだという立場も、「ゲーム的リアリズム」に支配されたフィクションと、「システム」を形象化する黙説法的なナレーションのいずれか一方にしか注目してこなかった。今後はこの双方の相補的な解離の関係をとらえる必要があるはずです。