感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

様々なる意匠を超えて

(1)『1Q84
村上春樹の『1Q84』読了。感想を一言で言うなら、変わっていないという印象が強い。村上春樹の特徴をここで整理しておくと(前回のエントリー参照)、第一に、ひたすら状況に巻き込まれるキャラクターの相がある。つまりキャラクターの行動は、「起こるべくして起こる」という印象を読者に与えるほど欲望を欠落させ、終始状況にしたがっているように見えるのである。そしてこのキャラクターの相を規定する形でナレーションの相がある。キャラクターの欲望(目標)を決して言い当てずに、翻弄し続ける黙説法的なナレーションの相である。彼の作品はこの二相のカップリングで成り立っていると言っていい。
この見取り図は、かつて蓮實重彦が『羊をめぐる冒険』について指摘していた説話型とも一致する(『小説から遠く離れて』)。つまり、「「黒幕」めいた不可視の権力者」と、その依頼を受けて――「依頼と代行」――「受動性に徹した「宝探し」」をする主人公のカップリングだ。
思えばこれまで村上春樹は、自作について物語批判をしているとおりにふれ語ってきたが(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』、読売新聞インタヴュー「『1Q84』への30年」http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm)、自分の語り口だけは頑なに変えてこなかった。人称・視点を変えるとか(1人称から3人称への転換)、複雑にするとか(『ねじまき鳥クロニクル』)いったレベルのマイナーチェンジをしてきたとはいえ、けっきょく黙説法的なナレーションを温存させたまま、「右翼の大物」(『羊をめぐる冒険』)が今回「カルト教団」に変わっただけとも言える。
村上春樹謎本を誘発するという話があるが、それもけっきょく黙説法的な物語の構造が起因している。つまり、語られない何ものかを軸にして物語が編制されるので、あらゆる物事が過剰に象徴的な価値を帯びてしまうのである。「リトルピープル」と「ビッグブラザー」の関係は何なのか? カルト教団とオウムはどういう関係にあるのか? 「空気さなぎ」とは何なのか? と読者の解釈を誘いながら、物語の細部――青豆が降りた首都高速や天吾が足を運んだ高円寺の「麦頭」や月の見える公園など――までも意味ありげなものに仕立てていく。
ただ今回は、語られない何ものかを明確にし相対化する志向性は見られた。それは物語(を語ること)に、いつになく可能性を見出している点である。
ふり返れば、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(1985)は、現実と虚構の世界をパラレルワールド的に展開し、最終的に虚構の世界を選択するという物語だった。それ以降、村上の物語世界は、語られない何ものかを積極的に摂り込んで、それを軸に物語を吊り支えるという構造に仕込んでいったわけだ。絶対的な悪と称されもするその「何ものか」とは、これまで右翼の大物だったり、歴史の暗部(戦争の記憶)だったり、家族の摂理だったりしたわけだけれど、今回はカルト教団を代入しながら、物語(を語ること)そのものにもその役割を積極的にになわせている。それがふかえりと天吾が語る「空気さなぎ」であり、青豆が取り込まれる「1Q84」の世界ということになる。そしてそれは、原理主義的なカルト教団のような悪との親和性を強めながら、天吾と青豆の固有の愛を育むことにも貢献するのだった。
今回は、作中に、黙説法的なレトリックに対する自己言及が随所にあったことにも注目したい。とくに黙説法に批判的な人たちに対して牽制するシーンがあったが、たとえば、「言葉にしなければ理解できないことは言葉にしても無駄だ」というフレーズは、作中にくり返し出てきている。村上春樹が自己の黙説法的なナレーションに対して非常に批評的なのだということがよくわかる点である。
しかし、彼特有のキャラクター設定は相変わらずだった。さえない男の周りに魅力的な女性が寄ってくるというハーレム方程式である。女性の数には困らないけれど、本当の女性にはまだ出会えていない(すでに失われている)という欲望の不在を前提にしているところも含め、ライトノベル美少女ゲームの一つの源泉と言われる所以である。
こうしてみると、村上春樹は、ナレーション(視点や人称を含む)に対する自己批評はあるのだが、しばしば注目されるキャラクター設定に関しては、実はまったくといっていいほど批評眼を向けていないということがよくわかる。だから今回も相変わらず、さえない男のポルノ小説とか美少女萌え小説と指摘されているが、村上にしてみればそのような批評なり評価――一例をあげると、眼前に起こること・現われることはすべて自分が望んだものではないという「徹した受動性」、いわば望まないレイプをくり返すキャラクターを消費する読者は、罪意識を持たずに性的搾取をしているとか――は重要ではないのだろう。
けっきょく、「起こるべくして起こる」という彼独特のキャラクターの相は、村上春樹の作品をトータルでとらえるには不十分なのだ。それは、くり返せば、欲望の不在をめぐる黙説法的ナレーションとのコンビネーションにおいて成り立っているのである。だからキャラクター(フィクション)の相の検証にあたっては、ナレーションとの関係を無視することはできない。その意味では、今回、語りえない何ものか(とくに『ねじまき鳥クロニクル』以降問題にされる歴史の暗部)の場所に、書き換え可能性という形で物語(を語ること)を置いたことは、彼のキャリアの中で注目すべきことだろう。そこのところは、アンチ村上春樹でも、思わずほろっとしてしまうところなのである。
とはいえ、その試みはナレーションの相全体を揺るがしたとは言えない。けっきょく黙説法的ナレーションの範囲にとどまる、マイナーチェンジだったのではないか。
(2)ナレーション
いずれにせよ、村上春樹には彼独特のナレーションがあり、それなりに批評的だということはわかった。デヴュー当時の「デタッチメント、アフォリズム」の語り口から、『羊をめぐる冒険』(1983)をきっかけに「だんだん「物語」に置き換えていった」(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』文庫本81頁)という彼の変遷も、この批評性に支えられていたと言っていい。
だから逆に、キャラクターに批評的な村上春樹というのはいささかイメージしにくい。ライトノベルの作家にはハルキ・チルドレンが多数いることが知られているが、彼らはキャラ設定に自覚的だし、周知の通り、「涼宮ハルヒ」シリーズのようにキャラに対して自己言及的な作品がいくらでもある。そうしてみると、けっきょく村上春樹は、ナレーションにこだわる点、きわめて純文学の作家なのだと言える。
とはいえ、ナレーションにこだわることが純文学だという意見に対して、純文学の作家でもナレーションにこだわるのは少数派ではないかという反論がありうるだろう。たとえば、劇作家でもある本谷有希子や前田司郎、私小説の語り口をシミュレーションする西村賢太といった最近活躍している作家はどうか、と。なるほど。しかし、彼らの作品を読むときも、彼らの読者はコンテンツよりも語り口に反応しているはずだ。むしろゼロ年代の純文学の(純文学を一つのフィールドとする)作家は、「政治と文学」や「国民文学」といった大きなトピックが失われたいま、よりナレーションに依存し、それぞれ競うように独特の語り口・語り方を編み出している。このような展開は、ナレーションが純文学の主要な要素であることを裏付けるものであろう。
もちろん、ナレーションにこだわるということは、ガチガチのメタフィクションのように物語批判をすることとイコールではない。読者を物語に入りやすいようにするのもナレーションの役割である。また、これまでのナラティヴ分析の成果が確証する通り、ナレーションを通して物語に厚みを持たせたり、解釈を多義的にすることも可能なのだ。村上春樹の黙説法的ナレーションもそのテクニックのうちの一つである。
古川日出男諏訪哲史鹿島田真希をはじめ、ゼロ年代にもメタフィクションを志向する作家がいるが、彼らも単なる物語批判をしているのではなく、物語を語ることを重要視していることは注意していい。ナレーションを際立たせた彼らのメタフィクション志向は、90年代の物語批判的なメタフィクションとは一線を画しているということである。ただし、ナレーションへの過剰なこだわりという点では、継承している側面もある。
いずれにせよ純文学は、コンテンツよりも語り口がジャンルの特性を表現している。それがラノベの場合はコンテンツよりもキャラクターになるし、ジャンル小説(SFやミステリなど)の場合はコンテンツよりもプロット、ということになる。もう少し厳密に言うと、コンテンツ(物語)を生かすも殺すも、純文学はナレーションが鍵を握るということである。場合によっては、ライトノベルのキャラ萌えと同じように、ナレーションの魅力だけで作品が成立する、川上未映子町田康のようなケースも当然あるわけだ。
いずれにせよ、これからますますナレーションが重要視されるだろう。もともとはラノベジャンル小説からスタートした舞城王太郎佐藤友哉がのちに純文学に近付いたのも、彼らが持つナレーションの固有性ゆえだろう。逆に、彼らと似たようなスタート地点(純文学とジャンル小説の境界)にいた西尾維新が、いまでもジャンル小説にとどまっている理由は、彼にとってはキャラクターとプロットの設定こそが基軸フレームだからである。彼には語り口の妙味もあるが、それが基軸フレームを揺るがしたり逸脱することはない。
(3)作家性
純文学がナレーションを不可欠とするジャンルだということは、作家個人に表現・創作の作家性がゆだねられるということである。他方、キャラクターやプロットが重要なジャンルは、それらの要素を共有財とする圧力が強く、二次創作が許容される環境を育むだろう。そこでは新たな素材(ネタ)を提供することが何より求められている。しかし、ナレーションの場合、それは作り手により帰属することになる。だから他の作家のナレーションを利用することは、批評的なスタンスに立っていない限り(パロディやリスペクトなど)、否定的に評価される(パクリや二番煎じなど)のがオチだ。
ジャンルの垣根が取り払われ、文学の概念・制度が流動化している昨今だが、そのような状況において純文学の作家はどのような対応を見せているだろうか。キャラクターやプロットに準拠するジャンルの場合は、それらの素材を要素分解してデータベース化し、共有財として活用できる環境が、ネットを中心に育まれている(ニコニコ動画ケータイ小説)。
注目を集め活況を呈するそれらの動向に対して、純文学は、しばしばすでに終わったジャンルのように遇され、実存信仰や自然主義的リアリズムというレッテルを貼られて、ラノベケータイ小説といった新しいジャンルを評価するための梃子にされてきた。無論そのようなレッテル貼りは、議論の展開に必要なケースもあることは理解するが、しょせん印象論でしかない。
くり返せば、ナレーションに準拠する純文学は、匿名的な集合知の圧力が強いジャンルよりも作家個人に表現・創作の根拠を置くジャンルである。パロディ・引用を徹底したり、覆面作家として振る舞っても(もちろん舞城のケース)、というよりそうすればするほどと言ってもいいが、個人の作家性が際立つ磁場を備えている。そのようなジャンルは、「複製技術の時代」(ベンヤミン)が徹底されて個人の制作よりも集合知に注目が集まる現代にあっては、旧体制に呪縛されたまま形骸化したジャンルと見做されがちだが、本当にそうなのだろうか。
無論そうではない。キャラクターやプロットに準拠するジャンルがそれに合わせて進化するように、純文学はナレーションに準拠する形で独自の進化を遂げている。たとえば、このブログでも何度か紹介してきた通り、ナレーションのメタフィクション批判を行いながら、これまでにない独自のナレーションを、フィクションとの関係で編み出す作家が登場しはじめている。諏訪哲史鹿島田真希が筆頭だが、彼らは作品ごとに語り口・語り方を変えつつ、散文とも詩とも批評的エッセイとも一概に言いがたい、ジャンル横断的な作品を発表している。彼らの仕事をみていると、これまでの文学のカテゴリーを当てにせずに、しばしば過去の作家・作品の語り口をエミュレートしては、そのつど語り口を変えながら作品を展示(インスタレーション)していくアーティストのように見える。何故このような作家が現われているのか。もう少し状況を俯瞰しながら、別の角度から説明してみよう。
(4)インスタレーション
純文学の作家は、文芸誌などの既成の文学システムに依存して活動することを当てにしなくなってきていることを、まずは指摘しておきたい。たとえば、彼らにとって文芸誌は自分の作品を発表する媒体の一つでしかなく、それによって作家(文壇の一員)であることを保証されるなどとは期待していない。彼らは自分たちの活動によって個別に文学を立ち上げているのだ。たとえば、古川日出男は、エンターテインメントから純文学にわたって作品を書き分け、ときに村上春樹のトリビュート作品を発表し、音読イベントなどをこなしている。同人誌や小雑誌の仕事も手広く請け負うので、文芸誌だけを追っていては全体像をまったくとらえられないほどの活動を展開している。この手のことは舞城王太郎佐藤友哉川上未映子らにも自明なことだろう。
逆に、文学の外からみてみると、岡田利規本谷有希子、前田司郎といった劇作家が文学のフィールドに入ってきて注目されているが、それは、彼らにとって文学が特別な何かを蔵しているからではない。ここでは文学に、語りえない何ものかなど存在しない。彼らはそれらを並列的・同時進行的にこなしているにすぎないのだ。古川らも同じである。文学を起点にしてはいるが、他ジャンルを横断するその活動は、文学を最終的な根拠にはしていない。
80−90年代のポストモダンと形容される作家、たとえば高橋源一郎島田雅彦奥泉光らもジャンル横断的な活動をしたが、彼らは最終的に文学を活動の担保にしていた。へえー、文学なのにこういうこと(サブカルなど)もやるんだ、といった感じ。当時は、映画(阿部和重)や音楽(中原昌也)、劇作(柳美里)など他ジャンルを導入して文学を相対化することが盛んだったが、それはけっきょく、文学をアイロニカルに肯定することに貢献するものだった(J文学=ジャンク万歳!)。
ゼロ年代の作家のジャンル横断性は、それとは異なる。彼らはアイロニーの欠片も見せず、一つ一つの芸をそれぞれ真面目にこなしながら、並列的・同時進行的に処理していく。そのような彼らの活動を、一種のインスタレーションと言うこともできるだろう。複数の作品を寄せ集め、従来の価値観(いわゆる文学)とは一線を画した独自の文脈――古川なら古川的というほかない文脈――を形成する試みという意味で。
ここではあくまでも作家個人が起点になる。そして彼らが一つ一つの作品を作る上で重要視するのはもちろんナレーションである。キャラクターやプロットに依拠した場合、個人の作家性を軸にしたナレーション及びインスタレーションを育むことは困難だからだ。キャラクターとプロットは二次加工を前提にした要素であり、匿名的な集団製作との親和性が高い。したがって個人の作家性を前提にした純文学のようなジャンルには不向きである。
たとえば、斉藤環はしばしば阿部和重を褒めるさいに(『文学の徴候』『関係の化学としての文学』)、アニメやマンガのキャラクターを自作に引用していることを例に挙げる。確かに阿部作品は斉藤の指摘する通り、パラノイアックに言い訳するナレーションと、キャラやプロットのパロディ癖のコンビネーションで成り立っている。しかし純文学においてキャラクターを際立たせることは、純文学を仮想敵にしたパロディ以上の意味合いしか持たず、純文学の長いスパンにおいてみると一過性のものにすぎない。
いずれにせよ、これまで個人の作家性やオリジナリティー神話を純文学に投影して批判がなされてきたが、個人の作家性に依拠したジャンル=旧制度、匿名的・集合知的な二次加工に適したジャンル=新制度という図式は、いまや成り立たないだろう。後者の論理で前者を批判なり評価する――ニコ動やウェブの比喩なり設計思想で阿部や古川を解説するとか――ことは、文芸批評としてはジャンルの特性を無視した一面的な評価でしかあるまい。
いま確認してきた通り、純文学の作家たちも(純文学の作家であるという自己認識があるかどうかは問わない)、そのジャンルの特性に合わせた変化を遂げているのである。
(5)三派鼎立ならぬ文学の三要素
自然主義的リアリズムと反自然主義があり、前者を純文学に代表させるという話は早計すぎる。むしろ、文学ジャンルには、描写や会話、内言などの副要素があり、その配分を規定する三つの主要素があると想定してみたい。それはもちろんナレーションとキャラクター、プロットの三要素だ。
主要素は、すでに指摘してきた通り純文学=ナレーションといったようにジャンルに左右されるが、各作品に応じてそれぞれ関与度が異なるという見方もできるだろう(ジャンル小説にもナレーションが無視できない作品もあるとか)。
何故この三つが主要素なのかというと、いずれも多岐にわたる種類を生み出し、蓄積してきた歴史があるということが先ず挙げられる(密室プロットの種類が数知れないようにキャラ属性もナレーションの種類も数知れない)。そしてさらに、いずれも、長い文学史のスパンにおいて再帰的(自己言及的)にくり返し問われた要素だからである。
私たちは知っている。たとえば、キャラ設定に、自己言及的なメタフィクション構造(自分のことを虚構内存在であることを知っているキャラクター)があるように、プロットにもメタフィクション構造(ミステリの叙述トリック、SFのタイムリープ、ホラーのメディア感染ものやバッドエンディング、自己言及的なファンタジーなど)があり、ナレーションにもメタフィクション構造があるのは周知の通りである。
そうだ。キャラクターについてまったく触れないラノベ論を思い浮かべてみればいい。あるいは、密室プロットについてまったく触れない密室もの論を、私たちは思い浮かべることができるだろうか。純文学も同じだ。ナレーションへのアプローチをしない純文学批評を、私は考えることができないのである。