感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の破れっぷりは見事で、とても楽しく観ることができました。少し感想を書きます。
新劇場版第一弾のヱヴァ:序はテレビ版を極力トレースするウォーミングアップだったと思いますが、今回のヱヴァ:破は、「関わりを持つ」ということがテーマで、それに合わせてテレビ版からの離脱がみられました。印象的なのは、新しいキャラクター・マリの設定ですが、彼女には内面の葛藤がまるでなく、行動あるのみです。
周知の通りテレビ版では、キャラクターは皆、家族に関するなんらかの暗い過去を隠し持っていて、激しく内向しました。とくに主人公・シンジの内向ぶりは、シリーズ後半の枠組みを規定するほど強い影響力を持っていました。そこでは誰もが、人と関わるにしても、それはつねに自分の父や母、亡き人の影をその人に重ね合わせた関わりでしかなかったわけです。
このようにテレビ版では、呟きや内向する声が基調を占めていたわけですが(誰かに向けての会話であっても、シンジの愚痴もレイの呟きもアスカの怒声も脱コミュニケーション型)、今回は誰もが聞く耳と話す意志をもって会話の成立が目指されていた。そうして皆が相互に関わりを持ちはじめる流れがあった。むろんそれはすでに関係が切断されているということが前提の上でのものです。
このような事態の象徴がマリという新キャラの導入だったのでしょう。外交的なキャラの導入、そしてキャラクターのコミュニカティヴな関係によって織り成されたプロット(その象徴がレイとシンジのラブロマンス)。それらからは関係志向がはっきりと見られる。
そしてそれは演出の面でも指摘できます。すでにネット上での指摘がありますが、庵野秀明という作家性に裏付けられた過剰な演出がこの新劇場版ではほぼ切り落とされているということです。たとえば、電車の中のシンジによる内省シーンをはじめ、奇を衒った間取りや挿入カット、「沈黙」の長回し(レイとアスカが同乗するエレベーターのシーンなど)は捨てられるか、通常の演出に差し替えられている。テレビ版では視聴者を圧倒させた、パロディやタイポグラフィーも演出上の効果は期待されていない。視聴者に様々な解釈と詮索を促す過剰な演出は、キャラクターの内省志向と同調するからです。それに代わって前面に出てきたのは、CGをフル活動させた使徒のパフォーマンスとバトルの、スペクタクル溢れる演出でしょう。
nanari氏は、ヱヴァ:破におけるテレビ版からの離脱の有様を、「物語の連辞関係を保ったまま(襲来した使徒エヴァで倒すという骨格は変わらない)、範列関係にある要素を置換することで、物語を横滑りさせていく」というところに見出しています(http://d.hatena.ne.jp/nanari/20090724)。なるほどと思いました。いわばテレビ版と新劇場版の関係は、テレビをオリジナルとする内向的な関係ではなく、隣接的な変換関係にあるということです。テレビ版が――キャラクター設定や複雑な世界観(使徒エヴァの関係)、パロディの手法など隣接関係に基づく物語構造を内在させていたにせよ――最終的には内向的なメタフィクション構造に結果したとすれば、ヱヴァ:破は、その重ねあわせ・せめぎあいから隣接関係に物語を開いていく作品だったと言えるかもしれません。
そうすると、次回作(「ヱヴァ:Q」)はその範列関係の各種組み換えからいっきに物語の連辞関係を侵食し、転換するという事態(すでにそれはエヴァならぬエヴァ)があるのではないかと期待しもしますね。その期待は単なる空想上のものとも言えないでしょう。たとえば、ヱヴァ:破は、キャラクター間に隣接的な関係性(レイとシンジのラブロマンス)を持たせた結果、人類補完計画をめぐる物語の上位層との亀裂が生じました。
エヴァンゲリオンの物語は、下位層にキャラクターの日常的な関係があり、それをセカンドインパクト人類補完計画といった大きな世界観が覆い、その中間項に、エヴァ(NERV)と使徒のバトルを軸にした物語が繰り広げられるという構造を持っています。テレビ版では、シンジが終盤にかけて内向するわけですが(他のキャラクターも各自内向)、それは、それと相即して物語の上位層が露出してくる展開と矛盾するものではありませんでした。キャラクターが内向するのと物語のメタフィクション化(および中間項の排除)は平行しており、それゆえに最終的には行き詰まりをみせたわけです。
しかし、ヱヴァ:破では、キャラクターの層において内向性から逃れる志向性をみせていました。それが今後の展開にどう影響するのかが楽しみです。