感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

50年代祭り(1)――橋川・シュミット・ベンヤミン

今回は、橋川文三の日本ロマン派論を軸に、1950年代を素描し、ロマン主義決断主義の関係を論じて、現代の論壇事情についても言及しました。

橋川文三は、1957年に日本ロマン派について考察をはじめ、その成果を雑誌に連載していった。それを60年に単行本としてまとめたのが『日本浪曼派批判序説』(以下『序説』)である。58年にはその中間発表として、雑誌「文学」に「日本ロマン派の諸問題」という論文を発表してもいる。雑誌「文学」はこのとき日本ロマン派の特集を組んでおり、橋川の論文はその一部をになうものだったのである。
国粋イデオローグとして戦争の片棒をかついだとされる日本ロマン派(とくにその首領・保田與重郎)について、戦後十年たったいまもなお、まとまった議論がまともになされていないという思いが当時の橋川にはあった。しかしそれと同時に、その思いを踏みにじるように「もはや戦後ではない」と喧伝されはじめたのもこの頃である。
橋川は『序説』で、戦争体験を起点にした独特な世代論を展開している。1950年代における五十才代(つまり一世紀前のゼロ年代生まれ)を、「共産主義・プロレタリア運動」を体験した世代とし、四十代を「「転向」の体験」の世代とし、三十代を「日本ロマン派体験」が最初の思想体験だった世代とした。そして「戦中派」とも呼ばれる三十代こそ日本ロマン派の本質を掴める世代と見做したのである。1922年生まれの橋川も無論この世代に属する。
政治の文脈で文学が熱く議論される時代が、マルクス主義者の一斉転向によって終止符を打たれた後、文芸復興と日本回帰の文脈の中で日本ロマン派は現われたのである。戦時下にあって、日本ロマン派は国粋イデオローグの筆頭に置かれた。他の選択肢を知ることなく、青年期の最初の思想体験をこの日本ロマン派に費やし、熱狂しもした世代こそが、日本ロマン派をその負の面も含めて清算しなければならないという思いが、橋川にはあったのだろう。
じっさい、「文学」の日本ロマン派特集における寄稿者のうち、ゼロ年代生まれは(「共産主義・プロレタリア運動」の世代)、日本ロマン派を文学史のイレギュラーとしてしかとらえず、他人事でしかない扱いに終始している。それは当事者であった亀井勝一郎も含む。十年代生まれにしても(近代文学グループが主に占める)、日本ロマン派を分析対象としての価値があると見做しながら、しょせん文学史上の一コマとしてしか認めていない。それに対して二十年代生まれの寄稿者、橋川と吉本隆明は、日本ロマン派こそ戦前・戦間期における分析対象として最も重要であるという立場に立っていたのである(吉本は四季派の戦争責任を論じたものだが、三好達治ら四季派は日本ロマン派と縁が深く、保田與重郎主催の「コギト」にしばしば寄稿していた)。*1

橋川は、日本ロマン派を戦後において最初に取り上げた竹内好(および中野重治)の先駆的試みを評価している(以下は『序説』と「日本ロマン派の諸問題」を踏まえた解説)。戦後まもない頃の論壇・文壇は、戦争の反省に基づいて日本の民主化なり近代化が熱く議論されていた。このような状況に対して竹内は、それらの議論はいずれも国民・民族(連帯や共同性)が問われる契機を隠蔽して成り立っていることを指摘し、彼らを「近代主義」として批判したのだった。その上で、戦間期にその契機を問うて近代批判を行った日本ロマン派をイレギュラー(戦争の鬼子)視せず、見直す必要があると発言したのである(「近代主義と民族の問題」)。1951年9月になされたこの挑発的な発言は論争を巻き起こし(国民文学論争)、その過程で中野重治も左翼の側から竹内の声に、部分的ながら呼応したのだった(「第二『文学界』・『日本浪漫派』などについて」52年3月)。これが橋川日本ロマン派論の前史である。
終戦以来、共産党系の作家と近代文学グループを中心に「政治と文学」論争が盛んに行われていた。民主化(社会革命)のためには政治的な目標を優先させ、文学をその手段とするか(社会主義リアリズム)、あるいは作家個人の自由を優先させるか(実存主義)という問いに収斂される当該論争は、そのヴァリエーションとして知識人論争や近代化論争、戦争責任論争など様々なトピックが争われたが、それらの多くは戦前・戦間期プロレタリア文学が中心になって議論されたトピックであった。彼らにとっては、戦時中に中断されたこれらの論争はいまこそ改めて議論されるべき喫緊の話題であったのだ。しかしいずれの議論にしても「近代主義」の罠に陥っていると竹内は感じたのである。
以上のような文脈を意識しながら竹内は持論を優位に立てるべく日本ロマン派を政治的に利用したのだった。それに対して橋川は、日本ロマン派を純粋に思想的な問題として問おうとしたのだと言っていい。それは戦中派だからこそ可能なスタンスだっただろう。上の世代だと、日本ロマン派は文学史の一コマにされて、政治的に裁断されるのがオチだ。逆に下の世代では(石原慎太郎江藤淳)、戦後の微温的な空気こそどうにかしなければならないと考えており、戦中派の戦争体験論は懐古趣味として一蹴されるほかなかった。
橋川はこのように上下の世代に挟撃されつつ、戦中派という世代感覚から日本ロマン派の思想を普遍的に考察しようとしたのである。

橋川の日本ロマン派論は基本的にシンプルな見取図に基づいている。既成の価値観が崩壊し、何をしても無力を痛感させられる世界に現われたのが日本ロマン派である。そしてそのような頽廃した世界に対して、彼らはイロニーの方法において関わりを持ったのである。イロニーとは、橋川によれば、第一に、現実(世界)の嘲弄的否定であり、第二に、心的反省の無限背進(表現上は古典の悪無限的引用という形で現われる)ということになる。それは現実(世界)に対して徹底して受動的であり、無限に自己決定を留保する心的態度である。
日本ロマン派のイロニーは、「政治と文学」論争(「近代主義」)にみられる、弁証法的・分析的な(AかBか、AよりもB)世界との関わりを批判し、複数の要素を混在させ、想像的に総合すること(AでもありBでもありCでもある…、AでもなくBでもなくCでもない…)によって世界との関わりを確保するものだった。要するに、AかBか(プロレタリア革命か現状容認か)で世の中が割り切れなくなった時代にイロニーは要請されたのであり、表面的には復古主義に見えるが、日本ロマン派=橋川にしてみれば、最も時代に適応した表現だったのである。
またイロニーは、個人と世界(帝国拡大)の間の、あらゆる中間的な価値体系を排除する―それによって個人は世界に向けて自己投棄的に同一化する―――という欲望によって駆動されていると橋川は指摘してもいる(むろんこれを私小説セカイ系の表現構造と重ねてみることもできるだろう)。出口のない頽廃した世界を自己もろともリセットする欲望。日本ロマン派は当時の青年の多くが懐胎していたそのような欲望を、たえずイロニーによって現実を否認するという方法で回収したのだった。

橋川は以上の説明を、カール・シュミットロマン主義批判の書『政治的ロマン主義』(1919)によって裏付けをとっている。じっさい橋川は、1951年に本書を師の丸山真男から借り受け、すでに翻訳をしていたようである。
興味深いことに、橋川は「敵対性」や「決断主義」という言葉をたまに使うこともあるが、積極的に議論することを避けている。シュミットはといえば、続く著書において(『独裁』1921、『政治神学』22、『政治的なものの概念』32)、決断主義や敵対性概念(友敵理論)を使ってロマン主義――直接の標的はワイマール体制の議会制民主主義――を乗り超えようとしたことは周知の通りだ。
そこでシュミットは、持論の決断主義を主張する根拠として、ルソーやホッブズなどの社会契約説を持ち出している。とくにホッブズリヴァイアサンは彼のお気に入りで、彼の著作にしばしば登場する。シュミットにとって社会契約説が重要な理由は、民主主義と独裁は一致するという論点を社会契約説が内在させているからである。それによってシュミットは、決断する政治的主権者に根拠を与えるわけだ。
他方、橋川もまたルソーを引いて、一般意思の逆説をしばしば話題にする。一般意思という理念を純粋に徹底させれば、独裁(社会の成員の自己滅却)に帰結するという逆説だ。逆に言えば、暴力革命みたいなものが実は純粋な民主的理念(反封建)に支えられているケースがあり、橋川はその例として、ルソーを読みながら西南戦争に自己投棄した士族などを挙げている(橋川の論考「西郷隆盛」『ナショナリズム』を参照)。そして橋川はこの論点を、決断主義のためではなく、ロマン主義が形成される背景説明として導入したのである。先ほど説明した、あらゆる中間項の排除の欲望が日本ロマン派を駆動しているというのがそれである。

シュミットと橋川、両者の分岐は、認識論(AかBかどちらが真か、AはBの原因か否か)を主軸にしたリアリズム的な世界との関わりが失調したときに現われる二つのパターンである。つまり、シュミットは、何が敵か味方か(善か悪か、AはBの友か)を決定する倫理(政治)にしたがって世界と関わることを宣言した。
他方橋川は、美学にしたがって世界に関わる態度を日本ロマン派に見出したのである。美的判断は、何が意に適うか・何が快であるか(AはBにとって価値があるか)が指針となる。それはカントが指摘した通り、反省的判断力(目的なき合目的性)に基づいている。ロマン主義はこの美的判断にしたがって、主観の反省を媒介にしつつ無際限に自己を拡大するのである。
ロマン主義のこのような美学的性質については、ベンヤミンも『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』において指摘している。この論考はシュミットの『政治的ロマン主義』と同じ1919年に提出された博士論文であり、ベンヤミンはシュミットとの文通の経験もある。
ところでこの時期(初期)のベンヤミンは、客観的な認識レベル(悟性のカテゴリー)と主観的な経験のレベルをカントが分節したことを評価しながら、完全に独立させてしまったことに対して批判している。ロマン主義はこのカントが明示した主客の分離、個人の世界からの解離という事態に対応した一つの対応策であり、具体的には、主観の全能化によってそれを実現したのであった。ベンヤミン自身は、モダニズムの「純粋知覚」の理念と同じく、認識レベルの真実性と審美的価値を同一視させるという見通しがあったようだが、彼は著作ごとにスタンスを移動させるので確定的なことは言えない。いずれにせよ、日本ロマン派もまた主客の分裂を主観によって包摂する運動であったことは、橋川が指摘した通りである。
むろんシュミットの決断主義もまた、世界を主観の恣意性に包摂してフル活動させたものであることは、シュミットを批判したカール・レーヴィット以来明らかである。レーヴィットは、シュミットの決断主義を、シュミットが批判するロマン主義と同じように「機会原因的」(ご都合主義)だとして批判したのだった(「シュミットの機会原因論的決定主義」、シュミット『政治神学』所収)。

けっきょく両者とも根は同じであると言える。ファシズムを政治の美学化と言ったのはベンヤミンだが(「複製技術時代の芸術作品」)、決断主義として規定される政治は美学的である。いまや自明のことだが、敵か友かを決めるのは快不快と切り離せないということだ。
逆にイロニーという美学的スタンスは政治的である。いかなる表現も、真偽によって評価されるのではなく、政治的なネゴシエーションによって評価される状況において、政治力のない者が自閉して想像的に優位に立つこと(あいつらみんなばか)を目論むのが、イロニーの政治的効用にほかならない。
政治的には、議会制民主主義(代表制)を倫理的に批判するとコミュニズム農本主義)になり、美学的に批判するとファシズムアナーキズム)になるのだが、コミュニズム(倫理)もファシズム(美学)も通底しているのであり、それを最も顕著に現す局面が戦争である。橋川のロマン主義論もシュミットの決断主義も、戦争を重要な背景として問われたものであった。

周知の通り「複製技術時代の芸術作品」においてベンヤミンは、主客の解離を促進する要因として複製技術(テクノロジー)を問題にした。テクノロジーは人間主体を世界から遠ざけ(アウラの消失)、主体の手から自律しはじめる。その結果、テクノロジーの暴走はやまず、人間主体にも襲いかかることになる(技術の人間疎外)。ベンヤミンにとってはその徹底形態がファシズムと総力戦であった。
またベンヤミンは晩年に、集団的な幻影のモザイクである都市のパサージュ――商品とイメージが無際限に配列された空間――について厖大な記述を残している(『パサージュ論』)。カントの明示した主客分裂を問題として引き受けたベンヤミンは、ロマン主義のイロニー(『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』)と、決断主義とも対応する神学的な暴力・法の問題(「暴力批判論」)について議論を展開しながら、さらに複製技術とパサージュ、つまりテクノロジーとマーケットにも注目を向けていたのだった。彼はその人間疎外的な側面を牽制しつつその圧倒的な魅力に囚われたのである。

ベンヤミンが先取りしていた通り、いまやテクノロジーとマーケットが世界を覆い尽くし、美学(趣味)と倫理(政治)を、主体に代わって代行しはじめている。たとえばセキュリティー生命倫理の思弁的問題(臓器移植や代替医療)は技術的な解決に委ねられる方向で進んでいるし、政治はメディア上で劇場化される層(シミュラークル)と、弱者に対して共感しない官僚によって問題処理する技術的な層とに二分されつつある。
また、グローバル化したマーケットはロマン主義の夢を物理的に実現してくれたとも言えるだろう。マーケットの推進力は反省的判断力にほかならないのである。ネットで買い物をしていたら、あなたの欲しい物はこれですね(商品Aの購入者には商品Bが見合う)と次から次へとレコメンドしてくれるし、検索をかければ期待を裏切らない情報(ネタ)を仕入れることができる。このような環境において、わざわざイロニーを気取る必要もなくなった。美学的判断は、ついに実存に依存せずに行うことが可能となったのである。たとえばパロディや脱構築、ジャンル間の横断をすることで既成の表現との差異化をはかる実存的契機に対して美的評価をする必要はいまやない。ただし、このことは、イロニーと無関係なのではなく、むしろイロニーの夢が完全な形で実現されたということでもある。ロマン主義のイロニーは、徹底した受動性で主体を消し去ることを理想としていたのだから。
その一方で、逆に政治は、実存的契機の激しい再帰化にさいなまれているのが現状だ。カルスタや社会学の語りも含め(『ゼロ年代の想像力』を嚆矢とする)、それらはたちまちキャラ(ネタ)化して、ポジショントークにならざるをえない過酷な状況をサバイブしている(シミュラークルの層)。
それに抵抗し、まじめに語りたいなら、つまりポジショントークの実存的・決断主義的な政治になるべく巻き込まれたくないなら、専門性が発揮される技術的な知のレベルに議論を絞る必要があるだろう(格差問題や医療・生命倫理から情報通信やアーキテクチャの議論まで)。この知は分析対象の作用機序をできる限り実証的に把握し、正確なデータ収集につとめることが前提だが、その運用も含めれば美学的な想像力や政治的な判断が不可避に関わってくるほかないことはいうまでもない。

おそらくいま、人文系の文化批評・文芸批評に直接間接たずさわる人たちは、この三相――純粋美学、決断主義的政治、専門的・技術的知――を使い分けながら議論を組織しているのではないか(もちろんこのうち一つ二つに特化する批評家もいる)。
東浩紀杉田俊介の世代を上限とし、下は荻上チキらの若い世代の議論の仕方にそれを読み取ることができると思う。ただし、上の世代は、各論・各ジャンルを繋ぐ包括的な視点に対する執着があるためか、その使い分けをやむないものと考え、あわよくば接続しようと試みている傾向がある。しかし、より下の世代は、文脈に合わせ、各論を別々のシステムとして回している印象が強い。むろん議論の性質によっては重なり合い、複雑に絡み合うケースが多々あるのだが。

話が脱線しまくってしまった。ここで再び50年代に話を戻すと、この時期もロマン主義的イロニーと決断主義が社会の空気として蔓延していた時代であった。また、実存に回収されない専門的・技術的な知が積極的に求められはじめる時代でもある。それはまた次回に話すことにしたい。

*1:「文学」1958年4月「昭和の文学その一――日本浪曼派を中心に――」。寄稿者のうち、「共産主義・プロレタリア運動」の世代が、板垣直子(1896、モ・自)、阿部知二(1903、モ・自)、田辺耕一郎(1903、左・転)、中島健蔵(1903、モ・自)、亀井勝一郎(1907、左・転)、高杉一郎(1908、左・転)。「「転向」の体験」世代が、北山茂夫(1909、無記述)、荒正人(1913、学生左翼)、杉浦明平(1913、学生左翼)、丸山静(1914、左・転)、佐々木基一(1914、無記述)、小田切秀雄(1916、無記述)、広末保(1919、無記述)。「日本ロマン派体験」世代が、橋川文三(1922、無記述)、吉本隆明(1924、無記述)。表記中「モ・自」はモダニスト自由主義の立場からの記述であることを示す。「左・転」は左翼と転向体験の立場からの記述。「学生左翼」は学生時代に左翼体験をした立場からの記述。「無記述」は、自分の立場に関する記述がない。