感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

メタフィクションを「降りる」方法

文学フリマに行きました。「Children」を売り捌いていた条さん、ジャムさんお疲れ様でした。初対面なので、ドキドキしててうまく喋れなかったよ。ところで、kugyo氏がその文学フリマで手に入れた同人誌55タイトル全レヴューを「24」(ジャック・バウアー)のノリで試みるという、思わずうわって仰け反りたくなる企画を立てていて(http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090510)、これも違う意味でドキドキする。

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最近は、メタフィクションを「降りる」方法について考えている。言い換えれば、文学におけるシニシズムの克服ということになるが、最近の青木純一氏の取り組みにも啓発を受けている。
これから書くことは恐らく「早稲田文学」に載せる予定のもので(決定ではない)、大まかなアウトラインのみ今回提示しておく。とにかく、問題はシニシズムの克服だ。
たとえば、鹿島田真希という作家がいる。このブログにもその痕跡が刻まれているが、僕にとっての鬼門である。彼女の表現で不可解なことは山ほどあるのだけれど、シニシズム関連で一つあげれば、彼女の描く物語の内容(キャラクターの発言内容)はアイロニーに満ちていてシニシズムの塊りといっていいのに、語り口は全然アイロニーを感じさせないという点がある。そういう体験をさせられるのだが、それは何故だろうか。
ところで、小説というジャンルは、ナレーション(語り方)とフィクション(物語内容)で成り立っているというのが、ナラティヴ論の成立以来自明な分析枠組みだが、さかのぼればこれはギリシア時代の作劇法におけるディエゲーシスとミメーシスの区分にも当てはまるものだろう。
小説のライティングには様々なアプローチがあるけれど、まずいえることは、フィクションの単調さを避けるためにナレーションを介入させて多義的な解釈をもたらすなどフィクションに深みを持たせることが重要とされてきた(その典型例が自由間接話法と間接話法の積極活用)。
このようなフィクションの単調さを避けるためのアプローチを、描写・内言・会話といったフィクションを構成する諸要素から説明してみせたのが、石川忠司氏『現代小説のレッスン』の貴重な試みだったわけだ。ただし、石川氏はナレーションのレベルはとりあえず問わなかった。
とはいえ、とくに描写と内言にいえることだが、近代文学の要とされているこの二大要素は、長い文学史に置いてみると、重要視された時期は実は限定的なものにすぎない(この辺のテーマで面白い最近の論考は「文学界」5・6月号所収「メガ・クリティック」池田雄一)。先ほどの区分で言えば、フィクションに対してナレーションの役割を相対的に低下させることが目指されたときに、フィクションの中のとりわけ描写と内言が注目を集めることになったわけだ。
その意味では、小説にとっての重要な枠組みは何よりナレーションとフィクションの関係なのである。最近しばしば見られる、私語り(内言)の肥大とナレーションの突出ぶりを説明するためにもこの枠組みは有効であろう。
石川氏は、小説のエンターテインメントのためにナレーションのレベルを抑圧したのだろうが、文学史を眺めてみれば、少なくともナレーションがフィクションのエンターテインメント性を阻害するという発想は出てこないはずなのだ。
しかし、フィクションの進行を阻害する目的でナレーションの過剰介入が目論まれるケースも多々あり(物語批判)、それこそ文学的だという評価さえしばしば聞かれることもあったことは事実である。それが文学のシニシズムをもたらしたといえるだろう。文学の「終焉」とか「メルトダウン」とか「不良債権化」とかね。
このような事態に対して、批評家は別のジャンルに鞍替えすれば済むのだけれど、作家は自分の問題として取り組まなければならないし、実際に成果を上げてもきた。注目すべき作家の中で、大きく分けて二方向のアプローチがあると考えられる。
まず一つは、メタフィクションの自己言及的相対化とでもいうべきアプローチだろう。古川日出男諏訪哲史が代表的な作家である。彼らにとっては、フィクションに対してナレーションのレベルがあくまでも主軸である。つまり、ナレーションに複雑な手を加えること(というメタフィクション的な方法)で、フィクションをメタフィクションのアイロニカルな循環から解放しようとしている。このアプローチは両義的ゆえに極めてアクロバチックに見えることだろう。オトコノコの苦肉の策だよね。僕もオトコノコだから彼らのアプローチは比較的理解できるような気がする。気のせいかもしれないけれど。
これに対して、僕にとってとても不可解な鹿島田真希は、意外にも、もっとシンプルだったりする。つまり、二つのレベルを特異な方法で関係させるアプローチである。このとき重要なのは、メタフィクションを避けるために、ナレーションをフィクションに対して劣位に置くか同等のレベルに置くこと。
フィクションとナレーションを同期させない最新作『ゼロの王国』はいわずもがなだが、この作品の詳細に関しては伊藤亜紗氏の素晴らしい分析(「ReviewHouse02」所収「恥じらいと呪い――鹿島田真希「ゼロの王国」の会話術」)がすでにあるので、是非それを読むこと。正教徒・鹿島田真希のキャラクターを、「逆遠近法的」イコンとして読む可能性が広がるだろう(「思想地図vol1」所収「キャラクターが、見ている」黒瀬陽平)。
二つのレベルの関係のさせ方は作品ごとにいくつかあるが、ここで一つあげておくと、キャラクターBに対して視点人物となるキャラクターAが一方的に想像をめぐらせるというものがある。たとえば『ピカルディーの三度』とか『女の庭』。キャラクターAの想像がBをめぐるフィクションのナレーションになるのだが、ここでは、ナレーションはフィクションを統括するポジションには立てず、むしろフィクションから生成していくという関係にあるといっていい。

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明日は鹿島田真希佐々木敦の対談があるんだそうだ。行きたいなあ。