感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

残暑見舞いと『サマーウォーズ』――細田守論


待ちに待った『サマーウォーズ』(http://www.youtube.com/watch?v=2Wi2lb1sVk8&feature=channel)。今年は再び細田守の青空が見れる。久しぶりの青空だ。細田が背景に置く、奥行きのないフラットな青空は、キャラクターのいかなる心理(の起伏)をも受け入れない道具立てとして機能している。とくに前作の『時をかける少女』(2005、以下『時かけ』)では、その青空を背景にして、影抜きされたキャラクターは、動くたびに重力から逃れるようにひらひらと手足を動かしていた。その動きがめっぽう懐かしかった。
時かけ』の主人公・真琴に関して原作者の筒井康隆が「主人公がドジすぎる」と指摘した通り(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%94%B0%E5%AE%88)、細田作品の主人公はどれも――物語の難局を越えるための――特権的な能力を持っているとはいいがたい。あのルフィさえもが、細田にかかれば、全くといってたいした力を発揮できなかった(『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』2006、以下『ワンピース』)。
それはなぜか。細田にとっては個人よりも関係性(仲間)が重要だからである。今回の作品ももちろんそうだが、彼の出世作である『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』(2000、以下『デジモン』)以来、細田の物語は、主人公が新たな関係性を見出し、仲間とともに難局を切り抜けるという構図を持っている(『時かけ』は比較的実存的濃度が高いが)。
サマーウォーズ』は、仮想世界とリアル世界、ネット上のコミュニティとリアル世界の大家族という二つの相が基軸になって物語世界が組織されている。このような世界設定は、『デジモン』以来細田作品には馴染み深いものである。『サマーウォーズ』とほぼ同じ世界設定上にある『デジモン』しかり、『時かけ』のタイムリープ・ワールドとリアル世界の関係もそうだし、『ワンピース』も、多少見えにくいが、物語の舞台である「秘密の島」が、永遠にイベント/ゲームがくり返される仮想空間とリアル世界の二相に分かれていた*1
サマーウォーズ』は、リアル世界の一事を遠因とし、ネット世界で巻き起こった難局を、ネット上のコミュニティとリアル世界の親族たちが一緒になって切り抜けるという物語である。細田は本作について話す機会にはおりにふれ、リアル世界が大事かネットが大事かというありきたりな二分法に基づく物語にはしたくなかったと述べている(http://www.cyzo.com/2009/07/post_2341.htmlhttp://ascii.jp/elem/000/000/449/449024/)。
このような徹底した関係性志向が、作品を作る上で細田の一貫する倫理と考えてもいいだろう。この倫理はまた、細田特有の「反復」のモチーフと切っても切れない関係にある。たとえば『デジモン』以来、細田の作品には、仮想世界とリアル世界の往復が基調をなし、その過程でゲームがくり返しプレイされるという設定がある(『時かけ』ではタイムリープへのあくなきダイブ)。『サマーウォーズ』ではとくにネット上のゲームとリアル世界での食事シーンが交互に反復されていた。
演出上においては、食事シーンの横スクロール(『時かけ』では河べりのサイクリングシーン)や、細田独特の仮想空間のイメージである「白い球体空間」(細田)のCG効果、それと対をなすような、キャラクターを包摂する青空の背景カット。これらの演出によって反復のエンドレス性がスクリーンにまといつくことになる。
そして極めつけは、細田演出の枢要をになう同ポジや同じカットの兼用(『時かけ』がその代表格)、それにテンドン(同じシチュエーションをベタにくり返す)による笑いの演出(たとえば『デジモン』では電話が効果的に使用されていた)が、細田作品のエンドレスな反復モチーフを支援するだろう。
これはオタク的モチーフの一つである「無限ループ」(終わらない夏休み)と考えられるが、しかし細田の場合はそれとは異なる。細田の反復は、新たな関係性(いままで見えなかったが潜在していた関係性)を提示する契機として機能しているのである。たとえば、『デジモン』は比較的単純な仲間集めに終始したが、『ワンピース』にいたっては、イベント/ゲームの反復において海賊間の関係性を更新しながら複雑に仲間集めが試みられていた。
時かけ』になると、関係性は実存的契機をまじえてより複雑さを増す。主人公の真琴は、タイムリープの能力を得てしまったがために、他者との関係性を支配し、自分でも抱えきれないほどの関係性――可能世界を含む――を可視化してしまった結果、みずから関係性を切り縮めるという決断(実存的契機)を強いられることになった。『時かけ』は、成長の証である実存的契機(自己の万能感を他者のために去勢する決意)に注目が集まったが、細田作品を一貫して支えているモチーフはそっちではなく、むしろ反復とそれによってそのつど切り出される関係性の断面、の方なのである。
だから『サマーウォーズ』では、関係性は実存的な問題ではなく、家族の問題としてとらえられるのだが、それはなんら不思議ではないのである。主人公の男の子・健二は大家族の一員となって戦うことになるが(この家族は戦国時代の豪族の末裔であり、ネット上のバトルは戦国時代から反復された戦の一つである)、そこには個人の悩みや決意といったものはそれほど介在していない。
そこで彼がこなす役割もまた分割された一部でしかない。彼には数学の才能があり、暗号を解く役割が与えられるが、それは他のゲーム/イベントや役割のごく一部でしかないのである。そしてこの暗号を解くという地味な作業がラストのクライマックスを担うことになるのだが、それを劇的なものにしたのも反復の演出――健二がひたすら暗号を解くカットが反復されるというシーン――だった。
ところで、この『サマーウォーズ』は、細田作品のファンなら自明のことだが、『デジモン』とほぼ同一のメインプロットを採用している。まさに作品そのものが反復によって成立しているわけだが、『デジモン』では学校の友だちという並列的な関係性しかなかったのに対して、『サマーウォーズ』はそこに家族という時間軸にのっとった関係性を差し込むことで新たな関係性の断面を提示している。細田の反復はこのようにつねに新たな関係性を提示するという側面を持っているのである。劇中では食事シーンが反復されると先ほど言ったが、反復されるごとに大家族の関係性の新たな(隠れていた)断面が提示されたり、改変されたりするのである。つまり、その反復は、単なる反復ではなく、更新された関係性の提示・確認という重要な機能をになっているわけだ*2
ただし、細田の関係性は、大仰に、脱構築とか認識論的な転倒が目指されるものではない。繋がりとか隣接とか交錯とかいう程度のものである。しかしそれが反復したり束になったりすることで、大きな力を持つこともあることを、細田は時間をかけて丹念に描き出しているのである。仮想空間とリアル世界の境界を越えて皆とともに戦うこと、反復のタイムリープで決断を強いられること。これらはどれも細田の一貫する倫理が描き出した物語の必然的な結末である。
以上。細田の物語は関係性が起点となっているということを証明した。『時かけ』の有名なワン・シーン、千昭を追う真琴の全力疾走を映し出す、過剰な横フォロー。『サマーウォーズ』で三度ほどあった、沈黙を表現する冗長な止め絵。あるいは「白い球体空間」を演出するCGのフル活用(http://www.youtube.com/watch?v=JwqMNjRlqfA)。等々といった要所を飾る演出は、どれも行き過ぎを感じさせる一歩手前で次のカットに切り替えられる(「「過剰」と「省略」の狭間で――細田守試論」山本寛、「キネマ旬報」2009年8月上旬号)。同ポジなど先ほどあげたものも含め、これらの演出は、細田がカットの間を統制する原理ばかりではなく、カットとカットをいかに繋げるか(関係させるか)という問いにしたがって、作品を作りこんでいるからこそ編み出されるものである。そんな彼には、個性的な作家というよりも、たとえば村野藤吾がそうだったような意味での職人という形容がふさわしい。
この関係性を起点とする細田作品と比べると、たとえばエヴァンゲリオンはキャラクターとプロットが起点となっていることがよくわかる。今夏の新劇場版ヱバ:破は、前作のテレビ版をリメイク(反復)するにあたってキャラ(マリの導入)とプロット(内向性から関係性志向へ)の改変が試みられた。作り手のこだわりはそこにあるからである。
他方、細田の『サマーウォーズ』は、『デジモン』のリメイク(反復)だが、それは前述の通り関係性を改変すること(新たな関係性の導入)によって実現したのである。言い換えれば、使徒(とエヴァ)はキャラクターの内面を侵食し、ゼーレのシナリオ(プロット)を改変させるが、細田の敵(バグ)は、関係性の改変を迫るものだということもできるだろう。
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8・15長野の実家にて。帰省途中の新幹線から上田の風景を見ました。『サマーウォーズ』の舞台となった上田の盆地。よく知っている風景だけど、映画を見た後だけにやはり気になる。安曇野に遊びにいったら、帰る途中の木崎湖にて、『おねがい☆ティーチャー』の聖地巡礼をしている人たちがけっこういた。同じ風景でも、人によっては見ている情報が全然違うんだなあとつくづく感心しました。

*1:いくつかのイベントを、ルフィたちがクリアしていくというゲーム的な設定自体は、細田がこの作品に参加する以前から決まっていたものらしいが(http://www.style.fm/as/13_special/mini_050815.shtml)、このゲーム的世界と、そこには回収されないリアル世界とを二分割して相補的な構成にまで仕立て上げたのは、細田の手によるものだろう。

*2:おばあちゃんの陣内栄が家族(人類?)の危機を悟って無際限に電話をかけまくるシーンも、その反復によって大家族の陣内家がどのような関係性を築いてきたかを逐一明らかにする演出だった。鈴木敏夫が指摘する通り(『サマーウォーズ』公式HPのトップページ)、このときの富司純子の声の「芝居」を堪能できるのもこの作品の醍醐味だと思う。[2009・8・17注記]