感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

続モダニズム以降の表現の可能性――竹内好と坂口安吾

1
最近、竹内好論を書く必要があって再読している。読めば読むほど、安吾とロジックが似ていると改めて思うところがある。それについては以前、学位論文(『安吾戦争後史論 モダニズム以降の表現の可能性』2007年)でも書いたことがあるのだけれど、文学史上、具体的に二人の交渉や接点がなかったというのもにわかに信じがたいほど似ているのだ。
竹内と安吾は1930年代にキャリアを開始している。世代的には、いわば遅れてきたモダニストといっていい。30年代といえば、モダニズムマルクス主義の熱狂が少しずつ冷めてきた時代。それらに熱狂した人たちがもう一度自分の置かれた立場を再考しはじめる時代である。その渦中で、反動的な先祖帰りがあったり(旧世代の復活と私小説の再評価など)、半ば強制的に宗旨替えを余儀なくされた作家も出てくることになる(転向など)。竹内と安吾のスタートはこのような時代を背景にしていたのだった。
坂口安吾は、モダニスト作家・牧野信一を若い頃の師としていたが、牧野のモダニズム的側面に対しては否定的な評価を下していたし(「オモチャ箱」1947年)、またマルクス主義には(とくに戦後)辛口だった。中国文学研究者の竹内はといえば、マルクス主義には親和的な態度を示しつつ、一定程度距離をとり続けていた。
彼らはまた、30年代当時に萌芽をきざし、40年代に席捲することになるロマン主義的な性向に対しても、親和的でありながら距離をとっていた。たとえば、あらゆる混沌・矛盾を肯定するという安吾の「ファルス」はロマン主義の機会原因的な性向に近いといっていい(「FARCEに就て」1932年)。それに、「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」(「日本文化私観」1942年)という安吾の見得の切り方は、決断主義的な爽快感が感じられるだろう。周知の通り決断主義ロマン主義と表裏の関係にあるものである。しかし、安吾はこれらの性向を、かなりの嫌悪感をもってしばしば牽制することがあった(「風流」1951年など)。とくに小林秀雄をそのような観点から痛烈に批判しもしたのだが(「教祖の文学」1947年)、そもそも当の安吾がその親和圏にいたのである。
2
1930‐40年代に議論されたテーマは多岐にわたるが、その可能性の中心はといえば、周知の通り「近代の超克」であった(平野謙−絓秀実の「昭和10年前後」「人民戦線」史観はその運動論的ヴァリエーションのひとつ)。その問題を凝縮して言えば、複数の体系(価値観)をいかに処理するかということである。
前時代のモダニズムマルクス主義は、既成の価値体系を批判することに使命があった。彼らは、抑圧された体系(労働過程、形式的側面)に注目し、それを既成の体系(商品生産と交換・流通による価値の形成、物語内容)に連絡させて新たな体系をもたらす(革命、新感覚)というような弁証法的ヴィジョンをもっていたのである。
しかしマルクス主義モダニズムが退潮した後に求められたのは弁証法の乗り越えであり、それは複数の(相容れない)価値体系をいかに処理するかという問題に還元できるものであった。つまり、同時存在できないAと非Aに対して、弁証法的・疎外論的な解法によらずに、いかに対応するかという問題である。たとえば横光利一は『旅愁』において、論理学の「排中律」を使って的確にその問題に応じようとしていた*1
3
では、この問題にどのような解決策がとられたかというと、三つのタイプに集約されると考えられる。それについては以前述べたことがある(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803)。
一つは、横光に代表される、弁証法的・疎外論的図式以前への逆戻り(非Aを媒介せずに単純なAの肯定)であった。ここには決断主義的性向も含まれる(行動主義文学)。弁証法的・疎外論的図式(Aか非A、Aよりも非A)はモダニズムマルクス主義が導入したものだが、彼らの多くは――半ばはやむなく――それ以前に退行したのである。
残りの二つは、まず川端康成――のちに日本浪曼派が徹底する――に代表されるイロニーの戦略である。それはAと非Aの同時否認(自己の無限否定、空虚な表現の肯定)である。それにくわえ、谷崎潤一郎に代表されるユーモアの戦略があり、それはAと非Aの同時肯定(表現の重層化)を志向するだろう。むろんこれらは相互に入り組んでおり、作家ごとに明確に割り振れるものではないのだが。
以上のタイプに対して、次の世代に当たる竹内と安吾は、それらにも与しながら微妙にスタンスを移動させている。結論から言えば、Aと非Aという関係(複数の価値体系)に対して、文脈と時間差(別の価値体系)を導入したのである。
戦間期の竹内は魯迅論執筆に傾注していたが、そこで提示された「掙扎」(「抵抗」などと意訳される)という概念は、彼の批評の方法を的確に表わしているといっていい。竹内にとって、「文学か政治か」だの「シナと呼ぶべきか中国と呼ぶべきか」だの「民主か独裁か」だのといったAと非Aの関係を問う問題は、それ自体ではさして重要ではなかった。特定の文脈(B)に置き換えればどちらかを否定し、どちらかに比重を移さざるをえないのであり、その批判的転換(「掙扎」)の局面を注視し続けることが重要なのである。

「革命時代の文学」は、革命が時代の風尚であった当時、文学が革命に対して有力であるという主張に反対することによって積極的な態度を呈示し得たのである。いま革命が混乱に陥った際、それでは何をなすべきか。文学無力説が単なる観念でない限り、言葉でない限り、つまり文学者としての立言の態度である限り、行為である限り、信念である限り、異った相手に同じ言葉で呼びかけることは許されぬ。政治に対して文学を無力と置いたのは、政治を絶対としての上である。政治を追廻す文学から自己を区別するためである。いま政治は混乱した。追廻す文学は逃亡した。逃亡した相手に昔の言葉を浴せることは、自身が観念を追廻すことになる。それは文学者の態度ではない。では何が文学者の態度か。政治に対して自己を否定する代りに、政治そのものを否定するより外にない。前に自己を否定したのは、相手を絶対としたからである。相手が相対に堕した今、自己否定は自己肯定に代らねばならぬ。無力な文学は、無力であることによって政治を批判せねばならぬ。「無用の用」が「有用」に変ぜねばならぬ。つまり、政治が文学に対して無力であることを云わねばならぬ。(『魯迅』1944年、講談社文芸文庫186-7頁)

竹内はこの脱構築的な「掙扎」ロジックによって、日本と西洋(近代)という対立項に「中国」を差し込んだのであり、政治と文学という「近代主義」的な――つまり「民族」の血塗られた歴史=戦争を忘却した上で成立している――論争に、「民族」を導入したのであった。
むろん、民主的なナショナリズムか独裁的なウルトラ・ナショナリズムかという問題に対しても、「ウルトラ・ナショナリズムを介さないナショナリズムはありえない」というユーモアな論点を提示しつつ、文脈ごとに比重を移動させたのも、竹内の「掙扎」ロジックゆえであった。この問題については、竹内の60年安保前後の仕事にスポットを当てて、以前論じたことがある(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081031)。
4
ならば安吾はどうか。安吾も竹内のとったロジックと重ね合わせることができる。彼の批評と創作にとって重要な概念は周知の通り「必要」であろう。彼は美的センスさえも「必要」の観点から説明するほどこの概念にこだわっていた。「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」。
この主張はもちろん「日本文化私観」(1942年)の一節である。このエッセイには、モダニズム様式に通暁した建築家のブルーノ・タウトへの言及があることがよく知られている。ここで安吾は、タウトからモダニズムのパースペクティヴを借用し、日本の建造物(小菅刑務所など)を評価している。しかしこのエッセイのポイントはそこにはない。安吾モダニズムの美学(機能美)に対しては十全に肯定してはいなかった。ここでの安吾のポイントは、日本文化を評価するにあたって、タウトがそのような評価をする必要とする文脈があったように、安吾にもそれ相応に必要とする文脈があるということである。

タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。

ただしここで安吾が宣言したことは、モダニズム形式主義から歴史主義や文脈主義への移動というような簡単な話ではない(竹内や安吾はカルチュラル・スタディーズに好まれる傾向にあるが)。また、安吾はタウトに対して本当の日本を示したかったのでもない。その意味では安吾はあまりにもタウトに似すぎている。安吾にとって重要なのは、竹内の「掙扎」と同様に、必要とされた何かではなく、何かが必要とされる契機に注視することなのであった。
安吾の方法論をここで整理しておこう。彼は様々なジャンルを書き分けたことで知られているが、歴史記述もその一つである(『安吾新日本地理』『安吾新日本風土記』など)。安吾の歴史記述の特徴は、記紀神話など正史とされてきた歴史記述を批判し、相対化するところにある。その際に彼が試みるのは、テクストA(正史)にテクストB(偽史)を相対させ、それによってテクストAのバグを浮上させるというものだった。それは逆にまた、テクストAがテクストBを故意に改竄した(それによって自己を正史化する)コードを浮上させることになる。つまり安吾は、テクストAとB(非A)の間に別の文脈――抑圧された無意識――を導入することで、テクスト間の位置関係を修正することにつとめているのである。

史実を隠すために偽装を施されたものが記紀である、という考えが先立つことは有りうべからざることなのである。記紀を読み、また他の資料を読むうちにだんだん証拠が現れてきて、そうか、さてはこの事実を隠すために記紀はこんな風に偽装したのか、ということが現れてくる。[中略]記紀の場合には、私が数々の物的証拠をあげているでしょう。それらの物的証拠によってカラクリを証明しておりますから、それを否定するには更に有力な物的証拠によって反証をあげねばならぬ。(「歴史探偵方法論」1951年)

むろん安吾の場合、偽史こそが正史というような弁証法的発想は皆無だ。実際彼は、みずから正史と認めたテクストを、別のテクストとの関係では偽史的立場に位置付け直すという一見修正主義的な恣意性を披露することもあるのだが(たとえば安吾の複数の歴史記述を通してみると「蘇我氏」の位置付けは正史と偽史の間を揺れている)、むしろ彼の方法論は一貫しているとみるべきである。彼にとっては、正史と偽史(Aと非A)は相対的なものにすぎず、その時々の政治的力学や非合理な偶然性や物理的限界によって定位されるものであった。
安吾ミステリの名著『不連続殺人事件』(1947年8月-48年8月、以下『不連続』)も、歴史記述と同様のスタンスから書かれている。安吾には「歴史探偵方法論」というエッセイもあるくらいだ。『不連続』の見所は、そのタイトルにある通り、犯人が残した不連続な点の集積(A/非A)を名探偵が合理的に繋ぎ合わせるところにある。それが『不連続』の通常の読み方であろう。
しかしこの作品は、より注意深く読めば、名探偵の合理的な繋ぎ合わせ方(=解決の仕方)がきわめて非合理でもある面を提示することで成り立っているのである。つまり、ここで安吾が試みていることは、Aと非Aの配置の関係を円滑(連続的)にみせるトリックではなく(のみならずと言うべきか)、その配置を可能にしている別の審級(文脈)を示すことであった。
安吾は、ミステリに関するエッセイを何本か書いているが、そこで彼はミステリの謎掛けと謎解きの演出にとって重要なのは「合理的に意外」(「推理小説論」1950年)であることだとしばしば指摘している。事件の謎とその解決は読者にとって納得のいくものでなければならないが、その合理的解決は、「こんなことありえない」と突き放されるギリギリの手前で閉じられなければならないということ。
ミステリというジャンルが事件の謎とその解決(A⇒非A)のパッケージによって成立しているものだとすれば、安吾はそのジャンルの成立条件それ自体を問うていたのである。この作品のタイトルにある不連続線とは、ジャンルを横断するものとしても想定されていたのであった。
もちろん、以上のような『不連続』解釈は、ミステリというジャンル論としてみれば、大幅に逸脱したものである。『不連続』の秀逸な点としては、江戸川乱歩の「『不連続殺人事件』を評す」(1948年)以来、読者をも謎かけに巻き込む「叙述トリック」が挙げられることがしばしばある。また、戦時中に平野謙らと探偵小説の犯人当てゲームを盛んにやった安吾の推理眼が、やはり「叙述トリック」的な側面にばかり注がれていたという大井広介の証言などを考慮すると、犯人と探偵の謎かけ謎解きゲームはそれ自体で十全な合理性を形成しえず、その「外部」(作者と読者)が何らかの形で合理性形成に関与していることを、安吾は触知していたのだと理解できる*2
この「外部」をきょくりょく目に付かないように謎かけ謎解きゲームを構成することが(合理的たらんとする、いわゆる「本格」)ミステリには求められるわけだが、「叙述トリック」とは、まさにこの「外部」を利用したものである。ただし「叙述トリック」が基本的に目指すところは、「外部」の導入によってゲームの合理性を破綻させるというよりも、ゲームが合理的であることをより読者に印象付け、有無を言わせず納得させるというところにある(無論もとより合理性を目指さない「叙述トリック」の使用例はこの限りではないが)。少なくとも安吾がミステリの「叙述トリック」的な側面に関心を寄せたその理由は、このような性質にあると考えられる。ミステリというジャンル論として考えてみた場合、安吾の言う「合理的に意外」の具体的な一例は、おそらくこういった「叙述トリック」的な側面であったろう。
5
以上。要するに安吾は、Aと非A(たとえばタウトがもたらしたモダニズムの美学と日本の表象の関係、正史と偽史、犯人と探偵など)の交渉の痕跡があれば、その履歴をたぐり寄せ、その中からバグ(たとえばAの失策や非Aの抵抗)を探し出して、それをもとにコード(たとえばAが仕掛けた)を改編するという作業を行っているのである。
安吾キリシタン弾圧のために数ある拷問のうち「穴吊し」*3を採用した幕府当局を評価したのも、それが結果的に大きな成果を上げたからではない。既成のコードとは別のコードの必要にしたがったものだったからであった。
信長が鉄砲を自陣の戦力に採用したのを、安吾が評価したのも同じ理由からである。当時優勢だった武田軍が従来の鉄砲観――「鉄砲はタマ一発に限るというのが常識だった」(「真書太閤記」1954年)――に縛られていたのに対して、信長は当時の戦争の傾向(一騎撃ちから集団戦へ)を見据えつつ、鉄砲の潜在的能力を引き出して鉄砲観を一変し、それまでの武器・武術のコードを劇的に改めたのであった。
もちろん、穴吊しや信長は絶対ではない。だから安吾は、穴吊しや信長、武蔵など特別に評価する対象に対しても、それぞれ欠点や悲惨な末路についても等しく語っている。安吾が仕掛けたコード(私観)もまた、安吾の「必要」にしたがっているゆえ、別の文脈(必要)によってはバグが発見されるだろう。このような作業を、安吾は時事的エッセイや歴史記述、ミステリのみならず小説でもくり返し応用しているのである。
6
世界の調和が乱れて様々な価値体系が形成されている時代。そんな時代に対処するべく、いくつかの表現法が編み出されたのだった。イロニーの戦略やユーモアの戦略もそのうちの一つである。
しかし、竹内や安吾にとってこれらの戦略は、表現する主体の責任(実存的契機)を放棄している点で我慢ならなかったはずだ。イロニーもユーモアも、複数の価値体系を見込んで自身の表現に複雑に折り畳みはする。その営為は認めてもよい。しかし彼らはけっきょく、その表現がどのように伝わり効果を発するか(Aと非Aの決着)を、受け手に委ねているところがある。そのスタンスはあまりにもロマン主義的ではないか。そのような性向に対して、安吾と竹内(そしておそらく彼らと同世代の花田清輝)が試みたのは、別の文脈を導入することで、Aと非Aの関係の決着を、自身の表現のうちにもしっかりと折り込むことだったのだ。彼らはその決着を「掙扎」と呼び、「必要」と呼び、「総合」(花田)と呼んだのである。
戦間期と戦後まもない時期に盛んに議論された「政治と文学」論争の渦中において、周囲の言説からはまったくかけ離れて、奇しくも彼らは同じような言葉を組織していた。それは、政治と文学の、相反するものでありながら切っても切れない関係を論じるものである。かほどに彼らは文学における政治性について注意深く言葉を組織したのである。むろんそれは、文学の政治的利用(プロパガンダなど)や文学表現における政治的表象(PCなど)とは異なる次元の政治だ。
しかし、彼らの超越論的な文脈操作は、マイナー・ポリティクスやPC的な立場性を重んじる人々からは、そのアナーキーなフットワークのよさを恣意的なものとして批判される側面があるだろう(戦争責任論における吉本隆明の花田への批判など*4)。
他方で、彼らの言説は、モダンで保守的なものとして認識されるケースも多々ある。民族にこだわった竹内も、機能性を重視した安吾も、アヴァンギャルド運動を先導した花田も、局面ごとに文脈を読みつつ決断を下したからだ。そしてそのときどきの決断に満足せず、たえざる自己否定をくり返したからだ。
しかし彼らは、単にアナーキーなのでも、モダンなのでもない。彼らを、モダンだのポストモダンだのとイデオロギーで裁断するのではなく、コード変換の運動体としてとらえるべきではないか。既成のコードをスキャンしつつ、そこからバグ(コードの限界)を見つけ出し、それを基点にコードを改変すること。彼らはこの一連の動作を内蔵させた運動体であった。それに対して無責任だとか、モダンな主体性の限界だなどと批判する必要があるだろうか。
彼らにとって重要なのは、Aの無意識として非Aを見出し、その解釈ゲームに明け暮れることではない。またAと非Aを無秩序に並べることでもない。むしろ、既成のコード(Aと非Aの関係)から――Aの無意識として見出した非Aをもとに――別のコードへと改変するその橋渡しが、彼らの作業の眼目なのである。コード間を横断して不連続線を引き、コードを書き換えること。
もう一度ふり返ってみよう。安吾は信長のどこに惚れたのか。信長が必勝のために、つまり自分の必要のために鉄砲の新たな活用法を編み出したところだろうか。そうではない。信長の必勝体勢を呼び込んだ先見の明は、既成の武器コードから鉄砲の「必要」――オレを馬や弓矢と一緒にするな!――を引き出し、それにしたがったがゆえである。安吾はそこに惚れ込んだのだ。
そう、信長は一人当たり鉄砲一丁という既成の武器コードに当てはめた鉄砲観――撃ち終えた後の弾込めに時間がかかり、その間に攻撃されてしまうから鉄砲の使用は制限される――を疑ったのだった。そこに非合理なバグを見出したのである。そしてそれをもとに信長は、鉄砲を持つ人間を三列に配置して、連射式の鉄砲を編み出したのであった。

即ち鉄砲組みを三段に構えるのである。第一列目がまず発射する。次に第二列目が次に第三列目が発射して、第三列目の発射が終った時には第一列目のタマごめが完了しているという方法であった。(「真書太閤記」)

この発明は、新式の武器を導入したのでも、鉄砲を改造したものでもない。そもそも改造されていたのは、人間の方だったのである。そこにいるのは武器を自由に操る人間ではない。発射・弾込め・待ちの順に、縦列を組んで回転し続ける連射式鉄砲が、信長=安吾の思い描く人間なのである。そう、ちっぽけな人間たちが局面ごとにそれぞれの必要を求めて生きている光景を、安吾は切なく思い愛したのだ。

日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。[しかし]人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれてゐない。何物かカラクリにたよつて落下をくひとめずにゐられなくなるであらう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくづし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先づ最もきびしく見つめることが必要なだけだ。[…]文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によつて政治に協力してゐるのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。「続堕落論」(1946年)

*1:形式主義文学論争からキャリアをはじめ、エンターテインメント系文学を吸収しつつ「純粋小説論」を経て、最終的に民族主義文学にいたる横光の歩みは、文学で現在何が問題になっているのかを正確に嗅ぎ取る嗅覚に優れていたことを示している。

*2:本作は、読者向けの謎解き・犯人当ての懸賞も共催していた。安吾はそれをひどく喜んでいた。

*3:安吾によれば、弾圧当初の拷問は、あの手この手にドラマチックな効果を狙ったものばかりだったと言う。だから、死ぬ方は死ぬ方で悲劇的に死ねるし、ゆえに、それを見る見物人や拷問執行人にまで感動を与え、キリスト教へ改心させてしまうことがしばしばあった。ドラマチックな数々の拷問は、壮絶な死を演出する、いわゆる「死の荘厳」をもたらすために、キリスト教信仰の戒めにとってはかえって逆効果だったのだ。しかし、「穴吊し」の発明に至ってあえなく功を奏することになる。というのも、それにかかれば、「実につまらなく死ぬので、見物人もバカバカしくなるのだという。この穴吊しの発明いらい、急速に信者が減った」(「発明の拷問」1953年)。

*4:安吾といえば柄谷ということで、文脈は別だが、フェミニズムジェンダー問題における、上野千鶴子柄谷行人への批判を思い出してもよい(「批評空間」第2期3号、1994年、「特集=日本文化とジェンダー