感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

彼女が髪を切った理由――川上未映子『ヘヴン』

「だから、ぜんぶをぴしっと切っちゃうんじゃなくて、一部だけちょっと、ほんの少しだけ切るのが大事なんだって。君ちゃんと見た? 学校のだってぜんぶさきっちょしか切ってなかったでしょ? あれぜんぶ完璧におなじ長さなんだよ。大きくじゃきじゃき派手に切ったりして、それが使えなくなったりしたらそれはもうだめなの。その機能じたいに迷惑かけることが目的じゃないの」(『ヘヴン』32頁)

ヘヴン

ヘヴン

川上未映子の『ヘヴン』読みました。初出の「群像」(2009年8月号)が売り切れのため――もちろん『ヘヴン』効果――手に入らなくて不貞腐れていたのですが、単行本化のすえようやく手に入れたのでした。一読してとてもウェルメイドな作品だと思いました。というわけで総じて楽しく読んだわけですが、ただ納得できなかった部分もあるので書き留めておきます。川上未映子の読者は決して読まないでください(笑)。
最初に指摘しておくべきなのは、やはり、ナレーションが前作から劇的に変わったことでしょう。未映子節とも形容すべき大阪弁を駆使した独特の語り口が、今作ではきわめてオーソドックスな語り口に変化しています。この変化は、ナレーションを重んじる純文学的評価軸からすると、とても興味深いものだとは言えます。しかし、この変化の意味を掴むのは、彼女にとって初の長編小説となる今作一つだけでは無理があるように思います。
とにかく、今作単体に限定すれば、川上未映子は、作品作りの重心を、ナレーションから物語のプロットに移動させたということを確認しておきたい。デヴュー作以来、物語内容の要約が困難というか意味がないほどナレーションに特化していた彼女ですが、今作の要約はとても容易です。
その内容を要約すると、学生のいじめを題材にして、普遍的な善悪をテーマにした物語ということができるでしょう。本の帯には「善悪の根源を問う」とあります。ちなみに、ここ最近の純文学の傾向をみると、とくに長編の作品においては善悪がテーマになるケースがよくみられます*1。彼らが挙ってテーマにする善悪とはもちろん、ポスト・ニーチェ的なもの、つまり善悪の相対化および善悪の彼岸の志向という意味合いを持つものです。
ここであらためて問うてみます。彼女が髪を切った理由を。髪だけではない。髪や歯や目や乳や経血といった細部にフェティッシュなこだわりを見せていた作家が、こうもあられもなく語り口(文体)からフェティッシュな側面を削ぎ落とすことの代償はなかったのでしょうか。逆に言えば、削ぎ落とした結果、得るものはあったのでしょうか。
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普遍的な善悪という物語のテーマを明確に設定する以上は、当然、内言(脳内妄想)を軸にした話者のユニークな語り口はノイズになりやすいでしょう。善悪の判断が個人の解釈という形で許容されてしまいますから。ただ、町田康の『宿屋めぐり』のように、ユニークな話者を視点にして善悪のテーマに取り組むケースもありますが、それは解釈の恣意性――その行為が善か悪か、暴力的か否かを決めるのはしょせん主観にすぎない――という方向に善悪のテーマを流し込むほかありません。
しかし、川上未映子は、デヴュー以来、脳内妄想(内言)に自閉した主観性を実存的に問い、なおかついかに世界と関わるかを追及してきた作家です。ですから、主観(内言)の恣意性を暴露して満足できるはずがありません。そもそも、物語のテーマに普遍的な善悪という問題を選んだのも、世界との関わりを実存的に追及する上で最適なテーマだったからでしょう。
髪や歯や目や乳や経血といったフェティッシュな細部の位置付けも今作では健在ですが、前作から微妙な移動が見られます。前作までは、それらは、主観(私)と世界との関わりを問う上で欠かせない身体上の重要な契機だったわけです。今作でも確かに、斜視(目)や髪、不潔な身体といった部分がクローズアップされるし、それらはどれも世界との関わりを問う契機となっているのですが、しかしよりいっそう社会的なシンボルという性格を強めているのですね。つまり前作までは、フェティッシュな要素は自分にとっては意味のあるものでも、世界にとっては見向きもされないものでした(乳や生理など女性性のシンボルとなるものもありましたが、その社会性は積極的に問われていなかった)。しかし、今作では、むしろ自分よりも周囲がどう意味付けするかの方に関心が向けられており、いわば社会的にきわめてシンボリックな性格を担わされています。それは具体的に言うと、差別(いじめ)を受ける負の徴であると同時に、差別の連鎖とは別の聖なる繋がり(ヘヴン?)を求める契機にもなっている――『ヘヴン』ではこの両義的なシンボルを「しるし」と呼んでいます――という設定なのです。
こうした移動は、ナレーションからプロットに重点を移し、テーマを明確に設定したという環境の変化ゆえの、必然的なものだったということができるでしょう。要するに、川上未映子のフェティッシュなものは、ユニークなナレーションからプロットへと、宿るべきホストを変えたのだといっていいと思うのです。少なくとも『ヘヴン』においては。
ならば、今作には、物語の展開を支えるプロットにおいてユニークなもの・フェティッシュなこだわりがあるかどうかを問うてみる必要があるでしょう。結論から言えば、私はそれを見出すことができなかった。私が感じたのは、どうもこの小説は物語の展開がうまくいきすぎているということに尽きます。言い換えれば、フェティッシュなものを通して私と世界の関係(「わたくし率」)にあれだけこだわった人とは思えなかったということです。
その象徴が、いじめの被害者である主人公「僕」が、いじめる側の(陰のボス的存在)「百瀬」と対話するところに集約されていると私は思いました。実際この二人に対話させるかどうかは、作家自身、「僕」の鈍い足取りのように迷ったのではないでしょうか。
ここで「僕」はひるみながらも、百瀬に対して抵抗を示します。しかし、百瀬はそれに冷静に対応し、リバタリアン的な言説(世界はやったもの勝ちで、そこには善も悪もない)でもって「僕」を捩じ伏せるわけです*2
ところでこの小説は、その一方で、物語の冒頭から、「僕」と、もう一人クラスでいじめられている女の子「コジマ」とを対話させ続けています。つまり、物語の中盤において百瀬と対話するまでは、「僕」が言葉をかわすのは実質コジマとだけといっていいでしょう。そこでコジマは、「僕」に向かって、「弱さを受け入れたものこそが真の強者である」「いじめる側も気の毒だ」という受動性に徹した殉教者としての発言をくり返していました。
つまりこの小説で作家は、いじめる側=リバタリアン=百瀬と、いじめられる側=全てを受け入れる殉教者=コジマという図式を立て、その両極に主人公の「僕」を挟み込むという設定にしたわけです。
そしてさらに『ヘヴン』はこの関係の複雑さを徹底して見せてくれます。たとえば物語のラストでは、百瀬(リバタリアン)とコジマ(聖なる殉教者)の発言が、いじめられて朦朧としている「僕」の想像の中で重なり合い、相対化されるという見せ場を、内言を駆使して演出しています。ここで善悪は完全に相対化されるわけです。この後、「僕」のお母さんと医者の励ましによって導かれつつ大団円ということになるわけですが、つまりこういうことです。リバタリアンと殉教者、双方との議論によって善悪が相対化されつつ成長の一歩を踏むという展開が、あまりにも破綻がない印象を与えるのではないかということなのです。
リバタリアンと殉教者は善悪の彼岸にいるという意味で表裏の関係。しかしその両極は、それぞれ「僕」との対話の場を持ちつつ、最終的には「僕」という一人称の中に(消化不良のまま)消化されることになる。これがこの物語の基本的なプロットです。
しかし、よく考えてみると、リバタリアンというのは、自律した力を持つ絶対的な強者でも、善悪の彼岸にいるわけでもない。弱者に対して、自分の行為を正当化する弁明の一ヴァリエーションにすぎません。百瀬のようにいちいち議論をしてくれるし、その論理構造はどこまでも理論的(屁理屈)です。
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ところで、川上未映子は、インタヴューを受けた際に、『ヘヴン』は図らずも村上春樹の『1Q84』と似ているところがあると述べています(「小説で世界を介護する」聞き手・沼野充義、「群像」2009年10月号)。もちろんそれは、善悪というテーマと、それをめぐって二人の男女が翻弄されるという物語の展開でしょう。それに、いじめも宗教も同様に、善悪の彼岸をテーマにするうえでとっておきの題材ではないでしょうか。
しかしこの二作品を比べてみると、『1Q84』のあの教祖の方が善悪の彼岸にふさわしい設定だったということは言えると思います。この教祖は、復讐のために暗殺しに来た青豆に対して、君たちの善悪はオレにはよくわからないと、リテラル(大真面目)に言うわけです。彼にとって少女(近親)レイプは、やったもの勝ち(百瀬)なのではなく、神事でしかない。それは彼の世界観の中で完結している。
たとえば、読書メーター川上未映子の作品評を見てみてください(http://book.akahoshitakuya.com/s)。デヴュー作『わたくし率イン歯ー、または世界』と二作目『乳と卵』については、その語り口のユニークさに対する高い評価と嫌悪がそれぞれ見られます。他方で三作目の今作については、物語の展開に関する言及しかなく、その題材であるいじめの描かれ方についての感想が話題の中心です。『わたくし率』や『乳と卵』について「くだらない」「読みにくい」と一蹴するのは百瀬みたいなロジックですが、そもそもここには、ナレーションを軸にした物語世界とプロットを軸にした物語世界の、相容れない断絶が見て取れるのです。どちらが良い悪いではなく、単に棲み分けられているというわけですね。
むろん川上未映子村上春樹の世界観は異なるのでどちらが優れているかという話をしたいのではないのですが、少なくとも村上春樹は、他の作品を読んでみてもわかりますが、この手の問題(世界の解離・不干渉)のたちの悪さをよく知っている作家です*3
彼はこのようなたちの悪い世界を、形式面では、黙説法的ナレーションと解離するダブル・プロット、およびメトニミー的なレトリックによって物語に仕込んでいます。そのことは、このブログでも何度か述べました。この大枠は、彼が物語を通して世界にコミットメントしようが、そこからデタッチメントを決め込もうが、基本的に変わっていないといっていいでしょう。この点、村上春樹は一貫しています。
川上未映子の場合、デヴュー作から実存的な問いを、内言(フェティッシュなものへの両義的な思いで揺れる)を軸にして追求していました。それを純粋理性批判のフェーズと言うことができます。それに対して、実存を社会の極限状況(いじめ)において、善悪のテーマを追求するのが今作です。それを実践理性批判のフェーズと言いましょう。おそらくこの作家が、前者のフェーズから後者のフェーズに踏み出すのは時間の問題だったのかもしれません。主観の恣意性に満足せず、つねに世界との関わりにおいて実存的問いを行っていたのですから。
とにかく、この移動のために、川上未映子は、ユニークなナレーションを切断し、フェティッシュな詩的要素をシンボリックなプロットに還元したわけです。そしてプロットを軸にして描写や会話、内言のアンサンブルを配分するという作品作りを自分の使命にしたのではないでしょうか。とすると、この試みの成果は、善悪というテーマを支えるプロットにおいて、フェティッシュな詩的要素が活かされているかどうかにあるといっていいでしょう。
ふり返れば、「しるし」を背負った殉教者コジマを軸に、このフェティッシュな負の「しるし」を介した「僕」とコジマのモノローグ的な対話が展開される前半は、デヴュー作からの延長上にあったと言えます。それが後半、「しるし」を無意味なものとみなす百瀬との対話によって、社会的・立体的な広がりを持つようになったのでした。つまり、百瀬との対話がフェティッシュな詩的要素を物語のプロットにおいて機能させる展開へと開く、大きな要因になっているのです。
しかし私は、この展開は善悪のテーマを扱うにしては予定調和的な、いわば善悪の此岸にとどまるものだったと思います。それは、くり返せば、百瀬を「僕」との関係でどう処理するのかという問題であり、おそらくこのことには作家自身が気付いており、自分の処理の仕方に満足いっていない様子なのです。「百瀬のいっていることって[…]すごく少年っぽいといえば少年っぽい。[…]どちらかというとコジマのほうが一枚か二枚上手なんですね。」(同上)。
端的に言って、作家が言う通り、百瀬には、コジマと釣り合う魅力が欠けているのです。だからけっきょく、「僕」の「しるし」である斜視は、コジマとの関係でしか展開をみせない。つまり、「僕」にとって斜視はいじめられる原因だから治したいと思いつつ、コジマが好き(キミにとっての実存的な核だ)と言ってくれたから躊躇するのだけれど、最終的には、斜視があろうとなかろうと僕は僕だという自同律を理由にしてそのフェティッシュなこだわりを吹っ切るという、古典的な成長物語のプロットに収まっているのです。そこでは、いじめ(百瀬)は、どんなに陰惨でも、イニシエーションのための道具立てでしかありません。
それでは、なぜ百瀬に周囲を巻き込むような魅力がないかというと、彼が身に付けたリバタリアン的ロジックは「僕」の抵抗に対する受身の口実でしかなく、どこかで聞いたことのある話でしかないからです。もっというと、百瀬がリバタリアン的なロジックを駆使しようと、少年っぽい一面があろうと、それ自体が問題なのではありません。問題なのは、作品の中で独自のロジックなり世界観を持っていないということです。それに対してコジマは、『ヘヴン』(あるいは川上未映子作品)の中で完結した独自のロジック・世界観を持っています。そんな彼女と百瀬が釣り合うはずもないですし、だから「僕」の想像の中で二人が重なり合うラストも、帳尻合わせの感が拭えず、技巧的にうまい以上の感想をもてなかったのでした。
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とはいえ、百瀬の処理に関しては、私の印象(おそらくきわめて純文学的な読みに規定された)に支えられているところが大きい、ということは自覚しています*4。この百瀬との対話シーンが素晴らしいという人もたくさんいるでしょうし、そういう人たちと議論するとしたら、けっきょく水掛け論にしかならないでしょう。
なんだか否定的な評価ばかりしてしまいましたが、川上未映子ファンとしては十分満足いくものでした。デヴュー作以来彼女の作家性を保証しているのは、実存と世界の関係を問うフェティッシュなものであるわけですが、それが今作でも、別のフェーズとはいえ、活かされていたということです。むしろ別のフェーズへの移行――純粋理性批判から実践理性批判的なフェーズへ、ナレーションからプロットへ――は、それを手掛かり(コード変換の鍵)にして行われていたのです*5。この地点から『ヘヴン』を評価するなら、百瀬の処理の成否などはたいした問題ではありません。ナレーションがユニークでなくなったこともたいした問題ではない。
そう、彼女は髪を切り落としてなどいなかった。作家性(川上未映子の「しるし」)を損なわない程度に、というよりもそれを活かす角度で髪にハサミを入れること。その一連の作業は、「僕」と築き上げたコジマとのやり取り(交換日記と会話)に、確かに書き留められています。「僕」は最終的にはコジマと共有する「しるし」を治してしまい、コジマを失うことになりましたが、見えない形で「僕」の内に痕跡をとどめ、自分の「わたくし率」を調律するたびにそれはいつでも舞い戻ってくるでしょう。『ヘヴン』の次回作はそのためにあるはずです。
約束したはずなのに、けっきょく二人で見ることができなかった「ヘヴン」というタイトルの絵について、コジマは「僕」にこう語っていました。

「その絵はね、恋人たちが部屋でケーキを食べてる絵なのよ。赤い絨毯とテーブル、すごくすてきなんだよ。でね、そこにいる恋人たちは首をにゅーんとすきなだけ自由にのばすことができるから、どこにいてもなにをしてても、すぐにくっつくことができるふたりなの。便利でしょ」(57-8頁)

*1:仲俣暁生氏のブログ(http://d.hatena.ne.jp/solar/)にそのような指摘が以前あったはずですが、どのエントリか失念してしまいました。善悪をテーマにした作品の例は、町田康宿屋めぐり』、平野啓一郎『決壊』、舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』、村上春樹1Q84』、桐野夏生東京島』など。

*2:ここでリバタリアンという政治用語を使うのに違和感を感じる方がいると思いますが、要は、「他人(弱者)には自己責任を押し付けつつ自由意志を標榜する言説」を、ここではとりあえずそう呼ぶことにします。

*3:そもそも、現代文学史上最重要作家となりながら、メディアに露出せず、批評は絶対読まないと公言し続ける彼自身が、良くも悪くもたちが悪いわけですが。

*4:これはもう完全に私の印象論ですけれど、そもそも、弱者には自己責任を押し付けつつ自由意志を肯定する人間から、弱者が本質的な影響(内言に侵食するほどの)を受けるとは思えません。影響といっても、何も出来ない僕がやっぱり悪いんだと弱者に思わせる形で捩じ伏せる程度の力ではないでしょうか。

*5:最近の純文学作家は、個性的な語り口とか文体といった抽象的な側面に作家性を担保しているのではないでしょう。語り口などたいした問題ではない。それを川上未映子は今作で明らかにしてくれたといっていいと思います。むしろこう考えるべきです。各作家は、物語を作成するために独自のジェネレータを採用していて、そのジェネレータがナレーション(語り口・視点)と連動したものである場合、作家性が際立つ純文学になる。キャラクターやプロットといった二次制作(共有財)に親和性がある要素と連動する場合、それぞれライトノベルジャンル小説になる、と。たとえば、諏訪哲史鹿島田真希は、固有の語り口や文体を持っているわけではありません。しかし彼らには、複数の作品を通じて独特の世界観を感じる。その要因は、各自採用するジェネレータ(このブログでは「調整弁」とか言っていたものですが)に潜んでいると言えます。舞城王太郎佐藤友哉金原ひとみ古川日出男ら語り口に特徴がある作家にも、同じことが言えると思います。これまでの川上未映子の場合、そのジェネレータを、実存と世界を問うフェティッシュなものととらえることができそうです。