感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

文学とは何か

Twitterでのつぶやきをまとめたもの。
PART1
純文学=高尚・芸術的、エンターテインメント系文学=エンターテインメント・市場原理という対立はしばしば議論されてきた(文学の大衆化が登場した大正以降)→水掛け論に終始。

そのような文学観は誤り。⇒ジャンルごとに別々のルールがある。Ex:ケータイ小説はすでに10年近い歴史を持ち、純文学とは別のメディアを介して別のルールで機能するジャンルだ。純文学のルールで批判しても意味がない。

「純文学は文化的だからエンタメ系文学とは異なる」という発想(文学価値の内在説)は倒錯している。特定のジャンル(純文学)は、(a)隣接するジャンルのルールとの関係、(b)同一ジャンル内の既成のルールとの関係、この二つの関係から差異化をはかり、ジャンルのルールを形成してきた(文化的パッケージを施す等)。

Ex:全日やみちのくプロレスのショウアップされた格闘技に対して、総合格闘技よりも幼稚だという格闘技ファンはいない。別々のルールで動いているからだ。同様に、純文学のルールでケータイ小説ラノベを批判するのは水掛け論にしかならないということを認識せよ。

誤った文学観を避けるために、要素分解して文学のルールを理解する必要がある。文学のカテゴリーには、純文学とエンターテインメント系文学がある。さらにエンタメ系文学は、ライトノベルジャンル小説のサブカテゴリーに分けられる。

上位の構成要素として、純文学にはナレーション(語り+視点)、ライトノベルにはキャラクター、ジャンル小説(SFやミステリ)にはプロットが割り振られる。各ジャンルは、上位の構成要素を基点にして物語が作成される。キャラクターに魅力がないラノベが考えられないように、プロットの構成を考慮しないジャンル小説、たとえばミステリ的プロット(密室など)のないジャンル小説は考えにくい。それらと同様に、純文学にとってナレーションは重要な構成要素である。

さらに下位の構成要素には、描写・内言・会話がある。純文学は描写と内言、ラノベは内言と会話、ジャンル小説は会話と描写に親和性がある。
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PART2
第一仮説:純文学=ナレーション=現実界的、ライトノベル=キャラクター=想像界的、ジャンル小説=プロット=象徴界的。*便宜上ラカンの用語を使うが、別の用語でも可能。以下、この仮説を証明する。

純文学はしばしばナレーションの観点から「視点」(語りの人称や焦点化)が問題になる。ナラティヴ論しかり。古くは、横光利一の「第四人称」や坂口安吾の「無形の説話者」といった概念が提示されている。それらを「超越論的統覚」として議論する評者もいる。このように、物語(戦前では自意識の問題)を統括する位相は現実界的審級と言える。また、それ自体で消費(欲望)の対象となるキャラクターは想像界的であり、A/−A(物語の分岐点)の選択の束に抽象化されるプロットは象徴界的である。

第二仮説:しかしその区分は相対的なものにすぎない。たとえばキャラクターは、不気味なもの(消費の欲望を逃れるもの)としてとらえる評者もおり、そうなると現実界的。善/悪、父/母/子供等でキャラクターの関係を抽象化すれば象徴界的になる。

ケータイ小説のように、脊髄反射的なプロットを欲望のフラグとして恣意的に散りばめれば、プロットは想像界的。複数のプロットの分岐を矛盾するように絡ませたり(Ex舞城王太郎九十九十九』)、叙述トリックのようにナレーションの審級の影響を受ける場合、現実界的になる。

ナレーションは、語り口にアディクトさせるよう演出すれば想像界的消費が可能(Ex方言の語り=川上未映子町田康の河内弁、個性的な語り=太宰治佐藤友哉の自意識過剰な語り口)。その一方で、対象を正確に映し出すリアリズムの語り手はもちろん象徴界的となる。

最近は、ナレーションもキャラクターもプロットも想像界および現実界的利用が注目を集めている。たとえば舞城王太郎川上未映子のような個性的な語り口を駆使する作家、福永信青木淳吾、磯崎憲一郎のような、物語から解離させたナレーションを駆使する作家は、純文学がいかにナレーションを重視し、活用してきたかの証左である。