感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

分析と総合――モダニズム以降の表現の可能性(3)

ファンにとっては言わずと知れたことだが、刑事・探偵ものドラマには画期となった作品が二つある。一つは、村川透ほか演出・松田優作主演の『探偵物語』(1979−80)。もう一つは堤幸彦演出・中谷美紀主演の『ケイゾク』(1999)。
ふり返ると、1970年代から80年代といえば、石原プロ系の比較的シリアスな刑事ドラマ(『大都会』『西部警察』『太陽にほえろ』)が刑事・探偵もののメインストリームだった(あと二谷英明の『特捜最前線』)。それに対して『探偵物語』は傍流でありながら、独特のユーモア・センスによって作られたハードボイルド探偵ものと位置付けられる。この系譜には、前史として『傷だらけの天使』(74-75)『俺たちは天使だ!』(79)*1があるだろう。
余談だが、石原プロのモデルがクリント・イーストウッドマカロニ・ウェスタンと『ダーティーハリー』)にあったとすれば、『探偵物語』の系譜は、おそらくサム・ペキンパーにあったはず*2。 ペキンパーの緻密かつ徹底した編集ぶりと、それにも反してスクリーンを覆ってしまう泥臭さ・きな臭さの両義性は、小難しい言葉を並べる前からとにかく圧倒されるものだが、『探偵物語』もまたそのような作りになっている*3

探偵物語 DVD-BOX

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探偵物語』の特徴は、探偵もののパロディとして、ある種のフィクション空間において自覚的に探偵を演じるところにある。そこには80年代以降の空気が感じられる。この空気を最も効果的かつ強力に利用したのが、『刑事コロンボ』の倒叙話法を下敷きにした三谷幸喜演出・田村正和主演の『古畑任三郎』(1994-2006)であろう(シリアスな刑事ドラマの王道路線の系譜には『踊る大捜査線』1997‐、『HERO』2001、06−07、『相棒』2000-)。
しかし『探偵物語』の特異性はこのパロディ/フィクション的空気にはない。そこには、「銃を撃てば人は血を流すし死ぬかもしれない」というリアルな隙間も確保しているのである。押し寄せるフィクションの波とギリギリ確保されたリアルの隙間。このフィクションとリアルの綱渡りをしながら、ユーモアかつ憂える演出が施されていて、『探偵物語』は刑事・探偵ものの画期となったのである。
そしてこの次に新たな画期を引くのが『ケイゾク』だった*4。簡略に言えば、本作はフィクションであることに自覚的でありながら、フィクションにおいて到来するリアルとの境界線を再線引きしたのだった。
ケイゾク DVDコンプリートBOX

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ケイゾク』ファンには周知だが、本作の前半は、『太陽にほえろ』をはじめ過去のドラマやアニメなどからのパロディがふんだんに盛り込まれ、カメラのアングルや編集、物語の構成、台詞の言い回し、被写体の小物等々の演出が過剰な配慮のもとに施されており、一部のファンを魅惑した。また、一話完結型の推理物語は、半ば強引な解決に至るプロットの構成などから見てもわかる通り、「この作品はフィクションである(フィクションだから強引な解決でもいいじゃないか)」というインデックスが暗に示されていた。
しかし、このフィクションを前提にした空気は、後半にかけて激しく破綻する*5。ネタバレになるので一々具体例を示さないが、ここで重要な点をいくつか指摘しておく。一つは、一話完結型の推理物語という刑事・探偵ものにとっての自明な枠組みの破綻。それに関連してもう一つは、解決の不可能性、つまり事件−解決という線的な物語の不可能性に突き当たること。言い換えれば、解決不可能な事件なり様相が露呈し、作品全体を覆うことになる。そして、この解決不可能な事件なり様相こそが、前半で展開されたようなフィクションの空間(刑事が刑事の役割を、犯人が犯人の役割をこなし、それを観る者が楽しむ)を吊り支えていた、という構造が示される。
この点において『ケイゾク』は、フィクション構造のメタレベルを提示し、そこから刑事・探偵ものドラマというジャンルを批判したということができるし、フィクションからリアルを再帰させたということもできるだろう。前半のあざとくわざとらしい演出を振り返れば、このような全体構成にすることは偶然ではなく、当然、演出家の目論見として当初からあったと考えねばならない。かくして、『探偵物語』以後がそうだったように、『ケイゾク』以後の刑事・探偵ものは、すでにそれ以前の物語の構成・演出には安易に戻れなくなるだろう。
堤幸彦は、この成果を踏まえ、次代のゼロ年代には『池袋ウェストゲートパーク』(2000)『トリック』(2000−)と人気作品を矢継ぎ早に手がけることになる。とくに注目すべきは、多重フレームを軸にした感情演出が積極的にとりこまれている点だ。たとえば、『トリック』主演の仲間由紀恵(奇術師/探偵)と阿部寛(物理学者)は、コミカルなフレームとシリアスなフレームが複雑に絡み合った人物造形が施されている。それは、『探偵物語』や『ケイゾク』がそうだったように、シーンごと・パートごとに(コミカルな前半とシリアスな後半)分けられるものではなく、併せ持って造形・演出されているのである。そこには、段差とか起伏とかメタレベルとかいった空間表現は一切該当しない。
だから、『トリック』も後半にかけて、仲間の「隠されていた」過去・出自が明らかになるとともに深刻な様相を示しはするが、それは『ケイゾク』のような深みには決して達しない(印象としてはむしろ横滑りしていくような感覚が味わえるだろう)。
当時の日本では、物語を演出するに当たって深く重いテーマがうそ臭く不可能になる状況にあって、辛うじて選ばれた(捏造された?)トラウマなるテーマが注目を集めたわけだが、そのような中で『トリック』のトラウマの演出振りはきわめて軽薄であり、それ自体で状況への批判になっているといっていいくらいだ。『トリック』演出にはトラウマに象徴されるような深みや不可逆性といったものはない(その意味ではパロディでさえ、戻れない過去への執着と見なされ、封印される)。あるのは、演出のための複数のフレームを可視化し、操作することへのこだわりである。これが、『ケイゾク』のシリーズ化が不可能であるのに対して、作品の質とは関係なく、『トリック』がシリーズ化できる理由の一つであることはいうまでもない。
そもそも、『トリック』には、解決の不可能性は一話(一つの物語)ごとに織り込まれていることにも注意しておきたい。
くり返せば、刑事・探偵ものにとって事件−解決の流れは、疑問の余地のない形で結ばれなければならないことはジャンルの要請だが、それを『ケイゾク』は打ち破ったのだった*6。ならば、それ以後の刑事・探偵ものはいかに事件−解決を物語り、演出することができるか。ジャンルに真摯に向き合う演出家なら、この問いは避けがたいし、わけても堤は自身がこの問いをもたらした作家・演出家の一人である。だから堤にとって、そのジャンルが要請する問いの一つの解決法が『トリック』なのであり、その解決法が、解決の不可能性を一話ごとに織り込んでいくというものだった。より正確に言えば、一面では(表層的には)探偵によって見事に解決されるが、別の面では、その解決では不十分な様相(オカルト・超常現象的な)を余白に示すという演出である。『ケイゾク』そして『トリック』はしたがって、従来の刑事・探偵ものとはいえない。その意味で画期となる作品であった。
そしてこれ以降は、実に多種多様である。たとえば、『ケイゾク』の後半を引き伸ばせば、ジャンルとしてはサスペンス系列の陰謀ものの色を強めた『アンフェア』(2006−7)になる。また、『ケイゾク』『トリック』の演出は、ホームズ/ワトソンタイプのボケ/ツッコミ要素を極端に強調したキャラ造形を確立し、のちの刑事・探偵ものに影響を与えたが、これを徹底的に引き伸ばしたのがお笑い探偵もの『33分探偵』(2008)*7。『ガリレオ』(2007−8)は、『トリック』のキャラ役割を反転させたものであり(探偵が物理学者)、なおかつ『トリック』が『ケイゾク』以後の可能性を辛うじて示した、探偵ものフレームとオカルトものフレームの合成という側面を、悪く言えばマーケット戦略のもと消費財的に抽出し、探偵もの作品として再編したものといえる。
ただ注意したいのは、このような多重フレームに依拠した作品構成の仕方は、1980年代(以降)に流行ったリミックスの手法とは異なる点である。たとえば80・90年代の『スケバン刑事』とか『あぶない刑事』の場合、「刑事」とイメージ的に不釣合いな属性(「スケバン」「あぶない」)との、分析的・コラージュ的な接合(Aよりも非A、Aか非Aかの排中率)が主眼であった(この意味で『時効警察』や『富豪刑事』は80年代的ではある)。これに対して『トリック』以後の多重フレームの特徴は、一つの事件なり様相がAにも非Aにも見えるというところにあり、そのような両義性なりアンチノミーを問題化し、総合的に活用している点である。
90年代以後のミステリー小説が、キャラ読みか謎解きかを問題化し、けっきょく両方を含めることになったのも多重フレームの文脈で考えることができるし、それ以降の展開は「ゼロジャンル」(新城カズマ)といわれもするライトノベルのデータベース消費を近傍に置きながら分析的/総合的演出が盛んになされた。純文学ももちろんそうだ。90年代以降、純文学は、分析的な実験性か物語消費かの間で揺れ、いまやその両方取りが様々な仕方で試みられている。僕はこのようなジャンルの展開を戦前の文脈において「モダニズム以降の表現の可能性」(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803)として話したことがあるが、ここでは探偵もの繋がりで、坂口安吾の探偵もの(その嚆矢が『不連続殺人事件』1948)を例に説明しておく。
安吾モダニズム以降の表現を引き受けた作家だったが、彼の戦後盛んに書かれた探偵ものの特徴は、合理的に解決したものが他面では不合理であるという両義性、合理的な解決は不合理な局面において可能となるというこのジャンル独特の両義性(不連続性)にこだわったところである。これは彼の探偵ものにまつわるエッセイで何度か自註していることだ。『トリック』も、最終的に解決不能を提示しているのではない。一面では解決したものが他面では解決していないという両義性・多重性を問題にしたものであった。したがって『トリック』以後の表現の可能性の一端は、単に分析的な接合ではなく、こういった意味での両義性をにらんだコラボレーション(Aと非Aのコラージュではなく、非AこそがAを支え、Aこそが非Aを支えるというコラボ)ということができるだろう*8
この観点から、柴崎友香のリアリズムの特異性を記述するなら、あくまでもリアリズムの志向性(世界を正確にとらえる)に乗りながら、世界をとらえる「私」を機能的に分化させる形式へのこだわりにあるのであり、その結果生み出された「私」の機能的分化の諸相にほかならない(柴崎論http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081012*9)。
再度話をエンターテインメント系に限定すれば、個別作品に要請する規定・ルールが比較的厳しい(クローズドな)ジャンルは、刑事・探偵もの(ミステリー)に限らず、キャラ設定と物語設定においてデータベース化しやすいという性質がある反面、たえず規定の書き換え・解体に迫られるものである。とはいえ、それはジャンルの危機というよりも、可能性の拡張という側面ももっている。従来の規定に乗りながら、いかに反目したり離反するかがジャンルの問い直し・拡張に一役買うということ。
そういう事態がとくに起きやすいのは、社会制度(法律や慣習、市場)やメディアが再編されるときであろう。そのときそれを契機に、既成ジャンルの「頭打ち」(メタレベルへの無限後退的自己言及と分析的・ネタ的・パロディ的多様性)を救うかのように諸ジャンルが交流したり新たなジャンルが作り出されたりするものである。たとえばホラーは*10、恐怖の対象の造形および演出がつねに問題になるわけだが(物語はそれにしたがって編み出される)、その造形と演出のダイナミックな変化は、とりわけ70年代と90年代になされた。そのときは、隣接するジャンル(ミステリー、サスペンス、コメディーなど)との間で様々なやり取りがなされたし、その中でジャンル内カテゴリー(クラシックモンスター、ゾンビ、オカルト、スプラッター、サイコ、Jホラーなど)も著しく変化し、リサイクルされた。それらの動きは、分析的接合と総合的接合、分析的組み換えと総合的組み換えをくり返しながら、ジャンルを賦活させ、次なる作品を生む土壌を醸成している。
組み換えや接合の線は、ジャンル間あるいは個別ジャンルに規定された、表現の様々な様相に潜んでいるだろう。コンピューター端末とネット環境の整備でデータベース化が徹底された現状においてはとりわけこの接合線/組み換え軸がより見えやすくなり、可視化しているともいえる。しかしそんなことは理論的に百も承知でも、技術的・形式的に作品化できるかは別の話だ。川端康成横光利一谷崎潤一郎がまったく違った道を歩んだように。

*1:深夜の再放送枠でだけど沖雅也の雄姿を毎週観ていた記憶がある。もう沖雅也は死んでいたけど。

*2:どれもすばらしけど、ここでは超絶かっけえ『ガルシアの首』(74)をあげておく。

*3:初期イーストウッド石原裕次郎はなにをやってもそれなりにキマってしまうんだけれど、ペキンパー=松田はその佇まいにもうふるえてしまう。これぞオトコマエってやつです!

*4:読むべき『ケイゾク』論として、酒井隆史の「鋳造と転調」(「現代思想」05・12)をあげておく。テクスト分析と社会学が絶妙にマッチした論文。

*5:前半から後半にかけての流れは『エヴァンゲリオン』との類似が指摘されうるだろう。

*6:ケイゾク』の前史にはむろん『ツイン・ピークス』がある。

*7:シリーズ化激しく希望。

*8:松本清張の社会派ミステリーはこの意味でコラボ的。たとえば『砂の器』(1960-1)は、何度か映像化されるなど有名だが、彼の作品の中でもけっこう異色のもので、清張やるなあと思わせるところが随所にある。最初から最後まで「音・声」要素に突き動かされるプロットの連鎖は、この作家の多芸にして狂気な側面を存分に感じさせてくれる。「ヌーボーグループ」なる新興芸術集団を登場させるのだが、その芸術至上主義的な批評家の批評文を載せている部分があって、これはむろん清張本人の創作なのだけれど、要を得ていて笑えるほど巧い。こういう批評家いそうだなあって思わせる。清張自身は芸術至上主義的な批評家が大嫌いなのだけれど、敵の懐深く入る多芸にして狂気なほど徹底する作家が松本清張。本作はその彼の才気にして才鬼を思う存分発揮している。伏線となるプロットが多すぎて、途中だれたりするし、うまくかみ合わないところを強引に繋げたりほったらかしにしたりするところがあって思いのほか長文になってしまった観がなきにしもあらずだが、これも単に下手だからではなく彼の才能のなせる業。社会派らしく、謎解き・犯人探しのミステリープロットだけではなく、戦前来のハンセン病対策とその偏見による親子の悲劇というプロットを立てて、ほかにも昭和30年代の最先端の風俗文化を堪能できる仕組みになっている(詳しくは『清張ミステリーと昭和三十年代』藤井淑禎)。彼の本領発揮は、この二つ(ミステリーと社会派)のプロットを、主従関係に置くことなく複雑にからませるところ。野村芳太郎の映画版(1974)は、2001年当時の小泉首相をしてハンセン病国家賠償請求訴訟の控訴を国に断念させる上で話題になったり、そもそもの放映当時から感動悲劇として大きく話題になったものだけれど、親子の悲劇を立てるためにミステリープロットからはほとんど降りている(だから冒頭シーンの、東北の「亀田」プロットが無駄になったりする)。これはいまや観る者の好き嫌いになると思うが、僕にとっては松本清張版が好き。映像化もしにくいし、「音・声」を扱っているゆえ、活字化もなかなかしづらいような局面にまでぐわーっと突き進んでいってしまうところはこの人なんかすげーと思う。ただ、小説版ではハンセン病に対する差別表現が無意識にでてきたりする。映画版ではそのへんはきっちりクリアーされていて、差別批判も濃厚に打ち出している。ただ、後半の芥川也寸志の音楽をきかせながらの親子の放浪シーンは、僕も不覚にも大泣きしてしまったものの、清張小説版を越えたとさえしばしば評価される映画版についていろいろ考えさせられるシーンではある。

*9:ちょうど今月新刊『星のしるし』が出て、「文藝」の08年冬季号が柴崎特集だそうで! そんな流れがあるなんてまったく知らずに柴崎論を用意していたけれど、とてもいいタイミングでした。

*10:http://d.hatena.ne.jp/sz9/20071228http://d.hatena.ne.jp/sz9/20071231http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080105