感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

窓から窓へ――『トウキョウソナタ』


東京に住むある家族の離散および崩壊と再生の物語。誰しもが認める通り話の大筋をまとめるとこうなるが、それに触れる前に、まずは窓に注目しておかなければならない。『トウキョウソナタ』は窓に始まり、窓に終わる映画だからだ。
注意すべきは、この映画における窓は、シーンによってはイメージを比喩的に転換させ、たとえば、車が突き進む地平線でもあり、母が手を伸ばす先にある空間でもあり(「引っ張って、誰か引っ張って…」)、海の向こうに広がる夜空でもあり、戦争をしている余所の国(の国境)を映し出すテレビのモニターでもあるだろう。もちろん、それはこの映画を映し出しているスクリーンのことでもあるのだが(「またかよ」と言わずにとりあえず信用してほしいのだけれど)、今はそこまで言及するのは控えておく。
そもそも、冒頭からこの映画は印象的な窓のシーンを配置する。新聞紙をばらばらに飛ばすほどの暴風雨の雨が吹き込んでくるテラス窓のシーンが置かれるわけだが、それはこれからスポットが当たる、一家に巻き起こる不穏な予感が演出されるだろう*1。エンディングは、家族の末っ子がピアノを演奏するシーンに柔らかく風を吹き入れる窓(しかし奥行きがなく平板な)が置かれ、劇中ひたすら予期せぬ惨劇を経験したこの家族のその後を淡く予感させながら、一家をやさしく送り出すだろう。そう、聴衆に見送られながら家族のスクリーンからの退出。そしてエンド・ロール。
窓としてのスクリーンは、ここでひとまず閉じられる。私たちは、それを各自の思い思い雨のようなものとして、あるいは風のようなものとして、あるいは光のようなものとしてその余韻に耽ることになるだろう。それが黒沢清の、私たちに送った希望のメッセージである。彼はこの映画で「理屈を超えた、希望の片鱗を見せたかった」と述べている。
しかし、「希望の片鱗」だからといって、この窓は、どこかへの入口でも出口でもない。劇中の後半、家族間に溜まった不満や軋轢が、立て続けに起こる偶発的な事故によって爆発・暴走し、家族のそれぞれはそれぞれの希望をもって(交互に切り替わりながら)ひたすら走り抜けるシーンがある。年長の父(香川照之)と母(小泉今日子)は人生をやり直したいというそれなりに切実な希望をもって。子供たちは子供たちなりに、大人たちの世界に疑問と諦念をいだきながら半ば投げやりの希望をもって。それぞれの希望をもってひたすら駆け抜ける。窓に向かって、国境に向かって、車の窓を全開にしつつ地平線に向かって、ゴミの塊に向かって、ひたすら駆け抜ける。しかし彼らには期待した何かが見えるわけではないし、どこにも達しない。
米軍に入隊し、世界のために戦うことを決意した長男(小柳友)は、国境の交戦地帯で心変わりし、中東の彼らのために戦うことを決意する。ピアノ教室の女教師(井川遥)に憧れをいだいた次男(井之脇海)は、好きでもなかった音楽学校に入学することになる。父と母は、望みもしなかった人生と息子たちの進路をただ事後的に受け入れる。こうして思いもしなかった選択を彼らなりに受け入れるほかない。
それがしかし希望だ。自由や理想を手放し、与えられた事態を受け入れる成熟した態度を身に付けたことが、希望? 違う。そこに、窓が、あることだ。思いも寄らず雨や風や光や音が出入りし、泥棒(役所広司)やリストラされた父や息子の音信や夜空に映る幻が過ぎり、出入りする窓。ふいに予期しえぬ選択を迫られる窓がそこにあること。それが私たちの「理屈を超えた、希望の片鱗」であり、『トウキョウソナタ』はその片鱗の映画である。

*1:何度かくり返される家族の食事シーンは、やや遠巻きの、間に障害物を挟んだ、窓越し的なアングルによる撮影。