感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

リアリズムの再考

前回のエントリーを読み直し、文学が好きだとか嫌いだとか、趣味判断とか感情を強調しているところが散見されて、われながらなんとも気色悪い。そんなこというまでもないことなのだが。原理主義のタチの悪さってこんな感じだろうなと激しく猛省。
ただ、分析対象の作品を差し置いて批評が批評の解釈ゲームをくり返し、自分の解釈枠組みになんの疑いも持たず振り回しまくり、むしろ万能視して、あらゆる作品をそれに落とし込んでいって、それがとても気持ちよく自走していった悲惨な顛末を何度かというより何度も経験したことがあるだけに、個別の作品なり作家と(たとえ幻想であれ)向き合っているという姿勢(向き合っている作品から評価軸が練り上げられるという感覚)だけはつねに確認しておきたいという気持ちはある。とにかく、僕があえて趣味なり感情なりを持ち出すときは、批評のための批評、批評の解釈ゲームに上滑りすることに対する自制的な牽制だということである。
リアリズムの再考に関しては、個別作品に対する趣味を抜きにすれば、少しでも規範的な枠組みを変えたいというか相対化させたいという思いがあってのことだったのは事実。最近は、リアリズムの過小評価なり軽視の文脈があって、その場合のリアリズムとはつまり加工とか媒介性の反対語という位置付けなわけだが(つまり表現の直接性なり再現性、無媒介性への信頼に裏付けられたリアリズム)、このような意味でのリアリズムか、もしくは加工(反リアリズム)か、という評価軸のもとに全ての表現が割り振られている状況がいまの趨勢だと思う。
蓮實重彦から東浩紀にいたる批評の言葉もこのリアリズム軽視なり不問の文脈に乗り、強化するものだった。むろんその営為は否定されるべきものではなく、それによって多くの実りを得たわけだが。ただ、リアリズムか加工か、とか、自然主義的リアリズムかデータベースに準拠した加工か、という解釈枠組みの有効性は認めつつ、それはやはり万能ではない。
そもそも、リアリズムもまた一つの表現の技法として、あるいは世界認識のための一様式として編み出されたものである以上、リアリズムか加工か、という議論の立て方よりも、リアリズムにもグラデーションをなすようにいくつかのモードがある、と考えた方が有意義なはずだし(色々な組み合わせでリサイクルできるはず)、文学史をふり返ってみれば事実としてそうだろう。
思えば、リアリズムを仮想敵として提出しつつ持論を展開するという批評は古くからなされていて、最近もしばしば目にするし、もとより僕自身そういうレトリックを重宝して使うわけだが、いまさら単純なリアリズムに乗っかっている作家などいはしない。誰も信じてなどいないリアリズムを批判してなんになるのかという思いはある。単純にリアリズムを信奉している表現が批判されるべきなら、単純に反リアリズム(データベース消費)を鵜呑みにしている表現も批判されてしかるべきなのはいうまでもない。
このような意味で柴崎論を読むなら、リアリズムを仮想敵とするような批評に対する裏返しの批評としても読めるだろう。つまり、データベース消費(反リアリズムの加工性)を仮想敵としてリアリズムを再評価する、という構成によって柴崎論は組み立てられているともいえる。むろん僕にはそのような意図はない。データベース消費に準拠した佐藤友哉なり舞城王太郎が独自に編み出した方法も評価しなければならないと考えている。柴崎論では、データベース消費(反リアリズムの加工性)を一方の評価軸として立てて、それとの対立から算出されるリアリズムの評価軸を、柴崎友香の作品から明らかにしたというものである。
けっきょく、自分の解釈枠組みがきょくりょく一人歩きし自走しないようにするためには、単に好き嫌いとかいっているのでは駄目で、こんなふうに評価軸を相対化すること(場合によっては評価軸の地と図を反転させたりとか)がたえず必要になるのだろうと思う。