感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

批評のコミュニケーション(2)、あるいはモダニズム以降の表現の可能性(2)

思えば、物語や意味になかなか結実しない言葉の列、即物的な文章を肯定的に評価する傾向が見られだしたのは、90年代の後半、J文学がにぎわったころである。たとえば、ベケット(というかジジェク)経由で中原昌也を擁護する絓秀実のジャンク文学(『「帝国」の文学』『JUNKの逆襲』)。あるいは、自然主義を擁護する大杉重男の、文学の無名性(『アンチ漱石』)。
ただし、このとき彼らは、ジャンクそれ自体、無名性それ自体に愛着を感じ、評価したのではなかった。二人とも、国民作家・夏目漱石を批判する文脈においてジャンクなり無名性を提示したのであり(80年代以降の物語批判の極北)、その意味でジャンクも無名も、言葉の即物性とはおよそ無縁な、物語(「父殺し」とか)の磁場にロマンチックなまでに従順な側面をもっていた*1
しかも彼らは、漱石の実作に直接向かい合うというよりも、漱石を擁護することで国民作家-国民文学という物語を延命させるアカデミズムや批評(柄谷行人とか)のメタ言説を批判したのであった。
その営為は、たとえ誠実さに裏打ちされたものだったとはいえ、『こころ』のKは誰か(幸徳? 天皇=KING? 乃木? 漱石金之助?…)といった解釈ゲームに終始し、良くも悪くも、ジャンクで無名化した(かにみえた)文学の言説を貪り、享楽することに加担したのだと言える。ここにおいて、現在進行形で書き継がれている小説実作と批評の解離は決定的なものになったのだった。
小説家がそのような文句を言ったのではない。批評家がみずからそのように騒ぎ出したのであり、酷い場合は、文学の終わりとかメルトダウンとかいってみずからの無能を実作側の責任にさえする主張がまかり通りもしたのである。
そうこうしているうちに、いまや文学のサプリメント消費*2が市場を席捲し、ライトノベルがアカデミズムの文学研究にも無視できないジャンルのまとまりをみせはじめている(ラノベ関連の研究会がすでに設立している)。さらには、形式性を省みず、文体的特長がほとんどないケータイ小説がこれまた無視できない程度に読者市場を開拓し、文芸誌が複雑な思いでそれを取り上げる時代である。
だからといって、我々はこの状況をさして、あるいは、ラノベなりケータイ小説の登場をさしてオリジナリティ神話や作家の死を、あわよくば文学の終わりを言挙げしたいわけではない。
それはけっきょく、ジャンクを貪る物語をシンボリックにくり返すことでしかないし、一時的に場を盛り上げるハッタリなり挑発的な言辞程度のものである。いまさらそのようなことをくり返す批評は愚かしいと言うほかない(ジャーナリスティックには意義あるとはいえ)。
たとえば、大塚英志がキャラクター小説(ライトノベル)を例に挙げて、小説なんて構造主義的なプログラムによって機械的に書けてしまうんだと、バルト以来の正論を述べ、純文学の封建遺制的なムラ社会性を非難したことがあった。最近では、ケータイ小説にもそのような(大塚にとってのキャラクター小説の)役割を担わされているが――小説は誰にでも書けるのだ!――、我々批評はそうやって恫喝するだけして、それ以上の言葉はもっていはしないし、もったためしもない。
どうでもいいことだが、そのような批評は、小説の自由化が徹底されればいずれ革命が訪れるという、日本資本主義論争の労農派的な発想を想起させる。小泉改革も似たようなものだったが、要するに、それがたとえ誠実なものであれ、なんの見通しもない、言った者勝ちの捨て台詞としか誰にも伝わらないだろう。
そもそも、文章構成面におけるジャンクなり即物性という問題は、なんら新しいものではない。それを言葉のどのレベルに設定するかはケースバイケースだが、語用論なり方法論として以前からあったはずだ*3
したがって、文章のジャンクなり即物性という問題は、罵倒語としてであれ、肯定的にであれ、用いるべきではなく、方法論的な角度から運用する方向で考える方がより適切なのではないだろうか?
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たとえば、近代リアリズムの立ち上げには、俗語革命(言文一致体の確立)とからむ形で通俗的な主題が呼び込まれることはよく知られている(『浮雲』のリストラと失恋話)。
日本におけるリアリズムの問題は、明治20年以来右往左往したあげく、明治30年代の描写・写生の時代*4をへ、島崎藤村『破戒』-田山花袋『蒲団』の明治40年前後に確立するというのが定説である。そしてそれ以降、私小説ヘゲモニーを握る時代になる、というのも定説である。
その定説の主軸になった小林秀雄中村光夫(+平野謙)の言説にしたがうなら、『破戒』(明治39年)にはまがりなりにもあった社会性と虚構性の自覚が、『蒲団』(明治40年)では消去され、かわって内面の告白=表出(カミングアウト)を前面化し、以降この流れが文壇と文学史ヘゲモニーを握ることになる。いわゆる日本的リアリズム=私小説の誕生である。かくして藤村もこの流れに乗り、『春』『新生』と自伝的カミングアウト小説を書くにいたる、と*5
ここにおいてリアリズムのための通俗的な主題は、名もなき自然の風景や社会的な人間関係の歪み(リストラ、失恋…)よりもさらに徹底して、内なる下半身事情および他愛のない身辺雑記となる。
通俗化(=ジャンク化)の問題は、むろん主題のレベルにとどまらない。たとえば藤村や花袋が「私」の内なる自然にしたがって下半身を露出していた時代に、詩の世界では、口語自由詩のからみで積極的に通俗的な主題の導入がはかられながら*6、単なる口語自由律の形式を踏み越えた、語用論・方法論的なレベルの通俗化(さらには即物的な使用)が試みられていた*7

竊盗金魚/強盗喇叭/恐喝胡弓/賭博ねこ/詐欺更紗/瀆職天鵞絨/姦淫林檎/傷害雲雀/殺人ちゆりつぷ/堕胎陰影/騒擾ゆき/放火まるめろ/誘拐かすてえら(「囈語」山村暮鳥『聖三稜玻璃』大正4・1915年)
みなそこの/ひるすぎ/走る自働車/魚をのせ/かつ轢き殺し/麗かな騒擾をのこし。(「曲線」同上)
いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/かすかなるむぎぶえ/いちめんのなのはな(一行開き)いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/ひばりのおしやべり/いちめんのなのはな(一行開き)いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/いちめんのなのはな/やめるはひるのつき/いちめんのなのはな(「風景 純銀もざいく」同上)
みつめる土地の底から、/奇妙きてれつの手がでる、/足がでる、/くびがでしやばる、/諸君、/こいつはいつたい、/なんといふ鵞鳥だい。/みつめる土地の底から、/馬鹿づらをして、/手がでる、/足がでる、/くびがでしやばる。(「死」萩原朔太郎『月に吠える』大正6・1917年)
あふむきに死んでゐる酒精中毒者の、/まつしろい腹のへんから、/えたいのわからぬものが流れてゐる、/透明な青い血漿と、/ゆがんだ多角形の心臓と、/腐つたはらわたと、/らうまちすの爛れた手くびと、/ぐにやぐにやした贓物と、/そこらいちめん、/地べたはぴかぴか光つてゐる、/草はするどくとがつてゐる、/すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。/こんなさびしい風景の中にうきあがつて、/白つぽけた殺人者の顔が、/草のやうにびらびら笑つてゐる。(「酒精中毒者の死」同上)

ここでは、「私」の表象・伝達不可能性と散乱する「私」が形式レベルにおいて主題化されている。では、小説はどうだったか?
小説においては、この主題を形式レベルにおいて積極的に響かせた作家は、それからおよそ10年後の、「文芸時代」をひっさげて登場した新感覚派横光利一川端康成の活躍まで待たねばならなかった。
もちろん、絓のように、明治40年前後に顕現した表象不可能性とその隠蔽の問題を摘出し、大逆事件を経由するプロセスにおいて国民作家化する漱石を批判することもできよう。または、大杉のように、漱石(の固有名性)と対置する形で自然主義の無名性を強調することもできるだろう。
しかし、近代リアリズムの完成以降は、あの漱石を含めてさえ形式レベルの可能性を問うような傾向はなかったと言ってよい。「平面描写」(花袋)や「一元描写」(岩野泡鳴)といった私小説/リアリズム内部の抗争はあったが、それを実作に還元できたかは怪しいし、そこではけっきょく言葉を手段にして描写すべき「私」(の内面)は信じられていた*8
もちろん、明治40年前後から新感覚派の登場までにも無視できない作家なり作品が数多くあることを我々は知っている。それに、散文よりも詩の方が、リズムや字面や改行やら非意味的な側面への操作の自由度が高いぶん、形式性を問いやすいジャンルであるということも、詩と散文の10年の差を見る上でおさえておくべき点だろう。
それを承知した上で我々がこのような見取り図を立てたのには理由がある。実は、小谷野敦(『リアリズムの擁護』)が批判的に指摘する通り、日本の文学史では、私小説の支配だけではなく、私小説批判の影響も強いものであった。小林−中村による私小説批判以来、私小説(的な日本文学)は社会性がなく、虚構であることの自覚がないという形でくり返し批判されてきたのである。
ならば、私小説に対して何が対置されるかというと、これはそれこそ小林以前から、本格小説とか全体小説が謳われてきたのである(久米正雄「「私」小説と「心境」小説」(大正14・1925年)など)。小林の私小説批判もこの文脈にすっぽり収まる。もちろんそこには、大逆事件を前にした石川啄木(「時代閉塞の現状」明治43・1910年)−絓秀実の、小説の政治化(リアリズムの諦観主義から社会性への回帰)の主張も含んでいいだろう。そしてこの文脈は、現在のセカイ系(「私」の脳内世界と社会性の喪失)とセカイ系批判にも繋がっていく*9
以上の通り、「私」の内面なり脳内世界の恣意的な表出という私小説的言説と、社会化せよ! という私小説批判の言説が対立することで文学史は形成されてきたのであった。
かくしてけっきょくこの対立(の系譜)は、他の可能性――とくに「私」の声の裏側に潜む、散乱する「私」――が入り込む余地を狭めてしまったのではないか、というのがここでの見解である。言い換えれば、私小説/リアリズム批判は別様に組織することができたはずだし、また私小説/リアリズムは別様の可能性を秘めているはずだ、ということである。
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萩原朔太郎山村暮鳥ら人魚詩社の連中は、口語自由詩(詩のリアリズム)の形成と洗練を担ったが、彼らの実作が詩壇に与えた影響は、むしろ分離派としてのものだった。
本来、過去の様式を全否定する分離派的心性は、のちのモダニズムの萌芽を内在させながらも、「私」の表現主義との親和性が高いものなのだが、ここから徐々に自己表現を捨て去りつつ(あるいはメタレベルに温存させつつ)、形式性を鋭く切り出すモダニズムへと移行するわけである。いわばリアリズムとモダニズムの蝶番の部分に当たる。それゆえ、分離派には、リアリズムによって誕生した「私」への信頼をいだきながら、モダニズムによって否定される「私」の散乱をも内在させている*10
詩壇における、分離派局面を介したリアリズムからモダニズムへの系譜は、川路柳虹北原白秋を皮切りに、人魚詩社周辺を経由しつつダダ、シュールにいたるラインであり、それはプロレタリア文学アナーキズム詩とも連動しながら大きな流れを形成することになる。さらにマヴォなどのジャンル横断グループを介して美術や建築、演劇との繋がりももつにいたった(萩原恭次郎『死刑宣告』の装丁、震災後のバラック建築、土方与志演出『朝から夜中まで』の舞台装置等々)。
したがってこのような分離派からモダニズムにいたる新興芸術的な活況は、美術や建築にも見出されることはいうまでもない。たとえば美術では、日本画の国画創作協会と洋画の岸田劉生率いるフュウザン会(大正2・1913年)から、村山知義マヴォ)らのモダニズム運動周辺の流れである。
それでは、小説はどうかというと、横光たち新感覚派に繋ぐ流れが意外にも見出せない。それは、表現主義私小説)が、分離派的な反抗・否定の叫びとしてではなく、すでに半ば支配権を握り、ヘゲモニー争いを演じていたことと関係があるだろう。
だから新感覚派は、分離派宣言(前時代様式の否定)とモダニズム運動(形式主義文学論争)を同時にこなさねばならなかったのだ*11
むろん、ジャンル横断グループの元祖とも言える白樺派が分離派的な傾向を担ったという見方もあるだろう。確かに、柳宗悦の民芸などは、柳田国男民俗学考現学の近傍で無名性にこだわった点は分離派的だとは言える。しかしそれは文学の成果ではない。しかも彼らの雑誌における西洋美術の紹介や「新しき村」の武者小路実篤を軸にした組織の仕方などをみていると、基本的に大文字の作家・作品への信頼が強くあるというほかない。
もとより、「文芸時代新感覚派は「文芸春秋菊池寛の大衆化路線との関係はあったにせよ*12白樺派との関連性は、「小説の神様志賀直哉と横光における私小説ベースの関係以外まともに論じられることはない。
つけくわえれば、大衆エンターテイメント雑誌「新青年」の存在も、プレ新感覚派として注目すべきだが、大正9年創刊の同雑誌が江戸川乱歩らをまじえてモダン路線を突っ走るのは大正期の終盤からであった。
いずれにせよ、このあたりの実証的な評価は水掛け論になるので、これ以上は展開しない。ただ言えることは、新感覚派は当時の文学の世界において徒花的に咲いたグループであり、分離派宣言をともないつつモダニズム運動にも参入したが、私小説/リアリズムとはもとより、アナーキズムプロレタリア文学サイドとも、形式主義文学論争における横光の孤独な戦いぶりをみる限り、その理念なりスタイルをまったく共有しなかった(衣笠貞之助監督『狂った一頁』(大正15・1926年)において映画界との交流はあったが)。
新感覚派は存在しない。むろん、小林が「三派鼎立」という形で論じるように(「様々なる意匠」)、新興芸術的な様式なり運動としての評価はなされてはいる。同時代評においても、文学史の位置付けにおいても。しかし、新感覚派時代の、形式操作を優先させた結果おそろしく即物的でジャンクな作品群*13は徒花的な位置しか与えられていないのである。新感覚派は何かを継承したわけではなく、何かに繋いだわけでもない*14
このような、同時代および文学史的な評価の原因を、我々は、リアリズムの変型態である私小説ヘゲモニー支配、ひいては私小説私小説批判の対立が文学の遠近法を構成していたからだ、とみたのだった*15。そしてこのような遠近法は、最近のセカイ系批判をはじめ、「私」の総表現社会を背景にしたケータイ小説批判にまで延命し続けている。
もちろん、いまや「私」は一様ではない。小林−中村を踏まえた柄谷行人私小説批判を仮想敵にしつつ小谷野敦(『リアリズムの擁護』)が擁護するような、「皮剥の苦痛」をともないながら自己表出する「私」という、比較的近代的な「私」があるかと思えば、早くは中村光夫(「風俗小説論」)がモダニズムにさえ見出した、いまやネット上の総表現社会において跋扈する、規範なきジャンクな「私」が存在する。その一方で、東浩紀が『キャラクターズ』で展開したような、データベースを踏まえた「私」がある。
ここでは、白樺派のオメデタキ「私」をルーツとするセカイ系の「私」が、自己表出する「私」にも、ジャンクな「私」にも、データベースの「私」にも関連するように、以上の「私」はどれも部分的に共有するところがあるだろうことはいうまでもない。
我々は、これらの「私」の重力に還元されず、むしろ「私」を散乱させるような、だからといって社会化せよ! とか、他者と向き合え! とか、決断せよ! とかいう啓蒙的な主題――いかなる主題であれ主題をもち出すのは啓蒙的なものだが――をもち出して、「私」(語り)を批判する流れにも抗した文章の構成を(むろんこれは私小説の問題に限定されるものではない)、いま考えている。それはたとえば、かつては新感覚派(川端や横光の初期)が切り開いたものである。
彼らのモダニズムがなければ、のちの文学表現は良くも悪くも考えられないほどのものなのだが、くり返せば、それは、私小説(リアリズム)と私小説批判の対立が描く遠近法からは取り扱いにくい地点にある。
私はそんな新感覚派を起点にした動向を「モダニズム以降の表現の可能性」(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803)で明らかにし、現代文学に繋げる形で「現代批評の一分(2)」(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080201)と「(3)」(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080307)を書きながらいくつかの作家論と作品論(古川日出男金原ひとみ桜庭一樹諏訪哲史川上未映子…)でささやかな裏付け作業をしている最中である。ネット上のいろいろなブログに支援されながら。

*1:もちろん我々は彼らの成果を、現在時から批判する資格などない。我々もまた彼らの宣言を楽しみ、尻馬に乗った口だから。

*2:脊髄反射的な物語設定とキャラ設定を織り込んだ物語が、手書きポップとキャッチーな帯と魅力的な装丁をまとって売られる消費形態。

*3:もちろん単なる罵倒語としても以前から機能していた。たとえば白樺派をジャンクならぬ「オメデタイ」スタイルとして多くの批判があったように(生田長江自然主義前派の跳梁」大正5・1916年など)。

*4:風景と人間関係といった外的対象をありのまま自然に描くことがリアリズムの文体を練成する時代だった。素材は主体に対して外にあり、それを主体の側にimpression(印象の内向転写)することが目指されたのだった。この時期、花袋は従軍記者になったり紀行文を書いたりしたし、藤村は歌をやめ小諸にこもり、「千曲川のスケッチ」にいそしんだし、国木田独歩は名所旧跡を非難しながら「武蔵野」を歩き書いたのである。ちなみに、風景と人間関係を、明治30年代の前期自然主義期に流行したゾライズムの言葉で言えば、環境と遺伝である。

*5:内面の告白=表出の時代。ここにおいて扱う素材は内面に変換され、expressionすることが目指される。すなわち私の内なる自然をあるがままに描くことが重要。描写の意味も変わる(花袋「露骨なる描写」)。

*6:川路柳虹『路端の花』(明治43・1910年)の「蒼蝿の歌」、「塵塚」(「臭い塵溜が蒸されたにほひ、/塵溜のうちにはこもる/いろいろの芥の臭み、/梅雨晴れの夕をながれ漂つて/空はかつかと爛れてる。/塵溜の中には動く稲の虫、浮蛾の卵、(以下略)」)。あるいは北原白秋『思ひ出』(明治44・1911年)の「みなし児」、「尿する阿蘭陀人」など。

*7:このあたりの議論は、「流体枷仔」のcase氏(http://caseko.blog90.fc2.com/blog-entry-283.html)による暮鳥論から啓発されたものである。

*8:もちろん私小説家は、現実世界で演技をし、作品内でも演出をほどこしている。「私」のデータベース管理は当時からあったわけだが、彼らの計算においてはけっきょく「私」(の内面)がどう受け取られるかという点に関心があった。

*9:セカイ系批判と私小説批判の文脈を繋げたのは、「スマイル・トレーニング・センター」藤本拓自氏(http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20071017/p1)の卓見である。藤本氏が引用する丸山真男は、戦後まもない時期に流行する「肉体文学」などに嫌気をさし、小林秀雄以来の私小説批判の文脈にしたがって、私小説のみならず日本の文学は私小説的に封建遺制だ、つまり社会性がなく虚構であることの自覚がない、結果的に個人の脳内宇宙の恣意性に満ちている、という批判を行っている。中村光夫丹羽文雄との論争を通じて上梓した『風俗小説論』(1950年)もこの文脈にある。そこで彼は、私小説モダニズムをひっくるめた日本のリアリズム小説への批判を、同様の視角から行った。1950年前後はといえば、美術の世界でも、リアリズム様式の再考が、モダニズム共産党系の画家をまじえた論争含みでなされてもいた。いずれも封建遺制的・前近代的な様式に対して「真実の」リアリズムを立ち上げるにはいかにすべきかという話だが、暴力的にまとめれば、個人を経由するか、党を経由するか、の違いでしかない。

*10:分離派とは直接的には美術や建築に起こった運動。以下、参考サイトhttp://www.sainet.or.jp/~junkk/index.htm。以下、分離派建築会による「分離派宣言」。「我々は起つ。/過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。/我々は起つ。/過去建築圏内に眠っている総てのものを目覚さんがために溺れつつある総てのものを救はんがために。/我々は起つ。/我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ、倒るるまで、死にまでを期して。/我々一同、右を世界に向かって宣言する。」(大正9・1920年

*11:「文章には文法がある。語法や文章法がある。これは、お互の思想感情を言葉で了解するための規約である。規約は没個性的である。非主観的である。文芸が言語を表現の媒介として用ゐることは、「文芸が契約芸術の悲しみ」を持つ所以である。そして、私達の頭の中の想念は、この規約通りに浮びはしない。もっと直感的に、雑然と無秩序に、豊饒に浮ぶものである。自由連想に近いものである。私達が他人に話し、また文章に書き現す時には、頭の中に浮ぶとりとめない想念や物の姿や、連絡のない心象を、選択し、整理し、秩序を立て、順序を附けて、言葉や文字に移す。この選択、整理、秩序、順序、なぞが「発想法」なのである。/ダダイストはこの発想法において、従来の表現に反抗して立った。私はそう解釈してゐる。ダダイストの詩は、時によると単語の無意味な連続に近く、きれぎれな心象の羅列に過ぎない。これは、詩人の頭の中の自由連想の表出であるから、他人には分らないのである。最も主観的であり、直感的であり、同時に感覚的である、と云へるのである。」川端康成「新進作家の新傾向解説」(大正14・1925年)

*12:「『文芸時代』は、宣伝という武器を相応に利用した点にあってはまずこうした同人雑誌中の異色であったといって宜しい。」(千葉亀雄「新感覚派の誕生」(大正13・1924年

*13:たとえば、大正13年10月号から創刊された「文芸時代」12月号に掲載された川端の作品。「──こんなことを彼は考へてゐる。/ある女は、彼の枕もとにつっ立ってゐたが、突然荒々しく膝を落して、彼の顔の上におっかぶさりながら、彼の匂ひを吸ひこんだ。/またある女は、二階の縁の欄干に凭れてゐる時、突き落す真似をして肩を押した彼に思はず抱きついたが、彼が手を離すと、もう一度自分で落ちさうな姿を見せて欄干に身を反らしながら、自分の胸を見つめて彼を待った。/またある女は、風呂場で彼の背を流してゐるうちに、彼の肩を掴んでゐた片手をぶるぶる顫はしはじめた。/またある女は(中略)/またある女は(中略)/またある女は(中略)/またある女は(中略)/またある女は、彼の前でいつもじめじめ泣いてゐた。/もっと若い沢山の女が(中略)。しかし一人の女は、彼の外の人間の顔を見るのも厭になったと云ひ出した。(中略)そして養ってやらねばならない女の数がだんだん殖えてきさうな気がした。彼は笑った。/──こんな空想を遊んでゐると、彼の胸は彼の内の感情で一ぱいにふくらんで来た。しかし生活を一つにしようと思ふ女はもうこの世に見つかりさうには思へなくなってしまってゐる。」(川端康成「月」大正13・1924年)虚ろな「童貞」男が想像的にふくらませる空想のもとで、女が一齣一齣継ぎ継ぎと行を切り替えては現れる、詩とも散文ともつかない文章である。

*14:ただし、横光の初期短編群、および新心理主義による「機械」と形式主義文学論争の成果を踏まえた『上海』にいたる前期の系譜は、モダニズムの文脈を踏まえた研究がなされている。とはいえそれは、保守化する後期横光の『旅愁』(および周辺の文学史)との形式的な連接において論じられることはない。かくして前期横光の前衛性は文化左翼的な視線によって徒花的に保護される対象となる。

*15:ちなみに、当初はリアリズム志向の既成文壇への抵抗として創刊されながら、その当時は問題になってはいないものの、しだいに「復活」して来るプロレタリア文学に対して批評と創作活動を展開することにもなったと、後に開かれる座談会(昭和10・1935年)で一部の同人たちは回顧している。新感覚派は、つねにジャーナリスティックな対抗関係にみずからをおいて表現を行っているのであり、ここでは私小説/リアリズムの前時代的な傾向と、社会化の啓蒙を主張したプロレタリア文学との間で目測しながら論陣をはっていたということだろう。言い換えれば、「文芸時代」同人の周辺は自身の立ち位置の根拠さえ不明確なまま表現活動をしていたということである。同時代や文学史からの理解が得られないのみならず、自分たちのこともまともに理解できていなかったという側面があるだろう。横光いわく「芸術的効果の感得と云ふものは、われわれがより個性を尊重するとき明瞭に独断的なものである。従ってわれわれの感覚的享受もまた各個の個性的直感の相違によりてなほ一段と独断的なものである。それ故に文学上に於ける感覚と云ふものは、少なくとも論証的でなく、直感的なるが故に分らないものには絶対に分らない。」「自分は昨年の十月に月評を引き受けてやってみた。すると、或る種の人々は分らないと云って悪罵した。自分は感覚を指標としての感覚的印象批評をしたまでにすぎなかった。それは如上の意味の感覚的印象批評である以上、如上の意味で分らないものには分らないのが当然のことである。」横光利一「感覚活動」(大正14・1925年)