感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

前回の補遺――いまキャラがもてはやされているのはなぜか?

ユリイカ」(2008年6月)の特集「マンガ批評の新展開」を読みながら、緻密な表現論がいくつかあって激しく羨ましくなるのと同時に、いまは「キャラとコミュニケーション消費」があると批評になる時代なんだなと改めて確認したしだい。
およそ10年前なら、「他者と表象(伝達−コミュニケーション)不可能性」があると批評になったものだけれど。もちろんそれは私小説批判――他者と出会い社会化せよ!――が優位だった時代である。ただし、その一方で、表象不可能な即物的文体が組織されたのもこの時代である。
つまり、「他者」に重きを置けば、社会化せよという啓蒙的な主張(柄谷派)になるし、「表象不可能性」に重きを置けば(高橋源一郎からはじまり『聖女伝説』とか『レストレス・ドリーム』とか)、(失語症分裂病的なアンリーダブルゆえの)幼稚化し、ジャンク化する傾向(蓮實−絓派)になる、ということである。そしてこれはコインの表裏の関係にあった。他者は表象不可能であるというように。
しかし両項は最終的には矛盾する関係にある。カルスタとの親和性がある前者を徹底させれば、そもそも表象不可能な他者と向き合うことなどできない(ホロコーストサバルタン問題、あるいは自虐史観)という倫理的な陥穽に陥るし、テクスト分析との親和性が強い後者を徹底させると、他者の表象不可能性を担保に、いかようにも解釈ゲームを遂行するという享楽的な陥穽に陥るのであった。いずれにせよ、これらはモダニズム的な心性といえる。
ならば、キャラというのはいかなる審級にあるのかというと、それは表象不可能性を踏まえた感情の伝達・感染・交流を媒介するものであり*1モダニズム以降の表現の可能性の一様式ということができる。
要は表象不可能性(モダニズムの一側面)を起点にして感情を組織・動員できるかということがいまのトピックになっているのであり、キャラがもてはやされるのも、データベースとかコミュニケーション消費を云々する前に、このような背景があるということは確認しておくべきだ*2
振り返れば、日本浪漫派のイロニーの戦略もそうだったけれど、川端康成谷崎潤一郎はこのあたりをしぶとくやったのである。日本浪漫派や川端のイロニー、そして谷崎や坂口安吾のユーモラスな多重フレーム構造は、モダニズム以降の表現の内在的な要請からもたらされたものであった。
とはいえそれだけではない。それと同時に、政治的なリアクションでもあったのである。そのことを考慮すると、杉田俊介氏(「福満しげゆき、あるいは「僕」と「美少女」の小規模なセカイ」「ユリイカ」2008年6月)の言うように、現状のマンガ分析は表現論が完備される一方で、表現にまつわる社会性なり政治性の指摘が乏しい(ギャルゲーや萌え絵消費における主題論レベルの政治性の指摘は以前から大塚英志氏周辺から提出されているにせよ)、という問題は、今後無視できないものになるだろう。いまやマンガ分析において、「表現論の不在」(伊藤剛)を批評の担保にすることはできまい。だって、小説分析をしている僕からみても羨ましいくらいだもの。
その一方で、これもキャラ(の効用)、それもキャラ、あれもキャラ、という形でキャラ表現の洗練が徹底される方向があり、現状のマンガ分析はこれがメインストリームであることは間違いないだろう。かつての文学史でイロニーの効用が流行し、洗練する方向に向かったように*3
とにかく、キャラ消費・キャラ分析に象徴されるように、表象不可能性を踏まえた感情動員なりコミュニケーションの様式はいまや不可避でありながら、政治的・社会的な一面をもっており、暴力性を内在させていることは確認しておいていい(いまさらながら政治の美学化と美学の政治化)。
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よつばと! 7 (電撃コミックス)

よつばと! 7 (電撃コミックス)

だから『よつばと!』(あずまきよひこ)について、斉藤環氏(「ユートピアゆき猫目の切符」「ユリイカ」同上)のように「これもキャラだ!」といってキャラ消費をことほいでしまうのでは足りない。キャラ萌え・キャラ消費は、前作の『あずまんが大王』ですでにお腹いっぱいではなかったか。
だから、あずまきよひこが『あずまんが大王』から手放したもの、付加したものを考えてみよう。それは、キャラ/キャラクターを前面化せず、なるべく客観的なカメラ・アイからキャラ/キャラクターをとらえることであった。
むろんそれはキャラ/キャラクターをリアリズムのフレームに押し込める所作ではない。主人公・よつばの視点とモノローグを欠如・排除したこと*4と相関的なこの試みは、欠如したキャラ/キャラクターを起点とするコミュニケーション(に依拠する物語)の有様を、我々に提示するだろう。
そこでは、よつばが周りの大人たち、リアリズムのフレームに向けて成長するのを楽しむのではなく、よつばを起点として周りのキャラ/キャラクター(大人)たち、そして我々へとよつばの所作・表情・感情といったもろもろのコミュニケーション様態が感染したり反発しあう(内面の理解ではない)経路が楽しまれるのであり、それを楽しむ窓として客観的なカメラ・アイ(によるリアリズムのフレーム)は機能している。それはむろん、単なるキャラ消費でもキャラ萌えでもない。そうではなく、あずまきよひこ本人が自註する通りそれは(キャラを使った)「お笑い」の一様式なのである。
3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

羽海野チカに我々が感応するのもそこのところである。つまり彼女の作品『ハチミツとクローバー』『3月のライオン』は、その場に欠如したキャラ――内面は不在だけどひたすら饒舌で典型的なキャラ、たとえば無数の動物たち、『3月のライオン』でいえば幼児のモモやおじいちゃん、あるいは他の作中人物*5のキャラ的側面――を起点・相関点にした感情の組織が巧みであり、そこがとりわけ羽海野特有のギャグ・パート、コメディー・パートに当てられる。
ただし、あずまきよひこよつばと!』と異なる点は、特定の作中人物の視点を介したモノローグが発動するところであり、それはシリアス・パートに当てられる。
ところで、『NANA』や『のだめカンタービレ』との対比で以前にも書いたことだが(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060615)、羽海野のギャグ・パートとシリアス・パートの転調はメタレベルを介さないところに特徴がある。ギャグであれ、シリアスなモノローグであれ、メタレベルの介入(『NANA』や『のだめ』に見られる自己言及的なパロディや話者によるツッコミ的挿評)は、知的な操作だけに、そのぶん感情の組織・動員をいったん中断させずにいない。
羽海野作品では、そうはならない。たとえば、ギャグ・パートで感情の渦に巻き込まれている過程で、ある一人の作中人物(とくに零とあかり)が目線を伏目にしたり遠くを見る眼差しにするの(あくまでもオブジェクトレベルの操作)をきっかけに、その視点を通してシリアスなモノローグが発動するだろう。
そこで物語はいったん束ねられるが(ギャグ・パートと比すればいささか不釣合いな、トラウマチックな過去が披露されたりするわけだが)、再び欠如のキャラを導入することによってギャグ・パートが駆動する。
羽海野作品では、この二つのパートが(どちらが窓=地=フレームというわけではなく)地と図の関係にあって反転しあいながら、物語を駆動するのである。
だから、たとえばシリアス・パートだけをみてみても、モノローグの叙述構成が複雑になる場合が多々ある。3話や6話の終わりのように、あかりと零の視線=モノローグが交錯したり、6話の終わり、見開きページのように、モノローグの字列がリニアな読みに抵抗するかのごとく縦方向・横方向に組織され、われわれ読者の感情移入を阻害しかねない場面がある。『ハチミツとクローバー』も同様だった、このような叙述の仕方は、モノローグのフレームを複雑にしがちな少女マンガの文法にのっとってもいささか異様の観がある。
いうまでもないことだが、これは羽海野チカが下手なのではない。ギャグ・パートにおいては、さらに叙述は複雑に組織されながら(縦方向横方向の活字あり、作者が書き込む手書き文字あり、縦横無尽に文字が飛び交いながら)巧みに感情の動員をこなしているのである。というのもギャグ・パートにおいては一字一句活字を拾うまでもなく、我々は絵と言葉が組織する感情の動線に比較的容易く巻き込まれるからだ。
したがって、シリアス・パートにおいても、作中人物のモノローグを一字一句リニアに読み取らねばならないという発想が羽海野作品にはときに適さないのであって、彼女の作品は多重フレームを操作しながら感情の動員をこなすのであった。
そう。羽海野のキャラ/キャラクターの表情を見れば、それは何かを意味する文字のようであり、モノローグの活字を追ってみれば、それはコマを飾り、枠付ける装飾絵のようである。そしてまた彼女の描く動物は人間のようであり、キャラ/キャラクターは動物のようなのではなかったろうか? これらの多重フレーム性が感情の動員に一役も二役も買っているのである。

*1:キャラとは、それが何を考えているのかを理解するものではなく、萌えるなり可愛がるなり一方的に感情を注入するしかない。それがキャラとの関係性である。斉藤環氏がキャラ萌えを精神分析学の「転移」で説明するのもまさにこのことを示している。むろんここにマッチョな心性を政治的に読み込むこともできるが、下手をすると、社会化せよという啓蒙にしかならないだろう。

*2:ちなみにJホラーの恐怖の対象がもてはやされているのも、それが表象不可能性を起点にした感情の動員を自覚したジャンルだからである。それを理解せずにJホラーの文法を使うと、びっくり効果音を多用したり、パン兄弟「ゴースト・ハウス」のように(「The・Eye」はよかったのに!)物語のプロットを複雑に作りこみすぎて伝統的なホーンテッドものに回収されるのである。

*3:日本浪漫派を戦後に継承したとされる、三島由紀夫のイロニーが一枚岩ではなくいかに多彩なものであったかを精緻に分析したものとして、梶尾文武氏の「三島由紀夫美徳のよろめき』論」(「国語と国文学」2006年7月)「三島由紀夫鏡子の家』とその時代」(「文学」2008年3・4月)がある。三島のイロニーは、我々にとっては、自死まぎわに見られる、空虚を前提した虚構性の無限地獄を想起するが、彼のキャリアを通してみると、イロニーの戦術が作品ごとに多彩な効果を挙げていることが確認されるだろう。

*4:この選択的な排除は、よつばへの同一化を避けるためと、読者の受け取り方を縛らないため、と指摘されている(あずまきよひこインタビュー「キャラクターがそこにいるというマンガを」聞き手=伊藤剛(「ユリイカ」2006年1月))。

*5:この文章での「作中人物」は「キャラクター」と同義であり、「キャラ」と使い分けている。