感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

子供は煙である?

最近、公共の交通機関でベビーカーを折り畳むべきか(折り畳んで子供を抱っこしてスペースを開けるべきか)、そうしなくてもいいかという議論があるでしょう?
地方(満員電車という概念がなく、そもそも移動はマイカーじゃなきゃ無理な地方)のひとは意外にわけわからん議論だと思うんだけれど、東京ではリアルでホットな議論なんですね。とくに東京はここ数年かけてようやく、地下鉄がエレベーターとか設置するようになって、ひところよりベビーカーがそこそこ利用できるようになったという環境面が背景にあったりします(関西の人から東京はベビーカーに不親切だという話を以前聞いたことがあります)。
今日J−WAVEをきいていて、半数が「折り畳むべき」という意見で、20%が「折り畳まなくてもいい」で、30%が「混雑しているときに畳めばいい」という調査結果が紹介されていて、いろんな意味でうなってしまった。
マナーの悪いベビーカー使用を例に挙げてベビーカーを悪く言うような、マナーとルールを混同した意見は問題外として(まあこういう意見があること自体無視できないんだけど)、一方で「子供を産むのはかまわないけど、全部自己責任で」という過半数の意見があり、もう一方で、比較的少数ながら「子供をもうけたことがないひとにはわからない」という当事者の意見がある。そしてその間を埋める形で、状況(混雑度や子供が複数いるか否かとか荷物がたくさんあるかどうか)に応じた使い分けを主張する意見が、当事者とリベラルな第三者からなされている、というふうになるかと思います。
ここで注意したいのは、使い分けとか折衷案って、いちばん賢い提案のように見えて、最近は最も影響力がないんですよね。当事者は使い分けしているつもりでも、周囲がそれをどう受け取るかは決定できない。こういう状態は予期的にリスクの高いものとしてあまり信頼されません。使い分けができればそりゃあいいんだけど、無理じゃん、じっさいいるんだよ、マナーがない人がさ、ってことになる。当事者が状況に応じていくら頑張っていても、です。
けっきょく、こういうやりとりを経て、分煙や優先席や女性専用車両のように棲み分けが徹底されていくのかなあという感じですね。人によっては、子供は煙草の煙と変わらないということです(笑)*1
むろんこの結果は*2、単に自己責任論が勝ったのでも、当事者の意見が通ったというわけでもないことはいうまでもありません。良くも悪くも議論を棚に上げたんでしょう。棚に上げられる時代になったと。技術的に。社会の合意も得られやすくなったし*3。で、ゾーニングやフィルタリングによって環境設計するという発想こそいまの時代最も合理的だということになるわけですね。タスポがいい例です。
いずれにせよ僕としては、産み育てられる子供のことを、社会の生産性を挙げるという観点から「宝」とされる価値観が相対化されるのは悪くないとは思っていますが。世に言う「親ばか」って、人によっては煙でしかないものを社会の宝だと疑わないところにあるんでしょう?
子供をもうけることは(もうけないことも含めて)、誰のためでもなく、それぞれの価値観にしたがった結果のもの、としたいじゃないですか。もちろん、いまのところ次代が先代の老後を支えるという経済システムが社会を成り立たせている面があるわけだから、子供の出産と育児・教育に社会が支援するという構造は維持すべきでしょう。
ただ、出産なり育児って当事者の周辺を妙に盛り上げるきっかけになったりしますよね。大きいお腹しながら会社で働いていて、いままで声もかけあわなかったような女性社員から不意に「えー、いま何ヶ月〜?」とか聞かれて、しかも何気にお腹をさわっている、さわられている(やや未映子調)、というような話を聞いたことがあります(そういう男性社員はさすがにいませんが、っていうか、やるとセクハラになるので慎みましょう)。
なんとなくなるほどなあとか思ったんだけど、お腹の部分ってその人のものでその人のものでないっていうところがあるのかなあと。でもそういうところこそ宝であり煙でもあるわけで、価値は両義的。しかもそういう両義性のある部分はごっそり環境設計によって当たり障りのないポジションに追いやっておくというのが、いまの社会の理想ってーわけです。

*1:あるいは、この国はベビーカーに乗ってる乳幼児には人権はないってことでよろしいか? 太っている人もやせてる人も、荷物を多めにもっている人も車椅子の人も、その人なりに存在できる相応のスペースが確保されうる(人によって優先順位はない)のが公共機関の建て前だったはずなのだが。「光市事件の被害者は1、5人」とブログに書いて非難を受けた青学教員の心性と変わらないような気がするんだけど。いずれにせよ、こうやって、我々は、子供の気持ちも何もかも分かっている振りをしながら、不定形でリスクの高いものに対して、個人で対処すべきマナーや行政が取り組むべきセキュリティーの問題に縮減しつつ、生きていくのだ。個人的には、ベビーカー問題に関しては、状況に応じても糞もなく原則的にOKで、子供に何かあれば自己責任ってことでいいと思うんだけどね。[2008年5月29・30日注記]

*2:いまのところベビーカーの件は、各公共機関ごとにルールが明示化され、各個人のマナーによる使い分けに頼る、というところに落ち着くんじゃないのかなあとは思いますが。大きな問題になるほどの数がいませんからね。

*3:安全面・セキュリティーとか多文化主義が実現するためには、衝突を避けた棲み分けが徹底されるべきだ。