感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

80年代文学史論 第3回――村上春樹をフライング気味に論じる

物語ることにそれほど関心をもたず、実験的なアプローチを突きつめていったあげく行き詰るタイプ。こういう、まあ理論先行型のタイプのアーティストは、我々には比較的イメージしやすい。純文学の作家に限って言えば、まず挙げられるのは、横光利一とか高橋源一郎
他方で、貪欲に物語を語ることに全能力を捧げる作家がいる。このタイプの作家はそれこそクズ作家から巨匠まで様々いるだろうけれど、ひとまず巨匠に限定して、現在形で作品を生産している作家で僕が気になっているのは村上春樹だ。
彼は、文体のレベルから物語の構造のレベルからほとんど変化らしい変化をしてこなかった作家だという印象が僕にはある。無論これには反論があるだろう。じっさい僕にも、村上春樹のキャリアにおける変化の一々を追おうと思えば出来ないことはない。ただしそのような見方は今日したい話とは関係がない。まあ今日の話は印象論に過ぎないので、そこのところは矛盾しない範囲内での記述につとめる。
で、村上春樹は、物語を組織することに至上命題を置く作家であり、それはみずから言明していることなのだけれども、その彼は文体のレベルから物語の構造のレベルからほとんど変化らしい変化をしてこなかった作家だという印象が僕にはある。これは二十年三十年キャリアを積んできた、しかもそれなりに名声のある作家としては、意外に珍しいといっていい。
たとえば、我々の文学史には、夏目漱石森鴎外をはじめ、島崎藤村横光利一に初期の川端康成谷崎潤一郎坂口安吾大江健三郎金井美恵子阿部和重等々、文体から物語の構造から貪欲にいじりまくりながら物語を組織した作家の足跡をたどることができる。無論ここに島田雅彦奥泉光をくわえてもいい。
短編中編重視の作家であれば、それなりの佳作の継投でもって十年二十年のキャリアを埋めることができるだろうし、事実そういう作家は文学史上枚挙に暇がない。ただし、村上春樹は自他共に認める長編作家である。その村上の『海辺のカフカ』に極まる、物語の衰弱ぶりが僕には気になるのだった。
そして僕はこの村上の物語の有様に、三島由紀夫中上健次の晩年が重なってみえる。まあしょせん印象論だが、三島と中上も物語を組織することに至上命題を置く作家であり、その彼らは文体のレベルから物語の構造のレベルからほとんど変化らしい変化をしてこなかった作家だという印象が僕にはあるのである。そして僕は彼らの物語の衰弱についてしばし考える。
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僕には、村上春樹の言葉の中でずっとひっかかっている言葉がある。彼によれば、かつての(主に60年代)暴力というと、集団的な闘争・抵抗という性質があって、作家でそれをうまく代表していたのは大江健三郎だったが、いまはそうではなく、「暴力性が局地戦化、セクト化して、大きな方向が見えなくなってしまっている」という。その上で村上はこうまとめる。「われわれはそのような新しい種類の暴力性を、もう一回物語の中に取り込んでいく必要があるんじゃないかというふうに、僕は感じているのです。言葉で「こうですよ」と説明するんじゃなくて、物語として。」(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』文庫版P194)。
このとき村上にとっての暴力のモデルは、湾岸戦争であり、オウム事件だった。暴力のリアリティーを追求する作家の真摯な姿勢が確認できる一節だが、僕のミスリードを承知で問題にしたいのは、彼がこの暴力性を小説において引き受けるさいに、あくまでも「物語として」そうするという点に尽きる。
無論彼がここで言いたいことは、作家である以上、単なる「説明」じゃなくて、きちんと「物語」に当の暴力を還元したいということだろう。それはよくわかる。しかしここで彼が物語を強調する理由は、別の文脈において解釈される余地がある。というのは、こういうことだ。この言葉を書く前段で彼は、『ねじまき鳥クロニクル』に至る自己の履歴を振り返り、デビュー当時は「デタッチメント、アフォリズム」で作品を組織したが、80年代を通してその部分を「物語」に置き換えていったのだ、という(P81)。そしてさらに3ステップ目として、物語を語るだけでは満足できず、そこにおいて「コミットメント」の側面を追求しようとしたのであり、その最初の結実が『ねじまき鳥』ということになる。
少し強引にまとめると、当初は、社会に対するデタッチメントの感覚がデビュー作をアフォリズム形式に仕上げさせ*1、それが次第に物語に還元されていったが、その過程で社会性へのコミットメントが芽生えた*2、ということだろう。
しかしそれは、村上春樹にとっては、あくまでも物語において完遂されねばならない。というのも、オウム事件を自分のことのように考える彼にとって、オウムの教義とパフォーマンスが示したように、物語の外のみに暴力はあるのではなく、物語にこそ潜んでいるからだ、という認識があるからであろう。そしてそれは恐らく正しかった。
しかし、いつのまにか物語は衰弱している。言い換えると、純文学的に物語を組織することの衰弱は、村上個人の問題ではないのだろうけれど、物語が冗長なわりに神話のシンプルな骨組み(父殺しと母への姦通)だけで強引に押していったということで批判されることがある『海辺のカフカ』以降の彼の一手はやはり気になる。三島由紀夫中上健次は、衰弱の兆しを見せつけた後、その一手手前で死んでいったからだ*3
90年代から奥泉光がミステリーの枠組み・設定を物語の組織のために採用するのをはじめ、最近はかなりあからさまにエンターテイメントの枠組み・設定を採用する作家が増えた。島田雅彦の『シャーマン探偵ナルコ』シリーズは(って勝手にシリーズ化してるけど)、元々ジャンル複合的な作家ではあったが、純文学によってエンターテイメントを動かすというより、エンターテイメントを基軸に純文学を動かす的な作品に仕上がっていて、これはこれで彼にとってのエポックメイクにはなろう。そういえば、村上春樹も、『国境の南 太陽の西』などは「ハーレクインロマンス」と揶揄されることがあったようだ。
純文学的に物語を組織するにあたっては、物語の各種設定をエンターテイメントに奉仕するためではなく、エンターテイメントには還元できない、或る理念的なテーマを成り立たせるために利用しなければならないはずだが、理念など形骸化したいま(私探しに父殺し!)、純文学作品も普通に楽しめるものになったし、逆にエンターテイメント系の作品にしても、意外と社会派だったり啓蒙的だったりするのをしばしば見受ける。いまはそんな時代。
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村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』は、彼の自註によれば「アフォリズム」ということだったが、いま読めば案外まじめにメタフィクションをやっている。「自分は何も書けない」という物語批判的な身振りからはじまり、存在しもしない作家(デレク・ハートフィールド)をフィクショナルに捏造したあげく、その言葉にしたがうかのように物語を辛うじて進めていく。
主人公「僕」のパートナー「鼠」に作中作を語らせ(「鼠の小説」)、その作中作の主人公「僕」とこの作品の「僕」は実は同じであるような演出を仕掛けたりもする(二人の「僕」は同様に、女性に向かっていささか唐突に「ジョン・F・ケネディー」と言う)。したがって、『風の歌を聴け』の「僕」と、鼠の小説の「僕」(つまり「鼠」)は同じであり、その「僕」が模倣する作家デレク・ハートフィールドと、メタフィクショナルな三位一体を描く。まあそんなところだ。いまは懐かしくも。
とにかく、アフォリズムともメタフィクションとも実験とも何とでもいっていいが、村上春樹はこのような、物語を積極的に語ること以外の部分を賢明にも削ぎ落としていった。彼が一瞬アフォリズムメタフィクションでやろうとしたことは、以降80年代を通して、すべて物語(の構造)に還元されることになる。その洗練させた形が、黙説法的ストーリー展開とダブルプロットである*4
くり返せば、村上のデビュー作は、自註通り「アフォリズム」の体裁をもっている。しかし当時はそれなりの理由があったのだろうアフォリズムを切断して以降、村上春樹は今後も、この世の暴力を書きとめるために「物語として」自分の作品を組織するのだろうか。それはそれで突きつめていってほしいというような気がするし、あの谷崎たちのように、物語を語るためなら文体から構成からなんでもありの貪欲な作家も、僕は好きだ。
そういえば、村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』をトリビュートした古川日出男の物語は、アフォリズムではなかったか。彼の物語の暴力はアフォリズムに満ちている。しかしこれは、村上デビュー作のいわゆるアフォリズムとは異なる。そして無論古川は物語を捨てたわけではない。物語の心臓マッサージとしてのアフォリズム文学*5

*1:この村上春樹のデタッチメントの要因としては、60年代後半に盛り上がった社会的抵抗運動、60年代的な暴力に対するリアクションだ、という見解はしばしば聞かれる。

*2:コミットメントへの意識が芽生えたといっても、当初は具体的に何にコミットしていいのか分からず、しかしとにかく何かにコミットしなければならない、という、いわばコミットメントへの純粋な意識だけが芽生えたのだ、という村上の発言は、局所的で不可視化した現代的な暴力の性質と踵を合わすような、現代的なコミットメントの性質を表わしているといえる。

*3:だから彼らの「晩年」に垣間見せた衰弱は、美学的に回収されがちだった。

*4:錯綜するメディア環境――これも現代的な暴力の一つだが――の隠喩として「私たち」という話者を設定した『アフターダーク』は村上春樹の中では思い切った試みではあった。しかしそれは阿部和重の、同じく錯綜するメディア環境を物語の重要な背景に置いた『ニッポニアニッポン』から『シンセミア』に至る叙述の組織化と比べると、いささか突飛であり、無理がありすぎる印象は拭えない。

*5:相変わらず短編はうまいと唸らせる村上春樹なのだが、『海辺のカフカ』のような長編になると、叙述がところどころ説教臭くなるところが気になる。これは無論アフォリズムとかそういうものではない。村上春樹の物語の長さは、地下や森や井戸の底などを場面にして、フィクショナルに引き伸ばされる(のみならず伸縮する)非日常的な時空(のリアリティー)を、一元視点においてうまく表現する部分だったが、今後も物語としてこの時空を同じように語るのだろうか。他方、古川の強みは、物語の(ある種の)衰弱と機動力の弱さを十分に自覚していることだ。『サウンドトラック』から最近の著作への移行を確認。