感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

物語から神話へ

子供の時代は、様々な可能性なり暴力性なり逸脱行為なり多形倒錯的なものなりに対する親和性があって、それを均すことが成長することと同義であるように語られる場合がある。それをとりあえずは古典的なフロイト史観といってもいいと思うけれど、このような史観に立つ場合、大人の側から子供を叱る立場と、郷愁の対象として子供に憧れる立場とがある。そしてその郷愁はしばしば大人批判に向かう。
少年・青年期に愛着がある大林宣彦ティム・バートンの、あのファンタジックなスクリーンに登場する子供(に親和性があるもの)たちを想起しよう。彼らが偶然身につけてしまい、ときに事件を引き起こし、巻き込まれ、繰り出す魔法や超能力の数々は、異形性や多様性に満ち溢れた「子供」の時代*1の隠喩だったはずだ。
しかし、いつのころだろうか。とりあえずハリーポッターとしておけばいいような気がするけれど*2、子供たちが繰り出す魔法や超能力は「神話的」とか「ゲーム的」とでも喩えられるものになっていた。
その有様は「タブラ・ラサ」(フロイトが批判した「子供」像がこれだった)とかいうのでもなければ、むろん多様性に満ちているとさえいえない。悩むまでもなく、与えられたレールにしたがって選択肢を機械的にクリアしていく子供たち。ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』の世界も前回のレヴューの通りこのような子供を演出していた。
そのような世界では、超能力や魔法はそのつど機能的なアイテムとして獲得され、ゲームの展開に過不足なく組み込まれることになる。あるいはキャラ特有の属性として所有されたものにすぎない。
このとき、自由や多様性といわれてきたものは大人の側に担保されることになるが、それはあの夢見る世界ではなく、単なる残酷な現実として置かれることになるだろう。
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しかし、いずれにせよ、子供から大人への成長物語など糞食らえな話だ。たとえば細田守版『時をかける少女』は、ゲーム的なタイムリープの無限反復劇に、自由度の高い現実の残酷さを折り重ねてみたのではなかったか。そこでは、ゲーム的な設定が逃げ場などではなく、それに翻弄される子供たちにこそ現実の残酷さを、私たちは重ねてみたのではなかったろうか。
ならば、『パンズ・ラビリンス』はどうか。主人公の少女はファンタジーの中を生きながら、最終的にそこから弾き出されるように解釈できるが、そうではない。逆に、ファンタジーに少女は救われるようにも解釈可能だが、それでもない(前回のレヴュー参照http://d.hatena.ne.jp/sz9/20071015)。この作品は、ファンタジー化する現実の中で、ファンタジーから現実を(演出の仕方と物語の構造において)徹底して相対化しながら、決してファンタジー化し切れぬ何ものかを、私たちに伝えようとしているのである。
だから物語の最後、映画館を反転させたごとき、スクリーンの向こう、不気味な暗闇から聞えてくる拍手喝采を、ファンタジーのハッピーエンドとして見ることは躊躇われるし、少女の死んだ荒地に咲く一輪の花――とそのイメージに「彼女を忘れるな」とくっきり被せてくるボイス・オーバー――に、現実的なバッドエンドを見ることは躊躇われるのである。とりあえずいまは、ハッピーかバッドかは問題にする必要はない。
ところで、この映画でファンタジーを見ている(ファンタジーに囲い込まれている)のは、まず第一に、主人公の少女であり、そしてこの作品を自由自在に演出している監督本人であるということは前回のレヴュー通りだけれど、ラストに咲く一輪の花のイメージに、覆い被さるように「彼女を忘れるな、想起せよ」と囁かれる言葉は、観客の私たちをもファンタジーに不意に連れ込まれた一人一人であることを想起させるものだ。主人公の彼女もまた物語冒頭、偶然迷い込んだファンタジーの世界にとりつかれたように。
ギレルモが問題にしているのは、このファンタジーの力であり、これこそファンタジー化し切れぬ何ものかにほかならない。彼女が最後にした倫理的決断とか、結末はどうなったか、といったことが二の次なのは、このためである。
だから彼女はファンタジーの世界に救われたのでもないし、現実を思い知らされたわけでもない。ファンタジー化し切れぬものが単なる現実だなんて馬鹿な話はない。そうではなく、何ものかに囚われ続けたことが重要なのである。無論ギレルモの映画作りもそうだ。そして私たちも何ものかにつき動かされるだろう。たとえば拍手喝采の裏に何かを嗅ぎ取ってしまい、たった一輪の花からも何かをイメージしてしまうように。
思えば、ギレルモの『デビルズ・バックボーン』も、ホラーと現実世界のパートを折り重ねながら、何ものかに(何かを)見せられ、動かされ続ける人々を描いたものだった。その象徴がアルコール漬けされた死児の「背骨」であり、空から降ってきた不発弾だったわけだ。
ミミック』はエンターテイメントゆえこのようなテーマは薄まったものの、あるものがあるものに擬態(ミミック)する、ということによってこの「何ものか」は引き継がれている。だからギレルモはこの作品で「エイリアン」シリーズを1から4まで復習してみせ、しばしばジョージ・A・ロメロにとりつかれもするだろう。この作品こそ映画史の「ミミック」の試みなのであった。
ちなみに、『パンズ・ラビリンス』の少女の最後の決断もまさにそうだったが、ギレルモ的な身振りともいえる「他者への自己献身」は各物語に随所に見られるけれども、いうまでもなくこの身振りは、何ものかによってつき動かされることの比喩である。自分の身を捧げてばったばったと倒れていく彼らに倫理的なものを見るならば、まずはこれを「神話的」であり「ゲーム的」だということを確認しておかなければならない*3。たとえ自分(の物語)はここで死んでも、次の人に仮託してこの物語は進められるだろうと*4
いずれにせよ、ギレルモの場合、ホラーにせよSFにせよファンタジーにせよ*5、フィクションの重層的被膜において現実世界をとらえながら、その動力*6を見据えようとしている、ということに尽きる。現実をフィクションによって批判するのも、フィクションを現実(メタフィクション)によって批判するのも糞食らえなのだ。
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ここで確認しておきたいこと。それは、ギレルモや細田の時代の子供たちが新しいといいたいわけではない、ということである。この時代の中でも、とりわけ彼らの子供たちは別格なのだ。
そして別格な子供たちは、時代を超えて恐るべきものたちなのである。大人の物語を語らされることがなかった子供たちは恐ろしい。子供たちを、多様性と可能性に満ちたものとして見出しながら不気味なものとしても示さねばならなかった大林やティム・バートンの子供たちもこの意味で別格である*7
大林と細田の子供の違いは、抑圧したものと抑圧したものの回帰の違いにすぎない。大林が子供たちの中に物語を見出したのに対して、細田は神話の中に子供たちを見出したのにすぎない。そして神話は回帰する。阿部和重古川日出男のもとへ。
シンセミア』以降の阿部はもう少し待たねばなるまい。古川の場合は、神話というより聖書なのだが、メタフィクションという形態をとりながら物語を積極的に呼び込もうとする――というより強引に捏造し断続的に繋げる、といった方が近いのだが――古川にとって、神と民の「契約」という物語および人称構造をもつスタイルの選択は、むろん自覚されたものであろう*8

*1:これは、ホラーの文脈でいえばゾンビ/リビング・デッドの時代であり、日本のマンガ史を振り返れば、人造人間の時代であり(当然マジンガーZデビルマンを含む)、24年組の時代なのだが。

*2:大塚英志氏の「サブカルチャー文学論」によれば、よしもとばなななのかもしれない。

*3:たとえば彼女の決断は、なんの躊躇も迷いもなく為されたものだった。当然だが、ゲーム的環境と倫理的身振り、神話構造と実存的決断は鮮明に分けられるものではない。

*4:そしてこの、不連続ながらも連携しあう集積が神話である。

*5:ギレルモがホラーやSF、ファンタジーといった虚構世界を物語設定に利用するのは、あからさまなメタフィクション構造を露呈せずに、フィクション批判/メタフィクションを試みるためである。

*6:感染とかマトリックスとか、文脈に応じてまあなんとでもいえる。

*7:大林については、http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060921

*8:古川論はますます書かれねばならなくなった。