感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

小説の言葉、アサッテな言葉

私たちにとっての小説家・佐藤友哉の魅力は、まず何より、エンターテイメント(ライトノベル)と純文学の間でどっちつかずの優柔不断な問いを延々と重ねるところである。しばしば魅力的だと評される、彼の自意識過剰な「地声」も、エンターテイメントというか「まんが・アニメ的」(大塚英志)な物語設定とキャラ設定があってこそ映えるのであり、前者による後者への暴力的な介入が両ジャンルからの批判を喚起しつつも無視できない存在として魅力を放ち続ける要因なのだし、逆に、「まんが・アニメ的」な各種設定も、彼の自意識過剰過剰な「地声」あってこそ映えるのであり、前者のフィクショナルな環境に組み込まれた後者の軽さと過剰さと凶暴性が両ジャンルからの批判を喚起しつつも無視できない存在として魅力を放ち続ける要因なのである。
そして佐藤氏を評価する難しさの原因もおそらくここにあるだろう。彼に対して評価がなされるとき、一方のラノベなりミステリーの文脈だけでは物足りないし、純文学の文脈にのっとった評価だけでも物足りなさを感じる。
とはいえ、こんなふうにジャンル論的に佐藤氏を評価することも安直にすぎて、結局なにも語っていないようなものだとはいえる。とりわけ、エンターテイメントから出発した佐藤氏の仕事がここ最近純文学に重心を乗り換えたように見える一連の移行劇は、先日の三島賞受賞に至って、ジャンル論的によりいっそう裁断しやすい図式を私たちに提供することになった。たとえば高橋源一郎氏の佐藤評(「新潮」2007年7月号、佐藤友哉との対談)。
高橋氏は、佐藤氏の講談社ノベルス時代(この時期の作品群、いわゆる「鏡家サーガ」を高橋氏は観念的な「青春小説」という)において重要な作中人物だった「妹」キャラに注目し、萌え対象の「妹」キャラは佐藤氏にとって過渡的な移行対象に過ぎず、いまや結婚も済ませ、子供もほしいのならば、今後は生涯にわたって必然的な対象なりテーマを見出し(「明治」とか「日本近代文学史」とか?)、そんなに売れる売れないにこだわらず小説にとって「本質的」なものを追求するといいのではないか、なにはともあれ、ウェルカム・純文学! とかいう感じでまとめてみせるのだが、そんなファミリーロマンス的な囲い込みは、怪しいしわかりやすすぎる。エンターテイメントから純文学への成長、とまでは断言していないけれども、高橋氏の評価はジャンルに規定されたもののように感じる。
いずれにせよ、佐藤氏本人が、この高橋氏との対談で、講談社ノベルス以来の自身の履歴を思いのほか詳しく自注するのだが、当の三島賞受賞作『1000の小説とバックベアード』にあっては、エンターテイメントの装いのもとに、とはいえ、「ジャンルの問題はとりあえず置いておいて「小説」のことだけを書きたいと思って書いた」と述べていたところが印象深かった。
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1000の小説とバックベアード

1000の小説とバックベアード

高橋氏は、佐藤氏の講談社ノベルス時代のものよりも『1000の小説とバックベアード』を「純文学へようこそ」モードで高く評価する。しかし、僕はその逆で、雑誌掲載当初から『1000の小説とバックベアード』には不満があった。というより、ずいぶん純文学的色彩が強くなってきた『子供たち怒る怒る怒る』あたりから不満は継続中。思えば、『フリッカー式』を読んだときの衝撃といったらなかったし、いまでもそれをうまく言葉にできないもどかしさがあるのだけれど、ここでは『1000の小説』の不満の理由を述べることにする。
なぜ不満なのか。それを教えてくれたのは一つの小説だった。先ごろ「群像」の新人賞を受賞した諏訪哲史の「アサッテの人」(「群像」07年6月号)である。どのように不満を教えてくれたのか。それは、『1000の小説』の「やみ」や「片説家」や「小説家」(の言葉)には説得されなかったのに、「アサッテ」(な言葉)には説得されてしまった、ということに尽きる。
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小説の言葉をめぐって抗争(?)が演じられる「やみ」や「片説家」や「小説家」の言葉も、日常を異化するように繰り出される「アサッテの人」の言葉も、いずれも通常のリアリティーとは別種の、そこからは無視なり排除されてしまった、しかし私たちが生きる世界にとってはこの上なく重要であるかもしれないリアリティーに関わる言葉として設定されているようだ。二作品はそのような異形のリアリズムに挑んだ作品なのであり、それだけで僕にとっては十分なのだが、一歩二歩抜きん出ていたのは「アサッテの人」だった。
というのも、「やみ」や「片説家」や「小説家」(の言葉)は当然アンチリアリズムなのだけれど、あくまでもフィクションに過ぎず、フィクションの域を出なかったからである*1。他方の「アサッテの人」のアンチリアリズムは、しょせんフィクションに過ぎないものが徹底した操作によって一つのリアリティーをもたらす、いわば、一つの確かなリアリティーとして私たちを巻き込むのである。
言い換えると、『1000の小説』がナンセンスな言葉や物語の設定のまわりをぐるぐるひたすら回っているものだとすれば、「アサッテの人」は、無意味な言葉と設定に執着するメタフィクション的な営為が作為のスノビズムに陥ることに自覚的で、それは無論、佐藤氏にも自覚されていることなのだけれど、「アサッテの人」の方がそれに対するより現実的な解法をもって挑んでいるということだ。もちろんその「現実的」の現実とは、フィクションと対になるような手合いのものではない。
ライトノベルと親和性が高い佐藤氏の作品がデータベース的・非現実的なもので、純文学の「アサッテの人」が現実的(自然主義的リアリズム)だというような杜撰な割り切り方では、「アサッテ」のリアリティー――諏訪氏はこれを「圧倒」的なものという――は見えてこないだろう。
「アサッテ」的リアリティーとはいかなるものか。たとえば各書式・各主体に応じて文体を変換するところなどは、この書き手の巧さを示してあまりあるが、もちろんそれだけではない。「アサッテの人」の核心は、まったく意味のない言葉に、それ独自のリズムや表情、性格を与えることで、その言葉を(通常の意味以上の)リアルなものに練り上げるところであり、その意味でこの文章のリアリティーの源泉は詩だといえる。
しかし私たちは、この文章が構成上、文学史とその注釈という側面を持っていることに気づかないわけにはいかない。そう、「アサッテの人」は文学史なのであり、その極めて知的・散文的な編集作業を通して詩(アサッテな言葉)が求められ導き出されていることを確認しておこう*2
べつに、高橋源一郎以降の轍を踏んで「1000の小説」の引用を一々するまでもなく*3、「アサッテの人」は全身で「1000の小説」を活かし、かつ活かされている、幸福な小説なのである。
三島賞の評者は、佐藤氏の作品を半ば空疎な言葉で評価しながら、純文学のハードルはまだまだ高いぞとでも先輩風を吹かせたいつもりなのか、文学史に対する「素養が貧しい」「乏しい」「稚拙」と指摘するのだけれど、彼らの作為的な批評眼こそ貧しい文学史に基づいているということは、「アサッテの人」が正しく評価をくだしている*4

*1:佐々木敦氏は、「ニッポンの小説(家)の誕生――プチ佐藤友哉論」(「新潮」2007年6月号。引用者注=タイトルの「論」には×が付されている)で、『1000の小説』に出てくる「小説家」と「片説家」と「やみ」を、「純文学」と「エンターテイメント文学」と「ラノベ(的なもの)」という三つのジャンルに分けて整理している。なるほどと思えるけれど、そのようなメタフォリックな見立ては、最初から最後まで、後者の現実上の三ジャンルの関係から、前者のフィクショナルな関係が考えられている以上(つまり小説が現実をなぞっている以上)、佐藤友哉の小説をフィクション(に過ぎぬもの)を「超える」ものとして評価したことにはならない。現実とメタフォリックに対応する概念を小説の中に見出したなら、小説中の概念が現実の概念に変化を迫るものであったか、現実の概念を改めて捉え直す視点を提示するものであったか、が問われねばならないはずだ。(註2007-06-18)

*2:『1000の小説』もそのエンディングで、小説の解体と再生(?)に向けて文体が詩的なものに変わるが、それは散文的な文体に対する詩的な文体、にすぎない。他方、「アサッテの人」の文体は散文であり詩でもある。いわば散文が詩であり詩が散文である文体。『1000の小説』の文学史は、散文と詩が区分けされた過去のものしか想像できないが、「アサッテの人」の文学史からは、これまでにない文学史へと想像力が及ぶだろう。小田実古川日出男の文体の位置づけなどなど。ところで、高橋氏は、『1000の小説』を読んで、佐藤氏に「やっぱり小説好きなんだね」と言っているけれど、ラストの詩を読んでいても思うことは、やっぱり佐藤友哉は(小説より)「僕」が好きなんだな、ということだった。これが彼の(エンターテイメントとしても純文学としても)強さであり弱さであったことは、佐藤氏本人が一番わかっていることなのだろうけれど、けっきょく(『子供たち怒る怒る怒る』から)『1000の小説』はこの「僕」を出しあぐんでいるというか、どう処理していいのか迷っていて、そのある種の衰弱がかえってエンターテイメントの各種装いも凡庸な(純文学的に収まりのよい)印象にとどめる原因になっているような気がする。「妹」キャラがどうこうよりも、佐藤友哉の「僕」の行方・処理の仕方が今後気になる所以である。

*3:みんなが言うように『1000の小説とバックベアード』は高橋氏の『日本文学盛衰史』との共通点云々よりも、『さようならギャングたち』の域を出ていない点に不満を感じるのだが。

*4:おりにふれ高橋源一郎氏の言葉に毒づいてしまったけれど、彼の言っていることはとても正しい。でも、それだったら、なにも佐藤友哉じゃなくたっていいじゃないかというくらいの正しさに過ぎない。高橋氏はいつからヘーゲルになったのだろう。彼は『1000の小説』を、ミステリーの枠からいったん離脱し、純文学の中で自由になった佐藤氏が「純文学の世界にも「小説」という枠があるじゃないかということを発見して書いた小説」という評価をする。でも僕には『1000の小説』は純文学的なものの枠に囚われているように見えてならない。三島賞選評で福田和也氏や島田雅彦氏が指摘する佐藤氏の「ロマンチシズム」は、この枠というか保護膜に守られた自意識の声に過ぎない。純文学的なもののモードを剥ぎとり、「「小説」という枠」を自覚的に掘り起こしているのはおそらく「アサッテの人」の試みの方で、それは、散文への詩的な要素の導入の仕方を見るにつけ明らかだ。近代文学が小説という枠を生み出すために、いかに詩的な要素を(「やみ」の方へ、「アサッテ」の方へ)排除しつつもそれを宿命的に必要としたのかといったことは、たとえば絓秀実氏の仕事(「日本近代文学の〈誕生〉」)などで私たちは知ることができる。「アサッテの人」の試みは、この厄介な詩的なものとの闘争を軸にした文学史の再演であり、それ自体が闘争の一事業にほかならない。それでは、佐藤氏がパクッたという『日本文学盛衰史』の試みは、果たしてここまで届いていただろうかなどと思ったりもするのだけれど、無論僕はここで、いまや詩こそ重要だとか、批評をきちんと抑えておけといいたいのではない。最終的な評価はやはり「圧倒」(諏訪哲史)されることの他ないわけで、かつて近代文学史のところどころでそんな「アサッテ」的「圧倒」が演じられたのだろうし、佐藤友哉にも僕は確実に「圧倒」されたことがある。