感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

オリエンタリズム批判を超えて――ネタ追求至上主義2

論座」(2007年7月号)に、「他者のステレオタイプ化をどう越えるか」というテーマの鼎談があった(村上由見子×金平茂紀×ナジーブ・エルカシュ)。
ここ数年、オリエンタリズム批判を筆頭として様々な差別(的な表象・表現に対する)批判――つまり「他者のステレオタイプ」批判――がほとんど機能していない状況に、少し関心を持っていたので読んでみたわけだ。しかし、この鼎談の参加者の発言を聞いていると、そのような状況認識は杞憂だったのかもしれないと思わせてくれるほど、単純な「他者のステレオタイプ」批判に対する無邪気な信頼があって、不満だった。
むろん彼らには悪気などないのだから、不満ながらもスルーし続けていたのだが、なかに一点許せない個所があって、それは「アラブ」に対する「ステレオタイプ」をめぐっての発言であり、要するにハリウッド映画『フライトプラン』におけるジョディ・フォスターの「アラブ人」への振る舞いに対する、彼らの批判の仕方である。
村上氏いわく「『フライトプラン』(05)には釈然としない個所がありました」といい、「飛行機の中でジョディ・フォスターが、子供がいなくなって半狂乱になって捜すんですが、アラブ人の乗客を見たとたんに「あなたが誘拐したんでしょう!」って言いがかりをつける。けっきょく犯人は意外な人物で、娘も最後には見つかるんだけど、主人公は話を信じてくれなかった機長に対して「私に向かって謝罪しろ」と要求しながら、自分は言いがかりをつけたアラブ人にひとことも謝らないのね(笑い)。「私の被った損害」に関しては大騒ぎするけれど、自分が他者に与えた害はまったく意識にない、ってまさに今のアメリカ」。これを受けて金平氏が「「謝れよ」って言いたくなりましたよね」といい、「あれは「9・11」以降にできた映画ですよ。アラブ人に対する偏見を逆手にとって、刺身のツマに使ったという感じですね。こういう使い方のほうがよほどタチが悪い」という。
思えばかつて前世紀の90年前後に、フェミニズムだとかマイノリティーの立場からこのような差別批判が、文学研究でもしばしばなされたもので(たとえば『男流文学論』)、いまさらいうのも気が引けるが、端的にいって、「現実と創作物(フィクション)は別である」という基本的な認識枠組みが、ここでは欠けている*1
この枠組みを踏まえておかないと、次のステップには進めない。つまり、「フィクション」ならなんでも許されるのか、「フィクション」でも許されないものがあるのか、という枠組みである。「フィクション」の現実に対する影響力の問題であり、「フィクション」の現実的な効用の問題だ。
そういえば、「論座」は同じ7月号で、野蛮かつ怖い顔をしたパンダたちがディズニーの被り物をかぶっている一枚の絵を掲載しており、ちょっと前に知的財産権がらみで話題になった北京の「ニセディズニーランド」をこれでもってコケにしたいのか風刺にでもしたいのか、何か意図しているらしいのだけれども、これこそ中国の「ステレオタイプ」なイメージなわけで、もちろん「論座」はそれを意識し、露悪的にやっているわけでしょう?
+++
一々例を挙げるまでもなく、最近の各種メディアからは、中国(あるいは他のアジア各国)がいかに野蛮な国かということを示す話題がおりにふれ提供される。野蛮さだったらこの「美しい国」も負けてはいないとその成員として素朴に思いもするのだけれど、たとえばステレオタイプな中国イメージに対して、中国はもっと多様な側面があり、一面的なイメージで切り取ることの暴力を「オリエンタリズム」として批判することもできるだろう。しかし、いまやマルチカルチュラルな立場からのオリエンタリズム批判は絶望的に効果がないことを、私たちは知っている。さしたる被害もないのに批判することの愚かさを「偽善者」として、逆に批判されるだけだ。
そもそもメディアが中国(ほかアジア各国)の野蛮さを取り上げ、まああまり知る必要のないのも含めてわざわざ話題として私たちに提供してくれるとき、そこにあるのは、啓蒙によって批判されるべき差別意識があるわけではない。それが厄介といえば厄介で、いわば日々消費されるネタとして「嗤う」(北田暁大)程度の意識しか存在していない。しばしば指摘される日本の危機意識から発せられる願い――中国が野蛮な後進国であってほしいという願いさえそこにあるのかは疑わしい。ネタとして消費するためなら、被害者としてのポジションも捏造するくらいだからね。そうだ、これのなにが悪い。しかも、みなお互い様だとも思っている。
そういうイメージ(フィクション)が溢れかえるなかで、もちろん、「論座」の「ステレオタイプ」なイメージも、風刺(としての政治的な効果)にもなにもなりえていない。というかあれはあまり冴えていないネタだった。
いずれにせよ、啓蒙的な受容よりも、ネタ的消費の方が、人間の情報摂取の営みにとってより根本的な(しかもそれこそ人間らしく魅力的でさえある)営為ともいえるわけで、それが当然のごとく当然視されてきたいま、差別批判なりイメージ批判のロジックはほとんど暗闇の中にあり、厄介な局面にあるといえる。
+++
とはいえ、ただ一点確実にいえることは、いかなる批判も日々消費されるネタとして相対化される一方で、いまや、身体的・生理的な実害をこうむった被害者の立場からの批判のみが無敵だということではないか*2。いかなる差別批判であれ権利の要求であれ、どれくらい身体的・生理的な被害をこうむったかが重要な掛け金で、それ以外の、(とりわけ立場性の薄い)言説上の批判なり要求はほぼ無効に近い、というよりさらなる批判の対象となりかねなかったりするのだからもう大変。
ここのところ(いわゆる「冷戦後」)、リベラルの様々な権利要求が空転し続け、その状況を理解しないゆえ無様にさえ見えたことは、いくつかの局面において私たちの記憶にあるはずだ*3。話題がずれ(まく)るが、ここらへんにおそらく、昨今の「フリーター」「ニート」「ワーキングプア」論の難しさがあるのかもしれない。
たとえば、格差社会や社会的弱者・貧困階級を扱かったドキュメンタリーなテキストとして最近話題になっている雨宮処凛の『生きさせろ!』(07)がある。

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

これより30年以上前に、鎌田慧が同じく社会的弱者・貧困階級を扱ったドキュメンタリーを刊行して話題になったが*4、雨宮氏と鎌田氏の違いを一つ上げるなら、後者が基本的に経済的貧困(による身体的苦痛など)からの批判に満たされているとしたら、前者は経済的貧困を訴える位相にたえず心理的枯渇(社会において満たされない承認欲や過剰な存在としての違和感など)を訴える位相を差し込んでくる、この構成上の差異だろう。
むろんこの差異*5は従来から指摘されていることだけれども、たとえば僕が『生きさせろ!』を読んでいるときに気になるのは*6、経済的貧困の位相(文字通り「生きさせろ!」)で共感しながら――むろん自分もフリーターだからという理由も関わっているのだろうが、とにかくここでは批判的にはならない――、心理的欠乏/要求の位相(承認せよ!)ではしばしば疎外されることがある(無関心になったり批判的になったり「嗤」ったり疎外の仕方も様々だが)、というところであった。いうまでもなく、「生きさせろ!」は集合的な声として響くが、「承認せよ!」はおよそ個人的な声でしかない。
「フリーター」論や「格差社会」論については無知同然なので指摘を頂きたいところなのだけれど、このような分離しつつ複雑に絡み合った位相をどう束ねるのか、そうやって個人的な立場性をどのように共感・共鳴・同情の声に変換するのか、そのためにはとりあえず「生きさせろ!」を前面に押し出すべきなのか*7、等々、ここで改めて差別批判も振り返ってみたりして、なんだか絶望的に答らしいものが見当たらなくて途方にくれるのだけれど、少し考えてみる。

*1:発言の中に「(笑い)」があることが唯一の救いなのだが、こういう良識的な批判を徹底すると、どこかの独裁国家が作るような作品ばかりになってしまうよ。偏見なりステレオタイプというのは、良識のなかにも、というかある意味良識のなかにこそ蔓延っているものなのだ。たとえば彼らは、他方で、往時の「月光仮面」や「怪傑ハリマオ」、それに「コーヒー・ルンバ」や「カスバの女」といった日本で一時期流行した「中近東イメージの歌」を例に挙げて、かつて日本の中東に対するイメージはポジティブなもので、いまのようにネガティブではなかったというおよそオリエンタリズム以前の認識をあけすけに披露しつつ、フジヤマ・ゲイシャの日本イメージを当然のごとく批判してみせる。これは良識というのがいかにいい加減なものかを示してあまりある。要するに、自分の良識に照らして不愉快かどうか(ポジティブかネガティブか)なんていう感想は、一見もっともらしく感じられるものであれ、「ステレオタイプ」批判以前の話でしかない。帝国アメリカ(9・11)を媒介するまでもなく、日本の「アラブ」に対するイメージは久しく、そして今もって「ポジティブ」なものである、ともいえるはずだ。いずれにせよ、小説でも映画でもいいから、自分で作品を一本作ってみれば、こういう批判がいかに馬鹿げているかが理解できるはずである。良識的な人間しかいない物語を想像せよ。ちなみに、この鼎談では、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バベル』の、この監督お得意の多視点性・マルチプロットぶりが評価されるが、そもそもこれと『フライトプラン』は映画としても、政治的なメッセージとしても目指すところが違う。むろん、目指すところによってなんらかの偏見なり差別が生じることは「やむなし」などとは思わないが、もとより『フライトプラン』の、意図的に仕掛けられた「アラブ」(に対する「アメリカ」の振る舞い)のイメージを差別的だといっても、なんの意味も効果もない。実際、あの航空機内はジョディ・フォスターも含めてまさしく「今のアメリカ」だと言っているのは当の作品なのであり、ジョディ・フォスター自身もそのような発言をしている。

*2:ただし、あまりにも饒舌に過ぎると、一転、同情票が牙をむくケースもあったりするのだが。

*3:「自己責任」論とも関連するが、たとえば、いまや加害者の権利など存在するのだろうか? どのように要求できるのだろうか? いまや人権問題に関するリベラルの後退は目覚しいものがある。知的財産権の文脈でも、コモンズとか公共財といった、個々人にとっては漠然とした権利よりも、特許なり著作権なりの被害にばかり同情的な関心が向かう。そうして徹底した情報の「囲い込み」が、当然の権利として広範になされている。北京のニセディズニーランドは、その他愛のなさをネタとして「嗤」いたければわらえばいい程度のものだと思うけれど、ニセものを権利侵害として取り締まること(メディアの論調は取り締まれ!モードだった)に同情・加担することでディズニーの後押しをすることになるのはちょっと癪だ。

*4:鎌田氏の面白さはだんぜん潜入ルポにあり、みずから労働者・臨時工になってその惨状を描き出すテキストとして『死に絶えた風景』(1971)や『自動車絶望工場』(1973)があるが、後者は雨宮氏のテキストの参考文献でもある。今読むなら、裏プロジェクトXみたいにも読めるはず。

*5:高度成長期の貧困と平成の格差社会の差異の性質。とりわけ、現代のフリーターに代表される「下層」化の要因は、高度成長期のそれとは違い、経済的レベルと心理的レベルが入り組んでいるという指摘。

*6:まだ読破していないからとりあえず印象論になるけれど。

*7:雨宮氏の基本的な立ち位置は、「生きさせろ!」=生存権の確保は当然保障されるべきだというところに最低限度のラインを引き、その上で、個々人の承認要求なり生き方が生存権の確保と排中率の関係(AかBか)にあってはならない、というもののようだ。「生きたいのなら、個人の承認要求なり特異な生き方は慎むべきだ」という考え方が、政府・企業側のみならず、当のフリーターの側にも根深くあること(30、40にもなって自分の承認要求=夢が満たされなければ、自己責任を取って、ホームレスにでもなるか死ぬしかないんだ…)を危惧する彼女の声は「生きさせろ!」とともに、ときに「生きろ!」「生きてもいいんだ」という声に変換され、重なり合う。だから、彼女が自分自身の経験を踏まえた声として、あるいはインタビューした相手の声として心理的欠乏/要求の位相(承認せよ!)を書き込むとき、それは単純なエゴイストの承認要求では全然なく、「生きさせろ!」「生きろ!」「生きてもいいんだ」等々の生存権の最低限度のラインから発せられる声と平行し、重なり合って現れていることを感じないわけにはいかない。鎌田氏の時代とは違う「下層社会」の窮状を訴える、一つの有効なスローガンとして雨宮氏なりに編み出した声を、ここに私は聞くことができたような気がする。経済的な市場の原則からはあぶれるような生き方が望めない、望みずらい国の有様は――将来なりたい職業は公務員!――、実はどこかの良識ある独裁国家と非常に似ているんじゃないかというようなことを、雨宮氏の二重化・多重化した声(生きさせろ!/承認せよ!)は語っているような気もする。2007年6月3・4日追記