感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

宇野常寛「ゼロ年代の想像力」

このテキストで宇野常寛氏は、前世紀の90年代後半と今世紀に入ってからの00年代を区分し、物語の想像力が変化した、と指摘している(「ゼロ年代の想像力失われた10年」の向こう側」連載第一回、「SFマガジン」2007年7月号)。前者が、『エヴァンゲリオン』や「セカイ系」に代表される「ひきこもり」的な心性・想像力によって物語が生産・消費された時期だとすれば、後者になって、「「決断主義」的な傾向を持つ「サバイブ感」を前面に打ち出した」物語が注目を集めはじめる、と。
僕は中高生や大学生と話す機会があるんだけれど、確かに、宇野氏が00年代の代表作としてあげる『デスノート』や『バトル・ロワイアル』を好む学生たちの消費の仕方を聞いていると、「決断主義」的なところがある。主人公のライトが決断主義的だとかいうより、とにかく物語の設定が最初から最後まで明確でゆるぎないことが、彼らがその作品を評価する基準になっている印象を受けることがあるのである。いつの時代もそういう面はあるとは思うけれど、物語の消費の仕方・基準がシビアに打算的になっているなあと。あと、生理的な判断も重要。「泣ける」とか「なんかやだ〜」とか。
その一方で、たとえば村上春樹の『ノルウェイの森』の話をしようものなら、主人公の「僕」の優柔不断ぶりや、何も解決されない物語のとりとめのなさに対して「暗い」とか「白黒はっきりしてほしい」とか言われることになる。ただし、そういう(「ひきこもり」系?)物語に興味を示す学生も一定程度いることはいるのだけれども。
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宇野氏が使う「決断主義」という言葉は、当然カール・シュミットの議論が踏まえられているのであろう。シュミットは、議会制民主主義が陥る、たえず決断を先送りするような優柔不断な状況に対して、「決断主義」を対置したわけだ。他方、戦争など「例外状況」においてもなんの判断も下せない優柔不断な状況を肯定する(甘んじる)心性が「政治的ロマン主義」といわれる態度で、それが宇野氏の「ひきこもり」と対応している。
シュミットは「決断主義」に重点を置くわけだけれど、この現在――カール・レーヴィットや日本浪漫派=橋川文三の仕事を通過した現在――を生きる僕たちは、「決断主義」も「ロマン主義」も、必然性の喪失した恣意的・偶然的な世界においてふるまわざるをえない心性としては同根であり、いわば共犯関係にあることを知っているはずだ*1。だから、いまや真面目に「決断主義」になることもできない。
まだ連載の一回目だから内容にまで触れることはできないが、宇野氏のテキストで面白いところは、何より、当のテキストが「決断主義」的に構成されているところである。周知の通り「決断主義」の特徴の一つとしてあげられるのは、利害関係のあいまいになった世界を、友と敵の二元論に無理やり切り分けるところにあった。
「90年代後半」と「00年代」に切り分け、現在もまだ根強く生き延びる「90年代後半」的な心性・想像力を敵として「00年代」を評価し、次世代の想像力に向けて言葉を組織する宇野氏のテキストは、自身も「決断主義」に与していることを示しているといっていい。「90年代後半」の「ひきこもり」系想像力をバックアップした批評家として東浩紀氏を立て、東浩紀の「劣化コピー」が蔓延している現状を慨嘆するところも、「決断主義」として律儀だとさえいえる。
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批評というやつは、ときに、世界を切り分ける(「決断主義」的といってもいい)暴力を必然的に伴う。その切り口・切り分け方が説得的であるかどうかが最終的な問題になるのだけれど、この宇野氏の場合、「決断主義」的色彩で最後まで推し進めるか、あるいはそれが変容を来すところがあるのか、ここのところの勝負に僕は今からわくわくしている。

*1:たとえば「ひきこもり」には「決断主義」への願望がある(からこそさらに「ひきこもる」)わけだし、「決断主義」には「ひきこもり」に対する内在的な怯えがある(からこそますます「決断」する、っていうかそれって「決断」させられてなくない…?)。