感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ゲンバク小説、文学ジャンク

びッくりした。昨日ブログを書いた後(「原爆」関連の小説について少しふれたのだが)、池袋のたまたま入った古書店で大田洋子の潮文庫版『屍の街』(1948)を発見、250円ほどで手に入れた。こうの史代氏が『夕凪の街 桜の国』の参考資料にあげているもので*1、僕も長らく欲しいと思っていた小説だった。原民喜(1951没)の『夏の花』(1947)は「青空文庫」で手軽に読めるから手元になくても平気なんだけど、大田のものは手に入れにくい状況にある(たぶんね)。この2作品はいわゆる原爆ものとして知られるなかでも、まさに被爆の体験者によって書かれた、初期のものに当たる。
+++
原爆ものといってもいくつかあるけれど(いちおう小説に限定)、この2作品と、それから『ヒロシマ・ノート』(1965大江健三郎)と『黒い雨』(1965井伏鱒二)を読んだうえで、『六〇〇〇度』と『ある日、爆弾が落ちてきて』(昨日のブログ参照)を読んでみるのがおすすめ。便宜的だけれど、こういうふうに史的に位置付けてみると、鹿島田氏も古橋氏も、小説として評価されうるというだけじゃなく、原爆ものとしてもとても意義のある仕事だったような気がする*2
+++
ちなみに、荒正人の評論集『第二の青春』も210円という格安のお値段でゲット。しかも本人の署名入り。すごいうれしい。
+++
最近、ライトノベルとの関連から純文学を見る、というようなことを連続的にやっている。なんとなくだけど、絓秀実氏がかつて挑発的に口にしていた「ジャンク文学」(=「J文学」)というややトリッキーな概念*3が、僕なりの内実をともなって理解できてきたような気がする。大塚英志氏の「サブカルチャー文学」に対する両義的なスタンスも*4
+++
僕の純文学理解はかなり特殊なもので、非常に不愉快に思う人が多いと思う。というより単に的外れといわれてもしかたのないものではある。
+++
最近は、ライトノベル周辺に関する言及・批評・レヴューがにぎやかだが、否定するにせよ肯定するにせよそれらが参照とする軸に、大塚氏や東浩紀氏がある。僕も、純文学とは何かを考える上で、この制度の外(あるいは間)にいる、とくにこの二人の批評が役に立っている。べつに変わったことをしているわけではない。純文学のなかでは、かつて「純文学論争」といわれるような、純文学とは何かを問う契機が何度かあったわけだが、そのときも、隣接・横断するジャンル・メディアとの関連(大小のインパクトをともなった)においてジャンルの自己定義を行ったのである*5
+++
絓氏はといえば、「文学ジャンク」を唱えた後に、「大逆事件」にさかのぼり、「68年」にさかのぼった。これこそ現代的なテーマだということで(いわゆる団塊の「2007年問題」)。それはそれでその通りなのだろうし、この迂回の手続きから、僕も得るところが多かった*6。しかし、文学の現在を正面突破する絓秀実もたまには見てみたい。
+++
「文学ジャンク」「サブカルチャー文学」「ゲーム的リアリズム」…。ところでケータイ小説って、どうなんでしょう?

*1:大田洋子には、「夕凪の街と人と」(1955)と「桜の国」(1940)というタイトルの作品がある。

*2:たとえばこの2作品は、文学史という膨大なデータベースのなかから、「原爆」「原水爆」「核」をキーワードにして検索される作品群と、それらの思考と記述の過程を改めて見直し、組み替える契機となるだろう。マンガの世界では、この役割を『夕凪の街 桜の国』がになっているはずだ。そして『夕凪の街 桜の国』が、大田洋子を経由して文学の世界にも思考と想像力と表現の源泉を求めていたのだとすれば、『ある日』や『六〇〇〇度』もまたマンガや特撮(ゴジラも「放射能」と関わるのだった、というかエンターテイメント作品はしばしば、何らかの異常現象・未確認物体に関して「放射能」原因説を唱えたりするし、「核」「原爆」が物語の一プロットをなすエンターテイメント作品は数知れずあるわけだが)、映画へとジャンル・メディアを横断する。『六〇〇〇度』単体で文学的な批評性を読み込むのも意義のあることだが、相互に参照しあうこれらの作品群に改めて光を当てたことの意義だけでも大きい。むろん『六〇〇〇度』と『ある日』に「原爆」という物語のテーマを担える力と、そもそものところその自覚があるのかは疑わしいという考えもあるわけだが、そんなことよりむしろ、いまもなお『はだしのゲン』と『黒い雨』(あるいは小田実の『HIROSHIMA』1981年)で満足している状況があったのかもしれないという想像を働かせてみたい。しかし「原爆」は自分の新しい物語を書かせた。データベースに記載されている限り、広島・長崎にまつわる記憶の抹消とか消尽とかはありえないし、書き尽くされることもないと考えることができる。記憶論の再考。

*3:「Junk的なものをめぐって」、「群像」1999年10月、『JUNKの逆襲』(作品社)所収。

*4:更新期の文学』(春秋社)『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)等を確認。

*5:たとえば、平野謙が中心になった1961‐2年の「純文学論争」は、『戦後文学論争』(番町書房)にまとまって読める。

*6:『革命的な、あまりに革命的な』(作品社)『1968年』(ちくま新書)参照。ちなみに、「ジャンク」提唱以前の彼は、大衆文学・エンターテイメントを純文学/文芸批評に積極的にとりいれるという、横光「純粋小説論」的な試みを行っていた。『小ブル急進主義批評宣言』(四谷ラウンド)参照。