感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ゆれる「蛇イチゴ」とゆれない「ゆれる」――物語の意図と設定の齟齬

一つの事件をめぐって複数の当事者が異なった視点と見解を提示し、その齟齬に翻弄される当事者たちの人間ドラマが物語設定の核となる作品は、思えば、芥川龍之介の「藪の中」や横光利一の「機械」以降さまざまあるが、西川美和氏の「ゆれる」(2006)もこの設定を採用している。本作は昨年のヒット作であり、幅広い層から高い知名度を獲得しているゆえ、知っている人も多いと思う。
しかし、西川氏の前作の「蛇イチゴ」(2003)が平成の「無責任男」(植木等!)を活写していて見事な作品だっただけに、本作には不満が残る点を感じた*1
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ゆれる [ 西川美和 ]

ゆれる [ 西川美和 ]

物語の端緒は一人の女の死であり、その死をめぐって事の真相は宙吊られ、ゆれる。幼馴染の彼女を、兄(香川照之)は殺してしまったのか否か、それが事実ならどのように死に至らしめたのか、それに対して弟(オダギリジョー)は、兄にどのように接するのか。その弟に対して兄は…。
一事をめぐって兄弟の語りはしだいに齟齬をきたし、どちらが真相を語っているのかが、我々観者にとっては「藪の中」にあるように、いわばサスペンス仕立てで構成されているのだが、まずなにより、「蛇イチゴ」の監督の面目躍如とする点は、兄弟二人の間にあっては事の真偽が問題だというよりも、一事をめぐって相手は自分のことをどのようにとらえているのか、どう接しているのかという問いから生じる齟齬を二人が生きている、その生き様の活写にある。「蛇イチゴ」も、お互いが仕向ける期待と依存と、それに比べたら矮小な現実との齟齬を生きる家族関係が見事に活写されていた。どちらの作品も、事の真偽(あるいは、ありうべき家族像)という単純な問題を扱っているのではない。
しかし「ゆれる」には不満がある。おそらくそれは、我々観者に仕向けられたサスペンス仕立ての構成に起因している。物語の展開にしたがって、(弟から見れば)実はこれが真実だ、いや(兄から見れば)実はこれが真実だ、等々とくり返し視点をぶらして事の真相を宙吊りにするこの構成は、兄弟二人が一事をめぐってゆれ続ける、上記生き様の活写への関心を疎外するのだ*2。「実はこれが真実だ」とくり返される、いわば「後出しジャンケン」の連続技は、観者を物語(のなかの人物)とともに生きさせることを決定的に疎外するものであり(とうぜんこの兄弟は、観者のサスペンスを生きてはいない)、下手をすれば、「真相」を与えられたことのカタルシスしかもたらさない結果に終わるだろう*3。しかし、本作は、そのようなエンターテイメントに終始する消費財として作られたものではないはずなのだ。
この不満に関わってもう一つの不満。それは視点の問題だ。兄が彼女を「死に追い遣る」決定的なシーン、これを物語の展開にしたがって、兄と弟の視点交互から映し出すのだが、「兄にとってはこう見える」、「弟にとってはこう見える」(…)というようにたえず「真相」が上塗りされることで、観者の認識をたえず刷新させるように仕向けるわけだ。タイトル通り、ゆさぶり、ゆれる視点。
確かにそうなのだが、ここで不満なのは、兄と弟の交互する視点によって「真相」がたえずゆさぶられるにしても、視点の所有者は絶対にゆさぶられないという点である。つまり、兄の視点と弟の視点が切り替わるにしても、その視点は兄のものか弟のものなのか、いったいだれのものと特定していいのかという、映画を観る体験にとって本質的なゆさぶりをかけられることはないのである*4。サスペンスの枠組みを保持する以上、むろん視点に対する疑義の余地があってはならないわけだから、当然のことなのだろうけれども。
***他方、「蛇いちご」の素晴らしい一シーンを思い出そう。それは、長女のつみきみほが同僚の彼(手塚とおる)を家族に紹介しがてら食事をするところなのだが、そこでは、痴呆の祖父(松福亭松之助)が下品に音を立てながら物を咀嚼している。彼を囲む人々は気後れしたり呆気にとられつつも、気にせず会話を弾ませる。
このとき、祖父のくちゃくちゃいう咀嚼の音はスクリーン(画面)の手前から、いわば観者と重なり合うように聞きとれるのだが、カメラの視点は祖父とは逆側から、しかし慎重に祖父は映らないように家族の団欒をとらえるのだ*5。この、団欒に参加しながら誰のものでもない(後藤明生的な)視点は、祖父の内面との同一化を避けながら、この家族の日常に潜む痴呆と狂気を、観者に感じさせずにいない。じじつ物語は、ここから西川的な葬式シーンをへて、人物相互の視点をぶつけ合わせながら、事の真偽には回収できないファミリーロマンスが展開されるのであった。

*1:前作は「無責任男」役の宮迫博之が秩序を掻き乱しながら再構築するヒーローだったとすれば、本作は、秩序回復を担わされた「無責任男」(オダギリジョー)がけっきょく秩序を乱し、その責任を取らされる話だともいえる。

*2:本作の魅力は、重要な「一事」が実は複数あることであり、いわば兄の「過ち」と弟の「過ち」が楕円の中心となって牽制し合い、相互に齟齬をもたらすのだが、しかしこの位相が、観者に対するサスペンスによって非常に見えにくくなっているのだ。/せっかくの人間ドラマがサスペンスの導入によって「台無し」になることについては、「デスノート」について語ったときにも言及したことがある。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060813。安易な物語設定の導入は作品を単なるエンターテイメントにしかねない。/本作の一つの解決が、いまは亡き母が撮影したビデオ映像によってなされる点に関しては、結末が安易であるとかないとかいろいろ指摘される部分だろうけれど、まあ前作の、兄から妹への蛇イチゴのプレゼントによるハッピーエンドに比べたら、確かに、兄弟の齟齬を調停する亡母というのは、観ていてじゃっかんテレがあるものではある。しかし、けっきょく結末なんてのは事を強引に終わらせるものなので、うまかろうがまずかろうがどうでもいいものだ。むしろ本作を観ていて気になったのは、前作に比べて、是枝的というか、漠然とした「文学的」な絵や「象徴的」な絵(たとえば彼女の靴が川を流れるシーンとか)が増えたこと(是枝裕和は西川氏の二作品のプロデューサーであり、おそらく彼女の師匠ともいうべき存在だろう人だが、複雑な脚本とエンターテイメント的趣向の併せ技で勝負する彼女の魅力は、是枝氏の「止め絵」で見せるような作風とは別のものだと思う)。これらの絵が物語の意図と設定の齟齬をうやむやに縫合するような役目を担っているように感じたこと。そして、ガススタンドのバイトの男の子が物語の終盤、俺だけが全部知っている的な、悟りきったようなキャラ(いわばミステリの探偵役)に切り替わり、弟に兄との和解を求める役を担わせるところ。ここから母のビデオ映像(いわばミステリの物的証拠)をへて、観者に真相が明かされる、というプロセスが描かれるのだが、このあたりは物語の意図よりもサスペンス仕立ての設定の重力にぐんぐん引っ張られているような印象がある。/弟の「過ち」も兄弟間で非常に意味がある一事であり、だからこそ兄は弟にカマをかけ、それを知った弟も兄の「過ち」に対する態度と駆け引きを変えたりするのだが、このあたりの面白いところも終盤に向けて仕掛けられたサスペンス設定によってうやむやになる。とんでもない感想を言うと、観終わったときの印象はあんがい「メメント」(クリストファー・ノーラン)に似ていた。なんだかもう疲れ果てて、もうどっちでもいいやという諦念が残ったというか。/けっきょく、オダギリジョーのはまり役ぶりと香川照之の迫真の演技が、この物語のもともとの意図するところの強度を担保した、という感じがする。(2007年5月11日注記)

*3:人間ドラマを期待する、僕のような観者にとっては、これでもかという「後出しジャンケン」に途中ウンザリする。

*4:横光の「機械」は、そこまで徹底してイッてしまう一人称による語りだった。

*5:じゃっかん僕の記憶違いが入っているかもしれません。