感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

純文学的『ゲーム的リアリズムの誕生』評

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』の特筆すべき点は、社会学者としての東浩紀と文芸批評家としての東浩紀が分業しているところであろう。
彼は作品分析に関して、「物語的主題」(何が語られているか)を追うのではなく、「構造的主題」(どのように語っているか)を追わねばならないとくり返し述べているが、それは本書に関しても当てはまる。つまり、東氏は一々注釈していないが、本書の読解はこの分業を構造的に区分しながら読むことが必要とされるのである*1
どちらかといえば、社会学者としての東浩紀が勝っていた前著の『動物化するポストモダン』を読む感覚で本書を読むと、痛い目に会うことになるはずだ。
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ここで東氏の主張をまとめてみると、こうなる。まずは、純文学とライトノベル*2の対比がなされる。一方の、古くから文学を支配してきた純文学は、現実を引き写すように物語を組織することを目指す。これを「自然主義的リアリズム」という。
他方、ラノベは、現実との対応関係を信じない。前著のキーワードだった「データベース」がラノベ作家と読者――オタクたちの市場――の前提となっている。つまり彼らを取り巻く環境は、現実ではなく、データベースだ。したがって彼らはデータベース的な環境に物語の制作活動の拠点を置く。
そこでは、人間的な自我の葛藤・疎外論的な悩みなどはひとまず不要である。データベースに収納された様々な設定・記号の束(キャラや物語の世界設定や約束事など)をそのつど組み換え、快楽原則にしたがってひたすら動物的に消費されるだけだ。
むろん、データベースの環境においては、オリジナルとコピーといった関係も、現実と物語の対応関係のように、深刻な問題にはならない。オタクたちの二次創作に対する親和性の強さはその例である。オタクたちにとっては、いかなる物語も単独で完結するものではなく、別の複数の物語を下敷きにしたものであり、それがまた別の物語の下敷きとなる。そのようなデータベース的な環境に置かれている。
キャラクターももちろん、一つの物語で完結するものではないし、要素・属性ごとに分解可能でさえある。彼らキャラクターは作品から独立した扱いを受ける。純文学の作中人物のように、生き死にや悩みが物語にリアリティーを付与することはない。むしろ、毎回(作品内でも作品を飛び越えてでも)生き返ってしまうこと、それがジャンルの約束事として前提されていることが彼らにとっての本質的な問題だ。いわばひたすらリセットとスタートをくり返すように、キャラも物語も生産・流通・消費されるほかない世界。これを東氏は「ゲーム的リアリズム」の土壌と規定する。
自然主義的リアリズムを引きずっている純文学が、いまだに物語のオリジナリティーや現実との対応関係に拘っているのに対して、さしたる葛藤もなくデータベースを活用している点で、記号化された現実の平板さを積極的に引き受けているのがゲーム的リアリズムであると言っていいだろう。
東氏は社会学者として、このようないわゆるポストモダンの環境に気付かずにいまだ自然主義的リアリズムの作法に乗っかっている純文学的な傾向に対して辛口の態度を示し、ラノベの側につく。
しかし、注意しよう。彼は、たとえラノベであっても、このような環境をただ物語的主題として物語作りに反映させているだけの作品には見向きもしない。これが文芸批評家としての東浩紀の〈選択〉だ。現在進行形の動物化に抗うなにものか――カラスとか羽入とか?――の選択だ。
この東は、構造的主題としてポストモダンのデータベース的な環境をとり込んだ作品を積極的に評価するだろう。かくしてこの地点においては、ラノベも純文学も差異はないと東氏は言う。構造的主題を読み込むのに堪えるラノベの作品があれば、同じように、構造的主題を読み込むのに堪える純文学の作品がある、ということだ。東氏にとっては、構造的主題を抱え込んだ作品は、ジャンルを問わずどれもポストモダンの環境を前提したものだからである*3
いうまでもなく、この文芸批評家としての立場があるからこそ、彼の社会学者としての立場は、凡百の社会学者よりも冴え渡るのであり、そういう複雑な構造を東浩紀という人は持っているのである*4
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ここからは、東氏の著作をひとまず離れる。このブログでは、ここ何度か、純文学がなんの人生設計もなく自堕落にラノベ的なものになろうとしている現状を批判的に解説した。そこで、小川洋子の『博士を愛した数式』=ラノベ(?)説を唱えたが(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070326)、おそらくこれは、ある人にとっては許しがたい「等式」だろうが、ある人にとっては自然に受け入れられるものだろうと思う。いずれにしても、「博士」あるいは小川洋子評価は、純文学の評価軸だけを当て嵌めるのではなく、この「等式」を踏まえた上でなされるものが面白いものになるのではないか。
今回は別のテストケースとして、このブログの初期に論じたことがある、鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』をみてみる。
六〇〇〇度の愛

六〇〇〇度の愛

この作品のこれまでの評価は、テーマである「原爆」にまともにふれられずに、「皆が共有すべき大文字の出来事の記憶の消失」という現代性を書き取ったことを評価するか、あるいは、作家の方法意識の高さ(デュラスの模倣・引用など)を誉めるかしかなかった。作家自身も、大きな出来事と瑣末な私事の相対化だとか、記憶と意識、現在と過去時制の相対化をもくろんでいるとか、わりと純文学的にオーソドックスな見解を述べるにとどまるのだけれど、それこそ「格式ある」オーソドックスな文体に読者評者は騙されているともいえはしないか。
たとえば、このように読んでみたい欲望に駆られる。この作品はデュラスの手法をデータベースからピックアップし、著者のプライベートな履歴にも関わる「ロシア正教キリスト教」のトピックと文芸史上それなりに重要な「原爆」のトピックを、「長崎」と「パッション(受難)」というテーマの共通性程度に必然的なパッケージのもとに配分し、デュラス「ヒロシマモナムール」(および「ラマン」の一部)の物語設定を下敷きにしつつ「一児の団地妻」と「混血青年」のいっときの「情事」に改案したものとして、とりあえずは読むことができるものだ。そしてこのように執拗になされるデータベースの参照・模倣・引用に、物語批判的な批評精神を読み込むことを(純文学批評家はついついそう判断したがるわけだけれど)、とりあえず括弧にくくろう。
「広島」ではなく、その陰になりがちな「長崎」に〈あえて〉設定を変更することに批評性(脱構築?)を見る評価も散見したが、データベース上の組み換え(によるそれなりの物語効果の演出)として見ることも当然できるはずだ(広島・長崎とくれば、「焼津」もまた大文字の出来事として私たちは忘れてはならないのだが)。
以上のように本書は、いくつかのトピック上・テーマ上に隠喩的関係がほどこされているのが確認できるが、ほかにもとくに「原爆」をめぐっていくつかのトピック・設定が連鎖するように叙述されている。とりあえず作品上主要なテーマを担うように見える「原爆」は、タイトルにもある通り、平成を生きる女性の得体の知れない「乾き」と原爆投下時の「渇き」、現在と過去の非対称的な関係を、「六〇〇〇度」としてまとめるための隠喩として機能している。あるいはまた、情事相手の青年のアトピー性皮膚炎が被爆地やケロイドのイメージと重なったり、女の、自殺した兄に対する薄れつつある記憶といった形で、いわば断片化した隠喩の記号として各所に「原爆」的なものの痕跡が撒き散らされている。
隠喩とか記憶とか痕跡とか書くだけでなにか批評が成立した気になってしまうのだが、このような主題論的に読み取れる、文体・物語の組織の仕方を、作家の批評精神に基づく高度な技術と見るか(記憶が断片化し、大きな物語が成立しない現代を象徴している!)、データベース上の操作として確認するのにとどめるか、あるいはその上で改めて何らかの枠組みのもとに読み直すなり批評を読み込むかは、読者評者しだいであろう。
2ちゃんねるなどでの本書評をみてみても、たとえばデュラスのテーマ設定と叙述法の採用に関して、それこそが信頼にたる一つの根拠となるという立場と、たんなるパクリじゃないかという立場があるが、どちらもデータベースという環境を踏まえていないという点では、一致している。ラノベの作品を評価するに当たって、たとえば、「この作品は永井豪のこれこれの手法を導入している」とさも得意に指摘したって「それで?」で終わるだけだ。
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ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)

ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)

ラノベにも原爆ものはもちろんある。たとえば古橋秀之ある日、爆弾がおちてきて』があるが、物語における「原爆」の設定の仕方は『六〇〇〇度の愛』と基本的に変わらない。いってみれば、どちらも「原爆」という大きいはずのテーマが本質的・実存的なテーマになりえず、ボーイ・ミーツ・ガール/ガール・ミーツ・ボーイの背景として物語設定上それなりに重要な役割を担わされながら、それぞれのジャンルの約束事にふさわしい加工・処理されている、ということだ。
まずは「ある日」のラノベ的な設定を確認しよう*5。本書は、「最終兵器彼女」的に爆弾そのものの彼女が、「ウイングマン」的にとつぜん空から降ってきて、「彼女の爆発=世界の終わり」と「彼女との恋愛成就」との、二律背反的な選択が主人公に預けられている、いわゆる「セカイ系」の一つである。他にも、いくつかのマンガ・アニメ・特撮からの引用を抽出することができるが、ここではしない。
次に、本書の読みやすすぎる文体を確認。頻繁な行換えと会話が目立つのはラノベ特有のものである。ほかにたとえば、主人公を「長島」、彼女を「広崎」とするアナグラムを見て、原爆の記憶を断片化しつつギリギリにとどめる批評性を私たちは読み込むべきだろうか? あるいは、彼女の名前を「ぴかり」とし、主人公は頭髪の「禿げ」で悩んでいるという、どれも「ピカドン」(とその後遺症)に通じる設定はどうか。いずれにせよこのような設定と文体が、『六〇〇〇度の愛』の「芸術性」「批評性」「品のよさ」に比べて「稚拙」に見える人もいるだろうが、東氏はそのようなスタンスに批判的だし、僕もそうだ。
最近の、純文学系の文学賞においての評価基準として、以前も紹介した芥川賞に顕著に見られる「感情移入」の有無があるが(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070223)、それだけではない。他の文学賞などでは、文体がどうのこうのという、きわめてトリビアルなレベルの文体評価がけっこう盛んになされているが、これも純文学を自閉させるものではないかと思えてならない。
文体論はもちろん意義のある評価軸の一つなのだが、これは構造分析を通すなりなんらかの抽象的な枠組みを踏まえないと、けっきょく評者の趣味を乱暴に振り回すだけの結果になる恐れがある(まあそれでいいんならいいんだが)。要するに、単純な物語的主題を追うのと同じ結果になるだろう。
むろん、最終的には自分の趣味・意向のもとに評価をくださざるをえないというのが文芸批評の拠って立つぎりぎりのポジションではあるわけだけれど(純文学を殺すもよし生かすもよし)。ちなみに僕は、『六〇〇〇度の愛』も『ある日、爆弾がおちてきて』も好きだし、どちらも構造的に分析することができる力のある作品だと思っている。

*1:本書の構成も「理論」と「作品論」に分けられている。

*2:東氏は「キャラクター小説」という呼称をいくつかの理由により使用しているが、ここでは「ライトノベル」「ラノベ」を使用。

*3:1970年代以降顕著になるポストモダン的な環境の端緒に、村上春樹を置き、舞城王太郎に繋げてみせる東氏だが、僕としては、これを前倒しさせたい。このブログでも何度かふれている、内向の世代庄司薫の時代に、である。これは近いうちにこのブログで議論することになるだろう。いずれにせよ、「ゲーム的リアリズム」とまでは言わないが、もちろん純文学においても、脱/超「自然主義的リアリズム」の問題は、早くは1920・30年代の頃からあった。事実、「まんが・アニメ的リアリズム」から「ゲーム的リアリズム」にまで及ぶ東氏の、純文学とラノベ(エンタメ)、物語・キャラクター視点と叙述・プレイヤー視点の構造分析をほどこす議論を読んでいると、各所で、まるで横光利一坂口安吾のような言葉に出会うのである。たとえば、「日常を描くために非日常的な想像力をいかにして必然的なものにできるか、そこにこそ、前近代の語りとともに近代の自然主義とも異なった、キャラクター小説の文学的な挑戦があるのではないか」(103頁)というくだりは、横光の「純粋小説論」の一節――偶然性をご都合主義的に導入し、読者の感傷を誘発させるエンターテイメント文学の市場席巻に対して、それを否定することなく、純文学において必然的なものとして取り入れることの必要性を語る一節など――を思い出させるし、そもそも、自然主義的な語りの様態の機能不全を確認した後に、どのように改めて物語を組織し、読者にリアリティーをもって感情移入させるか、という問いは彼らの主要な案件であった。「第4人称」(横光)や「無形の説話者」(安吾)といった概念が「プレイヤー視点」(東)に似ている等々。僕としては強引とはいえニヤリものだけれど、東氏もこのような議論の拡張はおり込み済みだろう。

*4:このような東氏に懐疑的なスタンスだが、東浩紀に見られる両義性――動物指向・システム論的な側面と人間指向・現象学的な側面――を正確に摘出した、渡邉大輔氏によるエッセイ(「限界小説書評」http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/025.html)がある。とはいえ僕としてはこの両義性は評価したい。ただし確かに、東氏が作品を実地に分析するさいに、実存的な選択・決意の問題や脱父性的な問題(ファミリーロマンスのテーマ)に議論を切り縮めているように見える点は、東氏が切り開いた問題の射程を狭めてしまう恐れがあるだろう。東氏は大塚英志氏の「まんが・アニメ的リアリズム」の論点を、持論の道しるべにしながら、最終的に「アニメやマンガも死を描かなければならない」とする大塚氏の倫理的な結論を批判するが(ここの部分は僕も確かに首をかしげたものだが、東氏はそれを明晰な論理によって乗り越えている)、オタクが自らのうちに潜む(らしい)父性批判をしようがしまいが、決断の契機を受け入れようが受け入れまいが、作品を楽しむのならどうでもいいじゃないかという思いもないこともない。純文学から見れば、いまさら父性的自己批判をしなければならないジャンルの「後進性」を気の毒に思えてしまいさえする。ただ、こういったからといって、東氏の構造的主題を読み込むスタンスの見事さは損なわれることはないし、その必要性は強調されるべきだと思う。いわば、構造的なアプローチをする東氏にとっては、マチズモだの父性の問題も、実存的決断の問題も、データベースの中の(物語的主題の)一項にすぎないはずである。

*5:ある日、爆弾がおちてきて」は『ある日、爆弾がおちてきて』の7話あるうちの一作品。どれも「時間もの」を主要な設定にした、ボーイ・ミーツ・ガールの作品としてリレー式に読むことができる。