感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「格差社会」は存在しない?

最近の文学賞に見られる選評のだらしなさに対して今度という今度は何か言おうと思い、芥川賞の選評を読むべく「文藝春秋」(07年3月号)を手に取ったら、綿矢りさが二人の成人男性(石原慎太郎村上龍)に確保された異星人のごとく扱われている鼎談(じつはどっちが異星人かは微妙なのだけれど、もちろん褒め言葉ですよ!)に目がとまり、それから選評を読みはじめて、これは何か言っても仕方がないのかなという気になったというか、いまだに「文学は理屈より感性だ」とかいう説明を本気でする人がいて、だから大塚英志サブカル化する文学においてギリギリ批評精神を死守しようとしたように理屈を文学から救い出したい気にもなったのだけれど、とりあえず僕が思っていたことを見事に言葉にしている選評があったので、また別の機会にしようと思った。
要は、山田詠美の「日常に疲れた殿方にお勧め」という今回受賞した作品に対する評価の一言に尽きるが、啓蒙的に評価を下したがる二人の殿方に挟まれてほとんど喋る機会を持たなかった彼女が、「最近の風潮は感傷的なもの、癒しの作品だ」というようなことを語りつつ、そのような風潮に対して曖昧なスタンスに立ち続けた、といっても単に喋る暇を与えてくれなかっただけなのかもしれないけれど、そういうスタンスをとりあえず倫理的なものだと見なし、「日常に疲れた殿方にお勧め」の青山七恵の「ひとり日和」を決して悪いものだと思わない反面、とはいえなぜに星野と佐川が…、という感傷に耽ったところで、岩井克人の論文「会社は社員を守ってくれるか」が気になり、今回は、それに否定的な評価を持ってしまったことに関して少し書こうと思う。彼の論理はいつもの通り素晴らしいが、一点、倫理の欠如ゆえのその書き方に関して、である。
+++
まず岩井氏は、従来の日本型経営を捨て去り、株主主権論に移行する日本の企業の「失われた十年」の歩みの歴史を概略的に振り返る。つまり、バブル崩壊後の日本が、戦後日本の高度成長を支えた組織尊重型の会社作り(株式の相互持ち合いと終身雇用制度)をみずから否定し、90年代以降(日本とは逆に)経済成長を確立・維持するアメリカを模範に、その株主主権を軸にした会社作りに移行した、と日本企業の「失われた十年」を振り返り、しかし、当のアメリカにおいてもそれではうまくいかない事例(エンロンの株価吊り上げ工作など)や、それには回収されない事例(グーグルの非株主主権論的な株式発行など)があることを紹介。最近の日本の企業もまた、再び組織尊重型の会社作りを見直す事例が登場していることを、あわせて紹介する。
しかし、彼によれば、それは単純な回帰ではない。現行のポスト産業資本主義において最も利潤をもたらす(価値創出)資本は――昔のように、ヒトがそれに従属するようなモノとしての設備ではなく――なによりヒトのクリエイティビティーであるわけだから、能力のある個々人が組織的にうまく機能し、かつ長期的に持続できるような、そういう組織尊重型の会社作りが求められており*1、個々人もそのような企業態に順応するべきだ、とする。
要するに、いまさらアメリカ型の企業組織論をグローバルスタンダードと見なすことは愚行である、という主張なのだが、それはそれで頷けるものだとして、しかし、なぜかその主張が、《最近の「格差社会」論はバブル状態で、必要以上に不安を煽っているだけで、現実と見合うものではない》、という主張*2と重ね合わせられながら論証が進められていることを考慮すると、違和感が拭えない。企業組織論(アメリカン・グローバルスタンダードへの批判)を語るために、「格差社会」(論)批判をその論拠とすることへの違和感。
つまり、岩井氏曰く、最近の「格差社会」論は実態がない不安を煽っているだけだから、(「文藝春秋」を講読するような?)企業経営者もエリートホワイトカラーもそれには気にせず安心して、会社作りに励むべきだ――経営者は、ホワイトカラー、そのなかでもとくにエリートのホワイトカラーたちに対して雇用流動性の不安にさらしてはならない、というかけっきょく会社が損するだけだからそうするべきではないし、だからホワイトカラーの諸君らは諸君らで、安心して「ホワイトカラー・エグゼンプション」を忌避せず、「会社を上手に使う」くらいの意識と責任をもって組織を支える中軸になるべきだ…――、という全体的な構成になるわけだが、この破綻のない構成に違和感を感じるのである。
+++
ところで、この岩井氏は、どのような理由から、「格差社会」(論)をリアリティーがないと牽制しているのか? それはつまるところ、株主主権を名目に(株価連動型給与などにより)自分の利得を吸い上げる経営者だの、能力のある個人(企業家)だのの所得が現実的に格差を構成するアメリカを基準――グローバルスタンダード?――にして*3、それと比べたら、「日本はまだまだ「格差社会」と言われるような状況には至っていないという厳然たる事実」によって牽制されている。そして「格差社会」という言葉のバブルが不安を掻き立てる理由は、このようなアメリカの姿に、(五年後、十年後の)日本を重ね合わせてしまっているからだ、とする。
+++
現行の日本の「格差」があるかないかは、この際どうでもいい。或る角度、或る指標から見れば、アメリカにさえ「格差」はないと言えば言えるし、あると言えば言えるだろうような、けっきょく相対的なものだからだ。それと同じ理由で、現行の格差論がバブルであるかないかも、とりあえずどうでもいい、としよう。
しかし、岩井氏の議論は、企業における経営者とホワイトカラー、とくに、例のエグゼンプションもやむなしとするようなエリートホワイトカラーとの雇用関係を論じる場所――エリートホワイトカラーの処遇をどうするべきかという経営者論――だ。そのような場所において、いくつか複数のレベルから議論されている「格差社会」論――いうまでもなくその中心の一つを構成するのは、正規と非正規社員の処遇の問題なのだが、非正規社員はべつに「アメリカの姿」に不安を掻き立てられているわけではないだろう…――をひとくくりにし、それは「事実を置き去りにして、いまバブルのように飛翔してしまっている」とするのは、自論の主張をより説得的なものにする論拠として採用されたロジックだとしても、いやそれゆえにこそ書き手の倫理を疑ってしまうほかないものだ*4。岩井氏の、貨幣論・ポスト産業資本主議論からここ数年の法人論に至るキャリアを踏まえたこのテキストの主張がどんなに見事なものでも、その感じは拭えない。
要するに、けっきょくこのようなロジックこそ、あってないようなものの存在を掻き立てて、必要以上に不安を煽る「バブル」なるものに加担するものなのではないか。もとよりこの論文は、「格差社会」(論)を持ち出し批判しなくても十分に成り立つものだし、その限りで「バブル」に加担するものなのだが、なによりこの論文は、「格差社会」(論)を批判することで別の「格差」に目をつぶっているようなのだ。
+++
確かに、非正規社員の問題を抜きにした、単なるホワイトカラーの処遇問題に縮約される「格差」論とは、岩井氏の言う通り、あってないようなものかもしれない。そもそもアメリカと比べたら、騒ぎたてるほどの「格差」ではないのだろう。ホワイトカラー・エグゼンプションを導入したがる経営者にしてみれば、「格差社会」(論)など――じっさいに存在したとしても!――存在しないも同然なのだし、といって、かりに不安を感じさせる「格差」があるとすれば、それはアジア諸国・諸企業との「格差」の消失の方だろう*5。とにかく、「格差社会」など存在しないし、論じるに及ばないのだ。
ただし、世の多くのホワイトカラーたちが不安を感じているのは少なくとも事実だとすれば、それは「アメリカの姿」にわが身の五年後、十年後を重ね合わせているからというよりも、そのわが身・わが家族に非正規社員の姿を見ているからではなかったろうか? むろん、その姿のさらに向こう側には、アジアの低賃金労働者たちがいる(と言うのはバブリーな言葉だろうか?)。

*1:もちろん、岩井氏は、あらゆる企業がもういちど組織尊重型を選択することが望ましいと見なしているのではない。各業種、各企業の適性に合わせて、株主主権の会社作りをふくめた、オプションの一つとしてとらえるべきだ、とする。

*2:岩井氏によれば、戦前の、つまり社会保障制度を整備する以前の資本主義諸国家は、総人口のうち0.1%の高所得者層の所得が、その国全体の所得の8から10%を占めていた。これはアメリカはもちろんのこと日本や他の先進国も同様であり、戦後はどの国も全所得の2%にまで低下する。しかし、80年代に入ると、アメリカ・イギリスなどアングロサクソン系の国が自由主義政策を遂行(レーガンサッチャー)、2000年に8%近くまで逆戻りしたが、日本やフランスは現在に至るまで2%前後の数字を堅持し、「いまだにともに「平等社会」である」とする。

*3:アメリカを標準とする企業組織論に批判をくわえる岩井氏の「格差社会」(論)批判はアメリカを標準としたものである。

*4:あなたの最近の仕事は、会社経営の、株主主権に奪われてはならない「倫理」を企業経営者に取り戻すためにこそなされているのではなかったか?

*5:だから彼らにしてみればすでに織り込み済みの「格差社会」云々の話など存在しないと忠告してやるよりも、アジアとの格差はまだまだ安全だと言ってやるべきなのかもしれないが、そっちの不安はけっこうリアルなのだろうか?