感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

非アイロニー的なアイロニーのために

ドゥルーズ曰く、
「『不思議の国のアリス』でも『鏡の国のアリス』でも、極めて特殊な事物のカテゴリーが眼目になっている。すなわち、出来事、純粋な出来事である。私が「アリスが拡大する」と言うとき、私が言いたいことは、アリスがかつてそうであったのと比べて、アリスはもっと大きくなるということである。しかしまた、まさにそれによって、アリスが今そうであるのと比べて、アリスはもっと小さくなる。もちろん、アリスがもっと大きいこととアリスがもっと小さいことは、同時ではない。しかし、アリスがもっと大きくなることとアリスがもっと小さくなることは、同時である。アリスは今はもっと大きい、アリスは以前はもっと小さかった。しかし、そうであったのに比べてより大になることと、そうなるのに比べてより小となすことは、同じ時に一挙にである。これが生成すること(=なること)の同時性である。」(『意味の論理学』「第1セリー 純粋生成のパラドックスジル・ドゥルーズ小泉義之訳)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

なぜドゥルーズは、アリスの伸び/縮みを説明する段で、わざわざ「私が…と言うとき、私が言いたいことは」というように、自分が語るということを強調(示唆)したのでしょうか? 単なる「出来事」が問題だというなら、そのような言述は余分ではないのでしょうか? 少し気になっていたのですが、これを考慮すると*1、ここの伸び/縮み(の同時生成、同時肯定)は、言語学上のレトリックでいう、アイロニー(反語)として理解すれば、私なりにとても腑に落ちたのでした。常識的に考えて、伸び/縮みが一主体に付き同時に起こるという事態を当然のように記述するドゥルーズにはとうてい付いていけなかったのですが。
周知の通り、アイロニーは、Aを言うことで非Aという意味(および効果)をもたらすものですよね。衆目を集めるために「俺って大したことないんだよ」とうそぶく奴は身近に二、三人はいるものですし、「お前ってすごいな」と言いながらそのじつバカにしているように、その「お前」以外の人々には伝わるべく話す、いやらしい奴も身近にいませんか? これらの例はいささか通俗的で単純で「生成」とはかけ離れたものですが、いずれにせよアイロニーとは、常識的な排中率(Aか非Aか)をぶった切る、まさしくアリス的なA=非Aの戦略だと、とりあえず考えることができそうです。
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ところで、ローマン・ヤーコブソン失語症の研究を通して、私たちの言語の営みをメタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)の二軸によって説明しました。その二軸を踏まえつつシニフィアンのモデル(言語に基づいた人間の認識構造)を組み立てたジャック・ラカンが有名ですが、それとは別に、メタファーとメトニミーにアイロニーをくわえた考察も盛んに行われています(たとえばヘイドン・ホワイト)*2
アイロニーが他のレトリックと相対的に異なる点は、発話者と言語体系の関係のみならず、原則として受話者とのやり取りによって完結するものだ、ということでしょう。言い換えれば、アイロニーは、(発話者と受話者の)コンテクスト抜きには考えられないし、他のレトリック以上に発話のコンテクストに依存するレトリックだといえます*3
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日本の文学界において、アイロニー的なものがもてはやされはじめたのは、おそらくモダニズム以降だろうと私は解釈しているのですが、私の敬愛する批評家が、そう、あなたのことですが、あなたが、ここでドゥルーズが問うているのは主体の「統覚」が揺らいでいるところだと指摘されましたように、日本の文学史の一端をひどく図式化すれば、モダニズムの時代こそ「統覚」が揺らいだ時期に当たり(「物自体」に打ちのめされるという経験ですね)、それをいかに取り繕うかという問いが次の時代にもたらされることになる。
小林秀雄があらためて(前時代に死んだと思われた)「私小説」を問題にしたり、横光利一が「四人称」という不気味な概念を打ち出したり、それを(真に)受けた安吾が「無形の説話者」を考察したりした時期です(このへんは「06年12月08日」の日記に詳しく書いたものがあります)。
この時期に出てくる日本ロマン派が「アイロニー」を一つの重要な説得(洗脳?)技術として駆使したということはよく知られているところですが、他に川端康成とか小林秀雄の「黙して語る」いわゆる黙説法的な戦術もアイロニーの一種と考えていいと思われます。
べつに、ロマン派に限らず、戦間期に当たるこの時期は、右翼的性向を持つ者にしろ、その逆にしろ、自分の語りたいことを別の話題によって語る(伝達する)、という屈折・退行したスタンスを取ることを強いられた者が多かった。「現代日本」を語るために、あえて過去の歴史を材に取ったり、あえて別の国々・文化の話をしたりしたわけですよね*4
そのなかで、谷崎潤一郎や「いきの「構造」」の九鬼周造(あるいは花田清輝)もまた多かれ少なかれアイロニーにもとづいた発話をしばしば駆使するわけですが、ロマン派的な心性を持つ者は自己卑下・自己否定・自己抹殺的な発話によって自己肯定・自己肥大の効果を密輸入しようとした、いわばサディズム型なのだとすれば*5、彼らの場合、ときに饒舌なまでの自己肯定によって自己否定の効果をもくろむマゾヒズム型のアイロニーであるような印象を受けます。
いずれにせよ、アイロニーは、自分の語ったことがそのまま相手に伝わる(はずだ)というリアリズムが信じられないときに考慮されるレトリックであり、結果、いかようにも読み取れるような、それこそ伸縮自在のアリス的な複数の可能性(解釈の多義性というようなものではなく)を折り畳むレトリック*6なのだと思います。
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ジャック・デリダ脱構築アイロニーの変異と考えて差し支えないと思うし、メタ分析を駆使するラカンジジェクアイロニーの徹底ぶりは笑うに笑えないほど醜悪に感じるときがあったりするものですけど(彼らのようなタイプは、私たちが「こう読み取った」と言ったら、それも織り込み済み! あれも織り込み済み! と言い続けるだろうし、私たちが怒ったら、それも織り込み済み! とほくそえむだろう)、アイロニーを織り込み済みのドゥルーズにはしかし、アイロニーの操作の痕跡を余り感じたことがありません。メタレベルとオブジェクトレベルの落差、Aと非Aの落差を使って何かを言おうとすることに対する、徹底した禁欲を感じるというか、落差が出来てもたえず自分でダメ出しする(「これではじゅうぶんではない、これではじゅうぶんではない…」*7)という、そういう文体に思えますが、いかがでしょうか。
先日は、あなたとのドゥルーズ談義(というより私はただ頷き続けるばかりだったのですが)ですっかり打ちのめされ、奇しくもアリスのように「どの方向、どの方向なの」とさ迷い続けることしかできなかった私でしたが*8ドゥルーズが分かりにくいのだとすれば、アイロニーを受話者(私たち受け手)にゆだねることなく、まるごと自己消化・自己咀嚼してしまおうとする(Aと非Aを同時に肯定せよ!)、非アイロニー的なアイロニーによる文体だからなのかもしれない*9、などとドゥルーズ初心者の私が勇み足で感想を書き付けるのはいささか配慮が足りませんね。
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しかし、その「自己」とはいったいどのようなものなのか?*10

*1:それに、「言葉と無意識の結婚」(『意味の論理学』序文)という前口上をも考慮に入れると…

*2:正確には、メタファー、メトニミー、シネクドキ(提喩)、アイロニーの4要素ですが、メトニミーとシネクドキを一緒にする見解もあるため、とりあえず以上のような説明にしました。ちなみに、否定的にせよ究極の隠喩的なものを想定するラカン本人の言説はアイロニーに満ちたものですよね。

*3:じじつ、論争的・対話的な文章ほど、意図されたアイロニーは際立つわけです。

*4:確か丸山真男の処女作は、ヨーロッパ近代におけるファシズムの到来を話題にしていたものでしたが、丸山の故国こそファシズムに犯され、なおかつ自分の書きたいものを書けない環境にあったのでした。

*5:これは、渡部直己が指摘した村上春樹の「黙説法」や、最近の「ジャンクな日本こそ美しい」というような言説にまでつらなるものでしょう。

*6:というのもそれは、読まれる文脈によって多様な解釈がもたらされる、というような意味での可能性ではなく、それ自体で複数の文脈・解釈枠組を前提したり、折り畳んでいたりするものなのですから。

*7:それは自分が消えてなくなるまで呟かれる強いもののような気がします。

*8:とてもいい体験をしましたが、その後あなたはひどい熱に襲われたそうですね。いま流行りのインフルエンザではないといいのですが…。そういえばあなたは、20世紀の哲学・論理学がたえず芸術を参照し続けなければならなかった理由についても語っておられましたが(それにつけても21世紀はどうなのでしょうか?)、仰る通り、白黒つけなければならない形式的な論理学では、芸術や文芸作品を論じることが難しいなと思うことがありますよね。私(たち)はそれをけっこう平気でやっていたというか、形式的な記号分析をふまえつつ、それを踏み破るような作品が「素晴らしい」というような、かなり形式的な作品分析をある時期までなんの疑問もなくしていたような気がします。あらためてドゥルーズを読んでみると、すでにその先(の先)をやろうとしていることが、なんとなくわかりました。たとえば第4セリーでくり返される「まだこれではじゅうぶんではない」という台詞を読み継ぎながら…。否定性などなんのその、排中律をぶった切って滑走する「何か」を追いかける論理学なり批評の言葉を鍛え上げるような試みはとても魅力的です。それに関連して、例えばルイス・キャロルの語法として「かばん語」(複数の言葉をつめこんで一つにまとめ上げてしまう語法ですね)が有名ですが、いまだったら「キモカワ」とか「いたきもちいい」とかいうのがそうなのではないかなあなどと思ったりしました(AでもなくBでもなく、かといってAでもありBでもある…)。かばん語とはいえないけれど、「チョイ悪」とか、感覚の切り取り方が白か黒で分けられるようなものより、微分化してみたり混ぜ合わせてみたりする言葉の方が非常に響いてきたりすることがあるような気がします。感覚的な形容詞を乱発させる世の中について、平板になったといわれる昨今だけれど、必ずしもそうとはいえないような。例えばメタファー的なものに対してメトニミー(解離)的なものが肯定される世の中になりましたが、事態はもっともっと微妙ですよね。この微妙な感じを言葉に乗せたいと思うのだけれど、それはむろん単純なアイロニーでは解決しないだろうし、とはいえ、論理的なものに真摯に向き合わないガタリを批判されるあなたのアドバイスの通り、自分の好き勝手にメタファーやメトニミーを乱発させ、言葉を粉飾することも避けなければならないのでしょう。

*9:しかしこれが場合によっては、つまり読み方しだいでは、ある種の過剰な分かりやすさ、平明さとして受け取られてしまう原因なのかもしれません。とにかく、いつもの癖で、「非アイロニー的なアイロニー」などというナンセンスな定義をしてしまいましたが、このあたりは「アイロニー」のみならず「ユーモア」の観点からも検討をくわえるべきでしょうか。ユーモアもまた、A=非Aを前提にしたレトリックですが、効果はアイロニーと異なるものですよね。谷崎らマゾヒズム型のアイロニーも、どちらかというとユーモアとして捉えた方が理解しやすい場合がある気がします。ユーモアとアイロニーは、場合によってしばしば分けづらいものですけれども、アイロニーは、受け手の存在を前提しつつ、言葉を受け取った受け手を最終的に突き放す。言葉をアイロニーとして受け取ったら、引いてしまうし、興ざめですものね。他方ユーモアは、いちおう自己完結的(なつもり)なんだけれど、ある過剰さが意図せず受け手をツッコミの立場に立たせるような、そんな感じがあります。周囲の者はその状況に巻き込まれ、アイロニーによってはびくともしなかった状況が変化する、そういう感じ。でも、ユーモアも、わざとらしさが入ると、アイロニーみたいになっちゃうんですよね。(以上07年02月24日追加)

*10:私のあなたは、複数のあなたでもある。AとKとSに感謝。