感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

すべてがライトになる――芥川賞と星野智幸と佐川光晴

最近の芥川賞の選評はおよそゆるしがたいものがある(おっと大きく出たぞ!)。その主要な理由は、各人の選評の前提となる部分に、「そもそも私たちの純文学とはどのようなもの(たるべき)か?」という問いがいっさい感じられないからだ。
日本で最も注目される文学賞として直木賞は大衆文学を担い、芥川賞は純文学を担うものと、自他ともに認知されているわけだけれど、選考委員の選評をいくつか読んでいると、まるで自分が当の純文学なるものを体現しているのだとでもいうように、評価をくだしている。
彼らは、文学の値打ちは「理屈よりも感性にある」と言ってはばからず、知的操作よりも感情移入を優先する。素材(ネタ、物語内容)的には、社会的規範の相対化(による救いのない暗さ)よりも、癒しなり希望の光を求めるのだ。つまり皆が示し合わせたごとく一様に、価値の相対化と知的操作を否定し、癒しと感性を求めてやまない。最近の文芸誌は、知的操作を優先させる作家と感情(移入)に訴えようとする作家が混然と紙面に相並び、当の芥川賞の候補作でさえ、その「様々なる意匠」ぶりは変わらないのに、である。
たとえば、彼らは以下のように、癒しと感性を評価する。「青山七恵さんの『ひとり日和』はそうした都会で過ごす若い女性の一種の虚無感に裏打ちされたソリテュードを、決して深刻にではなしに、あくまで都会的な軽味で描いている。(中略)他の作品は論外と思われる。」(石原慎太郎)。「読んでいる途中から候補作であることを忘れ、小説の世界に入っていた。主人公に感情移入してしまったのだ。(中略)作者はそのような場所とその意味を、「意識的に」設定したわけではないだろう。おそらく、ふいに浮かんできたものを直感的にすくい上げたのだと思う。自覚や意識や理性など、たかが知れている。(中略)星野智幸氏の作品は比較的高い完成度を持っていたが、素材や描写に「直感的な選択」が少なく、意識的・批評家的な部分が目立った」(村上龍)。「小説は表現するものであって、理屈で説明するものではないことも知っている」(河野多恵子)。
素材の暗さを非難する声――社会的規範の相対化した、救いのない物語にはもう飽きたし疲れた…――は、今回の受賞作が(明るく?)カバーしてくれたおかげで、表面上は前回よりも後退した*1。しかし、知的な「作為を隠す力」(高樹のぶ子)を求める彼らにとって、読むのに疲労する知的操作もまた言語道断。けっきょく文学とは、素材(物語内容)のみならず形式的にも癒しに貢献せねばならないものなのだ。
そのように否定的な価値を与えられた「知的作品」として、彼らから批判される星野智幸(と佐川光晴)は、選考委員によってはそもそもまったく触れられさえしないのだが、触れられたとしてもこのような仕方で批判されるだろう。「観念の構築物は、軟骨のない合体物のようなもので、たとえばスギノコって何の暗喩? 植物のヒーリングがなぜ必要なの? などと個々の疑問に応えなくてはならない弱さをもっている」(高樹のぶ子)。「ヒロインに魅力がない。読者は自分を重ねられない。(中略)いくつものキャラクターを負わされた主人公は一個のパーソナリティーとしてのまとまりを得るに至っていない」(池澤夏樹)。
以上をまとめると、こうなる。すなわち、作品中の主人公は統一した人格をもって描写されなければならず、その背景となる世界の事物もまた、解釈可能な秩序のもとに配置されていなければならない。それはただし、言葉の知的な操作によって感情移入を妨げることなく、感性に頼ったきょくりょく自然なものにするべきである。扱う素材は、時節がら暗い内容のものでも、どこかに明るさを感じさせるものが喜ばしい。以上が現在の芥川賞の評価基準である。
評者の一人、黒井千次は、この基準に該当した今回の当選作品を評して「自然体の勝利」とし、星野と佐川の「意欲作」の敗北とまとめたが、現芥川賞選考委員中最もバランス感覚のとれた黒井を除いて、正しく「純文学とはどのようなものか」という問いを立てながら毎回の選評を行っているのは、おそらく山田詠美のみである。彼女の発言は一見だれよりも投げ遣りだけれど、いつも文学のために言葉を尽くしている。だから彼女の言葉だけは信じるに足るものだ。作品ごとの評価が正しいから、そう言うのではない。今回の当選作を「退屈」とし、星野の作品(「植物診断室」「文学界」06年9月号)を評価したから、そう言うのではない。
ここで誤解を避けるべく言い添えておくのだが、他の評者はいい加減で出鱈目の評価をしている、と言いたいのではない。彼らは彼らで、自分の培った文学観(もちろん超一流のはずだけれど、社会的な流行に乗っているだけのように見えなくもないその文学観)をもとに評価をくだしているのであり、それぞれ単体で読むと参考になる意見もある。しかしそれは、自分の文学観は文学なるもののごくごく一部にすぎない、ということに思いも及ばない評価でしかない。
たとえば、上記引用したところの、「知性」と「感性」云々の言葉の使い方にそれは端的に現れている。そのような言葉使いは、とりわけ作家としては致命的な(要するに単純かつ無防備すぎる)使い方だと思うけれど、山田詠美はそのように単純な二項図式で作品を評価することはない。文学はそんな狭いカテゴリーにおしとどまるものではないと信じているからだ。
ときにあざといほどの知的操作に興じる作品も文学であれば、読み手の感情移入・感情動員に徹する作品も文学である。また、いうまでもないことだが、感情移入にはそれ相応の知的操作を必要とするし、過剰な知的操作が感情を揺さぶることもある。これらはすべて文学であり、私たちの純文学がそれを代表するのである*2
そして――「まず自分の文学観ありき」ではなく――この振幅のなかで個別作品の評価をくだしている山田詠美の選評を、文学の言葉として私は信じている。むろん、ときに村上龍の言葉を信じることもあるだろうし、高樹のぶ子の言葉を信じることもあるだろうけれど、しかしそれは文学の言葉としてではない。逆に言えば、私は山田詠美の選択眼だの文学センスを必ずしも信じているわけではない、ということだ。
いずれにせよ、他の評者とそれほど変わらない程度に、というか、むしろ誰よりも辛辣かつあからさまな趣味嗜好をしばしば振りかざす彼女の選評は、他の誰とも異なる立脚点に立っているのである。
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以上確認してきたように、山田詠美が「知性」か「感性」か――「価値の相対化」か「物語の復権による癒し」か――といった相対的な価値基準に頼らずに、作品を評価する前提を確保できている理由は、彼女にとって文学とは言葉の芸術であるという、最低限の文学理解があるからである。
むろんそれだけ聞けば、誰もがその通りだと言うかもしれないことではある。しかし、彼女が正しく口にする「この作品は言葉でしか成立しないものだ」という評価の仕方は*3、「知性」か「感性」かといった相対的な価値基準を信用する者の「文学とは言葉の芸術である」という文学理解には馴染まないものであろう。
山田詠美にとって文学における言葉とは、「感情移入」をしやすいように組織されるものでもなく、「現代の感性」を上手に切り取るものでもない。端的に言葉とは、人を「感情移入」させるものでもあれば、それを妨げるものでもあるということだ。あるいはまた、知的に操作可能な手段でもあれば、知性によっては到底カバー不能な、ゆえに直感とか感性とか暴力的とか言うほかない残余でもあるということだ。文学とは、この両極の振幅において組織された言葉のことである。
くり返せば、山田詠美の作品評価はこの振幅においてなされるものであり、評価対象の作家が意識していようといまいと、この言葉の振幅――つまり文学の言葉だ――に盲目な作品には評価が低い(多分ね)。
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くり返せば、現芥川賞の選考基準は、第一に、知的操作につきあうストレスを排除し、第二に、感情移入しやすい物語が望ましい、というものである。
しかしこのような基準は、久しく大衆文学について指摘されてきたものだったのではなかったか。むろん私は、大衆文学にカテゴライズされる個々の作品が、じっさい上記の基準に適当するものだと言いたいのではない。じじつ、たとえばミステリーには、ジャンル内形式(法則)の知的操作を極めた、いわゆる「本格」の伝統がある。
むしろ、言葉の知的操作をきょくりょく抑圧し、読者が感情移入しやすい作品を、マーケット本位だとして否定的に大衆文学を位置付け、それとは異なる自分たちの純粋性の確保につとめてきたのは純文学であったはずだ。
そんな純文学はライトノベルなどにさして興味がないだろうけれど、ラノベ特有の、(1)短文かつ一文ごとの頻繁な行換え、(2)会話中心、といった形式は、何より読みやすく感情移入しやすいように配慮されたものにほかならない。そのことは、ラノベ作家当人からも愛読者からもしばしば自己言及される、ラノベの前提である。
彼らはしばしば、読みやすく感情移入しやすいように書くことがどれほど熟練を要するものかを力説し、それを極めた形式がラノベにジャンルの固有性を付与する重要な側面であることを指摘するのだが*4、いまや純文学の「純」にもライトというルビを振られるべき時が来たのかもしれない。ジャンルの相対化――文学のグローバリゼーション?――はすべてをライトノベルにする、というわけだ。この傾向の前では、萌え要素があるかないかといったようなアイデンティティーはたいした差ではないだろう。
純文学は意図的に、つまり批評的なスタンス・知的操作の一環として大衆文学を取り込んできた経緯があるはずだが、いまや乗っ取られてしまったのだと言い換えてもいい。取り込んでみずからを雑種化するはずだったのに、じっさいのところはひたすらライトになったという事実は、純文学にはもともと何もなかったということだろうか?
ふり返れば、これまで(およそ大正時代以降)純文学は、自分の何もなさ・空虚におびえるかのように、つねに自己規定を怠らなかった。たとえば、作家の内面にある思考過程を告白するもの(私小説など)、政治的なメッセージ・思想信条を織り込んだもの(プロ文、戦後派文学など)、社会との緊張関係におかれた立場から表現するもの(平野謙の純文学アクチュアリティー説など)、しばしば通念に反逆する世界観の表明、実存的・哲学的な思弁を徹底するもの(多くの作家)、などがこれまで純文学の純文学たる所以を規定するべく打ち出された主題である。
かほどに様々な規定がなされてきたが、感情移入が評価の枢要を占めることなどかつてなかったし、まして感性や直感的なものに対して知性が――純文学のもとで――これほどまでに愚弄されることはなかった。
むろん、肉欲・情動・直感・感性といったものが主題として持ち上げられることもあったが(新感覚派しかり無頼派・肉体文学しかり太陽族しかり)、それは、知性や理性といった観念的なものに愚弄され続けてきたそれらのものが反旗を翻すべく見出された――理性こそ疑わしい!――、というきわめて知的・方法論的な文脈をもっていた。
あらためてここ十数年分の「選評」をまとめて読んでみたのだが、芥川賞はいつのまにか(徐々にだが、なんとなく95年がターニングポイントのような気がしてならない…)*5、読みやすいとか感情移入しやすいといったレベルでのみ肯定される「感性」によって、私たちの純文学を規定するようになってしまった。ただでさえ疲労、衰弱している「知性」に対して追い討ちをかけるようなその振る舞いは、純文学の死に手を貸す行為に等しいように感じる。
確かに、いまや、社会がどうとか政治がどうとかいった主題(いわゆる大きな物語)などおおっぴらにかかげることができない状況だ。「私」の告白なども、きわめて私的な呟きのようなものに還元されるだろう。「私」に内向することが逆説的に社会との繋がりを担保し、政治的なコミットメントとなる、というようなアクロバティックな事態ももちろん期待できない。評者の石原慎太郎も、絲山秋子の「沖で待つ」受賞時(05年下半期)での選評(「本質的な主題の喪失」)などいくつかの選評でそのような状況を嘆いていた。
だから彼らは、主題を後支えする知性よりも、感性とか感情移入といったもの――美しい日本語とかいったわけのわからない標語もこれと同じ――にすがるよりほかなくなっているのではないか。おそらく文学のサプリメント的な消費もその一端をになうものであろう。
とはいえ、主題の喪失というインパクトは、すでに70年前後にその第一波をむかえたものであり(内向の世代の登場と庄司薫の再登場はそれを明らかにした)、以降、手を変え品を変え取り繕ってきた歴史があるのだが(左翼をサヨクと言ってみたり、とにかくこのへんの詳細は大塚英志の『物語消費論』で確認のこと)、第一波にのまれた彼らが、社会(的主題)と(内向する)私の解離にみまわれつつその間隙に見出したものは、個人の力ではどうすることもできない言葉というものの性質であり、あるいはまた庄司薫が正しく嘆いたように、情報の束であった(むろんそれ以前の作家がこのことと無縁だったわけではないが)。彼らは単純に「私」(の「感性」)に退行したのではない。
以降、言葉のぶ厚い壁が私たちの周囲に立ちはだかる(ことが可視化される)ことになり――情報化社会、インターテクスチュアリティー…――、だからこそそれを主題化し、方法論化することで純文学はあらためて生き延びる可能性の一端を切り開いたことがあったはずだ。まるでゾンビのように。
その傾向は、のちに言葉遊びとか知的遊戯にすぎないとしてその行き過ぎを批判されたケースが多々あった。しかしその可能性は使い尽くされたわけではない。社会と私、あなたと私――情報発信者と受容者、読者と作家――の隙間や、その相互浸透しあう内側から、言葉が撤退したわけではないのであり、むしろその厚みと複雑さはいや増すばかりのはずなのだ。
それなのに、直感だの感情移入のための短絡的な橋渡しとして言葉(「作為を隠す力」)を練成せよ、という――アイロニーのカケラもない――標語は単なる欺瞞でしかあるまい。それは直感だとか感性だとかで掬い取れるようなものではない。そうであるはずなのに、かりにあなた方が言う通りそのようにして感動でき、感情移入できたとしたなら、それはしかし、個々の作品の前で、文学の前で自分を誤魔化し続けたことの現象でしかないのである。
純文学を誇りに思う以上、感情移入しやすく読みやすければいいじゃないかという甘言に、言葉を容易に譲り渡してはならない。純文学のために私たちができることは、読みやすさのグローバリゼーションにつくのではなく、むしろ言葉の持つ普遍性に賭けてみることであって、それを評価軸にすることによってこそ、個々の作品に多方向な表情をとらえることができるのであり、また感情移入やサプリメント消費にもあらたな相貌をくわえることができるのだと思う*6

*1:前回の芥川賞については、劇団ひとりの「陰日向に咲く」を論じるさいに言及した。06年10月02日+05日

*2:皮肉でもなんでもなく、青山氏の作品は、彼女のスキルのある知的操作のもと安心して――最初から最後までイメージがぶれずに、彼女が自註する「流れ」(「文学界」07年3月号)に乗りながら――読めるものだが、その一方、たとえば星野智幸氏の作品は、ときにあざといほどの知的操作がほどこされながら、その知性がにっちもさっちもいかなくなる状況へと――神がかった、直感的な選択などによってではなく――当の徹底した知的操作によって私たちを追い込むのだ。「知性よりも感性」といった発想ではなく、星野氏においては、何より言葉は私たちを裏切るものであり、かつ救いへと開くものでもある(言葉とは知的かつ感性的なものだ!)という最低限の文学理解があるのである。星野氏の小説は感情移入とかいったものよりもまず、この理解のもとに物語を組織する。それは物語と作中の主人公に徹底した両義性・多義性の世界=人格を生きさせることになるだろう。たとえば、かつて母から教えられたものの、すでに記憶が定かではない「スギノコ」の話が物語の伏線の一つとして機能しているのだが、その「スギノコ」の話は、それとは一見関係のない話――たとえば「スギナ」の話から養分を得つつ、いつのまにやら別のイメージになりすまし、主人公・寛樹にそのつど異なった方向を指し示していく…、物語はそんなふうにおりにふれ与えられたお話や歌詞・イメージたちが重層的に重なりながら展開する伏線に規定されながら進むことになる。しかも重層化するレベルは多岐にわたる。つまり、本来は交わらないはずのレベルのもの――たとえば冒頭の、「ムクノキ」と「欅」との交雑・雑種化によって主人公「寛樹」の主語=主体が次々と分解―解消し、その隙間から別の主体が溶け出し、呼吸をしはじめるシーンにおける、語られる内容と語る言葉(あるいは文字)のからみあい、雑種化する有様を確認すること――が危うく離散しながらも接合すること、そのような機制によって、この小説は成り立っているのだ。離散と接合のくり返し。そもそもこの小説のテーマは、齢40ながら独り身の主人公の、胞子のような飛散、および偽父になりすました、他人の家族への接合の失敗と成功(?)の物語だった。戦後日本の「新しい家族」の形態を密かに志向するこの小説の、「家族」の成員は小説中繁茂(ときに枯渇)する植物のように、相手を触媒にしながら離散と接合をくり返す。それは植物診断師が語る言葉、この小説の言葉が、相互に媒介しながらくり返す、離散と接合の様に重なるだろう。それは慎ましくも新しい文学――より具体的に戦後家族と戦後文学に、この作家の照準は久しく向けられているのだが――を志向するもののようにも感じる。そんな小説を前にすれば、感情移入がどうとか、リアリティーがあるかないかとか、ひっきょう文章の巧拙といった水準は副次的なものだと感じる(むろんこの作家の文章スキルはそれだけで十分水準の高いものなのだが)。「文学には何ができるか」、「文学で何ができるか」といったことが、シニカルかつあわよくばという拭いがたい思いからここでは問われているのである。

*3:「これだけが映像化を断固拒否する活字でしか成り立たない小説作品であることにおいて評価しました」(06年上半期)。

*4:もちろんそれだけではないけどね。昔は「純文学論争」なんて頻繁にやりあったらしいけれど、いまはラノベの方がよっぽど自分たちのジャンルの定式化にいそしんでいると思う。

*5:当時から現在に至るまで選考委員を続ける人も、知性・観念的な文脈に信頼を寄せていると思える評価を当時はしばしば下していたものだが、ここでは大江健三郎の「選評」を引用するにとどめる。「この小説は、そうした批評的な性格のものだが、思考と文体とが明確なので、抽象的なものも具体的な手ざわりにおいて読み手に受けとめられる。芥川賞が、まず既成文壇への批評である以上、こうした受賞作は有効なはず」(笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」、室井光弘「おどるでく」が受賞した94年上半期)。

*6:たとえば、星野氏と同様に受賞を逃した――これで何度目だったっけ?――佐川光晴氏の作品、佐川印「家族・夫婦シリーズ」のひとつに位置付けられる「家族の肖像」(「文学界」06年12月号)。この作品もまた、感性とか感情移入とか言っていると見逃してしまいかねない細部によってその骨格を構成している。この作品は、やはり星野氏のものと同様、家族の解体と再生の物語とひとまず言うことができるだろう。作中人物の構成は一組の夫婦とその子供一人。何か起こってしまった事態(その中心の出来事が夫の浮気)に対して、つねに不要に身構え(たとえば電話やメールに対する過剰な緊張と誤認、わざわざ手紙でする家族との意思疎通など)、事態をやり過ごすうちに巻き込まれる主人公の陽子。このように事態をつねに遅れて把握する彼女はいわば「聴き手」のポジションにあるわけだが、物語終盤、ついににっちもさっちもいかなくなった局面で聴覚障害に陥り、かくしてようやく、訪れる事態に面と向き合えるようになったと注釈されるのだが、じつはそんなドラマチックな話では全然ない。自分の意志とは無関係に事態を遅れて受け入れざるをえない聴覚障害になった彼女にとって、ことはもっと複雑かつ深刻なのだ。つまり真正面から受け入れねばならなくなったのは、事態の直面ではなく、遅れの方なのである。この事実を知ったとき私たちは、なにも終盤だけのことではなく、この作品全編を通して――障害のあるなしを問わず――くり返し訪れる事態に立ち遅れ続け、その隙間を埋めるようにそのつど幻覚や幻聴にみまわれ続けた彼女の生をまるごと、聴き手(読み手)の私たちの生として受け入れざるをえないだろう。これを感情移入と言っていいものか、これこそ感情移入と言うべきか? 星野氏の文章とは違い、言葉そのものの審級と叙述の審級には逸脱した操作をほどこさない、比較的オトナな佐川氏は、あくまでも語られる物語を通して、私たちの、つねに過剰かつ逸脱した人間関係を表現する作家だ。しかし、物語の終盤の終盤、基本的に主人公に焦点化されて叙述される各センテンスのブロックが不意に破損するように、彼女と向き合う夫の側から(つまりここでぐるりと焦点化される人物がチェンジし、夫がカメラになり)、彼女をとらえるセンテンスが一瞬ある。ほんの一瞬だ。彼女は微笑もうとしているのだが、そこでは――つまり夫にとっては――たんに泣いているようにしか見えないのである。これが私たちの気味の悪いリアルな生なのだ。