感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

安吾戦争小説論(4)

4.二つの戦争

 ここ迄で私は、「白痴」をはじめ、「外套と青空」、「戦争と一人の女」、「続戦争と一人の女」、「私は海を抱きしめてゐたい」、「櫻の森の満開の下」を安吾の戦争小説という括りのもとに論じてきた。そこではくり返し戦争が想起された。戦争を直接背景に持たない作品にもその痕跡を読むことができる。それは戦争を過去の思い出としてではなく、むしろ終わりを測定できないまま作品に実現しようとした作家の営為が可能にしたものである。無論それは始まりを測定できないところに由来するものでもあり、したがって結実する作品はすでに手遅れのうちに終わってしまったところからそのつど書き出されるほかなかったものでもある。
 これらの作品を踏まえ、私は、最後に、「青鬼の褌を洗う女」(47年10月)を論じる。この作品は、一人の女が自ら一人称語りによって、複数の男との交際経験を語る物語であり、その意味で「続戦争と一人の女」に続く女側の新バージョンであるが、これもまた二つの「戦争と一人の女」以降に書かれる「戦争小説」の困難さが現われている。
 その困難さとは、戦争の経験が時を経てしだいに遠退いていくという歴史的な条件にばかり求めることはできず、なによりも、くり返し戦争を想起する小説を書くこと、消費することに内在する問題である。それは思うに、享楽の対象として良くも悪くもきわめてポップに、俗に言い換えれば単なる消費の対象として戦争を表象した部分が多分に見られる「戦争と一人の女」の両バージョンにもすでに現われていたことであり、後続の「私は海を抱きしめてゐたい」で顕著になる問題であった(あるいは「外套と青空」のラストにさえ現れていたとさえ言えるのだが、いずれにせよこの困難に直面して以降作家の主戦場は「安吾新日本地理」や「安吾新日本風土記」など歴史ものに譲り渡されることになる)。
 今回論じる「青鬼の褌を洗う女」以降、安吾は男と女のペアが織り成す構成を持ったこの手の戦争小説を書かなくなる。かりにそれと相似した構成であっても、「青鬼の褌を洗う女」の少し前に出された「櫻の森の満開の下」や、のちの「夜長姫と耳男」などに見られるようにそれは極度の寓話化――超人やら鬼人を登場人物に配した形而上的な設定――を被ることになる。そして「青鬼の褌を洗う女」も、物語の幕を閉じるに当たって男と女が鬼になるのである。
 この作品の背景は、戦時中から戦後。それを戦後から回想する体裁を取る。そこで戦争中を振り返りながら女が語る一節は、例の困難さを象徴するかのように響いているものであるので、作品を論じる前にここで引用しておこう。

ふと孤独な物思い、静かな放心から我にかえったとき、私は地獄を見ることがあった。火が見えた。一面の火、火の海、火の空が見えた。それは東京を焼き、私の母を焼いた火であった。そして私は泥まみれの避難民に押しあいへしあい押しつめられて片隅に息を殺している。私は何かを待っている。何ものかは分らぬけれど、それは久須美でないことだけが分っていた。/昔、あのとき、あの泥まみれの学校いっぱいに溢れたつ悲惨な難民のなかで、私はしかし無一物そして不幸を、むしろ夜明けと見ていたのだ。今私がふと地獄に見る私には、そこには夜明けがないようだ。私はたぶん自由をもとめているのだが、それは今では地獄に見える。暗いのだ。私がもはや無一物ではないためかしら。私は誰かを今よりも愛すことができる、しかし、今よりも愛されることはあり得ないという不安のためかしら。(468)

 ここで言う「あのとき」とは、「火の海」に包まれる寸前に涙を流して水をかけ合った泥まみれの二人の家でのことだろうか? いずれにせよ、確かに彼女は戦後まもなく、財産持ちの主人、久須美のメカケとなり、「無一物」からあらゆる物を手に入れうる身分となった。その身分が、「今よりも愛されることはあり得ないという不安」を惹起するのかもしれない。しかし戦前・戦時中からこの女にとって愛するとか愛されないとかその程度の不安は至極当たり前だったはずだし、何事もいちいち優劣を付けて選ぶのが嫌いな女は、だから眼前にやってくる「現実」をそのつど受け入れることで満足できたのであり、それは、やはり戦前から変わらない性向である。
 無一物であろうと物が溢れていようと女はいっこうに平気で、「一目見た男でも、私がそれを思い出さねばならぬ必要があるなら、私は思いだす代りに、別な男に逢うだけだ」(465)と言い切る女は、「戦争と一人の女」の女に似て、「過去よりも未来、いや、現実があるだけだ」(465)し、仮に好きなひとが二人いるとしても、「私は私の意志によってどっちの好きな人を犠牲にすることもできないから」、判断は相手に任せたまま、「眼前に在る力、現実の力というものの方にひかれて一方がおろそかになるまでのことで、これは私にとっては不可抗力で、どうすることもできないのだもの」(475)。だから「思いだす」ことをどんなことより嫌悪する女なのであるが、先ほど引用した戦争中の回想をふくめ、女はおりにふれ何事かを「思いだす」。それは何故か。
 そもそもこの物語が「思いだす」ことによって成り立っているのだから、当然と言えば当然である。もちろんこれまで書き継がれてきた戦争小説も「思いだす」ことによって物語を展開している。そして他の女と同様、このバージョンの女も「思いだす」というごとき、多分に懐古趣味的な身振りをもどかしく感じているのであるが、しかしこの女は、それとは別のもどかしさをも感じ続けているように見える。それは、上記の困難さと関連して追々明らかになるだろう。
 ここではまず手始めに、これまで書き継がれてきた戦争小説の女にふさわしい言葉を、この女もまたくり返し口にしていることを確認しよう。たとえば、「すべて予約されたことには義務的なことしかできず私の方から打ちこむことができないタチであったが、思いがけない窓がひらかれ気持がにわかに引きこまれると、モウロウたる常に似合わず人をせきたて有無をいわさず引き廻すような変に打ちこんだことをやりだす」のだと。
 こんなときは、「私自身が私自身にびっくりする」(483)と言う女は、女との関係を言い寄る関取に対し、ひと場所全勝したらどこかに泊りに行ってあげると約束するものの、プレッシャーに見まわれかえって負けに負け続け、全敗を喫する関取を、むしろいじらしく思い、愛をもって受け入れる包容力のあるところなどは、なるほど、これまでの安吾戦争小説的な女らしい一面であると言える。
 それなのにこの女は、最後の最後で男の愛を押し返す。「我を通す」のである。だがしかし、先に「我を通」したのは、実は男であった。その男に対して彼女が「我を通すのは卑怯じゃないの」(494)と突き放したのである。

「オイ、死のう。死んでくれ」/「いや」/「もう、いけねえ、そうはいわせねえから」/私はいきなり軽々と摑みあげられ、担がれてしまった。私はやにわに失神状態で、何の抵抗もなくヒョイと肩へ乗せられてしまったが、首ったまにかじりつくと、何だかわけの分らないような一念が起って、/「いいの、私は悲鳴をあげるから、人殺しッて叫ぶから、それでもいいの」/雨戸を押しひろげるためにガタガタやるうち片手を長押にかけて、/「我を通すのは卑怯じゃないの。私は死ぬことは嫌いよ。そんな強要できて? 死にたかったら、なぜ、一人で死なないの」/エッちゃんは、やがて蒸気のような呻き声をたてて、私を雨戸の旁へ降して、庭下駄はいて外の闇へ歩き去った。私は声をかけなかった。

 関取の通称エッちゃんと浮気をしている宿に、女の主人から、女とも懇意である田代さんとノブ子さんが使いとしてやって来て、彼らの仲裁によって別れ話が切り出される。別れをエッちゃんはやむなく受け入れると女に述べ伝え、女も受け入れる。
 それは当然であろう。というのも、選択肢を並べて思い出したり先のことを思案するよりも、とにかくやって来た「現実」を受け入れる女なのだし、男は思い出したり執着するものではなく、気に入れば取り替えられるものと見なす女なのだ。だから、「私は思いださない」でいられる。「「しかし、お前のことを思いださずに、そんなことができるかな」/「私は思いださない」/「ぼくがもうそんなに何でもないのか」/「思いだしたって、仕方がないでしょう。私は思いだすのが、きらい」/「お前という人は、私には分からないな」/「あなたはなぜ諦めたの?」/「だってお前、僕は貧乏なウダツのあがらねえ下ッパ相撲だからな。お前は遊び好きの金のかかる女だから」/「諦められる」/「仕方がねえさ」/「諦められるなら、大したことないのでしょう。むろん、私も、そう。だから、私は、忘れる」/「そういうものかなア」」(493)。
 そして女は「つまらないわね」と言う。「何がさ」と聞き返す男に、女はただ「こんなことが」と呟くと、「まったくだな」と同意して「味気ねえな。僕はもう生きるのも面倒なんだ」と言う男を、制しながら女はさらに言うのだ。「そんなことじゃアないのよ。私は生きてることは好きよ。面白そうじゃないの。また、なにか、思いがけないようなことが始まりそうだから。私は、ただ、こんなことがイヤなのよ」と。

「「こんなことって?」/「こんなことよ」/「だから」/「しめっぽいじゃないの。ない方が清潔じゃないの。息苦しいじゃないの。なぜ、あるの。なければならないの。なくて、すまないことなの?」/エッちゃんは答えなかったが、ノッソリ起きて、閉じられた雨戸をあけて庭下駄を突ッかけて外へでて行った。闇夜なのだか月夜なのだか、私は外のことなど見も考えもしなかったが、エッちゃんは程へて戻ってきて私の胸の上へ大きな両手をグイとついた。力をいれたわけではないのだろうけれど、私はウッと目を白黒させたまま虚脱のてい、エッちゃんは私の肩にグイと手をかけて摑み起して、/「オイ、死のう。死んでくれ」」(493-4)

 いったんはやむを得ず別れを承諾する男だが、会話が噛み合わぬまま、半ば放心状態の男は女を襲い、死を迫る。それは――死を迫る立場は逆であるが――二つの「戦争と一人の女」にあった火の海での一場を思い出させるだろう。
 とはいえここで女は、男を野村から相撲取りに換えて同じ「あのとき」の場面を知らぬうちに反復しているのであって、彼女にとっては「思いだし」ているのではないのかもしれない。ひたすら「こんなこと」を連呼する女は、自分自身も「こんなこと」がいったい何を指しているのかよく分かっていないのである。それは決して「思いだし」ているのではなく、あのときのように耳を傾けて「考へ迷」っているのだ(「安吾戦争小説論(1)」参照)。
 ただし、「近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった」(459)と言うこの女にしてみれば、耳を傾けるというよりも、「頭がカラッポ」な状態で鼻を利かせて何かを捉えようと「考へ迷」っていると言うべきだろうか。
 しかしここで男の方は、あのときのように女の顔に「考へ迷ふ翳」を読み取ろうとはせず、女の言葉を一方的に封じてただ詰め寄るばかりであり、死を迫ることで「我を通す」ことに終始する。この男は、女にとって「我を通」しているようにしか見えない。
 だから女は、「いや」と反発するのである。死ぬことは「考へ迷ふ」ことを切断することであり、「こんなこと」が意味する無限定さに見向きもしない、限定の身振りである。それは、なにかを生きること以上に、とにかく「生きてること」が好きで、生きてさえいれば「なにか、思いがけないようなことが始ま」るだろうそのためにのみ「生きてる」女には受け入れられない身振りである。
 「頭がカラッポ」な状態で投げ出した「こんなこと」を、男に選んで欲しかった。そんなふうに選び取られて「生きてること」を享受する女は、「こんなこと」それ自体を抹消する男の選んだ「こんなこと」(=死ぬこと)だけは拒むほかないのである。当然だろう。
 とにもかくにも「生きてること」のために「こんなこと」を自ら限定せずに開いておく女は、ここ(死への促し)で、どうしたって「こんなこと」にはくわえられない「こんなこと」に、すなわち自分の「こんなこと」(=「生きてること」)を成立させるためにそれだけは閉じておかねばならない「こんなこと」に直面するのであり、むしろこの唯一例外の「こんなこと」を拒むことによって成立する(=限定する)「こんなこと」のカラクリを身にしみて感じ入るのである。
 むろん女は、このカラクリ、無限定を装った「こんなこと」はその実、限定を被らざるをえないというカラクリを、それ以前から知っていなかったわけではあるまい。ただ自分から限定をくわえることを避けていたまでである。少なくともこのときまでは。
 思えば、「人間はみんな浮気の虫、金銭の虫、我利の虫だといいきるくせに」、女の処女性に憬れたり、どんな恋愛ごとも相手との「相談ずく」でなければ女を愛せない田代さんを難じるこの女は、「女は恋人に暴行されたい」もの、「男はその契りのはじめにおいて暴行によって愛人のからだと感謝を受ける特権があるということ」を力説するのであり、だからこのように結びつきのはじめは相互の「相談ずく」などではありえず、どちらか一方の力ずく(「我を通す」)であることを、もとより知っている女は、生きるために「こんなこと」を差し出し、媚びて男に委任するのであるがしかし、そのはじめの「契り」以来くり返しなされる暴行(ともに「生きてること」)を根こそぎ拒む終わりの暴行(ともに「死んでくれ」)に対して、それのみに対しては、自ら拒み返すのである。
 それゆえ、戦争さえも軽く見くびることができる女は、ただ一点「並外れて死ぬことを怖がるたち」(494)で、「戦争で最も嫌いなのは暗闇であった」のは、「電燈が消えていると死んだのかと慌てる」からなのであるが、どんなことも自分の「こんなこと」に受け入れることができる女にとって「こんなこと」の空間と余白を示すことのために存在してくれる点りだけは、暗闇のふちから力ずくでも救い出されねばならない。
 どんなことも、それがなければ始まることはないのだ。どんなことも、それがなければ現前することはないのだ。逆にそれさえあれば、それによって現前する「こんなこと」に収まる如何なる「こと」どもも出し入れを男に任せていればそれで済む。しかるに、「こんなこと」を示す点りを奪う暗闇のなかに関取は、女を力ずくで引きずり出そうとしたのである。そんな男を、「外の闇」へ忘れ去るのはまったくの正当防衛であり、当然ではないか。
 だがしかし、最初に言い寄り、愛されるべく押しに押したのは男であるとはいえ、いったんその求愛を自分の「こんなこと」として受け入れた女は、たとえ主人の介入であれ、それによって相撲取りとの関係をまったく「忘れる」ことにし、代わって主人との関係を「現実」のものとして受け入れることなどできるのだろうか。むろん女は、関取との関係をこのまま続けることは経済的にも無理があることを知っており、であるから「お金が足りなくなったので」(486)、主人から使いを自ら頼んだのでもある。
 そのとき彼女は、ノブ子さんだけに「お金をとどけて貰う手筈」を頼んだのだが、チャッカリ者のノブ子さんが秘書の田代さんに浮気のことを話してそれを解決するためにも彼と同道でやってくるだろうことを期待していたし、予想していた。女曰く、主人の「女の始末だの」を一手に引き受けている秘書の「彼を敵にまわさぬことが私には必要だった」(486)のだから、雇われ者にすぎぬゆえ無力なノブ子さんだけではこころもとなく、しかし表立って主人の秘書を呼び付けることもできないと考えていた女は、それでも、ノブ子さんを呼べば、彼女を愛してやまない田代が同道することを予想していたし、それによって主人との関係も円満に収まることを女は知っているわけだ。
 こんな女に対して虫がよすぎる、調子のいい女だと難じることはできる。「貧乏と無智」(465)が嫌いな彼女もその難を無理なく受け入れるだろう。ただし、彼女自身おそらく受け入れがたい問題は残る。関取のエッちゃんとの関係を「現実」のものとして生きていたときに、すでにこの女は主人のことを「思いだし」ていたのではないかという非難である。
 主人との関係を思い出しているときは、当然、現在をともに生きるエッちゃんとの「現実」の関係を「忘れる」ほかあるまい。「貧乏と無智」なエッちゃんとの関係をちょっとした出来心であるとして断ち切り、そうして財産を持った主人との関係を修復し維持するために彼女はさかしらな智恵を働かせて、力ずくでその布石を打っていたのではないか。それは、「思いだ」すことが嫌いゆえ、「現実の力」を受け入れて「生きてる」と言う女の原則に反するものではないか。
 くり返せば、このような女の仕業を道徳的に責めても意味はないし、さして効果も認められないだろう。しかし女は自ら立てた原則に自ら反しているのである。「現実」を「生きてること」のために「こんなこと」を開いておくことによって、一人の男を忘れ、一人の男を受け入れることなど、しょせん現実的には無理な原則なのだ。そのように、女の処世のための智恵を理詰めで責めることも、しかるに、それほどの意味も効果もないのかもしれない。それくらいのことは、女もよくよく知っているのである。
 たとえば、「自分で好きなものを見立てて買い物をするよりも、好きな人が私の柄にあうものを見立てて買ってきてくれるのが好き」(496)で、「一緒に買い物にでて、あれにしようか、これにしようか、一々私に相談されるのはイヤ、自分でこれときめて、押しつけてくれる方がうれしい」、というのも「着物や装身具や所持品は私の世界だから、私自身が自分で選ぶと自分の限定をはみだすことができないけれども、人が見立ててくれると新しい発見、創造があり、私は新鮮な、私の思いもよらない私の趣味を発見して、新しい自分の世界がまた一つ生れたように嬉しくなる」からだと言って、身に付ける衣服に関しても「浮気」な恋愛と同じように、力ずくの相手の趣味を受け入れることにしたがって自分の生を楽しむ智恵を開陳する彼女は、やはり確かに、「私の浮気もいわば私の衣裳のよろこびと同じ性質のもの」(497)とその相同性を述べながら、しかし一転、「だから私が浮気について心を悩ますのは帽子や衣裳と違って先方に意志や執念があることであり」、自分自身は「浮気自体にうしろめたさを覚えたことはなかった」にせよ、衣裳と違って「意志や執念」を持っている浮気の相手との関係は、自分の生きる智恵がじゅうぶんに機能しないことを知っている。人に愛され、人を愛することとは、すなわち、一つの帽子を身に付けることによってもう一つの帽子をきれいさっぱり「過去」のものとして「忘れる」ようにはいかないものなのだ。
 とはいえ、その違いさえ彼女にとってはさしたる問題ではなく、じゅうぶんに対処できるものである。というのも彼女は、浮気だの恋愛の相手と身に付ける衣裳とを並列させてなんの疑いも持たない女なのだ。服を見立ててもらうのもしょせん「好きな人」に限られていて、嫌いな人は予め力ずくで排除されているわけで、だから彼女の「こんなこと」も許容範囲があまりにも狭い、「好きな人」に見立ててもらう程度では自己の「創造」に繋がるはずはないのではないかと難じてみても、そもそも「つまらないのだ、恋愛なんて。ただそれだけ」(462)と見向きもされるまい。好きになれば「逢うだけだ」(465)し、嫌になれば「もうそんな男のことは忘れてしまう」(461)のが、彼女の「退屈」な生き方なのである。

私は退屈というものが、いわば一つのなつかしい景色に見える。箱根の山、蘆の湖、乙女峠、いったい景色は美しいものだろうか。もし景色が美しければ、私には、それは退屈が美しいのだ、と思われる。私の心の中には景色をうつす美しい湖、退屈という湖があり、退屈という山があり、退屈という林があり、乙女峠に立つときには乙女峠という景色で、蘆の湖を見るときは蘆の湖の姿で、私は私の心の退屈を仮の景色にうつしだして見つめているように思いつく。/「私の可愛いいオジイサン、サンタクロース」/私は久須美の白髪をいじりいたわりつつ、そういう。しかし、また、/「私の可愛いいアイスクリーム、可愛いいチッちゃな白い靴」/久須美は疲れてグッスリねむった。(498)

 彼女の心の中は、「退屈」を背景にしてどんな事物も差異はなく、与り知れない「意志や執念」を持っている人もそれらと並んで映し出されるものにすぎない。かかる風景を背景にすれば、かつての男女――「白痴」、「外套と青空」、「戦争と一人の女」、「続戦争と一人の女」、「私は海を抱きしめてゐたい」、「櫻の森の満開の下」…――が拮抗した生と死の境など、限定しえない不分明な線であることはすでに自明であり、人が限定を寄せ付けない鬼の面をしていることもまた自明である。
 彼女はこの「退屈」が美しいのだと言う。そこには人を単なる事物に陥れるイロニーのかけらもなく、彼女は本当に美しいと感じることができる。心の中にも映し出されるこの美しく退屈な風景のなかで、そのなかに事物と並んでいまにも消え入りそうな男たちと、情熱の火も涙も掻き消えた結びつきをくり返す女。
 この女は男と対面する様々な場面で、これまで書き継がれてきた戦争小説を反復する。そこに見える退屈で、変わり映えのしない風景は、思い出すことの「意志や執念」──「意志や執念」がなければ思い出すことなどありえまい──が失われ、それこそ自身の身体ごと反復をくり返し、そのくり返しのすえに擦り切れたものに見える。
 近頃、自分の知らぬまに、戦争で焼け死んだ母が自分の身体に「よみがえる」ことに狼狽する女は物語を語る過程にもおりにふれ自分の身に現れる母の身振りに嫌がるのであるが、思い出すまでもなく現れるそれを、受け入れるほかないのである。「ふと母の物慾、その厭らしさを思いだして、ゾッとする」(496)。「私はまた、母の姿を見出して時々苦しかった」(497)等々、このように後で気付けばまだましなものの、気付きさえしない場合もあるのだから、これはかなりの重症であろう。
 たとえば関取と別れ、主人との関係を円満に収めるために手を打ったいくつかの布石は、まったく「世帯じみて」いて「無智無教養」ではあるが、我が身の処世のためには自分の子供を売り物にするのも苦にならず、手練手管を弄する母を反復している。女はこれに気付く(思い出す)ことなく語っている。いずれにせよ、女の生(=「こんなこと」)にとっては「よけいなこと」──「よけいなこと」にはもちろん、思いだすことや選び取ることがふくまれているわけだが──だとしか思えないことをする母を、女は、「近頃」反復しているのだと言う。
 「私の母は戦争の時に焼けて死んだ」(459)。「火の海」が「東京を焼き、私の母を焼いた」(478)。このように物語上おりにふれ母が焼けたことを連呼する女は、しかし母が焼けて死んだのではないことを知ってもいる。「私は上野公園へ逃げて助かったが、二日目だかに人がたくさん死んでるという隅田公園へ行ってみたら、母の死骸にぶつかってしまった。全然焼けていないのだ」(459)、と。これは、いったいどういうことか?
 彼女は確かに知っていたのだ。「腕を曲げて、拳を握って、お乳のところへ二本並べて、体操の形みたいにすくませてもうダメだというように眉根を寄せて目をとじている」母は、「気の弱いくせに夥しくチャッカリしていて執念深い女なのだから、焼けて死ぬなら仕方がないけど、窒息なんて、嘘のようで、なんだか気味が悪くて仕方がなかった」(459‐60)と。つまり母は焼けたのではなく、「窒息」によって死んだのであり、無焼無傷なまま死んだ母の永眠する姿はむしろ「おかげで善人になりましたというような顔だった」と。
 こうして、自分の身に「近頃母を発見するたびに、あの時の薄気味悪さを思いだす」(460)女は、母は焼けてその姿を消したのだと力ずくで思い込もうとしているかのようである。このとき彼女は力ずくで母の思い出を閉じ込めようとしているのか。
 しかし彼女はこのことも実は知り抜いており、覚悟しているのではないか。「私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった」(459)と記したすぐ後、「私は近頃母が生き返ってきたので恐縮している。私がだんだん母に似てきたのだ」(459)と記す女は、さらにこのあと続けざま、戦争で焼けずに窒息死した母との出会いを回想するのだから、火の中にあっても何かを捉えるために鼻で嗅ぎ続けた結果、窒息死におよんだ母を反復する覚悟でいるかのように、物語の冒頭をはじめているのである。
 だから彼女は知っている。ときに現れる母の翳など、処世のために参照することもいとわず、それが嫌なら忘れてしまえばよいし、少し我慢すれば消えてしまうことを。

 退屈な風景にときおり波紋を投げかける、とはいえ力ずくでそうするまでもなくたちまち忘れて消えてしまう思い出すことの「意志や執念」。その「意志や執念」さえも、そうしてあらゆる事物が「火の海」に、いや「退屈という湖」に掻き消されてしまった後の風景。
 そこでは、青鬼たちが互いに互いを「ていのよいオモチャ」(501)にして生きている。退屈な心の片隅にいる「心の奥の孤独の鬼」を二人すり合わせながら生きている。
 たとえ男の方がコクリコクリ眠りだしても、「意志や執念」を奮い立たせて目覚めさせ、二人の愛を確認するまでもなく、ゆっくりと再び目が覚めるまで女は、コクリコクリしている顔に向けてニッコリと見ていればよい。「彼は再びコクリコクリやりだす。私はそれをただ見ている。彼はいつ目覚めても私のニッコリ笑っている顔だけしか見ることができないだろう。なぜなら、私はただニッコリ笑いながら、彼を見つめているだけなのだから。/このまま、どこへでも、行くがいい。私は知らない。地獄へでも。私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く、頭がカラになって行く、ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少なくなって行く」、「すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう」(505)…。

 はたして、ほんとうにそうだろうか? 思い出そう、いやいまこそ、注意しよう。鬼たちが生きている「退屈」で「地獄」のような風景の「外の闇」には、「あのとき」、忘れ去られたエッちゃんが目をひっそりと点らせていないだろうか? 「外の闇」に女を力ずくで引き摺りおろそうとして、逆に一人さびしく逃げ去ることになった、そうして鬼になりそこねた相撲取りが、女の方に顔を向けてはいないだろうか?
 もう一度書かれることはなかった男のバージョンを補足するために、そのように仮構する必要がある。いや、私が仮構するまでもなく、この女の「現実」を綴ったバージョンにもすでに男の「現実」が、安吾自身によっては書かれなかったものの次に書かれるべきバージョンのために、「考へ迷ふ翳」のように仮構されているのである。
 だからこの二つの「現実」のために、ここまでできる限り「相談ずく」の分析を展開してきた私は、いまこそ女と男のペアに力ずくの介入を試みる。
 私はこう思うのだ。「あのとき」、女に対する過剰な「意志や執念」のあまり逃げ去ったまま、ありうべき「自殺」の疑いさえ軽く忘れられた──「「自殺でもしたのかな」/「どうだか」/「うむ、どうでもいいさ」」(495)…──エッちゃんに対して、自分のために、そして誰より彼のために──彼女に執心した結果、しだいに相撲を負け越しはじめ、取り組みが嫌になりさえした彼のために――別れたいのならなおさら、「あのとき」の彼の顔に「考へ迷ふ翳」を力ずくで読み取ることを、彼がもう一度生き直し(還り)たいという言葉をその自慢の鼻で聴き盗る(誤る?)ことを、ということはだからいったん彼の死を自分のこととして「こんなこと」に受け入れることを、そのためにもう少しだけでも力ずくで暗闇に引き留まることを、何故あなたはしなかったのか。いまからでも遅くはないし、彼のために、そして誰より「愛されること」をのぞむあなたのために、いまこそ注意する必要がある。
 そうしろ、とは言うまい。彼女を隈なく包囲する地獄のように退屈な風景は確かに「現実」だろうから、そうしろとは言わない。ただ、それができないのなら、「自由を求めている」とか、それなのに「無一物」だったときよりもいまは「地獄に見える」とか、こんな私は相手を「愛すこと」ができるのに、「愛されることはあり得ない」とか、泣き言を言うな。あなたから見える風景の「外の闇」に、あなたを愛そうとして忘れられた男がいることも、過去や未来の仮構などではなく、確かに現実なのである。
 そうであれば、いまこの男は、あなたに憎しみを燃やしているのだろうか、それともかつてよりさらに愛に溺れているのだろうか、それはあなたにはうかがい知れないことだろうけれど、「こんなこと」からはよく見えないこの現実にこそあなたの求める「自由」があるのであり、あなたの「こんなこと」が「愛されること」があるのではなかったか? 「愛されること」のために、あなたを愛してやまない男の力ずくの情死行が、あなたに力ずくで「生きてること」を、生きて「愛されること」を決意させたのではなかったか? それはあなたがあなたの明るみに男を救い出すことではなく、「外の闇」において「愛すこと」であろう。そのためにもあなたに、私はなにができるだろうか? 私はあなたを地獄の暗闇から救い出すことができるだろうか?