感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「終わり」に抗するまでもなく

 自民党片山さつき衆院議員が前原誠司民主党党首に対し「こいつ」発言を繰り出し、さっそくそれを受けて民主党国会対策委員長が「しつけができていない小泉チルドレン」と呼んで、「彼らの座る席はチャイルドシートだ」と自信満々に揶揄したとのこと。
 この一事はまあ、相変わらずだなと呆れただけだけど、その後で、自民党武部幹事長が、民主党のオヤジギャグを放った委員長に「品位を疑う」と苦言を呈し(もっともだ)、さらに自陣営の議員に対して「厳に慎むべき言葉だ」と指摘するのみならず、「国民の代表の自覚を持って美しい日本語を使うように気を付けなければいけない」としながら「私も気を付けます」と自重しつつ語ったのには、正直驚いたというか不気味だった。
 自民党は、ここ最近本格的にメディアを政治にとりこむシステム構築を始めたようで、「郵政解散」から前回の9・11衆議院選挙戦がその最初の大きな成果で、自民党に丸め込まれたのはその実、民主党以上にテレビや新聞各社だったという指摘がある。
 石田英敬氏によれば(「論座」11月号「「テレビ国家」のクーデター」)、自民党はテレビが食いつきやすいネタとなるトピックを要所要所で撒きながら(いわゆるワンフレーズ・ポリティクス)、予めデザインした物語を語るように誘導した結果が今回の一連の選挙戦だったとのこと。そこでは、本来政治に対して批評を下すべきマスメディアが逆に政治に食い物にされる結果に陥ったわけだ。
 それに気づこうとせず、もっぱら民主党の戦術・戦略に敗戦の結果を求めようとした(もちろんそれはそれで反省すべき点があるのだろうが)メディアは、いまだに政治と報道は別、侵食するものではないと頑なに信じて疑わないでいるのではないか。
 そう思えば、片山議員の「こいつ」発言も、国会対策委員長の自己満足的なオヤジギャグも無邪気で許せるかなあと思いもするのだけれど、それらはしょせん予め設定された脚本通りに立ち回る政治の、修正可能な範囲内のイレギュラーでしかなく、もちろん、このような茶番だの劇場だのと形容されもしよう政治の有様を前にして、近代政治の終わりなどと嘆いてみても始まらない。

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 「『インストール』は、「十七歳のデビュー作」として完璧なのではない(小説は、そんなに甘いものではないし、誰も年齢を加味してはくれない)」と書くわりには、この解説は、文学史上一時代を築いた「あの」高橋源一郎という作家が新人作家にお墨付きを与えるという、作品外の情報を多分に加味した文章として読むほかないものだし、また「手垢のついたものは読む必要を感じない」と書くわりには、世紀末(「日本近代文学の終わり」)に現れた救世主として一人の新人作家を支持するという、いたく手垢のついた結末で結ばれた体裁を持っている。
 綿矢りさ氏著『インストール』文庫本の解説を書いた高橋源一郎氏の作家としてのキャリアは、おそらく、小説を読むという営為はその作品外の情報を加味してしまうものだということを私に教えてくれたものだったはずだし、小説を書くという営為は、手垢にまみれるものであることを自覚し、それに乗じさえすることだと教えてくれたはずである。
 その彼が、デビュー以来二十数年たったいま、それらに反するような評価のもと、一人の新人作家に、「日本近代文学の終わりと関係があるのか」、「何かの「始まり」を告げ知らせるために現れたのではないか」と書くことは、わからないわけではない。
 しかしそれは、おそらく、高橋源一郎のキャリアを知っている者が同情なり共感を示す範囲を出ないものであり、「日本近代文学の終わり」をなんのことやら冗談だか今更だとしか解さない人々にとってこの解説は、すでにいい年齢のオヤジが若い娘を理不尽なまでに褒めちぎっている文章としてしか読めないのではないか。
 高橋氏は、この作家について「完璧な日本語」とか「天才」とか解説の枠を通して褒め続ける。しかしそれがどのように完璧で天才なのかが具体的にわからない。ただ褒めているのだ。しかもちょっと照れがあるようで、つねにその完璧と天才は括弧にくくられて表記しているところが、彼女がのちにどうなっても口実の逃げ場を設けているようで、あまり見た目がよくない。
 彼女はデビュー以来、何かと作品外の情報を加味されて評価されている作家だけれど、そういった手垢のついた情報に左右されずに読まれるべき作家だと心底恐れるなら、こんな評価の仕方は私なら絶対にしないと思う。しょせん二十歳前後の女の子だとして舐めているんじゃないかな。救世主って案外そういうものかもしれないけれど。