感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

西島大介のプー

 革命やら戦争やら、もう何をしたって世界が変わることはない…。「世界の終わり」とか終末観だの閉塞感を、作品のテーマに一貫して採用しているマンガ家がいる。長編デヴュー作『凹村戦争』、『世界の終わりの魔法使い』、近作『ディエンビエンフー』の作者、西島大介さん。
 しかし、一連の作品を相応に見れば、彼が「世界の終わり」に拘っているわけではないということが分かってくるだろう。じゃなきゃ、作家が「世界の終わり」とともに、ことのほか恋愛をも描き続けるはずはないではないか。
 だからといって、西島作品は、ここ数年流行りのセカイ系に属するものではない。むしろ、「世界の終わり」という大局的な世界設定を悲劇的な背景として、ごく私的なラブロマンスを物語るというセカイ系特有の、「世界の終わり」をロマンチックに消費するスタンスを相対化する意志に満ち溢れたものだというべきだろう。
 西島作品の決まって可愛らしい恋愛のエピソードは、「世界の終わり」を牽制するささやかな装置として導入されているのである。そしてその牽制球によって一瞬生じる「世界の終わり」の動揺が、既に終わってしまった「世界」をなおも生きようとする意志を、可愛らしい二人のカップルの間に育む。
 要するにこの作家には、「世界の終わり」をテーマにしながら「世界の終わり」以上に拘っているものがあって、それは、たとえ世界が終わっているのだとしても、そんなこと「どうでもいいさ」ということなのであり、「本当の戦争の話」など語れやしないとしても、そんなこと「プー」だし、「どうでもいいさ」ということなのである。
 別言すれば、「世界の終わり」なのに、別の世界を開く意志を描いたのが『世界の終わりの魔法使い』だったのであり、「本当の戦争の話」を語ろうとすればいつだって嘘っぽくなってしまうのに、それでもなお本当の話を語ろうとする意志を描いたのが『ディエンビエンフー』だったのである。
 無論このような大きなテーマを描こうとすれば必ず鼻についたり読み進める上で何かしら抵抗があるものなのだけれど、西島作品の場合、それこそ本当に「世界の終わり」を描こうとしているのだと信じられてしまうのは、彼の作品は別の世界を開く意志を、本当の話を語ろうとする意志を単に描こうとしているのみならず、何よりそれらの意志によって描かれた話であり世界だからにほかならない。以下はその説明に当てられることになる。

 西島作品の魅力の一つは、愛らしい萌えキャラに、血肉吹き飛び切り刻む残酷で不条理きわまりない状況を生きさせることであろう。このギャップ(吾妻ひでお以降、高橋しん最終兵器彼女』などの魅力もこのギャップ)が私たちを物語にひきつける。そのなかでも重要な要素を挙げるとすれば、萌えキャラのしばしば発生する意味不明な声だろう。
 『世界の終わりの魔法使い』では、主人公の男の子ムギを好きになる魔法使いの少女が重要な場面ごとに「プー」という頓狂な奇声を発する。これは、最後の最後で決定的な――いっきに泣きモードに転じる――意味付けを与えられはするのだが、実際は場面ごとに様々な感情・機能・メッセージを担っているものなのだ。また『ディエンビエンフー』では、戦闘中に敵の主人公(日系アメリカ人の男の子)を好きになってしまうベトナム人の女の子が声にする「ンクク」が、名前だとも仄めかされはするものの、結局その真意は不明のまま、いくつかの場面で投げ出されるのである。
 つまり、萌えキャラが(その愛らしい佇まいに反して)実は意味不明で不条理で、だからしばしば不気味な状況に親和性があることをこの作家はよく知っていて、それを表現にうまく利用しているなというのが私の印象なのですが。

世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)

世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)

 それでは、『世界の終わりの魔法使い』を見てみる。物語の世界は、魔法が科学にとってかわり、誰もが魔法に依存して生きるほかない、科学万能ならぬ魔法万能主義の時代、魔法のグローバリゼーションの時代(もちろんこれは、現代の科学技術のグローバリズムの寓喩になっているわけだけど)。アトムやドラえもんが生まれる予定の21世紀の現在とはまったく真逆の、誰も科学など信用しなくなった時代、そんななかにあって主人公のムギだけ、どういうわけか魔法を使えないし、使おうともしない。ひとり科学に熱を入れる変わり者として登場。そこでムギは、天才的な魔法使いの少女と出会うのだ。
 のちに知ることになるのであるが、彼女は、ムギたちが住むこの終末観漂う世界からひとり追放されていながら(魔女裁判)、実はこの世界を作り出している神の立場にいる。したがってムギをはじめこの世界の住人はみな彼女が作り出したもの、複製物、「影」と呼ばれるものにすぎない。要するに世界とは「影」以外のなにものでもないのであるというわけ。
 興味深いのは、この世界(=「影」の集積)を作り出す過程で、「影」の形にさえならない過剰なものが、(創造主の)意に反して必然的に排出されてしまうという、世界の成り立ちである。この過剰なものは魔物となって、世界の一部に還元された「影」に呪わしくとり憑くのだという。むろん「影」と魔物がバランスをとれている間は問題ないのだが、魔物が突出しはじめ、「影」を食らうようになった昨今は、まさに「世界の終わり」の予兆であると、彼女はムギに告げる。わたしのあなたへの愛の告白とない交ぜになった、「世界の終わり」=「あなたとわたしの終わり」の告白。そして彼女は、二人で世界を新たに更新しようともちかける。
 しかし、そもそも彼女はなぜ、彼女の「影」にすぎないひとりの男の子に、世界をリセットし更新する一大イベントの共同作業を促したのか。それは恐らく、彼もまた彼女の世界にとっての魔物だからである。ここで思い出すべきは、彼だけが、魔法使いの意に反して魔法を使えない、使おうとしない突然変異の「影」だったということだ。彼もまたこの世界から追放された異端だったわけである。
 魔法使いの創造主は、魔法のグローバリゼーション化した「世界の終わり」に辛うじて見出された科学の子に、どんな優れた魔法でも変えようのない世界の更新を賭けたのである。無論これは文字通り賭けだ。結局は単なる「影」のひとつに過ぎないのかもしれないし、他の魔物のように「影」を食い荒らす魔物でしかないのかも知れないのだから。実際彼は、必要以上に魔法を嫌悪していたのではなかったか。
 彼自身、魔法が嫌いだから科学を信仰しているのか、科学が好きだから魔法を嫌うのか分かっていないようだし、魔法を使わ(え)ない理由をいくつも挙げてはみるものの、どれが本当なのか分からない。かくもあやふやな彼の科学に、彼女は賭けてみると言うのだ。「起きろ! 飛べ! わたしが見込んだ君だよ! やれるって 信じろ!」。
 そしてこの賭けこそ愛に値するものなのである。逆に言えば、この愛がなければ――いっしゅんであれこの理不尽な(敵対する魔法使いと科学の子との無謀な)愛をお互いが信じることがなければ、世界を更新する賭けは「終わり」を前に翻弄される他ない。前出彼女の「信じろ!」を受けた、帯にも引用されている「魔法なんか信じない……。でも、君は信じる!!」はそれを集約する一言であり、言葉だけだといささか臭みのあるこれらのセリフは、ここで賭けられた愛を必然的なものとして了解させる作家の力量によって自然に飲み込めるだろう。
 その力量はもちろん、作家独特のキャラ設定や計算され尽くした作画のレベルから無駄のないネームまでいくつか指摘できるだろうけれど、ここではやはりあの「プー」に注目したい。作品上終始にわたって連呼される「プー」なのだが、この意味不明な(物語の成り行きに回収不能な)、たえず読む者を脱力させる効果によっておりにふれ作品の物語世界から距離を置き、対象化させる。
 むろんこれは、作品の消費の仕方を物語受容からキャラ萌えの世界へと「世界」を更新するきっかけともなる「プー」なのだが、とにかくこの「プー」はこうして「プー」固有の位相を形成し、物語の世界から浮いた形で、つまり物語の世界とは別の導線を私たちに提供し続けるだろう、最初から最後まで。彼女の「好き」を最終的に信じようとした彼が物語の最後の最後で、この「プー」の意味を彼女から聞き出そうとするのも、彼がそして私たち読者が彼女の「プー」に、「プー」な彼女のキャラに憑かれ続けていたことを物語っているのである。この「プー」こそ、物語上進行する「世界の終わり」を逐一対象化する批評的な視角となる位相なのだった。
 西島さんは後書きとなる「読者のみなさんへ」で、このように述べていた。「これは勝手な解釈かもしれませんが、「どうでもいいさ」というのは、既にできあがった世界に対するある種の反抗の言葉のようにも聞こえます。反抗的で、やんちゃで、優しい言葉」。この「どうでもいいさ」という言葉は、フランス語の「Ca ne fait rien」をもとに、第一次大戦末期頃(西洋の黄昏、彼らにとっての「世界の終わり」)のイギリス軍のあいだで英語流に改鋳され広まった「サン・フェアリー・アン」の和訳だという。そしてこのサン・フェアリー・アンこそ魔法使いの少女の名前だったのである。彼女が終始発していた「プー」もまた基底にはたえずこの「どうでもいいさ」が世界に向けて流れていたはずなのだ。
 現状はこの通り、「どうでもいいさ」というような冗談ともつかない、まして反抗などでは到底ありえそうにない言葉でしか世界に距離を置き、反抗することができないほどグローバル化した「世界の終わり」なのであり、だから安易な気持ちでこの世界を超出した気になっているロマンチストに牽制球を投げる西島的「世界の終わり」なんだけれど、とはいえ彼はあるはずのない(あったとしてもそれは「影」の一つでしかない)「世界の終わり」やら「世界の中心」を貪欲に消費して済ませるロマンチストにも牽制球を投じているのである。これら二方向からの「世界の終わり」を完遂せんとする邪悪な魔物に投じる牽制球。それが西島大介の世界のプーなのだ。

凹村戦争(おうそんせんそう) (Jコレクション)

凹村戦争(おうそんせんそう) (Jコレクション)

 マンガ長編のデヴュー作となった『凹村戦争』は、どちらかといえば、「世界の終わり」を貪欲に消費している印象がある。まず注目すべきは、他のプレテキストからの引用の嵐。のちの二作に比べて余りにも過剰。物語の大枠から(『宇宙戦争』『遊星からの物体X』『2001年宇宙の旅』などの寄せ集めが物語の骨格)、各挿話の枠組、さらに細部細部にわたって引用が敷き詰められ、それがベースとなっている。それによって自ら物語=世界を作ることを放棄していることは明らか。
 物語上のキャラ設定もそう。終わりつつある世界から逃げ出そうとする主人公の男の子は恋愛から弾き出された、というか恋愛に無頓着な、未熟な青年のポジションを与えられている。しかも、彼の世界への超出の試みは、自ら感じ取った終末観だの閉塞感に裏打ちされたものではなく、学校の教師にけしかけられ、ただ闇雲に外に出たがるロマンチストでしかない。
 他方、もう一人、準主役の男の子がいて、彼には恋愛関係の女の子がいるのだが、彼はインターネットやラジオから収集した情報を通じて、この世界を出たところでまた同じような世界が待ち伏せていることを知っている。「Welcome to the Desert of the Real!」。ゆえに彼ははなから世界の外を見ようとなどせず、何ごとも諦め顔したり顔で、日常をやり過ごす「世界の終わり」の閉塞感にまみれている。一見リアリストのようだが、彼こそ「世界の終わり」を消費するロマンチストなのである。
 以上のようにこの作品は、「世界の終わり」に対する二通りのロマン主義に規定された作品だといえるのではないか。これを作品に結実した作家の批評性は当然認められるべきだけれど、その批評性は次作のそれと立ち位置が異なることは明らかだと思う。

ディエンビエンフー (100%コミックス)

ディエンビエンフー (100%コミックス)

 では近作『ディエンビエンフー』はどうか。帯文に「世界一かわいい、ベトナム戦争」とあり、また物語の扉にも、この戦争に従軍した経験のあるティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」の一節がかかげられている通りベトナム戦争をテーマにした話、それも作家なりに解釈したベトナム戦争の話を描いた作品。
 ベトナム戦争を描く上で西島さんがオブライエンに着目した理由は、オブライエンの「本当の戦争の話」にひそむアイロニーゆえである。つまり戦争について本当の話を物語ろうとすれば、それは嘘っぽくならざるをえないのであり、しかし戦争なんてなかったとはさすがにいえない以上それでもなお語ろうとするのなら、はなから馬鹿みたいな嘘を語る覚悟を必要とすること、だからこの『ディエンビエンフー』は、「この「本当の話」の矛盾を逆手に取ったというか、都合よく解釈したようなお話かもしれません」というわけである。
 「本当の話」(を語ること)の矛盾はもちろん、「世界の終わり」(を対象化すること)にも見出された矛盾であり、今や「本当の話」など既に語る術はないのだという物語=世界の閉塞感に感じやすい作家の姿はここにも健在である。
 だから当然『ディエンビエンフー』にも「プー」はある。それは、ここでは物語のプロットに還元されているのだが、その結果、ショート・ストーリーの連作という体裁を持つこの作品は、一ストーリーごとにこのプロットを軸に構成されることになり、そこから広がる物語の相貌を豊かなものにするだろう。そのプロットとは、カメラである。
 主人公は日系アメリカ人で、米軍に従軍するジャーナリスト・カメラマンの男の子。しかし彼のショットは、たえず被写体を(例えば戦争の客観的な情勢とか本当に撮るべき被写体を)撮り逃すことになるのだ。しかも撮り逃した上に、予想もしなかった被写体を収めてしまう。一話一話は、このように本当の被写体を撮り逃す彼のカメラ・ショットを軸に構成されている。「カシャッ」!
 「プー」にとり憑かれたムギと同じく、カメラマンの彼もやはりこの連作を通して一人の女の子と恋愛関係に入る。ほっぺに「chu」的な可愛らしさと、すれ違うゆえいつも女の子の写真をネタにオナニーするばかりの無様さとを兼ね備えた、とても微妙な恋愛関係なのだけど。
 とにかく女の子との最初のコンタクトもまた、ショットの撮り逃しが原因だった。闇の中で虐殺を遂行していた米軍が、何ものかに瞬殺されるシーンにレンズを向けた彼のカメラは、ここで逆にナイフで射抜かれるのだが、その寸前に偶然収めていた被写体がそのナイフを持って彼のほうを見据えつつあの「プー」のごとく「アッカンベー」をしている彼女だったのである。そう、彼女は米軍に敵対するベトナム人の殺し屋だったのだ。
 二話目は、米軍のスナイパーに勧められて手にしたライフルの照準に収まるベトナム人を、撃つつもりのなかった彼の意に反して「本当に」撃ち抜いてしまうという話。無邪気に報道の自由、権力批判をかかげて被写体に照準を向けるカメラのショットが、銃のあからさまに暴力的なショットに重ねられる。「スコープを覗く時僕はいつもここではないどこか遠くから戦場を眺めている…そんな気がする」。あるいは「サーチ&デストロイ」。
 もちろんここで作家は単にカメラの暴力性(「本当に」被写体を撃ち抜く暴力)を批判しているわけではない。暴力批判がここに込められているとするなら、むしろ暴発や撃ち損じにまつわる暴力であり、撃ち損じはむろん何かに当たらなかった(から責任が免じられる)のではなく、確実に何かに当たってしまったことなのであり、だからカメラを向ける以上つきまとう暴力に如何に感度を高め続けるか、ということなのである。
 べつにだからといって、撃ってしまった後もうじうじ悩みつづけていたり自虐的に後悔してればいいというわけじゃなくて、一話一話ごとに誤射を自らのカメラに呼び寄せてしまい、その積み重ねの過程の中にあってあっけらかんとしながらなんとなーく誤射の経験を記憶にとどめる――おりにふれ登場する、女の子によって刻まれた胸の傷がそれを象徴するのだが――彼のどっちともつきがたい微妙な顔付きと言動が、辛うじて暴力=戦争への反抗と、「本当の戦争の話」をして暴力=戦争批判を安易に行おうとするジャーナリズムの暴力への反抗を維持しているのだと思う。
 この両義性は、「ベ平連」のベトナム戦争批判(「殺すな」の見事なプリントあり)をテーマにした挿話に見事に結実していて、ここで彼と会話を交わす、終始憂鬱な顔をした日本の新聞記者(オブライエンを髣髴させる新聞記者)がこぼす彼についての印象は、彼のこの作品における存在意義を的確に説明しようとするものだろう。「変わってるねあの少年」。恐らく彼はこの作品を通してあの「プー」の位相にいる。戦争に介入しきることもできず、戦争を客観的に収めるスコープを覗く位置にも立てぬ彼の顔と言動は。
 だからこの顔に魅了された女の子は、敵ながら彼を殺すこともせず、彼の行軍につきまといつづけるのだ(お互いアジア人だからという同胞意識などこれっぽっちもない)。そう、先に誤射を放ったのは、彼女の方かもしれないのである。
 いずれにせよ、彼にまつわる誤射は他にも無数にある。彼のパートナーとなったスナイパーがベトナム人の女の子を射抜こうとするとき、不意にスコープの中で彼女に見られ、撃つのを躊躇うのだが、彼女が本当に見ていたのはスナイパーの横にいるカメラマンの彼だったわけだし、そうして躊躇った隙に切り殺されたスナイパーを、彼女との可愛い抱擁の後でカメラに収めようとする彼のカメラは壊れていたのだった。
 また、ミスショットの結果写ってしまった彼女の写真は、私的オナニーのネタにしていたのだけれど、軍の上層部に発見されてしまい、それは思いもよらず政治的なネタになってしまう。ベトナムのワキアイアイとした村民たちをカメラに収めるときには、フィルムがもったいないから空写しで済ますことになるわけだが、そもそもその村民は彼を殺そうとしていたのである。等々。
 ショットを定めるたびに被写体を外し、思わず写ってしまったものに逆に射抜かれてしまうということ。ここで思い出そう、サン・フェアリー・アンが自分の世界と愛の更新を賭けたのが、思いもよらず好きになってしまったわが闘争の敵、魔物だったということを。思いもよらず自ら生み出してしまった過剰なものを、突き放すのではなく、なんとか包容しようとした彼女の試みを。ベトナムの世界でもまた、一組の彼女と彼は、「本当の話」とは別の世界を開く可能性というか意志なるものを、すれちがうショットに賭けていたのであった。「カシャッ」/「プー」。
 『ディエンビエンフー』には、『凹村戦争』の主要プロット・イメージの「X」が刻まれ(P160。『凹村』には、「本当の世界」を見た戦争経験者のランボーに自分を重ね合わせる主人公がいたけれど、むろんランボーが経験した戦争といえば、ベトナムである)、あたり構わず「プー」「プー」してる士官(P68、81)が首を刎ねられたりしていて、世界を開くのは相変わらず難儀だなと思ったりするのだけれど。ベトナム人の子供たちが群れ集う表紙カバーを剥いだそこには、ほくそえむように米国の星条旗がたなびいているのだった。