感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「世界の終わり」と寝ること――9月10日の補完

 私は、先日の西島大介論で、「世界の終わり」と恋愛の関係についてこのように述べた。西島大介さんは、「「世界の終わり」とか終末観だの閉塞感を、作品のテーマに一貫して採用している」けれど、一読すれば、必ずしも「「世界の終わり」に拘っているわけではないということが分かってくるだろう。じゃなきゃ、作家が「世界の終わり」とともに、ことのほか恋愛をも描き続けるはずはないではないか」と。
 これは本当か? なぜ、恋愛が「世界の終わり」を留保し、さらには世界の更新を開くきっかけとなるのか? 今日はこの問いにそって少し議論を展開してみます。結論から言えば、この答えは、恋愛とは端的に、(わたしの)世界が躓く要因を孕んでいるからにほかならない、ということに尽きます。

 『凹村戦争』は、恋愛経験をすることなく世界に出ようとした男の子が、馴染み深い世界の外もやっぱり同じような世界だったね、という「世界の終わり」の確認で終わった。他方、続く二作品は、「世界の終わり」に恋愛を導入することにより、恋愛関係の失敗、すれ違い、意思疎通の躓きなどを通して「世界の終わり」を対象化し、その多面性を示唆してみせたのである。このことは上記したことを象徴しているといえる。
 むろんラブロマンスを書きゃいいってものではない。西島作品は、「世界の終わり」に踏みとどまりながらも相対化するためのツールとして恋愛を導入しているのである。しかしそれだけではない。
 西島作品は、「世界の終わり」という背景設定に恋愛を導入するだけではなく、つまり物語のキャラクターに恋愛させるだけではなく、作品自ら「世界の終わり」と恋愛しているのである。というのも、以上で示した恋愛の効用は、西島作品の形式にも及んでいるからだ。
 彼の作品の魅力を形成する一つの要因として、西島作品の読者の誰もが知る通り、サブカルの教養(文学や映画、アート、現代思想からの引用など)とオタクの教養(セリフからイメージに及ぶキャラ萌え要素など)との同居が挙げられる。すなわちサブカル的世界とオタク的世界の恋愛。
 サブカルが「世界の終わり」に見る「不毛なる記号の砂漠地帯」は、オタクにとっては「萌えの肥沃した楽園」なんだけど(ほんとかよ)、いずれにせよ両者は「世界の終わり」に対して相反するリアクションを取る二つの性向だと考えることができる。つまり、新しい世界を物語ることをことごとく断念させる「世界の終わり」に対して編み出される、サブカルのパロディ・引用癖は、世界から距離を取るための引用=記号消費であり、ひたすら萌え要素を組み替えるオタクは、世界に没入するための引用=記号消費なのだということ。
 そしてこの両性向に恋愛させることが、西島作品の世界を構成していることは間違いない。この恋愛によって、たとえば、世界に対するサブカル的なアイロニーのいやみったらしさ(世界からの撤退)は、萌えオタク的なアイロニーなきいささか気恥ずかしい単刀直入さ(世界への没入)と相対化しあうだろう。

風俗やAVの通りに既視感あふれた性行為をくり返し、グラビアアイドルを思い描きながら絶頂に至る性愛関係なんてヴァーチャルだし、自慰行為にすぎないじゃないか。何言ってるんだか、いまさら気恥ずかしいのはそっちであって、ぼくの思い描いた通りに奉仕してくれるヴァーチャルなアイドルとじゃなきゃ萌えないに決まってるじゃない、『ラブひな』みたいなさー。なんとも無節操な、それに比べれば『めぞん一刻』のほうがまだしも節操があったような気がするよ。

 どちらの世界消費にも流れすぎずに踏みとどまること。ここにおいて西島作品は、以前分析したしりあがり寿作品の放つギャグの有様と繋がる(8/30日記参照)。しりあがり的な笑いもまた、「世界の終わり」を貪欲に消費する不条理ギャグに対する違和から放たれたギャグによるところのものだった。

 恋愛を乾き切った「世界の終わり」で否定するポストモダンも、「世界の終わり」に恋愛を導入することにより「世界の終わり」を悲劇のオブラートでコーティングするセカイ系も、「世界の終わり」にまつわる終末観だの閉塞感に対する一つの反動的なリアクションであり、世界を見通している気になっているかもしれないけれど、けっきょくそれらはローカルな一つの世界に閉じこもることにしか結果しない。というかそもそも「世界の終わり」をちゃんと見据えていない。
 前回の前口上と矛盾するようだけれど、西島作品こそ「世界の終わり」と恋愛しているのである。彼の作品から終末観だの閉塞感に回収できない、あっけらかんとした晴れ間が感じ取れるとしたら、それは西島作品が「世界の終わり」と恋愛している故なのだ。愛しいあなたとわたし、二人が育む世界を相対化し、多面性を見出すなかにとうてい予定調和で終わらせてくれそうにない世界の矛盾や亀裂を発見、それらを隠蔽することなくまるごと愛そうとする試行錯誤故である。