感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

今日的ギャグの傾向と対策――8月30日の復習(1)

 先日は、ギャグマンガを題材にしてギャグに対する感度を問題にしました。それは歴史的に規定されるものだけれど、しりあがり寿というマンガ家を通して必ずしもそうとは言えない、作家独特の感度も歴史(ギャグマンガ史)上キラ星のように点在しているということを明らかにしたかったわけです。
 けっきょく、80年代に台頭した不条理ギャグは、笑う対象(内容)の高みに立って繰り出すギャグだった。だから、ギャグの内容は確かに不条理(「ありえない」もの)なんだけど、そのギャグを放つ(「ありえない」という)側は条理きわまりない安全圏にいるという図式をとる。思えば、80年頃を境にブームになった漫才の当時の主流タイプと言えば、B&Bの洋七さん、ツービートのたけしさん、ザ・ぼんちのおさむちゃん、紳助竜介の紳助さん、西川のりおよしおののりお師匠等々、相方をただ頷くだけのポジションに追い遣り(ツッコミ役さえ奪い)、自らボケてツッコむ全能プレイヤーがギャグを司っていたわけです。
 なにかのインタヴューで、しりあがりさんは自分がマンガ家を始めた80年代の笑いの取り方を回想し、当時は、ネタにする笑いの対象を必要以上にいじめてるみたいで、なんかやだなあという違和感を表明していました。
 じっさい、このような笑いの図式は、吉田戦車さんあたりから崩れはじめたわけです。ギャグを組織する側が、笑う対象を十分に把握できなくなってきたのですから。安全圏からの失墜。今まで一方通行に笑っていた対象にまみれ、寄り添うことになってしまう。このへんの感情の揺れ動きを、しりあがり寿さんは自分のギャグマンガに表現として明確に還元していたということが、先日最も言いたいことでした。 
 以前出会ったサイト(http://www2.odn.ne.jp/~hak33740/kiji/tamori1.html)で、ダウンタウン松本人志さんとタモリさんのボケ方について見事にまとめていたことも、以上の経緯と関連します。先ずは、松本さんのボケ。彼は、ツッコミを先読みしたボケだというのがその主張。つまり、通常なら、ボケに対してツッコミの軌道修正によって笑いが生まれるわけだけど、先読みボケの場合、先ずボケをかまし、「そんなのありえないよ」とつっこまれるや否や、「いや、それがあるんですわ、これこれこういうことでね」という二段ボケ(とそれに対するツッコミの驚き・唖然・キレ)によってようやく笑いが生じるというもの。
 たとえば、「ここだけの話うちのかみさん、先日悪魔を産んだんですわ」というボケに対して、当然「そんなあほな」というツッコミが用意されるわけですが(その前に、「へー、道理で君んとこの、悪魔みたいな顔してたもんな」とか前振りのヴァリエーションが挿入されたりしつつ)、「いやいや、うちの子の名前ですわ、皆さんも悪魔くんて呼んでやってください」というようなオチ。
 例は途方もなくつまらなくて申し訳ないのですが、こうやって延々と(「悪魔」という種族→「悪魔」という名前…)文脈をずらして意味を換えながら笑いを取っていくわけです。「寒いなあ」、「え、いま真夏ですよ」、「寒いのは、君のギャグ」、「お互い様や」、「ぼくのはクールって言ってほしいわ」とか、またもや例はつまんないけど、こんな感じで。
 ここで、ミステリに傍証をお願いします。ミステリは、犯人(ボケ)と探偵(ツッコミ)との謎をめぐる駆け引き、解釈合戦なわけですが、この駆け引きも相手の解釈を予測・先読みしながらなされるものでしょう。たとえば犯人は、犯行現場に、解決を撹乱するために謎(犯行の直接的な痕跡とは別の謎)を敢えて仕掛ける。「見立て」というやつですが、通常のプロファイルによれば、連続殺人の被害者の皮膚が全て剥がされているのは性犯罪者の犯行だということで、前歴者を調べるわけですが、このプロファイルを予測した犯人は性犯罪者にみせかけるように敢えてそのような「見立て」を仕掛けたりする。動機は性犯罪なんかではないのにもかかわらず。
 しかし、この「見立て」(謎解きのカギでありながら疑似餌でもある)をめぐる解釈ゲームが過剰になり、予測の応酬になったらどうなるか? お互いが予測の予測の予測…にまみれながら、ほとんど「見立て」の意味をなさなくなるまで「見立て」を使い尽くそうとしたのが――これは性犯罪者の犯行だ、いやキリスト教七つの大罪をメッセージとしており込んだ宗教がらみの犯行だ、いやそのようにみせかけているだけだ、いやここには犯人の名前がおり込まれている、いや…実はなんの見立てもないんじゃないの?――、メフィスト賞ラインナップ、清涼院流水さんから舞城王太郎さんに至るポスト新本格(=不条理)ミステリだと思うのですが。

「FBI心理分析官」とか「プロファイル」とかが流行って以来ミステリには欠かせないトリックの構成要素となった「見立て」。ちなみに、サイコ系「見立て」ミステリの躍進に一役買った、映画版レクターシリーズの『羊たちの沈黙』が名作だと思われる方は『エクソシスト3』も是非。オカルトからサイコ、人知外の恐怖から人の恐怖への連続線を含んだ移行がよく見えます。というか『羊』が有名なのに比べて、『エクソシスト3』の日陰者の扱いは気の毒だと心底呆れるから。ホラー映画としても傑作。だからホラーの巨匠? 黒沢清監督の名作『CURE』には『エクソシスト3』へのオマージュが正しく見られます。

 ここでダルそうにタモリさんの登場。彼のシュールなボケも恐らく清涼院以降の不条理を共有していて(清涼院さん自体はそれ以前の文脈をきっちり踏まえているんですけどね)、松本さんのボケのような、別の文脈に移行することによって生じるギャップを笑いの起爆剤にはしない。『笑っていいとも』が三食の飯と同じ感覚で私たちの日常の風景に組み込まれているように、彼のボケはただ日常の駄弁を繰り出し続ける呟きのようなものでしかない。
 そもそも日常の駄弁なんてさして筋が通っているものではなく、適当な相手に対して無意識裏に垂れ流されてるものでしょう。排便のときの方がまだしも意識してるよっていうくらい無意識裏に。昨日あのテレビ番組見た? とか言ってみたり、と思えば相手の返事さえまともに聞かぬうちに、すぐ気(文脈)が変わって、ああそういえばさあ、なんか今日数学あったっけ、たるいよね、とかいってみたり。文脈はたえずずれるんだけど、その間のギャップなんてほとんど存在しないようにするすると変換していく。
 ちなみに、「さまぁ〜ず」の不条理ギャグもこの近傍。たとえば大竹さんのギャグに対する三村さんのツッコミをみればいい。普通のツッコミは、ボケに対して否定のジャッジを下すわけです。これは、先読みボケに対しても同様。ボケが「A」とボケれば、ツッコミは「-A」の側に立つ。しかし、さまぁ〜ずの三村さんは、(一拍置いて)「Aかよ」というツッコミでもって、ボケを単になぞるだけ。この前引用した吉田戦車さんの4コマ(『伝染るんです。』)のケースのように、思いっきり否定したいんだけど、なんかちょっと躊躇っちゃうツッコミになるでしょう、彼のは。存在する意味があるんだかないんだかよく分からない、けれども私たちテレビ視聴者にとって既に手放せない存在になってしまった「後追いテロップ」のようなポジション。

テレビにおけるテロップとは、当然、メインの映像を引き立てるための媒介であり、あくまでもメインの映像を分かりよくするための補助的なポジションにとどまるものである、というのがテロップの本来の機能。しかし、恐らく80年代にその様相が徐々に転移しはじめる。あるヴァラエティ番組が、プレゼントが当たるとかアンケートを募集するときに、宛先をテロップ表示したりするわけですが、そのテロップに対してわざわざ指差し確認する出演者が出てくる。彼らは、テロップを出す編集段階を先読みして敢えてそうやってるわけです。この指差し確認が、編集過程を含めたこのいま流している映像の外部に立つことを可能にし、誰よりも優位に立ってるんだぞというメッセージを発しながら笑いをもたらしたわけです。視聴者も、この仕草に同調することによって笑うことができるポジションを確保する(ことに必死)。さらに、この指差し確認の結果、テロップがメインの映像から自立しはじめます。私的には恐らく『電波少年』辺りが画期だと思うけれど、出演者のセリフをわざわざ拾って活字化する「後追いテロップ」が登場。当初はウザイ、邪魔だとして不要論者が多数を占めたけれど、ほとんど市民権を獲得した現状、「後追いテロップ」のほか、いまやヴァラエティ番組に限らずいろんな番組枠において、画面上メインの映像は様々なテロップで占拠されつつあるようです。番組のタイトルだったり、現在流しているテーマだったり、出演者をスーパーインポーズしていたり、等々。このようにテロップ群によって映像が相対化されるなか、誰がどのように画面を構成し、情報を取捨選択しているのかはひとそれぞれになるほかなく、したがってテロップが多用化する画面を前に視聴者は誰もが優位に立つポジションを得ることを断念せざるをえなくなる。さらにまた、『ウンナンの気分は上々。』辺りが効果的に使いはじめた「ツッコミテロップ」というのがあって、『気分は上々。』は画面下方に「後追いテロップ」が数行を申し訳なさそうに占拠しつつ、画面を二分割するごとく真ん中にナレーションがテロップとして被さってるという体裁。ここのナレーション・テロップが、画面内出演者の言動に対して効果的にツッコミを繰り出すわけです。このとき見るべきなのは、ここで出演者たちは、編集過程におけるツッコミを先読みすることなど既に放棄しているところでしょう。まるで多様に貼り付けられたテロップの一部であるかのように。

 ただし、吉田戦車さんのはタモリさんほど堕ち切っているとはいえない。恐らく彼のは、タモリさんと松本さんの間に位置付けられるんじゃないか。ラーメンを冷ます息吹き(8/30参照)「ふーっふーっ」と「へーっへーっ」のどちらか一方が否定(「ありえない」と)されるわけじゃないけど、いちおう、というかかろうじて「へーっ」はやっぱり変だありえないというコモンセンスを前提にした、「ふーっ」とのギャップから生み出される笑いなのだから、松本さん寄りのロジックだとも言える。
 90年代は恐らく、松本さんのような80年代の延長にある、たえず文脈を操作しながら笑いの対象よりも上位に立とうとするモチベーションに駆動された笑いと、タモリさんのようにそのモチベーションを早々断念した、というかそれを突き抜けた後の笑いと、この二つの笑いが基調になっているのだろう。
 松本さんのは先読みによってギリギリ保証された投機的な笑いであって、ちょっと踏み外せば笑いの対象(ネタ)に失墜するという、80年代の臨界点で堪えている笑い。80年代の笑いが生じる文脈のギャップが、空間軸に展開されたもの(A/B)だとすれば、それを引き継ぎつつも松本さんのは時間軸に賭けられた(A-A')笑いなわけです。だから、それを受けて立つ(流す)ツッコミだよりのところも多々ある。80年代全能プレイヤーの失墜の予感。
 他方、このような笑いから潔く手を引き、笑いの対象に失墜してしまっても別にいいじゃん、ネタにされた方が楽じゃんと開き直った笑いがタモリ的な笑いなんでしょう。じっさい彼の場合、彼をハーレムの如く囲む若手のツッコミやちょっかいがなければ、一見なんのことはない笑いなんだけど――ただでさえボケなんだかなんだか微妙に分かりにくいリアクションだというのに、ボケAをしてると思ったら、目を離した隙になんの脈略もなくボケQをやってたりして、突発的に癇癪を起こす子供をあやす周りの後見人という構図――、そういえば、彼の番組はことごとくタモリの「接待番組」と化しているといってたウェブサイトがあったな、至言。ウンナンもどうやらタモさんになろうとしてた節があるけど、若手をはべらせて展開するああいう笑いは私的には反則だと思うんですがね、どうでしょう。
 でもタモリさんの場合これが自然なんだよな。自ら笑いを作るというより笑いの場を育むというか。これ全身、ツッコミにたよりまくった無能プレイヤーに見せかけた全能マトリックス。恐るべし。
 で、そんな彼らに対してしりあがり的な笑いの見るべきところは、松本さんと同じように複数の文脈にわたって文脈操作しながらも、最終的に笑いの対象と同じ地平に降りることも辞さない、ぜんぜんかまわないという脱力した潔さを見せる点でタモリさんと重なるところにある。何事も両面でいくわけです。
 そう、最後のオチに向かって暴走しつつボケと突っ込みを入れ替える笑い飯のギャグは何故あんなにも哀しさに彩られているのかと思うことがしばしばありますが(彼らの風貌の哀愁感漂う嫌味のなさが多分に作用しているとはいえ)、80年代の漫才ブームにあってやはり異才を放っていたのがやすしきよしの入れ替わりながら疾走するボケとツッコミだったわけだし、彼らとは別に、ボケの笑いをサポートするツッコミ自体がボケになるというか、笑いをもたらす強度を持ってしまうさまぁ〜ずアメリカザリガニに、特別私が愛着を抱いてしまうのもこの辺に理由があるのだと思う。