感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ナレーションおよび物語分析の再考

ここのところずっと、ライトノベルジャンル小説の作家――とくに冲方丁西尾維新――を読んでいた。それとは別に、文学におけるナレーションの効用についても考えていたのだけれど、彼らの作品からいくつか得るところがあった。
昔からの変わりばえのしないナレーションを用いた作品には飽きを感じていたし(内容は新奇なものでも、その皮袋であるナレーションが古めかしいものの多いこと!)、従来のナレーション分析にも疑問というか限界を感じているところだった。
ではどうあるべきなのか。結論からいえば、ナレーションは、従来のように、(物語に対して)メタレベルに設定するのではなく、物語(キャラクターとプロット)とシームレスに繋がっている――言い換えればナレーション・キャラクター・プロットが各操作軸として重層化されている――ととらえるべきである。どういうことか。
たとえば、冲方丁は、ナレーションとキャラクター(およびプロット)の関係をこのように述べている。

パロディとは読者・書き手・編集の間で成立した共通了解を再確認させる装置である。作品内でパロディされているものがそもそも何なのかを読み解かせることで、そのジャンルがどういった要素で成り立っていたかを現実的な共通了解として認識させるのである。/それは閉じていた場所に穴を空けて、外部にあるものを流し込む役割をも担う。それまでお約束ごととされていたものに疑問を呈し、それとは違う法則や常識を流し込んでぶつけ合わせ、意図的な破綻をもたらすことによって、使い古された手法の再定義をはかる。/周辺から遠巻きに眺めるような視点(ドン・キホーテ式)でそれをやるか、頭上から見下ろすような視点(デウス・エクス・マキナ式)でそれをやるか、あるいは内なる声(トリックスター式)としてそれをやるかは、はたまたそれら全ての手法を入り乱れさせるかによってパロディの行方が定まる。/『スレイヤーズ』や『日帰りクエスト』がファンタジーにおいて頭上から見下ろすような視点によるパロディを行ったのに対し、『撲殺天使』が行おうとしているのは男性向けライトノベルにおける内なる声としてのパロディである。(冲方丁「『撲殺天使ドクロちゃん』論」、http://lanopa.sakura.ne.jp/ubukata/dokuro.html

これはキャラクター(およびプロット)のパロディ論だが、ここで注意したいのは、冲方にとってキャラクター(およびプロット)は、独立して成立するものではなく、キャラクター(およびプロット)からどのような関係をとり(視点)、いかに組織するか(編集)というナレーションの審級と不可分の関係にあるということだ。
いま面白いライトノベルジャンル小説を書いている作家は、以上のようにナレーションの機能・効用を把握しているのではないか。
西尾維新に関しては、詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/sz9/20100221(「語り手とキャラクター タグとしての呼称」)を読んでほしい。西尾の(一人称・ないし焦点人物に寄り添った三人称)ナレーターは、キャラクターの会話の背景に退きつつ統制する従来のタイプのナレーションではない。会話のやり取りとシームレスに繋がりながら、キャラクターを活かした演出をしている。西尾のナレーションは、会話に対するツッコミやボケ(ネタの提供)、会話の先読みなどで会話に積極参加するコミュニケーションタイプだからそれも当然のことなわけだが。
くり返せば、彼らにとってナレーションは、メタレベルにあるものではない。他方、従来のナレーション分析は、ナレーション(叙述)をフィクション(物語)に対してメタレベルに設定するものだった。そこでとくに問題となるのは、人称(視点)と時制(時間の編集)である。回想形式で事後的に語るという意味でメタレベルに設定されたナレーションの特性ならではの問題点であるといえる。
そしてこの人称と時制の観点から把握されたナレーションにおいてカギを握る評価軸とは、きわめて認識論的なものだということも注意したい。それはつまり、主客(より主観的な一人称、より客観的な三人称等)であり、真偽(この語りは事実か虚構か)である。
ここで『認知物語論キーワード』(西田谷洋・浜田秀・日高佳紀日比嘉高、2010年)を取り上げたい。本作は、メタレベルに担保されたナレーションと、それによって運営される物語を前提にした(認識論的・解釈学的な)物語分析・ナレーション分析に限界を見出し、新たに認知科学的なアプローチを導入しようとする、きわめて今日的な試みである。
ただしこの試みも、従来のナレーション分析の圏域にとどまっているということができる。というのも、認知科学の成果を採用したこの試みは、認識論的なカテゴリー(主客・真偽)を知覚感覚の形式レベルに代行させただけともいえるからだ。そこでは、メタレベルの視点(ナレーション)とオブジェクトレベル(物語の構成要素)の関係は安定しないが、むしろその不安定さこそ分析上積極的に肯定され、ゲシュタルト的な反転――触れることは触れられること=主客の一致――が活用されるだろう(物語の構成要素の地と図とかテクストとコンテクストの境界設定に注目する等)。
しかしそれもけっきょく、メタレベルを残存させ、認識論的なカテゴリーが主要な評価軸として生き残ることになるのである。ここで問題になっているのはあくまでも、ナレーションは物語をどのように把握するか――読者はナレーションを通してどのように物語を認識・知覚するか――なのだ。認識(メタレベル)の全能性は否定されていても、主客を分化した上で世界(物語)を掌握するという発想は捨てられていない。振り返れば、このような発想を踏まえた従来の物語・ナレーション分析は、描写(の巧みさや意外性)や認識なり記憶(の不可能性)をしばしば問題にしてきたのだった。
しかし、冲方や西尾といったライトノベルジャンル小説の注目すべき作家は、そのようにナレーションを用いない。彼らにとってのナレーションは、物語(キャラクターとプロット)をいかに運営するかという機能性・効用性の面で積極活用している。
私は以前、こう述べたことがある(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20100221)。ライトノベルのナレーションはしばしば(通常の語りのように)回想の形をとらず、現在形でひたすら語る。それによってメタレベルを形成することなく、キャラクターとプロットの編成を優先させる語りの平面を作り出していると。このこともやはりこれまでの話と関連しているだろう。
今後は、以上のような側面からの物語・ナレーション分析の整理も必要になってくると思う。たとえば、作品ごとに、キャラクターとの関係を認識論的に接する度合いが強いナレーションがあったり、パロディとして接する度合いが強いナレーションがあったりするのである(冲方が論じるようにパロディにもいろいろなタイプがあるわけだが)。
プロットの場合はどうだろうか。たとえば芥川龍之介の『藪の中』。この作品は、チャプターごとにそれぞれのキャラクターに一人称視点で語らせるというナレーションを採用している。このナレーションによって、それぞれの一人称視点の食い違いを露呈させた『藪の中』は、認識(記憶)の再現不可能性を問題にしたと解釈できるが、その一方で、ミステリ・プロットのサスペンス効果のために一人称のマルチ視点を採用したというナレーションの機能面から説明することも可能なのである。
まとめよう。現在注目すべきライトノベルジャンル小説の――とくに両方に関わって活躍している――作家が試みていることは、単にナレーションにしたがって物語(キャラクターとプロット)を構成するというものではない。また、キャラクターを自律・突出させて物語のための他の要素(プロットとナレーション)を無視なり抑圧なりしているわけでもない。
彼らは、物語の構成要素――キャラクター・プロット・ナレーション――をより適切に関わらせ機能させるために、作品ごとに調整を行っているのである。たとえば、キャラクターを活かすためには、キャラクターのデータベースをひたすらいじっていればいいわけではない。他の構成要素、ナレーションやプロット等の活用を通してキャラクターは活きてくる。ナレーションを活かすのも、プロットを活かすのもこれと同じことがいえる。
キャラクターもプロットもナレーションも魅力的に機能させている彼らの物語運営法を見本にして、私たちは、ナレーションの概念を変え、物語・ナレーション分析をいまいちど見直さねばならないだろう。
この続きは、近いうちに発表することになっている冲方丁論にて披露するのでどうぞよろしく。