感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

島田雅彦『悪貨』

悪貨 (100周年書き下ろし)

悪貨 (100周年書き下ろし)

島田雅彦の近著『悪貨』について感想を述べます。まず悪貨というくらいだから、貨幣について少し説明(島田氏も共有している現代思想的な説明)をしておきましょう。
貨幣とは、諸々の商品に対してゼロ記号のポジションにあります。つまり、自分自身の価値はないが(=虚勢)、どんな商品とも交換できるという意味で、逆説的なオールマイティーの立場にあるということです。無価値ゆえの全能性。
それに対して悪貨というのは、贋金であり、オリジナルの貨幣に成りすましたコピーのことです。そのコピーの、経済システムへの介入・増殖によってシステムそのものを揺るがせる性質を悪貨は持っています。この小説のポイントになるところですね。
また、この小説では、地域通貨を流通させる反体制コミューンの話も出てきますが(ここでは偽造紙幣と地域通貨は根深く連関しています)、利子を発生させない地域通貨もまた、贋金・偽造紙幣とは違った形で経済の信用システムに憑依し、揺さぶりをかける悪貨的な性質を持っています。
振り返れば、島田雅彦は、作家としてのキャリアの中で、この悪貨的な――コピーによるコピーのためのコピーの王国――自己免疫不全の問題を長らく扱ってきました(サヨク、AIDS*1漱石や三島へのアイロニカルな愛着、郊外、天皇制等々)。
この小説は、増殖する悪貨の流通にしたがって複数の伏線的プロットが複雑に張り巡らされています。しかし、中心となるプロットは明確にある。それは、これまた島田青二才雅彦お得意の――というより文学の古典的なプロットといっていいでしょうが――母親憧憬と父親憎悪(母恋を妨げるものへの不和)のセット、つまりエディプス・コンプレックスです。これもオリジナルとコピーをめぐる話型ですね。
エディプス・コンプレックスといえば、従来のタイプのものは、視点人物の息子が商品(自分固有の価値に固執する)であるのに対して、父がゼロ記号の立場に立つという図式だったはずです。その典型というか徹底形態が中上健次の『地の果て至上の時』(1983年)に至る秋幸サーガの父殺し(父が勝手に自死する)でした。
偉大なる空虚な父・三島由紀夫を反復した島田雅彦の「無限カノン三部作」*2も、三島・中上後の廃墟となった――尾辻克彦『父が消えた』(1980年)!――エディプス・コンプレックス劇をいまいちどアイロニカルにくり返してみせるものだったといっていいでしょう。
しかし、『悪貨』はそれとは異なります。妙なことに、これは、息子(野々宮)の方がゼロ記号を占めているのです。彼は、一見誰よりも自主的に動き回っているようですが、必ずしもそうではない。自分の味方や敵、愛する父に対してさえも、彼らの考えや欲望を投影する鏡のような存在として設定されているのです。彼を取り囲むキャラクターは、自分の欲望を思い思いに彼に当てはめ、また彼もその流れに合わせて考え、行動するところがあります。結果的に、彼の父殺しは、彼のものなのか、父のものなのか、彼らを嫌う他人(敵)のものなのか、よくわからないまま遂行されることになるのです。父殺し後の、彼が(自主的なようで受動的に)事態に飲み込まれていく顛末も、彼の悪貨的なゼロ記号の属性ゆえのものでした。
では、この息子・野々宮のゼロ記号が物語(悪貨が蔓延する信用システム)の中心軸になっているかというと、そうではありません。そこには、もう一つの軸、中国(の父と息子)が設定されていて(野々宮は彼らにとっての息子でもあり父でもあるのですが)、それがまた別の論理で動いており、その結果、最後の顛末にも鋭く介入してくることになります。
以上のように、外交関係を含め、政府に警察、反体制勢力や複数の人物の思惑を、それぞれ別の論理で絡ませながら――そこに自己免疫不全的テーマを明確に貫き通して――物語を作りこむ手つきが、島田雅彦の面目躍如たるところなのです。
ここにはもう、たとえ空虚であっても何らかの指針になりえた父(否定神学)さえいません。どの貨幣(システム)も悪貨的なゼロ記号であるように、どのキャラクターも人間関係を浮遊する悪貨的なゼロ記号の属性を持っているのです。
そうです。島田雅彦が、アンドレ・ジイド以来小説にとって重要な概念となっている「贋金」を使わず、「悪貨」を採用したところはもっと注目すべきでしょう。「贋金」とはオリジナルに対する劣位(コピー)の意味を含みますが、「悪貨」とは「良貨」に対して金の含有量が相対的に少ないという意味でしかありません。ここではオリジナルかコピーかという客観的な評価軸は意味がないのです。なにをもって(どのくらいの量で)「良貨」か「悪貨」かは、絶対的な基準などなく、その時々の文脈・制度・人間関係によって決定されるほかない。『悪貨』は、そのような意味で悪貨的な、過酷でユーモラスな状況を生きている人々を描いた物語なのです*3
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叙述の細部に執着したり、はたまた身の丈のリアリティをよしとしたりするデフレ小説が基調になりつつあった純文学に、インフレ小説が現れたのは意義深い。勿論『悪貨』や『俺俺』(星野智幸)のことです。

*1:『未確認尾行物体』1987

*2:『彗星の住人』2000年『美しい魂』2003年『エトロフの恋』2003年

*3:贋金的リアリズムから悪貨的リアリズムへ、とでもいいましょうか。