感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

逆セカイ系から見た私 ゼロ年代のジャンル史論

私は「エヴァ」にも「lain」にもノれませんでした。疎外と孤独を扱っていればアニメやゲームとして認められてしまうところが、この業界の19世紀的な幼稚さです。あの手のモノが、ぼくは大ッッ嫌いです。(『伊藤計劃記録』伊藤計劃、二〇一〇年)

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このところ、批評の世界ではゼロ年代の表現史を総括する言説が増えている。そのきっかけとなったのは周知の通り宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(二〇〇八年)だが、それに対してはこれまで賛否両論あった。とりわけ問題になっているのは、そこで宇野が問題にしたセカイ系なる概念だ。本稿は、この概念が流行し、また衰退していく時代の文学表現について、ジャンル論・ジャンル史の観点からまとめるものである。
まずは、宇野を批判的にとらえながら、セカイ系を総括した前島賢の『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(二〇一〇年)を手引きにして議論をはじめることにしたい。
常考えられているセカイ系の定義とはどのようなものか。それは、(1)キミとボク――たいていはピュアな女子と男子――の極私的な関係が、(2)それを取り巻く社会的な中間領域――家族や地域や国家――を介在させることなく、(3)世界戦争や世界の危機といった抽象的な大命題に直結されて物語られるような物語形式のことを言う。
前島は、まずセカイ系を問題にするに当たって、このいまや自明となっている定義を疑い、括弧に入れてみせる。そして、セカイ系とはそもそも、エヴァ――もちろん一九九五年から放映され社会現象となったテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のこと――以後のオタク的物語消費(オタク第三世代)にとって欠かせない「自意識過剰な内面語り」「激しい一人語り」のことを指していたのだと、自分の経験も交えながら定義し直す。
前述のようなキミとボク的物語形式がセカイ系の代名詞になったのは、むしろもっと後のことだというのが前島の見解だ。セカイ系という概念なり発想が、実作ではなく批評の文脈で持て囃されるようになってからのことであると。
かくして、セカイ系が批評の文脈で盛んに取り上げられて以降、実作においても、セカイ系という概念・発想は素朴に扱われることはなくなり、批評的・自己言及的に作中に実装されることになる。次第にセカイ系という概念・発想が隆盛しつつも多様化・混乱し、バズワード化しはじめたのがこの時期であると、前島は丹念に考証しながら指摘するのである。
前島のこの考証学的アプローチは、彼自身がエヴァ以後のインパクトを受けたオタク第三世代としてふさわしい「激しい一人語り」を交えながら、にもかかわらずそれに流されまいと厳密に展開しているところがあり、とても好感がもてる。多くから良書と言われるゆえんであろう。
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しかし、この著書によって宇野常寛セカイ系批判の試みがリセットされたかのような議論が方々でなされているが、その政治的な見通しはいささか性急である。
前島の著書が出版される以前のセカイ系に関する評価は、賛否両論ありながら、『ゼロ年代の想像力』の宇野常寛による否定的評価が大きな影響力をもっていた。宇野にとっては、オタク的物語消費を代表するセカイ系はオタクのレイプ・ファンタジーであり、そもそもエヴァ以後の時代遅れの物語形式でしかないということになる。
宇野のセカイ系評価に対しては、彼の挑発的な文体の影響もあって、多くの批判を呼ぶことになった。たとえばその一例に『社会は存在しない――セカイ系文化論』(限界小説研究会、二〇〇九年)がある。このような文脈の中で『セカイ系とは何か』が出版されるわけだが、この著書の周囲の受け取り方は、内容のリテラルな評価以上に、アンチ宇野的な文脈で読まれたことも事実である。また、前島の議論にもそのようなニュアンスが含まれていることも間違いない。しかし、くり返すが、そのような宇野評価はいささか性急である。
考えてみてほしい。たかだか「自意識過剰な内面語り」が、何故かほどに重要視され、「セカイ系」という名のもと多様化し、多くのフォロワーと反発を呼んだのか。いつの世にもある「自意識過剰な内面語り」ではないか。いつの世にもある自己言及がサブカルチャーのパッケージにくるまれただけではないのか。
周知の通り、「自意識過剰な内面語り」や「社会性のなさ」「自我と世界の短絡」といったモチーフは、文学史において、白樺派私小説――『風俗小説論』の中村光夫にとっては日本の近代文学全てがそのモチーフに該当するという恐るべき結果になるのだが――に対してしばしば批判的に言及されてきたものである。だから、セカイ系なんて何をいまさらと感じる人がいても不思議ではない。
しかし前島の議論を、書かれてはいない余白まで含めて追っていくと、セカイ系という名には、そんな「いまさら」だとか「たかだか」といった感想では済まされない、ある過剰なものが、確かに潜んでいることが見えてくるだろう。前島の実証的なセカイ系評価はそれを抑圧して成り立っているところがあるのである。
それを、たとえば精神分析にかけてみるなら、物語消費の政治的文脈、つまりオタク第二世代(オタク旧世代)の切り離しと第三世代(エヴァ以後のオタク世代)の卓越化という文脈が指摘されるだろう。前述した通り、前島によれば、オタク的物語消費はエヴァ以前と以後では断絶があり――象徴的な世界設定を軸にした物語消費からキャラ萌えとデータベースを軸にした物語消費へ――、セカイ系は後者の文脈において形成されたものである。
むろんここには東浩紀がいる。彼はまさに、エヴァ以後のオタク的物語消費の変容を指摘して(いうまでもないが東のこの指摘はリテラルには政治的ではない)、その後のオタク的物語消費を軸にした批評の世界を牽引したのだった。実際、この著書は東の議論に多く依拠している。
とりわけ東は、ゼロ年代に入るのを前後して文芸批評の対象を、純文学・現代思想プロパーからオタク系コンテンツ(ライトノベル美少女ゲーム)に切り替えていった。そこで東が提示したデータベース消費やキャラ萌えの概念は、ジャンルを越えて影響を与えたが、東の関与が比較的薄いセカイ系もその文脈で読まれたことは、これは純文学の側にいた私の印象論ではあるけれど、間違いないものだと言える。
むろんセカイ系は単純に東浩紀の文脈に回収されるものではない。しかし、その定義を曖昧にしたまま東に直結させてセカイ系批判の論陣を張ったのが宇野の政治であったわけだ。これらが行われた時期に対して、前島は「混乱」と称し――セカイ系の概念が物語形式に還元されて以降もそれほど混乱していたとは私には思えないのだが――、それ以前にルーツを求めたのだが、その試みもまた、実証的な交通整理だったとはいえ、やはり若干の政治性が感じられなくもない。
しかし前島がこの著書で、キミとボク的物語形式がセカイ系の代名詞になった時期をセカイ系の「混乱」と称し、エヴァ以後の(エヴァが明らかにした)「自意識過剰な内面語り」にルーツを求める構成は、歴史的事実であろう。しかし事実であるだけに(セカイ系とは「自意識過剰な内面語り」であるという身も蓋もない事実!)、その事実に回収されない、セカイ系という概念にまとわりつく過剰なものを感じさせずにいないのだ。
くり返せば、前島は、宇野常寛セカイ系認識を批判した。宇野は、セカイ系が古い想像力に基づいたものであるとして、そんなセカイ系を擁護する東浩紀(のフォロワーによる劣化ヴァージョン)に対して批判したのだった。この宇野に対して前島は、セカイ系に自己反省・自己言及性の契機を見出し、批判するのである。たとえば、セカイ系のレイプ・ファンタジーはたえざる自己反省がおり込まれており、外部からの批判は意味がない(誰もレイプ・ファンタジーの外部には立てない)と。
しかし、セカイ系というテーマ・セッティングが、エヴァ以後のオタク的物語消費を明らかにし、その後の批評を牽引してきた東浩紀と根深く関連している以上、前島の宇野批判は不十分である。むしろ宇野は、セカイ系と東を結び付けることで、セカイ系の本質を十分に理解し、利用していたと言えるのである。
むろん、セカイ系の考証を厳密に行った前島の成果は批判されるべきものではない。しかし、セカイ系が定義に反して過剰な文脈を形成した理由についての問いは、彼にはなかった。
まとめよう。前島の議論はセカイ系の定義を正確に検証する実証性の高いものであった。しかし、セカイ系がその定義を越えてジャンル横断的な影響力をもつにいたる原因と文脈については言及していない。それに対して、宇野のセカイ系評価は、ポストセカイ系を肯定せんとする論戦的、議論喚起的な性格上、恣意性に充ちたものである。しかし、セカイ系の影響力に正確に対応し、利用したものだったとも言える。
このような彼らのセカイ系評価に対して、私は別の評価軸を差し込んでみようと思う。これによってセカイ系は混乱するとも言えるし、賦活するとも言える。いずれにせよ、セカイ系というテーマには、私は文学史以上の興味はない。ということはつまり、セカイ系という評価軸があるということは、文学史を豊かにするが、セカイ系(に言及している)だからという理由で文学作品を評価しないという程度のスタンスだということだ。より簡単に言えば、セカイ系より文学作品と文学史の方が重要だということである。
したがって、ここで私が試みるのは、文学史の観点から、セカイ系評価に別の評価軸を差し込むことであり、具体的にその評価軸とは、ここではジャンル論・ジャンル史を採用することにしたい。
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前島によれば、セカイ系のルーツは実存的な問題である自意識過剰な語りということだが、そもそも九〇年代後半は、様々な分野で既成の秩序が機能しなくなっていることが指摘され、自分探しや自意識の空転といった現象が見られた。文学や映画、マンガ等の表現ジャンルでは、秩序に回収されない「私」や、単一の歴史に統合されない「私」に焦点を当てた作品が増えた。トラウマやPTSD、癒しやAC、多重人格といった心理学の用語が日常的に語られ、様々な社会現象がこうした心理学用語をメタファーにして語られるようになったのである。精神分析学者の斉藤環はこの心理学ブームを「心理学化する社会」と集約して論じている(『心理学化する社会』二〇〇三年)。
純文学では、柳美里車谷長吉のような私小説作家――私小説であることを自覚しつつ演じる――が登場し、また、文学的な技巧を無視してひたすら自分の興味関心や身辺雑記を断片的に綴る作家たちが注目を集めた。後者の作家たちはサブカルチャーと親和性が高く、「J文学」というカテゴリーに括られもした。彼らの手によるプライベートでフラットな表現を指して、J文学のJはジャンクのJだとする指摘もあった(『JUNKの逆襲』絓秀実、二〇〇三年)。いずれにせよ、彼ら――もうほとんど名前が残っている作家はいないが――の表現には、先行きのない手詰まり感を感じるが、既成の文学史に対する批判として登場し、またそのように受け取られ、期待されもしたことは間違いない。
その一方で、ジャンル小説の分野では、とくにミステリから注目すべき作家群が登場する。西尾維新佐藤友哉舞城王太郎の三人である。彼らは、彼らが関係した雑誌や文学賞の名前から、ファウスト系だとかメフィスト系とデヴュー当時から呼ばれ、ジャンル横断的に注目を集めていた。そして彼らの作品はしばしばセカイ系と呼ばれ、その文脈で読まれた。じっさい彼らの特徴は、よく指摘される通り、過去のサブカル作品のパロディと萌えキャラの活用にくわえ、自意識過剰な語りである。西尾はデヴュー作の戯言シリーズで言葉遊びを徹底し、舞城はその無節操な語りによってドライヴ感のある語りとしばしば評された。佐藤の自嘲的な語りは文字通り自意識過剰な語り手によるものである。むろん、この自意識過剰な語りは、パロディ癖と萌えキャラの活用に見られる、現実から解離した虚構に親和性がある彼らの世界観と相即的なものである。
しかし、彼らの作品は、単に自意識過剰な語りだから注目されたのではない。セカイ系の物語形式を採用しているからでもない。だから彼らをセカイ系として肯定するのも否定するのも不十分である。むしろ彼らの評価は、その独特の語りによってジャンルを横断したところに起因するものだったと言うべきだ。
ミステリやSFなどのジャンル小説は、プロットを作りこむことによって物語を作成することは言うまでもない。ミステリなら密室や暗号、見立て殺人、SFなら空想旅行やタイムリープ、近未来の管理社会といったプロット編制のクオリティーが作品の評価を左右する。そこでは、語り方はとくに問われない。問われたとしても、せいぜいプロットを活かした語りかどうかが問題になる程度である。語りがプロット進行にとって重要な要素である叙述トリックも、プロットを逸脱する語り(叙述)は許されない。
しかし、彼らの語り口は、プロットとは別に、それ自体で魅力をもっている。むしろ彼らの作品は、ミステリのプロットを破綻させている場合が多く、その破綻のさせ方も語りの影響によるところが大きい。このような彼らに対して、ミステリからは賛否両論あったが、純文学からの評価があったのもこのゆえである。純文学は語り口が何より重要視される文学ジャンルだからだ。とりわけ佐藤と舞城は、いまや純文学作家と言っても不思議ではない。また、彼らによる萌えキャラの積極活用は、物語作成においてキャラクターを重要視するライトノベルとの親和性も高く、この方面からの評価もあった。
彼らに対する評価はこのようなジャンル横断性に起因していたのである。そしてこのことは、彼らの出自がミステリであることと根深い関係にある。どういうことか。ミステリとは、単一の秩序・価値体系に則ったジャンルである。つまり、犯人が仕掛けたトリックが前提としてあり、その単一のゴール(謎解き)をめぐって解釈ゲームが展開されるというプロット編制がミステリの枠組みだということだ。
メフィスト系の彼らが試みたのは、その枠組みを自己言及的に批判することだった。具体的に言うと、その解くべき謎(ゴール)を不可能なものにしたり、単に不在にしたり、心理的なものにしたり(解決は客観的に存在しない)したのである。こうすることで、謎解きをする語り手の語りは過剰なものになり、自問自答を繰り返して空転する形にならざるをえない。たとえば舞城の探偵は、ほとんど自作自演的に振る舞っていた。
これはジャンル的にはあきらかに反則技だが、謎を謎そのものにする(謎解きの不可能性)というメタフィクション的な発想は、むしろ、ジャンルの形式を追求すればおのずと生まれてくる必然的な発想であったと言える。とくに八〇年代以降ミステリの主流を占めることになった「新本格」の周辺では、しばしば記号論理学やゲーデルの形式化の問題――単一の体系の無矛盾性(謎解きの可能性)は当の体系の内部では証明できない――が論じられ、ミステリというジャンルを限界から定義付ける試みがなされてきた。新本格の鬼子であり、それゆえ「脱格」と呼ばれもしたメフィスト系の彼らは、その限界をロジカルタイプ(もっともらしいプロット展開の外挿)によって隠蔽するのではなく、むしろ露呈させて、語りを過剰に自走させたのである。結果的に彼らの作品は、ジャンル特有のプロットにくわえ、語りとキャラクターのレイヤーを、それぞれ自律させながら重ね合わせたものになり、ミステリから離脱することになる。
しかし、ジャンル横断的な影響力をもった自意識過剰な語りは、次の段階ではインパクトを失う。それは、前島がセカイ系をめぐってまとめた通り、自意識の実存的な問題が抽象的なプロット(物語形式)に還元されることを意味する。
ふり返れば、文学史が最初に直面した私小説においても同じ現象が見られた。リアリズム運動が自意識過剰な語りを実装した私小説を生み出し(「露骨なる描写」田山花袋、一九〇四年)、告白の叙述形式が文学史を席捲することになるが、そのインパクトは次第に奪われ、自己言及的な自作自演的私小説が登場する一方で、のちの世代の石川啄木(「時代閉塞の現状」一九一〇年)や小林秀雄(「私小説論」一九三五年)らの批判によって冷静にまとめられることになる。その批判の論点はまさしく「社会性のなさ」(自己閉塞と抽象化する世界)であり、このような私小説批判の系譜はセカイ系批判にも影を落としていたと言っていい。
とはいえ、当時の彼らの私小説批判は社会主義運動との関係から政治的に見出されたものであり、「社会性のない日本」という形で安易な日本特殊論に回収されるキャッチーなメッセージ性を織り込んでいたのだが。
メフィスト系の作家に戻ろう。彼らは、プロットを逸脱した自意識過剰な語り(およびキャラクターの偏愛)とそれと相即的なジャンル横断性に依拠していた。しかし次第にそこから離脱し、プロットと語り(ナレーション)、キャラクターの各レイヤーを等分にとらえ、作品ごとに活用するという方法にシフトする。彼らはジャンル固有の約束事や境界線など信じてはいない。佐藤は作品ごとにテーマや語り口を変え、西尾もまたミステリに囚われることなく、独特の世界観を背景にしたシリーズもの(「刀語」「化物語」等々)を手がけている。舞城も、タイムリープとミステリのプロットを組み合わせた『ディスコ探偵水曜日』(二〇〇八年)のように、様々なジャンル小説からプロットを採用し、作品を練り上げているのが現状だ。
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このように価値が転換し、多元化する時代においてクローズアップするジャンルがSFである。
前述した通り、ミステリはジャンルの規則上、単一の秩序なり価値体系を前提にして、そこに生じた差異や破れ目を――犯人の仕掛けた価値体系にしたがいながら――縫合するという物語構成をもつ。他方、SFは、『SFの変容』(一九七九‐邦訳一九九一年)のダルコ・スーヴィンが指摘する通り、複数の価値体系(の差異)を前提にしたジャンルである。だからSF批評の界隈では、エクストラポレーション(仮説の外挿)をはじめ、脱構築や脱領域(巽孝之)、異化効果(スーヴィン)といった差異を際立たせるワードがこれまで活躍してきたのだった。
平野啓一郎が、連作となる『決壊』(二〇〇八年)と『ドーン』(二〇〇九年)を執筆するに当たって、前者をミステリにして世界認識の不可能性を問い、後者をSFにして世界認識の(不可能性を踏まえた)複数性を問題にしたのも、ジャンルの違いにきわめて自覚的だったからである。
東浩紀ゼロ年代も同じ文脈で語れるかもしれない。東は、メフィスト系のミステリ作家を批評でバックアップするところからゼロ年代をスタートさせ、後半はSFの文脈に移行し、自身の手になる小説『クォンタム・ファミリーズ』(二〇〇九年)もSFを選んだのだった。
このように、世界の単数性に依存するミステリと世界の複数性に依存するSF、というジャンルの定義が正当であることの傍証は他にもある。たとえば、SFはキャラクターの実存よりも世界設定(や細部のガジェット)を重要視するが、ミステリは世界設定よりも、キャラクターによって読者の記憶をとどめてきた名作が多い。というのも、SFがキャラクターを翻弄する(多様な・異化的な)世界を、ミステリが世界を苦悩しながら単一にまとめあげるキャラクターを、それぞれ描いてきたからである。
確かに、セカイ系と呼ばれる作品にはSFが多く、それらのSF作品のうちキャラクターと親和性が高いものが多い(「涼宮ハルヒ」シリーズや『イリヤの空 UFOの夏』等)。しかしそれは、解き明かせない認識不可能な世界の危機という謎プロットがフックになっているからである。それゆえ、セカイ系のSF作品はミステリのコードに一部したがっていると言うことができるだろう。
ちなみに、村上春樹の作品はSF的ガジェットを作中にちりばめ、複数世界(可能世界)を舞台にすることがしばしばあるが、基本的にはそれらを貫く世界の謎に支えられている。メフィスト系の初期時代をはじめセカイ系の作家の多くがハルキ・チルドレンと呼ばれたのも、このような物語形式を物語の核にしていたからである。SFをガチで受け止める作家に、ハルキ・チルドレンは存在しない。SFとの親和性が高いのは、村上春樹ではなく、村上龍の方だろう。その具体例は、『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』、『五分後の世界』など枚挙に暇がない。
いずれにせよ、価値体系(世界)の複数性なり差異が重要だというのでは、あまりにもアバウトすぎる定義ではある。だから、ゼロ年代のSFブームに入る以前に議論された「クズSF論争」(一九九七年)にいたるまで久しくSFの定義が云々されてきたわけだが、くり返し必ずと言っていいくらい、SFとは何でもありなジャンルであり、混沌としたものだといった目眩のする定義付けが当たり前のようになされてきたのだった(『日本SF論争史』巽孝之編集、二〇〇〇年)。しかし、そのようなSFだとはいえ、「価値体系の差異」という観点を軸にして、ある程度の定義は可能だ。
ダルコ・スーヴィンによれば、SFの初期は空間上の差異にしたがって物語が作られた(ユートピアや空想旅行)。次の段階は時間上の差異にシフトし(タイムリープや近未来もの)、二〇世紀に入るとより複雑になるが、いずれにしても複数の価値体系(の差異)が物語展開の触媒となっている。
二〇世紀の後半からは、とりわけ情報の差異(サイバー空間や可能世界、遺伝子操作など)に焦点が当てられた。むろんこの空間から時間、情報への移行(差異の転移)は、差異を貪る資本制市場経済の成長過程(商業資本→産業資本→情報資本)と相即的なものである。それゆえ、差異をジャンル形成の触媒にするSFは、差異を梃子にした啓蒙なり思考実験(ありうべきユートピアや未来の管理社会を先見的に読者に提供する)と受け取られ(SF=スペキュラティヴ・フィクション説)、逆にまた、市場と親和性の高いエンターテインメントとも受け取られてきた(SF=サイエンス・フィクション説)。そしてこれら相互に相反するSF観はしばしば議論を交わしてきたのである。
話を戻せば、SFは前世紀終わりの「クズSF論争」に見られる停滞期(「SF冬の時代」)を経て、ゼロ年代に再びブームを迎えることになった。その原因は、九〇年代終盤からジャンル横断的に活気付いたミステリと類似した文脈が挙げられるだろう。つまり、ライトノベル周辺からセカイ系を物語形式にしたSF作品が続出し、また当時注目されはじめたデジタル環境(情報端末)とコミュニケーション様式に対応した才能ある作家(沖方丁桜坂洋新城カズマなど)が、やはりライトノベルとの境界から登場したのである。
さらにゼロ年代後半には、円城塔伊藤計劃が登場し、ジャンル(に限らず文学全般)に対する自己批判を内在させながら、エンターテインメントとしても評価される彼らの存在によってSFは活気を帯び、ジャンル横断的に注目を集めはじめることになる。
とりわけ円城と伊藤において注目すべきは、SFブームの端緒の一つとなったセカイ系的文脈――セカイの謎とセットになった自意識過剰な実存と言ってもいい――を払拭した点に求められよう。むろん、謎なき決断主義ゲームをサバイブする実存も、実存を束ねた共同主義も、セカイ系のヴァリエーションにすぎない。SFプロットのタイムリープや可能世界を通して「私」の自己同一性を揺さぶるようなタイプも――実際タイムリープセカイ系の代表例としてよく言及されるが――変らない。少なくとも、円城や伊藤にとっては、これらの立場は、実存の自意識過剰な悩みを批判しはするが、最終的に実存的契機(決断するオレ、皆とうまくやっていける僕)を信じている点で同じである。

社会状況が先鋭化した針先に、感情調整などのテクノロジーが表象として現出している、ということです。社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。/だから、『虐殺』(伊藤著『虐殺器官』――引用者注)をセカイ系だという方もいらっしゃったんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)。/個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです。(『伊藤計劃記録』、一六五頁)

たとえば、伊藤が描く物語世界は、個人の行動や意識、言語活動、感情などの諸々のデータは、あらかじめ実存に内在しているものでも、人間関係によって生じるものでもなく、ある種のメタデータ(規則)によって規定されているという発想に基づいている。伊藤のSFは、いわばデータとメタデータという価値体系の差異を問題にしているのである。
メタデータとは、人類の歴史が培ってきた遺伝情報や神経系の信号や言語規則であり、また社会が提供するコードやアーキテクチャのことである。彼の作品には、心理的なパターン(カウンセリングや言語規則)や物理的装置(薬剤やナノテクノロジー)などのメタデータを心身に埋め込まれ、上書きされたキャラクターが、どのような意識や感情・行動(数値化されうるデータの層)をとるかを問題にしたプロットが張りめぐらされているのだ。
それは、デジタルメディアやテクノロジーがいかに人間関係なり個人を制約し影響を与えるかといった、従来の人間疎外論的なSF的発想ではない。メタデータ(規則)に対して個人が順応したり反発し乗り越えたりするということではなく、個人の意識や感情・行動――その中には、規則に対する順応や抵抗も含まれる――はそもそもメタデータによって書き込まれたものだ、ということである。
伊藤が描くキャラクターは、様々なメタデータに規制され、そのことを自覚しながら、与えられた使命をささやかな個人の物語として生きる者たちばかりだ。そしてそのような世界観は、私たち読者にも直に向けられることになる。たとえば伊藤の遺作となった『ハーモニー』(二〇〇八年)は、この場面はキャラクターが驚いているところ(〈surprise〉)、この場面は沈黙するところ(〈silent〉)、この場面は映像が流れているところ(〈movie〉)、というように、物語展開の場面ごとに、その場面がどういうものかを示すタグが割り振られている。一例を挙げると、キャラクターが怒りの表明をする場面では、「〈anger〉「勿論、こんな恥ずかしいことを公表できるわけがないわ」〈/anger〉」というように会話の前後にタグが付けられる。ここでは、読者の感情リーディングは自由なものではなく、タグ(というメタデータ)によってたえず誘導させられること、そのことが示されているのだ。
伊藤は、このような環境世界の中での、これまで実存とか主体と呼ばれてきたもの(行動し内省し物語る「私」)の役割を問題にしているのである。
ちなみに、この問題をライトノベルでも扱っている作品がある。御影瑛路のシリーズ作品『空ろの箱と零のマリア』(二〇〇九年)だ。ここでキャラクターたちは、一作ごとに一定のシチュエーション(作中ではこれを「箱」というメタファーで呼んでいるのだが)に拘束されることになる。そのシチュエーションとは、シリーズ一作目はSFプロットのタイムリープ、二作目は「自分の身体が他者の意識に段階ごとに奪われていく」というSF・サスペンス的なプロット、三作目は仲間との殺し合いゲーム、つまりバトルロワイアルのプロットである。
いずれにせよ、キャラクターは、「箱」と呼ばれるプロットのメタデータに拘束されながら、ギリギリのところで脱出を試みることになる。ここで注目すべきなのは、拘束と脱出の間で揺れるキャラクターの意識や感情・行動(データの層)が、そのキャラクターにとって実存的な固有の属性とも、メタデータの単純なアウトプットとも読み取れる点である。この両義性は、実存が否定される「箱」という極限状況の中で「私」がとりうる役割・機能を明らかにしようとする困難な試みに起因していよう。
そしてこの試みはライトノベルというジャンルの自己批評でもある。どういうことか。ライトノベルとは、各ジャンル小説から借用したプロットとキャラクターというメタデータの組み合わせをパッケージ(箱装)にしたものだが――それゆえまさにこの、様々な物語プロットを取り入れる「空ろの箱」とは「ゼロジャンル」(新城カズマ)とも呼ばれるライトノベルのメタファーでもあるのだが――、そこでのキャラクターの意識や感情・行動は、各人にあらかじめそなわった固有の属性といったものではありえない。プロットの展開にしたがった構造上必然的なリアクションとして、あるいは読者が期待する約束事(萌え要素)としてパターン化されたものである。御影の作品もこのようなライトノベルのジャンル的な要請にきわめて忠実であるのだが、それには回収されないある種の実存的な契機がおりにふれ書き込まれているのである。
ところで、シリーズ三作目にしていまだ全貌が明らかになっていない「箱」とは、どんな願いもかなえてくれる物語生成機械のようなものなのだが、あるキャラクター(キャラクターXとする)が偶然見出したその「箱」を通して世界を自分の願い通りにデザインするところからどの物語もスタートする。そして他のキャラクターがこの世界(キャラクターXの願いを踏まえて「箱」が作り上げた物語プロット)に巻き込まれるわけだが、その「箱」の存在に自覚的なキャラクター(とくに主人公の一輝とマリア)とキャラクターXが「箱」に対してどのような距離をとっているのかの違いによって、各々の意識や感情・行動(データの層)が書き込まれていく、といった展開を見せるのである。
キャラクターXの願い通りと言っても、完璧に願いが形になっているわけではない。だから結局のところ「箱」は自律的に機能する。それにまたキャラクターたちも、それぞれ同じ論理にしたがって行動してはいない。そこには単一の謎を解決する道などなければ、与えられたリングの上で勝敗を決する決断主義的なゲームが演じられることもない。一輝もマリアもとりあえずは脱出を試みるが、「箱」に対する目的なり関係性はまったく異なるものなのだ。だからキャラクターたちは一作ごとに決められた「箱」の論理(メタデータ)と自分の論理(および他のキャラクターの論理)を調整しながら、相互に競合・不調和な部分に及ぶたびに、各々の意識や感情・行動(データの層)を上書きしていくことになるだろう。
しかしくり返せば、「箱」の論理との擦り合わせで生じた彼らの感情や行動(とくに一輝とマリアの恋愛劇)は、与えられたもののようにぎこちなくありながら、その半面、異様な固有性を宿しているのである。
今後の御影の作品はこの奇妙な感触についてどのような展開を示すことになるか。実存を否定する「箱」という極限状況の中でキャラクターたちはどのような立ち回りを見せるのか楽しみである。
伊藤計劃に戻ろう。彼は、SFのジャンルとしての可能性にエクストラポレーションを見出している(『伊藤計劃記録』、一一三頁)。エクストラポレーションとは、ある状況(物語設定)にある仮説を導入することによって、いままでにない物語の可能性を現出させる方法である。伊藤にとってSFという「空ろな箱」はエクストラポレーションの自己言及的生成機械なのである。
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伊藤とスタイルは異なるが、円城も同じ文脈にいると言っていい。むしろ円城の場合は、形式的により徹底していて、作品の文体それ自体がデータとメタデータを重ね合わせたものになっている。彼の作品が具体的にも抽象的にも見えるのはこの文体のためである。
たとえば、『Self‐Reference ENGINE』(二〇〇七年)は、それぞれテーマが異なった短編を寄せ集めた作品だが――「プロローグ」は男女の引き裂かれた恋愛悲喜劇――、短編ごとに悲喜劇的な物語を描きながら、それは実存的契機や人間関係の綾によってではなく、ある論理式(メタデータ)にしたがって描かれたものでもあるという構造をもっている。

それは彼女と僕の初めての出会いだったので、それはつまり、お互いがもう二度と出会うことがないことを意味していた。僕は彼女がやってきた方へ進んでいるのだし、彼女は僕が来た方向へ向かっているのだから。そしてこれはちょっと重要なことなのだけれど、この歩みは何故か一方通行ということに決まっている。/すったもんだの果ての果て、時間が大局的に凍りついてしまってから、どこかの時計ではもう随分と経ってしまっているはずだ。/空間に無数の糸が張り巡らされていると考えて欲しい。僕はそのうちの一本の糸をこちら側から歩いている。彼女は別のどれかの糸をあちら側から進んでくる。/このことの説明はとてもむつかしい。僕も完全に理解しているというつもりはない。/でもその頃の僕たちには、それぞれの進んでいる方向を確認しあう(ちょっと恥ずかしい)方法があって、彼女と僕はそれを確認しあった。ただそれだけのことなのだ。(『Self‐Reference ENGINE』、一〇頁)

この場面は、男女のやり取り(データ)とそれの説明(メタデータ)が入り組んで展開しているのが分かるだろう。説明によって男女のやり取りがまとめられていくように見えて、男女のやり取りがそもそもある法則に上書きされ、それにしたがって(確認しながら)進行しているようにも見えるのだ。
一見この作品とまったく異なる外観を呈しているが、近著『烏有此譚』(二〇〇九年)も構造的に同じである。これは、本文と匹敵するくらいの注釈のスペースをもつ奇妙な作品なのだが、それは単に注が長いというような話ではない。『なんとなく、クリスタル』(田中康夫、一九八〇年)にも膨大にあった注のように、嫌みったらしい注釈がメタレベルから繰り出されるわけでもない。読めば分かるが、これは作者と注者のコードの仕掛け合いによって成立した作品なのである。もちろん、本文(作者)と注釈(注者)の関係だけではなく、本文は本文、注釈は注釈、それぞれの中でコードの切り替えは頻繁に見られるだろう。
以上のように、円城の作品は、データにたえずメタデータ(コードの仕掛け)が織り合わされた文体によって成り立っており、いうなれば商品を使用するたびに項目が上書きされ、増殖していく取扱説明書のような体裁をもっているのだ。他にも様々な試みがあるが、それを知るには、円城自身による自註を見るのが手っ取り早いだろう(http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi101_enjo/)。
ただし、ここで注意したいのは、円城の試みは、八〇年代にしばしば見られたポストモダン文学のメタフィクションとは、一見似ているものの、異なる営為だということである。たとえば、ポストモダン文学の旗手だった当時の高橋源一郎の作品(『さようなら、ギャングたち』など)は、メタレベルに立って物語(データの層)を批判することに重点があった。しかし、円城の場合は、物語を語ることの欲望に忠実であり、それゆえメタデータ(物語・言語の規則)にデータを落とし込みながら物語を生成させることに執着している。
円城はたびたび、語る主体を必要としない物語の自動生成機械の未来像を語ることがある。その発想は一見ドライだが、これまで実存とか主体と呼ばれてきたものの営みにとって、今後限られていく主要な役割に、物語が含まれていることを、むしろ円城は信じているのである。

現実は物語ではない。しかし、人間は現実を物語として処理する機能を脳に与えられた。/人は死ぬ。しかし死は敗北ではない。/かつてヘミングウェイはそう言った。ヘミングウェイにとっての勝ち負けが何だったのか、寡聞にしてわたしはそれを知らないが、その言葉が意味するところは理解できる。人間は物語として他者に宿ることができる。人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる。そして、様々に語られることで、他の多くの人間を形作るフィクションの一部になることができる。(『伊藤計劃記録』、一四六‐一四七頁)

円城はおりにふれ自分の小説は私小説だというような意味の発言を、冗談交じりに話している。じっさい伊藤も円城も、自意識という過剰なものについて語っているのである。彼らは単純に自意識の問題を払拭したのではないのだ。
たとえば伊藤は、外から与えられたメタデータをたどること――エクストラポレーション!――に、「私」を扱う自意識の存在意義を見出している。体内に埋め込まれたICチップや薬剤によって気付かないうちに行動の制約を受け、また街中の監視カメラやネット・サーフィンによって刻々と個人情報を記録されながら、それらを「私」のデータ/メタデータとしてトレースすることを、自意識のわずかに残された機能としているのである。そうやって諸々のデータ/メタデータを「私」のものとしてくり返したどりながら、ゆるやかに変容し続けることが、伊藤が描くキャラクターであり、伊藤が計画するSFにほかならない。
伊藤がことのほか語りの機能を重要視するのも、この特異な自意識(人間)観ゆえである。彼は、三人称のいわゆる「神の視点」による語りに対して不信感を表明し、誰が語っているのかを明示しながら(一人称)でないと語りにくいと述べている(『伊藤計劃記録』、一八八頁)。
デヴュー作の『虐殺器官』(二〇〇七年)も遺作『ハーモニー』も一人称だが、他にたとえば、ゲームコンテンツのノベライズとして執筆された『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS』(二〇〇八年)は、基本的に主人公に焦点化した三人称のナレーションで展開しながらも、それを補足する形でおりにふれ(主人公の行動をモニターしている)一人称が差し込まれる。この物語は、一人称が主人公をモニターした結果を、回想によってたどり直しているという構成をもっているのである。
しかし、ここで注意したいのは、伊藤の一人称語りはセカイ系のように、自分の思い通りになるものでも、自分の思いが空転しまくるものでもないということだ。先ほどの例で言えば、モニターする一人称は、三人称のパートを含めた物語全体を包括する回想という体裁をとってはいるのだが、読み進める過程の印象はむしろ、三人称のパートとシームレスに連結し、重なり合っているという感覚の方が強い。『ハーモニー』も、前述の通り一人称ではあるが、作中にはおりにふれ一人称のあずかり知らないタグが割り振られ、それによる物語の誘導が試みられていたはずだ。そもそも伊藤の一人称語りは、デヴュー作以来、動きのある激しい状況描写においても、引きの視点から冷徹に構えたものであることはつとに指摘されている。けっきょく彼の一人称は、三人称というか非人称的な拘束力の影響下にあるよう設計されているのである。
伊藤計劃はセカイの隅っこで愛を叫ぶことなどしない。もちろん円城も同じである。語りの規則と物語を重ね合わせた彼独特の語り口もまた、自意識の機能――むろん逆セカイ系的な――に自覚的だからであろう。
以上の通り、彼らは自意識の機能をあらためて問題にするために、純文学的な規則である語りの機能に着目し、それをSFというジャンルにエクストラポレートした。かくしてライトノベルから連鎖的に更新され続けたSFのジャンル横断的な定義の運動が、ゼロ年代を超えていまもなお巻き起こっているのである。
   6
本稿は、セカイ系およびポスト・セカイ系の文脈を、ジャンル論とジャンル史にしたがいながら追跡した。それゆえ、作家・作品の成果に焦点を当てている。しかし、いうまでもないが、ジャンルの趨勢は、作家・作品のみならず、それを取り巻く流通・出版の環境の影響も大きい。
メフィスト系のミステリ作家が世に出たのは、文芸誌「ファウスト」や「講談社ノベルス」というレーベルがあり、従来のミステリ文法の型に嵌まらないメフィスト賞があったからである。
それと同様に、ゼロ年代のSFも、早川書房が「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」を立ち上げたり、日本SF新人賞や小松左京賞を設けたりして環境整備を怠らなかったからである。円城や伊藤もこの周辺からデヴューを果たし、キャリアを積むことになったのだ。
しかし私は、最近の批評の言説が、こういった周辺事情の分析にばかり目を向けていることに懐疑している。個々の作家や作品の文学史に対する成果にもっと注目していいはずだ。
今回試みたゼロ年代のジャンル史論はその一端である。文学ジャンルを全体的に見通せば、ミステリとSFというプロットを重視したジャンル小説の趨勢にとっては、ライトノベルと純文学という、キャラクターを重視するジャンルと語り(ナレーション)を重視するジャンルが触媒として介在していたことの影響を無視できないことが、少なからず確認できたのではないだろうか。
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初出 『PLAYBOX vol.2』(2010年5月23日第10回文学フリマに出品)