感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

語り手とキャラクター タグとしての呼称

アーキテクチャとコンテンツにばかり注目が集まる中で、ジャンルの形式を精確に論じることができる論者はいまや数少ない。「早稲田文学増刊U30」で西尾維新のキャラクター造型について論じる伊藤亜紗は、その数少ないうちの一人で、いつも楽しく読んでいるのだけれど、今回もそこから何か言葉を継いで語りたくなるくらい楽しませてもらった。
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西尾維新のキャラクター造型の特異性に関しては、これまで多くの論者が議論してきたトピックである。伊藤亜紗「「露出」する登場人物たち 西尾維新の会話術」の議論もこの系譜に列なるものである。
伊藤によると、西尾維新のキャラクターは*1、物語世界から自立した存在として、それ自体で露出しているのだと言う。
しかも、キャラクターたちはいずれもバラバラに存在しているのだと。つまり、同じ時空を共有しながら相互に関係しているように見える複数のキャラクターたちは、実は同期しておらず、それぞれがバラバラに露出しているというわけだ。
以上をまとめると、西尾的キャラクターとは、第一に、物語世界から自立しており、第二に、相互に同期していないもののことを言う。それは、物語世界をメタレベルから管理する語り手の影響(語り手による語りの編集)を、西尾維新が限りなく低減させていることと連動している、というのが伊藤の見解である。
ところで僕は、小説の構造を、(1)ナレーション[=語り]、(2)プロットから成るフィクション[=物語世界]、(3)キャラクターの三相に分けて、(1)は純文学に、(2)はジャンル小説に、(3)はライトノベルに親和性があるという話をしたことがある。*2
伊藤の議論をこの図式に当てはめてみると、西尾は(1)と(2)から(3)を自立させて、(3)を基点にして小説を制作しているということができるだろう。事実、西尾はライトノベルに親和性が高い小説家であることは周知のことだ。斉藤環ほか、物語世界から自立した西尾的キャラクターの様相を、以前から指摘してきた論者も何人かいる。
ただ僕は、ここで伊藤亜紗の議論に一つ疑義を提示したい。伊藤によると、キャラクターたちが物語世界からバラバラに自立している様相は、「語り手による語りの編集」の磁場から解放されたからだ――語り手のキャラクターに関する非関与――と言う。そしてその根拠として、西尾維新の会話術=直接話法(カギ括弧内の会話編成)に注目し、西尾のキャラクターが会話するときは、相互に二人称で呼び合わず、固有名を執拗に使用することを特徴として指摘してみせるのである。どういうことか。
通常の小説のように、キャラクターたちが二人称でお互いを呼び合う会話の場合は、キャラクターが相互に関係する物語世界が臨場感をもって演出されることになるはずだ。その演出を可能にするのは語り(語り手)であり、このように物語世界と語り(語り手)の安定した二相構造はキャラクターの自立化を阻むだろう。
しかし、西尾維新のキャラクターは、会話の相手を固有名で呼ぶ。まるで目の前に相手(あなた)がいないかのように。それは、語り手がキャラクターの会話の場(物語世界)をうまく管理しえていないからにほかならない。逆に言えば、西尾作品においては、安定した二相構造に代わってキャラクター(固有名)が自立しているということだ。
しかし僕は、西尾維新のキャラクターの自立(露出)は、語りの低減の結果ではないと考える。むしろ語り手による語りの編集が遍在しているのであり、キャラクターの自立はそれと連動しているのではないか。
遍在する語り。カギ括弧の内部をも侵食し(キャラクターの会話を)媒介する形での語りの遍在だ。
よく考えてみれば、そもそも、キャラクターたちの関係性をいっさい考慮に入れずに、キャラクターを固有名で呼ぶことができるのは語り手のみである。実際また、西尾維新の小説では、カギ括弧に限らず、地の文にこそ固有名が頻繁に登場するのではなかったか。

そのとき、小屋の戸が開いた。/「七花」/と――小屋の中から、男に声がかけられる。/七花。/鑢七花。/それが、この男の名前だった。/「あなた、何をしているの――七花」/「あ……」/寝ぼけまなこを一転、七花は気まずそうに、ばつの悪そうな表情を浮かべる。目を逸らそうとして逸らしきれず、結果目が泳ぐことになる。悪戯を見つかった子供のような態度だった。無論七花はとてもではないがもう子供と呼べるような年齢ではないし、子供と呼べるような図体でもない。ましてこの場に限って言うならば、取り立てて悪戯をしていたというわけでもないのだが、しかし、小屋から出てきた相手――姉の七実を前にしてしまえば、いつだって子供のようなものである。/鑢七実。(『刀語 第一話』)

また伊藤亜紗は、西尾作品のキャラクターの会話が噛み合わないことにも注目し、それをキャラクターの非同期的な自立(露出)の例としてあげる。しかし、それもまた、語り手(による編集)の恣意性ゆえであると言えるだろう(埴谷雄高の『死霊』!)。
伊藤は、議論の最後で、西尾維新の語り手は、物語の進行役としてのMC的なポジションに縮減していると言うが、その比喩でいけば、むしろ遍在しながらキャラクター紹介と物語の進行役に徹していると言うべきではないか。


僕がライトノベルを読んで感じるのは、「早稲田文学3号」掲載論文「メタフィクション批判宣言」の注にも書いたけれど、物語世界の奥行きのなさである。物語世界を背景にしてキャラクターたちのやり取りを前景にした物語の遠近法(それをメタレベルから管理するのが虚焦点としての語り手)から解放されたライトノベルの純粋形態は、地の文の語尾が完了形ではなく現在形、会話が直接話法のみという形を取る。
回想のニュアンスが出る完了形(「た」止め)と、語り手の操作的介入を不可欠とする間接話法のペアは、語り手がメタレベルから物語世界を吊り支えるという、いわば遠近法的な構造(語り手と物語世界の安定した二相構造)が成立するだろう。
しかし、ライトノベルは現在形と直接話法にすることで、物語世界から奥行きを奪い、さらには深い内面を抱えたキャラクターの葛藤や対立といった人間劇の余地を切り縮め、(1)キャラクターのやり取りと(2)プロットの組み換えという要素を露呈させることになる。
しかしここで重要なのは、語り手(編集)は物語――(1)と(2)――から消失したわけではなく、遍在するようになったということだ。(1)と(2)の編集のために。
空間的な比喩で説明すれば(「遠近法」という言い方も空間的な比喩を使っているわけだが)、ライトノベルは、語り手が物語をメタレベルから吊り支えるという構造ではなく、それぞれ(語り・プロット・キャラクター)がレイヤーとして重なり繋がっている、という構造として作品世界を把握しているのだと言えよう*3
先に引用した、西尾維新の七花と七実のやり取りのパートもそうだったが、注目すべきは、会話と地の文、物語世界と語り手がシームレスに繋がっているという点である。会話と地の文が頻繁に「会話」することで有名な「涼宮」シリーズもまた、この二相がシームレスに繋がっているライトノベルの特徴を端的に物語っていると言える。

「言うの忘れてたわ」/机に頬杖をついたハルヒが言う。/「昼のうちにみんなには知らせといたんだけどね。あんたにはいつでも言えると思って」/どうして他の教室に出向くヒマがあるのに、同じ教室の前の席にいる俺に伝える手間を省くんだ。/「別にいいじゃないの。どうせ同じ事だし。問題はいつ何を聞いたかじゃなくて、いま何をするかなのよ」/言葉だけは立派のような気がしたが、ハルヒが何をしようとも俺の気分がすぐれなくなるのは周知の事実と言えよう。/「と言うより、これから何をするのか考えないといけないのよ!」/現在形なのか未来形なのかはっきりしてくれ。それから主語が一人称なのか、複数形なのかもついでにな。/「もちろん、あたしたち全員よ。これはSOS団の行事だから」/行事とは?/「さっきも言ったじゃないの。この時期で行事と言えば文化祭以外に何もないわ!」(『涼宮ハルヒの溜息谷川流*4


最後に、キャラクターが固有名で呼び合う西尾的会話術に戻る。伊藤亜紗が触れていなくて意外に重要なのは、呼びかけの固有名には、しばしば「さん」や「君」「先輩」「ちゃん」(呼び捨ても含まれる)といった関係性を示す(二人称性の強い)人称代名詞的な親称・敬称が付属する点である。
柄谷行人は、中上健次の『岬』から『枯木灘』への不可逆的な変容に関してこう述べたことがある*5。『岬』のキャラクターの呼び名は彼や彼女といった関係性(誰とでも互換性がある)を示す人称代名詞のみだったが、『枯木灘』では固有名が与えられる。ここにおいて中上のキャラクターは、関係性(去勢)をおり畳んだ固有性を獲得したのだと。
しかし僕がここで注目したいのは、このような成長物語的キャラクターの変容過程ではない。中上のキャラクターは他にも様々な種類が設定されている。なかでもとりわけ面白いのは、物語世界に内在しながら、(物語全体や作中の挿話などの)語り手をも担うキャラクターの存在である(語り手を担わない場合もある)。彼らはオバやオジ、アニという人称代名詞的な呼称で呼ばれるが、そこには必ずオリュウやトモといった固有名が付属する(たとえば『奇蹟』のオリュウノオバとトモノオジ)。
無論、僕はこれがキャラクター小説(ラノベ)のルーツだと言いたいのではない。そのような倒錯した見方は、現在自明なジャンルを過去にさかのぼって投影する欲望から成っており、あまり意味がない(近世の戯作だってラノベのルーツになる)。
中上が採用するこの固有名+人称代名詞的呼称は、物語運営の経済上の問題である。周知の通り、中上健次の一九八〇年代は、一作ごとに、物語の構造(キャラクターの関係性)が複雑になっていった。このように物語が複雑になることに対応してこの呼称が頻出しだすのである。
たとえば、オバ・オジ・アニをはじめ他の呼称による関係性のネットワークが多数多様化し、しだいに複雑になると(オバが無数にいるとか語りの回想構造が複雑になるとか)、関係性を示す呼称だけでは物語を運営しきれない。したがって、キャラクターの複雑なネットワークに対して、固有名がその留め金になるわけだ。いわば、関係性のタグ付けである*6
以上により、中上のこの種の呼称で呼ばれるキャラクターは、物語世界の関係性(人称代名詞)と語り手の編集(タグ付け)がおり畳まれている存在だと言えるだろう。彼らの呼称は、物語世界の個々の文脈(関係性)にしたがって、ときに二人称的であったり、三人称的であったり、固有名(タグ)であったりというように変容し続ける幽霊のような特異点なのである。
中上物語のメインストリームである、成長物語的キャラクターの変容過程(秋幸と龍造のファミリーロマンス)とは異なるキャラクターのフレームが、一つの可能性としてここにあるのである。

トモノオジはことさらオリュウノオバの言葉を無視する。オリュウノオバは路地の老婆としてからかいの言葉を投げかけなければ気がすまないように、「トモよ」と呼びかけ、威風堂々と深海を泳ぐクエのトモノオジが、まだ自分の腕に抱き上げた赤子と変わりないというように、「オバから見たら誰が先で誰が後じゃと言うの、ないど」と言う。/「ボケたんかよ?」トモノオジは訊く。オリュウノオバはトモノオジがからかいにひっかかったというようにほくそ笑む。/「おまえら取り上げたオバにしたら、十年二十年の後先、知らんわだ。トモが先かタイチが先か、忘れたど。祥月命日覚えとっても、後から後から湧いて出てくるんじゃのに、誰が後先か知らんわだ」/トモノオジは混乱する。「ボケたんかよ?」トモノオジは訊く。/「ボケとらせん」オリュウノオバは声をたてて笑う。/「何を笑うんな」トモノオジは水面の豆粒のようなオリュウノオバをにらむ。オリュウノオバが笑みを消し、真顔でクエのトモノオジを見つめるのを知ってトモノオジは絶望し、自分の周りが音立てて波立つのを感じ「オバよい」と呼びかける。/「オバ、菊之助の子がタイチじゃ。タイチ、菊之助の股の汁から出来たんじゃ。菊之助は俺の連の一人じゃったし、イバラの留もヒデもそうじゃ。俺ら三人、タイチを目にかけたんも、タイチが俺の股の汁であっても、イバラの留のもんであってもかまんと思っての事じゃさか。菊之助とタイチの後先、違えたら、どうするんな?」/「知らんわだ」オリュウノオバはなおからかうようにつぶやく。/「知らんて」トモノオジは絶句する。(『奇蹟』)

しかしいまや、とりわけライトノベルの世界では、キャラクターの関係性(物語世界)をゆるやかに束ねる(タグ付ける)語りの経済学さえ不要とされ、物語世界とシームレスに繋がる語り手は、恣意的にキャラクター(の関係性)と関わりを持ち、戯れるばかりなのである(戯言)。だから、西尾維新が採用する人称代名詞的な親称・敬称は、文脈に応じて変化するような代物ではなく、予め設定された、性的関係(兄妹など)や能力の力関係(先輩や君など)などのキャラクターの関係性のみを表す呼称(タグ)、という性格を持つことになるだろう。
中上健次においては、関係性を束ねる収束点(タグ)だった固有名は、西尾維新においては、恣意的な語りの戯れによって、逆に過剰に溢れかえることになった*7。このとき、関係性(人称代名詞的親称・敬称)こそが固有名の過剰さを束ねるタグとなるのである。
中上と西尾の、キャラクターに関わる営みはまったく逆だが、語り手の力(タグ付け・束ね・編集すること)を信じている点では同じなのである。
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皆様お久しぶりです。最近は、Twitterばかりにかまけていて、ブログの書き方を忘れかけていました。僕の基本は長文なので、今後も「感情レヴュー」をよろしくお願いします。本文にも書きましたが、「早稲田文学3号」に論文を寄せていますので、こちらもよろしく。

*1:伊藤亜紗は「登場人物」という概念を使用するが、ここでは基本的にキャラクターを使うことにする。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sz9/20090613http://d.hatena.ne.jp/sz9/20090927など。

*3:メタフィクション批判宣言」で議論した鹿島田真希の語りの方法も、このような作品世界の把握に近い。

*4:西尾維新も、会話と地の文の関係をシームレスなものととらえ、テンポよく演出することはしばしばある。《「そうか。よかろう」/女が頷き、「では、はじ――」/め、と。/言うよりも先に、六人の――六本の木刀は振るわれた。将来の達人が振るう剣線六本、互いが互いに同士討ちになるような不細工は起こりえない。一片の容赦も含まれない剣が交差するように、それでいて同時に、男の全身に浴びせられる――/が。/「はあ――あ。ったく面倒だ」/男はそれでもなお、慌てた様子を見せない。『刀語』第一話》

*5:坂口安吾中上健次』「差異の産物」

*6:谷崎潤一郎細雪』の姉ちゃん・中姉ちゃん・雪姉ちゃんのヴァリエーションも同じである。谷崎もまた、重層的な物語運営の経済効率性に意識的だった作家で、たとえば『文章読本』で間接話法の経済性に注目を寄せたことがある。その代表作が『細雪』である。

*7:西尾作品のキャラクターの過剰さ、呼称・名付けの特異性についてはいまさら言うまでもない。無論、ここで西尾について説明したことは、他のライトノベル作家にも応用することができるだろう。