感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

キャラクターについて考えてみる

ソフラマのid:K-AOI、aBreのid:segawa-y筑波批評id:sakstyleによる座談会UST「キャラクターについて考える」を聴きました(http://d.hatena.ne.jp/tsukubahihyou/20091204/1259945292)。とても楽しかったです。キャラクターについて考えるきっかけをいただきました。
キャラクターを理解する上で先ず挙げられるのは、大塚英志のキャラクター分析でしょう。彼のキャラクター理解は、単なる記号にこそ魂が宿る、という逆説に基づくものでした。「記号的身体を「死にゆく身体」として発見してしまった手塚は同時に、「成熟する身体」をも否応なく発見してしまったのは確かです」(『教養としての〈まんが・アニメ〉』2001年)。
僕くらいの世代だと、これは柄谷行人の『日本近代文学の起源』のマンガヴァージョンだなと誰しもが直感したものです。
柄谷によれば、近代文学が「内面の発見」を措定したのは、旧来の様式を削り取って単なる記号が露出したところでした。「「平凡人」(国木田独歩)とは無意味な人物である。が、このとき、どこにもある、ありふれた素顔が意味を帯びはじめたのだ」(『日本近代文学の起源』1980年)。価値形態論をベースにした否定神学的理解です。無価値な形式に神が宿る。つまり、大塚氏のキャラクター理解は、一方できわめて形式純化した物語形態論(たとえばグレマスの「行為者モデル」)を拠りどころにしながら、他方で超越化の志向(キャラクターの実存化)や歴史的解釈(キャラクター産業の「戦時下」の功罪等)を施すものでした。これはとても90年代的というか現代思想的なキャラクター理解といっていい。
これに対して、sakstyle氏が『網状言論F改』(2003年)を元にまとめた通り、東浩紀斉藤環のキャラクター理解が出てきます。周知の通り東氏は、データ(萌え要素)の集積・組み合わせとしてキャラクターをとらえました。東氏のキャラクター理解にとって重要なのは、キャラクターのフレームを物語のフレームとは別にある自立したものとして分析したところです(『動物化するポストモダン』2001年)。いわゆるデータベース消費ですね。
また、斎藤氏は、象徴的な価値形態(意味や価値)に還元できない特徴に、キャラクターの特性を見出しています。前回のエントリの言葉で言えばマナやハウのようなもの。具体的には、よつばの「猫目」やでじこの「にょ」ですね。ある一つの固有な特徴がありさえすれば(それは線や輪郭、声といった緩い標識でもいい)、キャラクターとして成立するというものです。
このキャラクター理解は、マンガやアニメの二次創作をはじめ、たとえば初音ミクソワカちゃんの多様なヴァリエーション展開(「〜してみた」)によって証明されているといっていいでしょう。ちなみに、これは、斉藤氏の『文脈病』(1998年)における「顔」の固有性論以来一貫した氏のスタンスを示すものです。
いずれにせよ、両者ともに一致しているのは、キャラクターのフレームは物語のフレームとは別にある自立したものという点ですね。そこが、キャラクターに物語を読み込む(物語の象徴体系にキャラクターを配置する)大塚氏と異なる点でもあります。
ニコニコ動画初音ミクやらキャラクターを動かす新しいフィールドが登場していますが、基本的にキャラクターの成立はこの3点の比重・濃度で決まってくると思います。以前描いた図式で言えば(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20090927)、象徴界大塚英志の物語形態論的キャラクター、想像界東浩紀のデータベース的キャラクター、現実界斉藤環の固有名的キャラクター、という3点です。