感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

モダニズムの夢再び

僕が、短歌や物語の自動生成機械という発想に興味が湧かないのは、「第二芸術論」の二番煎じとか人間不要の夢など馬鹿げているとかそういうことではない。それがモダニズムのはかない夢だとしか思えないから。
モダニズムというのは、ジャンルの形式的なルールに対する覚醒であると同時に、そのまどろみに陥るもののことを言う。彼らはジャンル固有のルールを導き出し、おのれがその機械の一部になる夢を見た。絵画は平面性を、文学は言葉の純粋な形式性を、建築は機能性を、それぞれルールとして仮構し、それに殉じたのだった。
短歌や小説が、機械が書くようになったってかまいやしない。しかし、ジャンルのルール(条件)に無頓着な機械の書く小説は、読みたいとは思わない。
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*1:このエントリ関連で、Twitterのつぶやきをまとめました。以下どうぞ⇒最近話題になっている短歌自動生成エンジンhttp://1st.geocities.jp/sasakiarara/index.html。統辞(文法)と範列(単語・形態素の集合)の組み合わせで短歌を自動的に作り出すというもの。そこには、人の選択(単語やその組み合わせ)が介在する余地はない。こういう試みは面白いと思うけれど、刺激を受けるものではない。それは短歌的なものに依存し、継承するものでしかないから。他にも、物語のジェネレータとかハリウッド的(?)な構想を、批評的なスタンス(人間的・文学的なものの批判)から語る人がいる(『物語消滅論』『更新期の文学』の大塚英志氏とか円城塔http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20091001/1254417191)。しかし自動生成なるものが、物語の形態素の順列組み合わせとか、文体のテンプレだのエミュレータだのとか、キャラのデータベースとかいう発想のレベルならば、その方があまりにも文学的ではないか。実存を批判して文学を自動(機械)化させるという構想は、むしろ既成の人間観と文学的なものに依存しているように見える。