感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

諏訪哲史『ロンバルディア遠景』

諏訪哲史氏の『ロンバルディア遠景』(「群像」2009年5月号)は見事に期待を裏切らないものでした。一ファンとしては、エンディングで「明後日」(もちろんアサッテ!)が記されたときにはぞくぞくっとしたものです。「明後日だ。僕はふたたび旅に出る」。
図式的に整理すると、前作『りすん』で試みられた直接話法の対話連鎖を、叙述(書記)のレベルで徹底させたような構成になっています。だから『りすん』を経由して、デビュー作『アサッテの人』を書き改めたとも言うことができるでしょう。『アサッテの人』のメタフィクション性を回避するために『りすん』の試みがあったということです。
つまり、『アサッテの人』では、不在の人をめぐって叙述が連ねられる結果、どうしてもメタフィクションの構造を持たざるをえなかったわけですね。文体を変換するなど複雑にすればするほど、逆にそれが目立ってしまった側面があったとさえ思う。それにくわえ、「ポンパ」というトリッキーなマクガフィンも、結果的に、構造上の不在の中心を際立たせる要因だったとも言えます。
以前も書いたことですが、『アサッテの人』はそれ自体で近代文学史の記録になっていました。詩的な偶然性(「ポンパ」)を導入しながら形式化を試みるフェーズがまずあり、しかしそれもいずれ安定し、平板化していくフェーズがあり、最終的にはそれをいかに乗り切るか(答えはもちろん不在=「ポンパ」)、という不可逆的な単線史――複数の視点から捉えられているものの――がそこでは見て取れました。
『りすん』ではこのような叙述の図式に陥らないために、切れ目のない直接話法の応酬に仕立てあげます。こうすることで、詩的な偶然性(「ポンパ」)が相対化されるわけです。つまりそこでは、無意味な「ポンパ」を追いかける架空の歴史が――叙述の重層性によって保証されつつ――描かれるのではなく、一つ一つ無意味な言葉の掛け合いの断面が切り出されることになる。
そこにあるのは歴史ではなく、一つ一つのシーンが無時間的な契機の一側面となっています。そして諏訪氏が過去のテキストをしばしば作品中に引用する行為も、文学史に貢献するというよりも(パロディとか典型的様式化の意図がそこにはない)、ひたすら諏訪哲史ワールドを構築することに貢献しているように見える。
くり返せば、『ロンバルディア遠景』は、『りすん』が会話劇によって可能にしたこの試みを、もう一度叙述(書記)のレベルに戻して実践していると言えるでしょう。吃音「ポンパ」はここでは皺や襞といった系列の様々なイメージにその痕跡をとどめています。表が裏でもあり、内側が外側でもある皺や襞は、外的参照項に寄りかからない諏訪氏の試みにぴったりのイメージです。
ロンバルディア遠景』の一つの見所は、二人のキャラクター、アツシとイサキの(ホモセクシュアルな)叙述の掛け合いが、決してメタフィクション的な重層化に向かわないところでしょう。どの部分を切り取っても、それはイサキの文体でもアツシの文体でもあり、また彼らはお互いの関係から文体のギアをつねに変換させもする。この作品自体が詩を目指しているようでもあるし小説であろうともしているし批評であろうともしている、といった具合い。この枠に収まり切らないところが諏訪哲史ワールドと言いたい所以なのです。三作読むと、それぞれの多様性に驚くとともに、作品相互の応接とその一貫した自己完結ぶりも読み取れるはずです。
いずれにせよ、このあたりのことはいずれ近いうちに書くつもり。とにかく諏訪哲史の多芸にして策士ぶりをぜひ堪能してほしいところです。