感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

131年の歴史

mixiで読んだ記事(「ゲンダイネット」配信)についての感想から。

“連ドラ”“CM”タイアップ出演のありがた迷惑
ドラマ界で侃々諤々の議論が起きている。ドラマの途中で、そのドラマに出演しているタレントが起用されているCMがオンエアされるケースが増えていることについてだ。「本当にCMの効果があるのか」といった指摘とともに、視聴者からは「ドラマの役柄とCMキャラがゴッチャになって違和感がある」といった声である。
たとえば今クールは堀北真希主演の「アタシんちの男子」(フジテレビ)。堀北は化粧品や携帯電話のCMでドラマとかぶっている。また、前クールでは松山ケンイチ主演「銭ゲバ」(日本テレビ)、その前は上戸彩主演「セレブと貧乏太郎」(フジ)だ。
かつて話題になったのは福山雅治主演「ガリレオ」(フジ)、木村拓哉主演「CHANGE」(フジ)、さらに香里奈主演の「だいすき!!」(TBS)などで、ドラマ内の役柄そのままで各スポンサーのCMに出演している。

高度情報社会と管理社会の典型的な消費のあり方。ジム・キャリーの「トゥルーマン・ショー」(1998)を思い出しました。
トゥルーマン・ショー」の世界といえば、ネタバレで細かくは説明できないが、一つのテレビ番組の中で起こる出来事が描かれている。それは(一人の人間の人生を追う)ドキュメンタリーなのだが、そこにはたえず企業広告がタイアップされている。視聴者はそれを繰り返し見せられるわけだが、別に違和感を感じている様子はない。よくよく考えてみれば「ありがた迷惑」なんだろうけど、すでにそのような消費=流通形態はすっかり刷り込まれていて、だからそこの住民(視聴者)にしてみれば、他の商品を買うよりはテレビで見知った商品の方がなんとなく安心感があるから手に取る、という消費形態がごく自然なんだろう。
そこにはシニシズム(あえて、あざとい企業戦略に乗ってやるよ)さえなく、パブロフの犬的な感覚があるのみだとすらいえる。一人の人間の人生さえ商品にしてしまう「トゥルーマン・ショー」の世界は、そのような社会のあり方を、エンターテインメントとしてうまく表現していた。
むろん「トゥルーマン・ショー」のストーリー自体は、その社会を管理する一人の主人(いわゆるビッグ・ブラザー)が形象化されていて、そこからジムが逃亡を図るという、古典的な管理社会(「真空地帯」!)を前提にしたものだったが。
その意味では、たとえばオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の「es」(2002)のほうが、社会の複雑性を、心理学的なプロットを重ねることによって(有名なスタンフォード監獄実験に取材した)、見事に演出しえている。そこでは、社会を管理する側も状況(社会の中で起こる事件)に巻き込まれるというメタフィクション的な事態が描かれていた。
いや、もっといえば、この手の(箱庭的な社会のコントロールとその崩壊)話は、よりすぐれた映画がすでにいくつかあり、それはティム・バートンの「ビッグフィッシュ」(2003)だったり、そしてあのとんでもない映画、「アンダーグラウンド」(エミール・クストリッツァ1995)があるのだった。彼らが描く社会には、ジムのような分かりやすい反発者はいない(この消費社会を出れば理想的な社会があるはずだ!)。かといってシニシズム(社会の外などありはしない)にもまみれていない、複雑な社会が描かれている。一言で言えば、社会(フィクションと言ってもいい)を作ること、作ったものに関ること・騙されることの悲喜劇が描かれているのだと言っていい。
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シニシズムという心的状態(どうせそれって作られたものに過ぎないでしょ…)は、けっきょく、本当の理想状態をどこかに想定しているがゆえに現われるものだ。しかし、人間が関る以上、この世には作られていないものなど存在しない。作ら(加工さ)れたものこそ「トゥルー(マン)」であり、この世はつねに「ショー」なのだ。他愛もないある映像作品を見て、自然に涙を流す僕たちの感情がそれを証明している。そのときだけはその作られたものの汚い部分も忘れていい。
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企業・商品広告というのはいまや、資本さえあればそれなりに訴求力のあるものを作ることが出来る。そう。大して頭を使わなくても。パブロフの犬的に。その典型が、有名人を起用することであり、タイアップもそのヴァリエーションのうちの一つだ。訴求力と効率性を考えた場合、当然の方法である。最近は、たかが一つの商品で、何人ものトップタレントを起用する例が増えたが、昔は「節操がない」と言われもしただろうこのような方法がしばしばみられるようになったのは、企業なり商品イメージを表現する上で、加算的な発想しか出来ないからであろう。
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広告はむろん、文学作品と同じように一つの文化的な表現でもある。少なくともそのように扱われてきたし、誰にでも人生何十年か生きていれば、節目ごとに忘れられない広告がある。そのような広告は、たとえその広告がイメージアップすべき企業なり商品に大きな経済的貢献を果たせなかったとしても、広告というジャンルには結果的に貢献していることになるだろう。番組視聴を分断するCMを、不要だと批判しつつも欠かせないものとして広告が存在し続けている理由は、そこにはたえず、企業側の論理があるとともに、表現者の過剰な創作意図が介在しているからでもある。彼らは、利益追求と加算的な発想が求められる中で、いかにそのような表現を練りこみ、織り込んでいくかを考えているのだ。その歴史がテレビ広告(CM)史だろう。ジャンルが自立し且つ豊かである証拠は、純粋な論理で語れるということではない。複数の利害関係・論理がからむことが条件である。
マクセルのドキュメンタリーCMも、そのジャンルを豊かに育んできたうちの重要な一つである。

ハンディカメラを織り交ぜて非常にシンプルに撮られた映像。フィックスの静とハンディの動を織り交ぜ、形態的には1と3の数単位を軸に(むろん学校の歴史の「131年」に掛けられている)ごくシンプルな構成がとられていて無駄がない。日常の平板な繰り返しの中に世代を超えた歴史を読み取らせるその映像は、マクセルDVDのイメージとして過不足ない表現だろう。
これを、たとえばパナソニックのCMと比べてみよう。

ネット上の「泣ける話」でありふれた素材をネタにして(泣かせる意気込みもあらわに)作られたこの作品と比べたら、マクセルのCMは、失われていく被写体との偶然の出会いを、崩すことなく広告に活かそうとするギリギリのところで撮影と編集が行われていることがわかるはずだ。少なくとも僕は、前者はネタとして語ってもいいが、マクセルは素直に作品と向き合って語りたいと思う。
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こんなふうに、いまや見逃したCMも、ネットで繰り返し見られるようになった。テレビCMの可能性を減衰するネットのおかげでその表現の遺産が継承されるのも皮肉なものではある。テレビCMもジャンルの先細りが見えはじめ、岐路に立っているといわれて久しいジャンルである。むろん広告表現自体は、媒体を問わず市場を広げているし、ネットはむしろまだ可能性があるといわれている。
その一方で、テレビCMは、圧倒的な映像技術とタレント起用をからませたスペクタクル表現と、TVショッピング形式のインフォマーシャルのような味も素っ気もない表現とに分かれていくはずである。作家性が垣間見えるものは、不必要なものとしてどんどん見れなくなるだろう。そしてそれを埋め合わせるのが、環境設計・設計思想ということになるわけである。タイアップもそのひとつの技術である。コンテンツレベルでは、ドラマはもちろん映画など他のメディアとのタイアップはいまや当たり前だし(「おめざ」とか「家電芸人」とかいうのもありますね)、メディアレベルでは、ネットや携帯端末との連携は欠かせない戦略上の一手段だろう。僕の知る限りでは、口コミ重視のホラー映画はとくにデジタル端末を利用した広告戦略を重要視している。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の例もあるし(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88)、公共のトイレを丸ごと借りて(携帯のQRコードをかませた)広告空間に仕立て上げる例とか、面白い広告が企画されている。
いまでも最もオーソドックスなメディアではあろう紙媒体(雑誌・新聞)とタイアップする場合は、情報紙面に広告を埋め込み、読者の情報を仕入れる行為を商品の購買に自然にリンクさせることが可能。これは以前から試みられていたことだが、ネットでは、アフィリエイトとかSEO等によってその埋め込み=リンク付けがより自然な形で可能になったわけだ。
以前は店販・訪販・通販・DM・コールセンター・媒体広告等々とそれぞれ個別に仕切られた部門を、アナログ式に繋げて試みられていた広告戦略が、デジタル技術及びその端末の普及と多様化によって連動(タイアップ)させることが容易になったわけで、それを複合させつつ消費者をいかに導くかという設計思想がより重要になった結果、個々の広告コンテンツはそれほど重要視されなくなったという当然の話。
そこでは消費者もいやおうなく(広告行為に)関与することになる。このレヴューがマクセルのイメージアップに繋がるように。
商品開発と広告に携わったことが少しでもあるならば、一つの商品が出来るためには、クリアしなければならない法務の問題や宣伝媒体の違い(むろん資本の大小も)によって、売りたい商品が変わらざるをえないことがあることをよく知っているはずだ。作家性などもとよりたいした影響力はなかった。上記した環境においては、今後はよりいっそう広告コンテンツの作家性が衰退していくことは間違いない。広告史も今後は、偉大なコンテンツ・クリエイターと作品だけでたどれることはなくなるだろう。
そのような動きはテレビCM史に限ったことではもちろんない。われらが文学もそう。新留小学校が出来たのと同じくらい文学も「131年」の歴史を背負って、どこか違ったところへ、いまも拡散しているようですよ。